助けて! 熱が出ちゃったの!
「……って、空美ったらまだ寝てるの?」
天川甘音が辛籐空美の部屋へ入って真っ先に視線を向けたのは、未だ布団で横たわったまま動かない辛籐の寝姿であった。天川の服装はパーカーに短パンというシンプルなものだ。何気に天川が好んでいる服装である。
今日、天川は辛籐に相談事があってここまで来ている。以前、天川が学校で辛籐に“とある事”を相談しようとしたら「その話は今度、私の家でじっくりとしませんか?」と言われたためだ。そこにどんな意図があるのかは不明なままだったが、とにかく天川は辛籐に従うがままこの家まで来たのである。
だが呼んだ当の本人がまだ眠りこけているとはどういう事なのであろうか。天川は一言物申したい気持ちに駆られるが、しかしそれ以上に拭いきれない違和感に気がつく。
辛籐空美は基本的に真面目な少女である。少なくとも約束事はきっちりと守るタイプではあったし、そもそも自分のだらしない姿を他人に見せるのを嫌う節さえもあった。そんな彼女がどうして約束を忘れて眠りこけているのだろうか。そんなふとした違和感が天川の中で膨らんでいく。
もしかしたら辛籐は朝に弱いのかもしれないが、それにしてもこれはどうにも変に感じられて仕方が無い。
「ホントに珍しいわね、空実が人を呼んでおきながら寝てるなんて……」
「……ああ、甘音さんですか……申し訳ありません。ちょっと体調がすぐれないもので……」
普段と比べて相当ぐったりしている辛籐が、辛うじて目を開けて天川の方を見る。青ざめた顔、捻りだすような嗄れた声、本人が言う通りどう見ても具合が悪そうであった。
天川は少し考えた後、まだ横になっている辛籐に近づこうとし……
……辛籐の布団の中から響くピピピピ、という非常に安っぽい電子音に驚いて数歩下がった。
その電子音は天川も聞き慣れているほどに、ありふれているものだ。体温計の音である。
辛籐は布団の中から体温計を取り出すと、ゆっくりとその数値を読みあげた。
「三十九度、ってところですか……申し訳ありませんが甘音さん、今日のところは少々無理そうです。うつすのも悪いので、相談はまたの機会でもよろしいでしょうか……? 本当に、申し訳ありません……」
その言葉に、天川もそれ以上踏み込めなくなる。
確かにここまで具合が悪そうな相手に相談事を持ち出せるほど、天川甘音は人の事情を気にしない娘ではなかった。もちろんここは気を利かせてさっさと帰る事を決心する。
「え、ええ。わかったわ空美。わたしの事は気にしなくていいから、お大事にね」
天川は心配げな表情を浮かべた後、身を翻して即座に帰る動きを始める。
その背後で、辛籐空実が「ほっ」としたような表情を浮かべている事も知らずに……
●
……念動操作。私の全身の血流や神経をほんの僅かに操作する事によって、体調と体温を操作した……!
辛籐は心の中だけでニヤリと笑う。
辛籐空美は料理人である。そして、現代の料理人は色々あって一人につき一つ「食柱毒」と呼ばれる特殊な超能力を持っているのだ。
詳細は割愛するが、辛籐の食柱毒は「念動力」。見えない力で物体を操作するというシンプルな能力だ。身体の部位を動かす事によって、遠く離れた物でも遠隔操作をする事が出来たりする。辛籐の念動力はそこまで強い力を発揮できない代わりに、精密動作と捕捉数に特化しているタイプのものであり、その器用さは類似能力の追随を許さない。
その応用として、全身の細胞や血液の動きを念動力の動きに「対応」させる事も可能である。
また、念動力は離れた物だけでなく近くの物も……自分自身の身体でさえも操作出来るような代物であり、辛籐は今回それを利用した。辛籐は自身の身体をほんの少し弄る事によって「自分の具合を悪くして、熱まで出した」というわけだ。擬似的な風邪の再現。後は彼女自身の演技力で誤魔化しきれるだろう、という算段である。
天川もそこまで頭が回る方ではないので、これで何とか難が去ってくれそうだ。
……なんて甘すぎる考えを辛籐が抱いた時であった。
「あっ、なるほど!」
天川は急に何かを思い付いたかのように両手をポンっと鳴らし、その場でくるりと回って結論を出した。
「えっと、支配……発動!」
「えっ……!?」
支配。その言葉に辛籐は一瞬思考を止めてしまう。
