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HelleN! -愛情よりも大切な-  作者: パンダらの箱
「最後に残るモノ」編 最終章後 vs地獄料理
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三柱天使 -解禁されし最後の切り札-

 審査員席には、五味グループ最速忍者が座っていた。

 三ヶ峰酸叉之雄は、五味グループ各代表の中で唯一審査員が出来る料理人であった。

 そもそも料理を食べられない辛籐空美、主観の割合があまりにも大きすぎる霜月詠華、基本的に「うめぇ」しか言わない渋堂我竜、それから結局自画自賛しかしなくなる天川照真。

 他の四人は論外である。

 しかし、三ヶ峰に関しては、昔、成り行きから審査員をやった経験があるので、こうして審査員席に座る事が出来るのであった。

 今回は複数審査員制なので、今は闘いを見守っている審査員は三ヶ峰一人ではない。

 三ヶ峰が横を見ると、霜月散葉と癒葉はゆの二人が並んで座っている。

 言うまでもなく世界最高峰の味覚判断力をもつ散葉と、実は審査員から料理人見習いになったという経緯をもつ癒葉。

 そこに三ヶ峰を加えた三人によって、天地戦争の結末は語られるのだ。

 だが、審査員席の空気は意外と緩んでいた。


「わぁ~。何だか大変な事になっているわねぇ~。これ、どっちが勝つんだろうね、散葉ちゃん」

「んー。みーの現状判断なら、ちょっとあまかーさんに利があるかなって感じー」


 癒葉と散葉は、和気あいあいと戯れていた。

 まるで審判を下す者達とは思えない傍観者っぷりである。

 しかし、ここで口を挟むほど、三ヶ峰は野暮な忍者では無かった。

 事実、この二人の出す勝利予想も気になるというのもある。

 だが、それ以上に口うるさくなりたくは無いと、三ヶ峰は思っているのだ。

 だから何も言わない。

 もちろん、そんな三ヶ峰の計らいなど知りもしない癒葉は、ただ純粋に好奇心の宿った眼を、散葉に真っ直ぐ向けていた。


「えー、それってどういう事なのかしら~? まだ私達は、地獄料理の合体した所を見てないから、有利と呼ぶのはまだ早いんじゃあ……」

「んーん。みーにはわかる。あれは、さっきマイナスとマイナスでプラスになると言ってたけど、多分違うと思うんだ。きっとあれはね……あまりの不味さに味覚が狂って、一周回って美味しく感じるだけだと思うんだ……あくまで想像だけど、容易に想像出来ちゃうよ……ま、死亡効果が消えただけでも万々歳だけどねー。もう死ぬのは御免だからさー」


 それは、果たして“料理”や“食事”と呼んでいいのか、相当際どい位置にあるような代物であった。

 三ヶ峰は、あまりにも食べる者を考慮していない料理に恐怖しつつも、それを意外と平気そうに受け入れている散葉に驚きを隠せなかった。

 忍者の呼吸が少し荒くなる。

 けれども癒葉の方は、そこまで露骨に驚いたような反応を見せなかった。

 むしろ、好奇心が倍に膨れたような輝く視線となっている。


「何それ~凄いじゃない! これが料理界の革命……ってやつなのかなー?」

「……おねーさん。みーもあまり言いたくないけど、あれを生半可な気持ちで食べちゃ駄目だよ……場合にもよるけど、もしかしたら本当に殺されかねないから…………おねーさんの、人体に有害なものを緩和させるって話の食柱毒使ったら、跡形も無く消滅しちゃうかもね……地獄料理あれ……」

「へぇー……!」


 本当にあり得るから困る。

 天川甘音の酷い料理を口にした事がある者は、全員そう思うはずだ。

 三ヶ峰と癒葉は、地獄料理に関しては本日が初体験である。

 経験者の散葉と比べたら、やはり心の準備が足りていないと言えるだろう。

 その証拠に、癒葉はずっと笑顔のままだ。

 しかもその上、もう地獄料理に対する疑問は解消されたと言わんばかりの顔で、今度は別の話題を切り出した。


「ところで、散葉ちゃんはあそこの従業員みたいだけれど、この闘いについてはどう思っているのかな?」

「あー。その質問は前にされたけどねー、みーとしてはどっちでもいいんだよね。別にこれでバラバラになっても今生の別れじゃないしねー」

「ドライだねー。でも、嫌いじゃないかも。そういう考え方もいいと思うわ。私なんて、二人の気持ちと言いたい事がわかっちゃって、結局割り切れないままここに来ちゃったし……」

