助けて! 布団が濡れ濡れなの!
それは、幼き日の記憶。
「からみ、からみー。わたしのおやつわけてあげるー」
「いらない! いらないから! こっち来ないで!」
辛籐空美は思い出す。天川甘音と共に過ごした日々を。
天川甘音はよく笑う子であった。まさしく陽光が如く元気な少女という表現が相応しい、あまりにもエネルギッシュな少女であったのである。その有り余った行動力は、人付き合いをあまり好まない辛籐の元へと天川を向かわせてしまった。これが二人の始まり。
そのため、辛籐の昔話にはかなりの頻度で天川甘音が登場する。
天川には、いつも周囲の事を気にかけるような優しき部分もあった。しかしながら空気が読めず、そのうえ思いこみで行動するところがあったため「余計なお世話」をする事も非常に多かった。
現に、辛籐は何度も何度もその「余計なお世話」に苦しめられてきたのは言うまでも無い。
「ほーら、いっぱい食べないとおおきくなれないわよー!」
「も、もが! もががーーーーーっ!」
辛籐空美は特異体質で、どういうわけか「口内が性感帯」というふざけた体質をもっていた。そのせいでまともに食事をとる事も出来ず、更に事情が事情であるため周囲への説明も難しいというなかなか厳しい状況に陥っていた。もちろんその事を天川甘音は知らなかった。お陰で悲劇が起こったのである。
辛籐があまり食べ物を食べたがらないところを見た天川は「辛籐には無理矢理にでも何か食べさせた方がいい」と思いこみ、あろうことか全力で行動に移してしまった。
天川は事あるごとに辛籐の口に無理矢理お菓子や給食の残りを突っ込むようになってしまい、そして――――
「ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああーーーーーーーーっ!!!!!」
とある休日の朝早く。
悪夢の余韻と共に、辛籐空美は目を覚ました。
部屋にある小さな窓から差し込む朝日を身体に浴びたのにも気づかず、辛籐は俯いて呼吸を荒くする。
先ほどまで夢に見ていたのは過去の忌わしい思い出。思わず喉奥から溢れ出てしまっていたのは精一杯の絶叫。普段は冷静に振る舞おうとする彼女にしては、いっそ珍しいほどの取り乱し方である。
目を覚ました辛籐はひとしきり荒い呼吸を繰り返し、胸元を強く抑えつけた。全身を濡らすのは酷い寝汗である。辛籐の動揺は数秒間続き、何とか落ちついた後にようやく彼女は現実を直視できるようになった。
「酷い夢……」
辛籐が忘れようと必死に足掻いたその思い出は、夢という些細な切っ掛けから完全に復活してしまった。
かつての天川甘音との因縁、記憶から消し去りたい辛籐空美史上最悪の歴史。そんな忌わしい記憶の復活に、辛籐は嫌な気持ちを抑えられない。もう吐きそうだ。
辛籐が眠っていたのは自室の中心、布団の上だ。木造建築なのが部屋の内装を見ただけでわかるようなボロアパートの一室、カーペット張りの狭いワンルームの中心で彼女は眠っていたのである。
辛籐は殺風景な部屋の風景を見回しながら、モノクロに彩られた布団から這い出ようとし……
「――――――――っ!!!!!!!!!?」
未だかつて無いような酷い悪寒に襲われた。
辛籐の身体には違和感があった。正確に言えば、まだ布団の中に埋もれている下半身のあたり。そこに尋常ならざる違和感があったのである。どこか生温く、それでいながら湿っているような醜悪な違和感。皮膚に張りつく水に濡れたパジャマのような感覚。濡れた布で下半身を包まれているような感覚。
これらの情報から導き出される結論は、まさしく最悪。
「そ、そんなまさか……! あ、りえない……! そんな嘘でしょう……!? こんなのあり得るわけが……!」
辛籐は、そんな絶望感に血の気を引かれつつも、意を決して布団をめくる。
そうして見えてきたのはゴシック調のパジャマに包まれた自分の身体、そして――――
「あ、あああ…………!」
辛籐は言葉を失った。
何も言えなくなるほどの強い衝撃だったのだ。それもそうだろう。高校生にもなって“これ”は普通あり得ないというのが社会の基本的認識だ。実際、辛籐もあり得ないとずっと思っていた。
なのに、なのにこの現実はなんなのだろうか。辛籐は再び荒くなってきた呼吸を整えつつ何とか思考しようと心掛ける。
だが、どうしてこうなったかを考える意味など無い。まずは現状をなんとかしなければならない。それが第一にすべき事のはずだ。だから辛籐空美は色々な思考を放棄して、まずこの現実を受け入れるところからスタートする。
そう、高校生にもなって……
「……認めざるを得ないというわけ、ですか……私が漏らしてしまったという現実を」
辛籐は悲しげにぽつりと口にした。
これが真相である。珍しく見てしまった悪夢のせいで心身に異常をきたしたのだろう。他にも寝る前に水分摂取をしすぎたという事もあるだろうが、それはさほど大きな問題では無い。
とにかくこんな不快感にはいつまでも耐えられそうにもない。辛籐はそう判断して即座に動こうとする。
と、そんな時であった。
ピンポン、と。何の捻りもないようなありふれたチャイム音が部屋中に鳴り響いた。誰か来たのだろうか、辛籐は咄嗟に考えすぐに結論へとたどり着く。
来訪者の声が聞こえたのは、辛籐が結論を出すのとほぼ同時であった。
「空美ー。来たわよー!」
来訪者の声は先ほど見た悪夢のものと大差なく。
辛籐は「その人物」を自宅に呼ぶという約束をしてたのを思い出して即座に動こうとし……その前に玄関側から聞こえてくる無慈悲なガチャリという音に全身を硬直させてしまった。鍵を閉めて一時的に入ってこれなくする方法もあったのに、それがもう封じられたのである。入ってこられた以上はどうする事も出来ない。空美は、言いようの無い深い深い絶望感に捉われてしまった。
辛籐の家は、まず玄関があってそこから細長く短い廊下が伸びていて、一つの扉を挟んで奥の生活用の一部屋へと繋がっている。典型的な一人暮らし用の間取りだ。もっとも、辛籐の家の場合は格安である代わりにスペースがだいぶ限られているのだが。
しかしながら今は間取りなどどうでもいい程に、辛籐空美は追い詰められていた。脳内で様々な思考を複数同時に展開しながらも、辛籐の心に余裕が生まれる事は無い。まずこの布団をどうやって隠し通すか、そしてこの湿ってしまっている自分のパジャマをどう誤魔化すか、兎にも角にもバレるわけにはいかない。絶対に隠し通さなくてはならない闘いがそこにあった。
辛籐は残された時間で全力で思考し……そして、
「やっほー空美ー! わたし参上! 天川甘音とはわたしのことよ!」
よくわからない口上と共に、天川甘音が部屋にやってきた。