天川甘音も料理人である。つまり当然、天川にも食柱毒は存在するのだ。天川の能力は「支配」。一定空間内の「世界」に自在干渉出来るという最強無欠の反則級能力である。
代償として使用者は能力発動のたびに癒えない疲労感に襲われるため、一日での使用可能限度は六回までとなっているが、逆に言えばそれぐらいしか欠点が見つかっていない。まさしく「ほぼ何でもありの究極能力」である。これが一度発動されてしまえば、もうそれを防ぐ手段はほとんど残されていない。恐ろしい力だ。
天川がこの能力に目覚めたのはつい最近のため、あらゆる部分がまだ謎に包まれている能力ではあるものの、その反則性だけは既に仲間内に知れ渡っている。
そしてその支配を使われた辛籐空美は……
「っ! こ、これは……!」
「どう? 具合、良くなったでしょ?」
辛籐がせっかく崩した体調が一瞬で元に戻されてしまった。
食柱毒には発動前に必要な「能力発動固有動作」というものが存在するはずなのだが、未だ天川の固有動作は判明していない。少なくとも彼女の仲間である辛籐達ですらも知らない情報なのだ。もっとも食柱毒発動固有動作は知られれば知られるほど不利になる情報ではるので、そもそもあまり人に語るようなものではないのだが。
余談であるが、世の中にはそれをあえて隠す者達もいる。例えば天川甘音の父である天川照真なんかは「目を閉じて一呼吸する」というのが固有動作に当たるわけだが、照真は時々その動作を移動中の車内などで済ませて人に見せない事がある。いつでも能力を使えるように備えているわけだ。これは別に隠しているわけではないのだが、結果的に照真の固有動作が知られにくいという事実に繋がっている。
恐らくは娘である天川甘音も近いパターンだとは推測可能だ。ならば辛籐が知らないのも自然である。
もしそれがわかっていれば、何らかの方法で支配発動を阻害する事が出来たのかもしれなかっただろう。辛籐の能力は念動力であるので、その気になれば何かかしら出来る事はあっただろう。だが、今や幾ら後悔しても後の祭りである。
辛籐の背中から冷や汗が噴き出し始めた。綺麗好きな彼女にとっては地獄のような状況である。このままでは起き上がらざるを得ない状況まで持っていかれてしまうかもしれない。ここで立ち上がれば、湿っているパジャマを天川に見られてしまうリスクが大幅に増える。
それだけはどうにか回避しなければならない。辛籐は溜息を一つ吐く。
……もし、私が“もしも”に備えていなければここでゲームオーバーってわけですか。まったく、神様も人が悪い。
「あれ、どうしたの空美? 調子はどう? 多分これで大丈夫だと思うのだけれど……」
「……ああ、そうですね。確かに熱が引いたような感覚があります。これなら体温をまた計るまでも無さそうですね。ありがとうございます。さて、と……」
布団で天井を仰いでいた辛籐は、そのままゆっくりと上体を持ちあげた。
ここで、辛籐が仕込んでいた第二の策が動き出す。
「って、か、空美!? あなた、なんで……!?」
「ああ、私は寝る時服を着ない派なんですよ。言いませんでしたっけ?」
上体だけ起こした辛籐の身体には、もう既にパジャマは纏われていなかった。布団で胸元は隠しているものの、その白い背中と肩は完全に露出している。何も着て無いのはもう誰の目から見ても明白であった。
パジャマは天川が部屋に入ってくる前に脱いだのである。脱いだパジャマは丸めて布団の中に隠してあるので、これが見られない限りは湿っている事を悟られずに済むだろう。辛籐は極力動揺を装いながら、可能な限り顔を赤くするよう表情と感情をコントロールしつつ、心の奥底では冷静に事前に用意してあった台詞を口にした。
「その、着替えたいので一旦廊下に出ていてくれませんか……? いくら同性といえど、ちょっと、その、恥かしいので」
「そ、そう。なんかごめんね! それじゃあ着替え終わったら呼んでね!」
そう言うなり、天川はそそくさと廊下へ繋がるドアを開けていなくなってしまう。
その姿を見送った辛籐は、ここでようやく大きな大きな安堵の息を吐いた。
……これで一旦、危機は去ったわけですか。
もちろんこの程度では彼女の闘いは終わらない。辛籐は天川が帰るまでの間、絶対にボロを出さないようにと決心を固く結び直す。そして彼女達の後半戦が、今ゴングを鳴らそうとしていた。