「でも、その割り切れない気持ちを、料理を食べる事で白黒はっきり決めるんだから、それぐらいの気持ちでいーと思うよー。審査員の世界には、審査員は常に傍観者たれ、っていう格言もあるぐらいだしねー」


 その言葉に対し、癒葉は「そうなんだー」と言って笑みを浮かべている。

 だが、耳を傾けていた三ヶ峰は、驚きのあまり背筋を張らせて硬直してしまう。

 何故ならば、今の言葉は、今は亡き“最高の審査員”の言葉だからである。

 マキシママキナが、まだまともな扱いを受けていた頃に遺した言葉。

 それが今の言葉なのだ。

 マキナは、生まれつきあらゆる食べ物が美味しく感じられないという体質をもっていたが、何も味の優劣が分からないというわけでは無かった。

 だからこそ世界で一番優秀な審査員になれたのだ。

 そして、今の言葉は審査員界では、知る人ぞ知る格言として語り継がれている。

 三ヶ峰は、その事実を噛みしめつつ、音と気配だけで調理台の方へと意識を向けた。


「……やはり、心の傷は想像以上に大きいようだな……」


 調理台の後ろで、塩谷始音はまだ動けぬままであった。

 その正面では、天川甘音が何度も疲労に倒れそうになりながらも、何とか調理台の前に手を翳しては能力を発動させようと足掻いている所であった。

 しかし、未だに能力は発動しない。やはり蓄積し、一気に爆発した疲労は馬鹿に出来ないというわけだろう。

 これは塩谷からしてみれば、相手がもたついているチャンスと言ってもいいはずだ。

 けれども塩谷は動かない。

 三ヶ峰は、甘音の何らかの発言が塩谷の心にある何らかのスイッチを押してしまい、こうなってしまったのだろうと想像する。

 されど、三ヶ峰は同時に已む無しとも思う。

 実は、三ヶ峰ファーストフード店で癒葉が塩谷の過去を話した時、三ヶ峰も厨房で聴いていたのだ。

 この忍者は異常とも呼べる超人的聴力をもっていた。

 だから、店内ならば何をしていようと聴き取る事が出来るのである。

 そうして聴いた過去は、どうしても無力感を抱いてしまうようなものであった。


「……あんな事があれば……心に深い傷を負うのもまた、道理か……」


 塩谷とマキナの過去話。

 それを要約すると、塩谷はマキナに料理を振る舞い続けるが、そのたびにマキナの「喰らった“何か”に応じて奇跡を起こす食柱毒」によって傷つけられ、最終的に努力は実らずにマキナを餓死させてしまう、といった内容であった。

 マキナの意志に関係なく自動発動する奇跡ひげきは、塩谷が上達するたびに苛烈さを増していき、最終的に塩谷は限界を迎えてしまったというわけである。塩谷は不死身の力をもつが、それでも心はまだ人間のままだ。

 彼は、何度も痛めつけられた記憶に耐えられなくなり、やがて料理を出すのをやめてしまったのである。

 それでも、塩谷はやはり諦めきれなくなって料理を再び振る舞おうと決めるが、その時にはもう、マキナは塩谷の家から姿を消していたそうだ。

 それから数日後、餓死したマキナが発見されるというニュースが報道される、という部分でこの過去話は打ち切られる。

 結局、マキナが塩谷の家に居たという事実は、他の人物には知られなかったので、この物語を知る者は塩谷と癒葉しかいない。だから抱える事しか出来ない。

 それ以降、塩谷は二度と癒葉の家には現れず、またしても家の都合でいつの間にか引っ越していたそうだ。

 だから、癒葉は引っ越してからの塩谷を知らないというわけである。

 こんな経緯をもつ塩谷が、何故ああいう歪んだ形で料理界に戻ったのかは、誰にもわからない。

 しかし、心中に何か複雑なものがあったというのは、容易に想像可能である。

 三ヶ峰は、塩谷の中のそういったトラウマが掘り返されたと判断した。

 事実、調理中に思い悩んで止まる事など、まともな状態ではない。


「我は……何も知らぬが……しかし、塩谷、こんなところで止まってどうする……大切な人を失ったトラウマに負けるつもりか…………!」

「トラウマ……? 多分、おにーさんはそんなもの背負ってないと思うよ?」


 唐突に、散葉が突っ込みを入れた。

 そんな突然の発言に、三ヶ峰も癒葉も眼を丸くして硬直する事しか出来ない。

 過去話の時、お前寝てたじゃん……という突っ込みさえも出来なかった。

 だが、一番塩谷の過去を知らないはずの散葉は、迷いのない語調で続ける。


「確かに、みーは詳しい事は何も知らないけど……でも、おにーさんの悩みがトラウマじゃないって事はわかるよー」


 それは、自信と共に放たれた、地に足のついた言葉。

 それを受けた癒葉とうじしゃは、まだ驚愕の色が抜けきらない眼に、じわりと感情の色を滲ませる。

 その色は、一言ではとても言い表せられそうにない程、混ざりすぎた複雑な色であった。

 癒葉は散葉に対して、叱るような、縋るような、どうとでも取れるような声を発する。


「な……っ、なんでそんな事が言えるの……かしら?」


 そんな強い感情を浴びせられた散葉は、しかしそれでも湖面を漂うような表情を乱さなかった。


「だって……おにーさん。過去に触れる時、ちっとも悲しそうじゃないんだもん。あれは、どちらかと言うと…………」


 散葉がそこまで言いかけた時、塩谷に動きがあった。

 それにより、審査員席の意識が全て塩谷に向く。

 塩谷が、ゆっくりと包丁を手に取ったのだ。

 それは調理再開の合図である。

 つまり、葛藤が終わった事を意味するわけだ。


 塩谷は、今、散葉が言おうとしていた答えにたどり着いていた。


「……そうか、そうだったんだ……」


 塩谷は、どうして当時見ず知らずの「ただの他人」だったマキナのために、身を削ってあそこまで出来たのかについて考えていた。今となっては大切な人になるわけだが、出会った当初は本当に他人だったはずなのにも関わらずだ。

 それについては、ただの意地だったという結論を既に出しているわけだが、塩谷はまだその答えに納得出来ていなかった。

 普通に考えればすぐにわかる話だ。

 どう考えても、単なる意地や恋慕でそこまで出来るわけが無いのである。

 だから必死に考えた。

 そこに自己肯定の答えがあると信じたのだ。


「僕は………………!」


 実のところ、塩谷は、マキナにそこまで強い情をもっているわけでは無かった。

 もちろん好きだったし、ここまで連れて来てくれた事への感謝もある。

 けれど、その裏にはもっと大きな感情があったのだ。

 それは、マキナを助けようとした時に抱いた感情、つまり意地の根底を支えていた想い。

 全ての答えはそこにあった。

 その感情は、塩谷が料理人を目指す決心をする前から、とっくに芽生えていたモノだ。

 友人がいた。

 その男は、何事においても塩谷より何倍も優れていた。

 でも、塩谷はそれでいいと思っていた。別に勝とうとも思わなかったし、何よりその男の背を見ている事に、不思議な心地よさを感じていたのだ。

 だが、ふとした時にやってみた初めての料理対決においては、その限りでは無かった。

 生まれて初めてまともに調理器具に触れた塩谷は、まだ未熟だったその男に競り勝ったのだ。

 その時、塩谷の心に生まれた感情があった。

 それがあったから、後にその男から一緒に料理をやろうと誘われた時も、二つ返事で応える事が出来たのである。


「そうだ、僕はッ……!」


 塩谷始音は、ただ夢見たのだ。

 ずっと日蔭者だった自分が変われる世界を。今までずっと上に立っている男を越えられるという夢を。

 ただ純粋に、希望溢れる世界へと夢を膨らませたのだ。

 いつだって、何をしても、自分の限界などすぐに見えてしまっていた。

 だが、料理においてはその限りでは無かったのだ。

 少年は、生まれて初めて果ての無い世界に出会った。

 その胸の高鳴りが、今も塩谷の心からずっと離れずにこびり付いている。

 マキナに料理を振る舞った時も、安っぽい偽善心で動いたわけでは無かった。

 そこにあったのはもっと安っぽく、最低な感情。

 それは、ここまで優れた審査員に対して、何処まで自分が飛べるか試したかっただけだという挑戦心。

 だから不可能だった時は、ただ単純に悔しい想いが、真っ先に襲いかかってきたのだ。

 それが塩谷始音の心に根付く毒の真なる正体。

 塩谷は誰かを救えなかった事で、心に深い傷を負ったわけではない。

 ましてや、人の死に対して決して癒えない悲しみを背負ったわけでもない。

 ただ、悔しかったのだ。

 結局、塩谷はマキナの満足する料理を作れなかった。それどころかあまつさえ逃げ出してしまった。

 そんな敗北を味わった悔しさが、今もまだ残っているのである。

 敗北したから、無力感と虚無感がいつまで経っても抜けないままだったのだ。

 敗北に対する絶望も恐怖も、結局は穢れた夢に纏わりついた汚れに過ぎない。

 理想の自分から引き離されていく事に、耐えられなくなっただけである。

 塩谷はずっと自分自身に納得がいっていなかった。

 だけど、その心は――その身体は――その魂は――いつだって最良の自分へと向かっていっていたはずだ。

 何故なら彼は、やはり天使だったのだから。天界たかみに居ようとするのは当然の帰結である。

 塩谷は、そんなエゴを爆発させた。

 未だ能力を出そうと足掻き続けている天川甘音の方をしっかりと見据えて、地に足をつけて、塩谷始音は叫んだ。


「天川……甘音えええええええええええええぇぇぇぇぇぇっ!!!!!」


 それは、その身体を拘束していた鎖も、いつまでも纏わりついて離れなかった操り糸すらも、纏めて引き千切って野を駆けだしたような自由の咆哮であった。

 その声はその他大勢を全て震えさせ、天川甘音の心臓をしっかりと捉えて突き貫く。

 甘音は、ゆらりと塩谷の方を見た。

 その目には、ほんの少しの揺らぎが見えた。

 だから、塩谷はそのまま思いの丈を全力で吐き捨てる。


「ありがとうっ!!!! 君のお陰でようやくわかったよ……やっぱり僕は……間違えてなんかいなかった!」


 それは長らくしていなかった自己肯定。

 結局のところ、塩谷の本質は自分勝手な腐った魂である。

 だが、自己肯定とは、そんな自分を受け入れる事から始まるのだ。

 ずっと長い間、自分の人生という舞台の主人公になれなかった男は、この瞬間、ようやく酷く歪な形で主人公として覚醒する。

 塩谷の心の表面にあった善心的な部分は剥がれ、中の醜悪な部分が露わになっていく。


「やっぱり、勝負に勝つのは強い者で、そうあるべきなんだよ……! そうだ。ずっと忘れてたよ。負けそうになって怯えるたびに見失っていた。でも、もう忘れない。そうだよ……僕は、始めから……いいや、今までずっと、対戦相手なんてどうでも良かったんだっ!!!!」


 最初こそは、渋堂我竜という男に勝ちたいという気持ちから始まった。

 しかし、料理に触れて、塩谷は飛びたくなったのだ。

 素質があるというだけで、天井は青空へと変わる。

 塩谷は、そんな青空のような果てなき可能性を感じ取ったからこそ、料理の世界へと羽撃いたのだ。

 その目に宿るのは、ただ純粋な「何処までいけるか」という想いだけ。

 障害や勝利など眼中にさえ無かった。

 何故ならば、塩谷にとってそれらは、単なる通過点に過ぎなかったからだ。

 故に、今目の前に立っている敵を倒す方法を考えても仕方がない。

 倒すのは過程だ。

 それらを踏み台にして、もっと高みへと向かうのが塩谷の目的なのである。

 塩谷の眼が、徐々に感情を殺した黒へと染まっていくが、やがて内側の感情に耐えきれず決壊する。

 その眼が、ついに感情の色を帯びる。

 対戦相手など一切眼中にも留めない、高みを目指す純白へと。


「天川さん……今更否定するようだけど、僕はこれまで勝負をしていたわけじゃないんだ。ただ、自分の力を試していただけだった……それがいつの間にか……本当にいつの間にか、手を抜いたり諦めたり、僕は……本来の気持ちを失くしてて…………それは確かに、料理がつまらなく感じるわけだよ。何も見てないから、ただの空虚にしか感じなかったんだ……!」


 これまで死を否定し、時の枠組みすらも否定してきた少年は、遂に自分の意志で己の揺らぎを否定した。

 それは転生。

 塩谷は、これまで見失っていた感情にかけられていた幾重もの錠前を、次々と解錠していく。

 上手くいかずに不貞腐れていた自分を捨て、本当の気持ちを外へと解放させていく。

 その際、甘音が以前塩谷に言っていた言葉も思い出されるが、今の塩谷はそれを素直に受け止める事が出来た。


「……あとさ。やっぱり君が言っていた通り、僕はここで料理をやめたら確かに後悔するかもしれないって事に気がついたよ……確かに、まだ飛び足りない気持ちがあるから……」


 今まで無自覚なまま眠っていた向上心が、溢れ出して止まらなくなる。

 だが、だからとて塩谷は料理界に戻るつもりなど無かった。

 むしろ、料理人に戻る以上の覚悟が今誕生した。

 塩谷は、青白い綺麗な大空へと向けて、言葉と感情を共に吐き出す。


「……でも、それでも! 僕はここで料理をやめてやる……! そうだ、僕はただ納得したかっただけなんだ……だから、ここで! ……最高に納得のいく料理を仕上げて、それで納得して綺麗にやめてやるんだ……っ!! 今から僕が作る料理は、今までで最高の代物にしてやる……!!! 僕は、どんな過去の自分にも負けやしないっ!!!」


 それから、塩谷は料理人をやめる立場の者として、料理人らしからぬ事を口にする。


「料理は……僕にとって、納得と満足のための手段でしかない。その二つを手に入れてしまえば、もう用済みなんだ…………!!!!」


 今ので、塩谷は己が内に眠らせていた感情を全て吐き出した。

 心の中の汚物を口から吐き捨てたのだ。これはもう嘔吐である。

 何にせよ、塩谷は料理界に骨を埋めるつもりなどなかった。

 むしろ、何故単なる興味本位で踏みこんだ世界で、天寿を全うしなければならないのだという話である。

 もちろん周囲の反応は芳しくないだろう。

 だが、そんな一時的な周囲の好感など、墓まで持っていけるモノではない。

 全ての基準は自分にあるべきだ。

 昨日の自分と、明日の自分が納得出来るような今日を積み重ねていけば、いつかあの耐え難い死の感触すらも納得へと変わるのだ。

 塩谷は想像する。

 死の寸前の自分が納得出来るのは、料理をしている自分と、していない自分のどちらかを。

 しかし、数秒考えた末に出た答えはやはり後者であった。

 だとしたらもう迷わない。

 全てが白と化した天使は、沈黙を保っている黒き死神に、意志という名の聖槍を投げつける。


「この勝負……僕が料理界の頂点まで飛びたって、僕の勝利で終わりだ。ああ、もう無駄な干渉は終わりだ……だからさ……今度は、昇る所まで昇り詰めたら、真上から……見下ろしてやるよ。天川甘音」


 もう叩き潰すつもりなど欠片も無い。

 敵など居ないも同然だ。それはまさしく無敵の眼光。

 天上から見下ろす眼はここに完成する。

 塩谷始音の眼には、もう迷いなど残っていなかった。

 現在、文字通り、塩谷が四階分の高さから見下ろしている形となる。

 精神的にも物理的にも、上から睥睨している形になっているのだ。

 だが、下から見上げる天川甘音の眼にも、やはり迷いは無かった。

 甘音は、塩谷の宣戦布告を再度受けて、ようやく保っていた沈黙を解き放つ。

 刈り取る眼と共に、横一文字だった口から、言葉が吐き出される。


「……なるほどね。あなたの想いはよくわかったわ。始音くん」


 塩谷の今の啖呵には、相手の闘う理由を奪うという効果もあった。

 天川甘音の闘う理由は、塩谷を料理界に戻して未練を解消させる、という物だった。

 だが、塩谷がこの闘いで想いを消化するのだと伝える事によって、甘音の闘う理由が無くなるというわけである。少なくとも、これで抗戦意志は削がれるはずだ。

 塩谷はこれを無自覚でやってのけたわけだが、実際、並の相手になら、これはかなり効果的な戦法になると言えるだろう。

 けれども、それは対峙しているのが並の相手、という前提の話だ。

 そして、天川甘音はもちろん並の人間では無い。

 故に、その双眸ひかりは揺れない。


「でもね、わたしは今の始音くんの考えに対して、否定もしなければ納得もしないわ。今のでようやくわかったけど……もしかしたら、わたし達って、どう頑張っても分かり合えないのかもしれないわね」

「……どうやら、そうみたいだね。僕の納得は君の納得とは程遠いわけだ。だったら……」

「ええ。お互い譲れないモノがあって、且つそれが相手に不利益を与えるモノだったならば、もう答えは一つしかないわよね。そして、わたし達はもう既にそういう場所に立っている。そう、この調理場けっとうじょうにね」

「……うん。改めて宣戦布告するまでも無いけど、これだけは僕の素直な気持ちだから受け取ってよ…………いい? 料理人としての僕は、今日完全に死ぬんだ。絶対に、僕自身が殺してみせる」

「大丈夫よ。始音くんはそんな事じゃ死なない人だから」


 言葉を交わし、双方笑みを浮かべる。

 この二人の本質は天国と地獄だ。

 初めっから、相容れるような存在では無かったのだ。

 いくら表面的に迎合出来たとしても、根底的な部分で絶対に理解し合えない。

 塩谷と甘音はそういう風に出来ている。

 いつも下を見て歩く者と、いつも上を見て歩く者。

 天使と死神。

 男と女。

 一般家庭の伝説料理人と、良家の地獄料理人。

 何もかも違う。

 だからこそ、この二人は絶対に理解し合えない。

 これは、両者が同時に認識した事である。

 だがこれで良い。

 理解出来ぬから闘うのだ。譲れぬから闘うのだ。

 二人は再度、天界から見下ろす眼と、地獄から刈り取る眼を激突させる。

 しかし、刈り取る恐怖は、塩谷には二度と届かない。

 されど、見下ろす眼は、甘音に何の影響も与えない。

 重なる想いは相殺される。

 だから、二人は言葉を吐きだして想いを届けるのであった。


「僕は……君なんて追い越して、もっと高くへ飛んでみせる!」

「わたしは……足掻きに足掻いて、始音くんを倒してみせる!」


 互いに噛み合わぬ、決意の言葉。

 けれども、今の二人にはこれだけで充分であった。

 こうして闘いは再開させられる。

 今度こそ、これからが本当の闘いだ。

 塩谷は、敗北など疑わぬ純白の眼で、自らの調理台を見下ろす。


「……とはいえ、これじゃ厳しいかな……作りなおしだね……」


 そこには、塩谷が既に作っていた六品の料理が皿に乗せられていた。

 今回、塩谷は「塩気の強い料理」をテーマに、様々な料理を作って勝負しようとしていた。

 実はこのデュエルルール、品数に指定は無い。

 いくら作っても、その分加算されるのだ。

 だからこそ、塩谷は複数作ろうとしたわけである。

 もちろん優劣だけを競う勝負なので、細かいポイント稼ぎはそこまで意味を為さない。

 けれども、塩谷はこの間の天川照真戦で「コンボ料理」という概念を学習していた。

 それは、言ってしまえば料理の特性を組み合わせ、相乗効果による評価上昇を呼びこむという技術だ。

 今回、塩谷はそれを試そうとしていた。

 塩谷の調理台にあるのは、厚い牛肉を軽く塩を振りかけて焼いたものと、程良い塩味のスープと、やはり塩風味のオムレツに、塩で味付けされた脂の乗った焼き魚、それから例によって塩気の強い野菜炒めと、塩風味の揚げ芋、という塩味フルコースである。

 ここに白米を始めとした塩味緩和用の品目を足す事により、塩谷は己の得意とする塩味料理を完全に活かしきる事が出来るのだ。

 しかし、塩谷はこれらのメニューを否定した。

 甘音の自信からして、この料理では勝てないと判断したのだ。

 この翼じゃ目指す高みへと飛翔べない。

 だから、塩谷は今を否定し、更なる翼の生成を決意する。

 その口元が、食いしばったような皮肉気な笑みへと変わった。


「でも、その前に……天川さん」


 塩谷は、真の全力を解放する前に、清算だけは終わらせようと心に決める。

 今の言葉に、甘音が反応するかしないかの瀬戸際で、塩谷はもう決心を口にした。

 それは、飛ぶ時に足枷となる重みの解錠。


「さっき回復させてくれた借り……こればっかりは、やっぱり貰ったまんまに出来ないからさ……返すよ」


 塩谷はそう言うと、素早く作った右手の手刀で、自分の右脇腹、右腿、左脛、左腕の関節、心臓を逸れた胸部を次々と貫いていった。

 これは清算行為である。

 傷ついた身体を修復させて貰った借りを、自傷行為で無為にする事によって返したというわけだ。

 これで、甘音の使用した能力発動限界回数が戻るわけでは無い。が、それでも塩谷は、敵から与えられた仮初の翼で飛ぶことだけは絶対に嫌だったのだ。

 これだけは絶対に譲れない最後のプライド。

 塩谷はこれで再度傷ついた身体へと戻る。この傷は、死んで蘇生しない限り絶対に治らない。

 だが、その眼に一切の後悔など宿ってはいなかった。

 塩谷は、ほんの少しだけ驚いた表情を見せた甘音に対し、笑みで告げる。


「僕は……自分の限界を試すからさ……対戦相手きみの助けなんかいらない……!」


 そして、甘音が何か反応を示す前に、塩谷は地上から視線を引き剥がした。

 もう未練は無い。

 後はもう飛び立つだけだ。

 自分だけの翼で、もっと遠くへ飛べる真の翼で、この料理界せかいの頂点まで羽撃くだけである。

 そのためには、まず塩谷はもっと上等な料理を作らなくてはいけない。

 とはいえ、今の状況で作れる料理など限られている。

 塩谷は、最も自分を高みへと導いてくれる料理を考える。

 しかし、すぐに答えは出た。

 塩谷が誇る一番の必殺料理など、たった一つしか存在していないからだ。

 脳裏に浮かぶは究極の選択肢。

 これならば今の料理を再加工して別物にする事が出来るし、ルール的にも問題の無いものが作れるのだ。

 それは、塩谷が天使としてまだ地へと君臨していた頃、ここぞという場面で使用していた伝説の必殺料理。

 ――――それは、天使が作りし最高傑作。

 ――――それは、天国そらへと人のこころを誘う白き翼。

 ――――それは、塩谷始音という名の天使の背を後押しする、真実を纏う穢れ無き羽根。

 その翼は三柱の希望を束ね、この現世も世界も突破して、ただひたすら最果てを目指す純白の一本線となるもの。

 天界の中核を為すその力の塊は、純白の輝く闇となり、やがてはこの世界から消えていく儚き光を解き放つだろう。

 そんな規格外の料理が存在する事を、ここに居る大多数の人間はもう知っていた。

 黒き光を喰らう白い闇。

 光と比べ、闇は被害者だ。

 この世界には元々闇しか無かったのに、今では多くの光が誕生し、闇は疎まれ嫌われ徐々に住処を無くしていった。

 だから、そろそろ反撃の好機ときだ。

 終わりに抗う白い闇が世界を喰らう。

 塩谷始音は、自らを天へと後押してくれる“純白の羽根”の名を口にする。


「――――さあて、そろそろ出番ってわけだね…………天界核ヘヴンズコア……!」


 その名に、会場中が反応した。

 だが、塩谷はそんな些細な事など気にしない。

 完全に自分だけの世界へと入り込み、まず血濡れた手を洗ってから、調理準備を始めた。

 まず、まだ生きている調理台を巡り、そこに元々備え付けられていた塩を集める。

 とにかく大量の塩が必要なのだ。

 そして、明らかに致死量を越えた量の塩を集めるなり、その全てを大きめの容器に入れ、そこに完成された他の料理を次々と入れていく。

 後は、塩と料理に不死のエネルギーを注ぎ込み、分離結合という特殊な現象を発生させ、塩と食材を完全に融合させるだけである。

 塩谷は、不死の力を体外に放出しながら、ひたすら塩と食材を融合させていく。

 これはかなりシビアな操作となる高等調理だ。

 塩谷には、もう他の事に意識を割いている余裕は無い。

 ただひたすらに、天使の羽根を作っていくだけだ。

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