死神覚醒 -目覚めし最強の能力-
塩谷は、あらゆる要素を加味した上で「勝てる」と宣言した。
だが、その言葉を真正面から否定する者が居た。
塩谷の永遠のライバル、和服を身に纏った男。
その男とは、もちろん観客席の渋堂我竜であった。
渋堂は腕を組みながら、試合会場の惨状を見て渋い顔をしていた。
「いや、塩谷。そうじゃねぇ。それじゃ勝てねぇよ……意味がねぇ! オメーに足りねえのは力じゃねーだろうがよ!」
渋堂は眉を歪めながら、口惜しそうな表情で塩谷を眺める。
その際に詠華が「えっ?」という顔をしていたが、逆サイドの辛籐は冷静そのものだった。
どうやら辛籐はわかっているらしい。
「ええ。全くです。凄いですが、今やる意味はありませんでしたね。あれは失策です」
「ええっ!? ど……どういう事デスのぉ……?」
「……そもそも、あれが三柱天国と疑似時間停止の複合技、というのはわかっていますよね?」
「へ……? ま、全くわかりマセンわぁ……」
自信なさげに声を小さくしていく詠華に対し、辛籐は大きく溜息を吐くと、詠華の方をしっかりと見据えて話し始めた。
「始音さんの力の源は、身体を修正する作用をもつあの青いエネルギーです。それを“体内”で暴走させ、修正エネルギーを強制的に身体強化エネルギーに変換したものが疑似時間停止で、逆に“体外”へと放出して食材に修正エネルギーを付加するのが三柱天国です。
そして、今の天使のような状態は、まず死を繰り返し能力を意図的に暴走させて大量のエネルギーを生成し、その余剰エネルギーを三柱天国の要領で外へと出して、その流れを操作し身体と繋げつつも体外に留め、随時必要な分だけ変質させ強化エネルギーにして、それを身体に供給させて疑似時間停止を行う形となっている……というわけですよ」
「はあ……なるほどデスわねぇ……半分ぐらいまでならきっと理解出来マシタわぁ!」
「……ですが、本来の疑似時間停止と比べて負担は減ってはいるものの、やはりアレは危険です。見た目以上の蓄積ダメージがあっても不思議では無いはずです。
それに、大技二つ分の操作なのですから、精神的負担に関してはむしろ倍加しているはず。恐らく、六回も行えば、その時点で満身創痍でしょうね。で、それを踏まえた上での疑問なのですが……」
辛籐はそこで言葉を止め、軽く息を吸ってから、締めくくりの言葉を放った。
「……こんな場面で、そんなに負担がかかる技を使って、一体何の意味があるのでしょうかね?」
辛籐のその言葉に、やっと詠華も気がつく。
眼を見開き、口元を両手で覆い、半ばオーバーリアクションで驚きを体現する。
そう、ここでそんな大技を持ち出す意味は無いのだ。
塩谷が用いた今の技に意味は無いのである。
その事実に気がついた詠華は驚愕に震えていた。
そんな詠華の顔を見て、渋堂は頷いて結論を出す。
やはりその表情は憎々しげだ。
「全くその通りだ。あいつは別に、あの虹色の塊を避けられねーわけじゃなかった。精神的な巻き返しが欲しかったにしても、そこは本来根性で賄うべきだった場面だ。あとな、まともにやってりゃあいつは勝てんだよ。もうあいつの力はあれで完成されてんだ。強化するべきは肉体じゃねーんだよ……!」
つまり、わざわざあんなリスクを冒さなくても、頑張ればどうにか出来たのだ。
それなのに、塩谷はあえてリスクの高い戦法をとってしまった。
それも、意図的にやったのでは無く、それが有効な戦法だと思い込んでしまっての結果である。最悪だ。
塩谷自身は気づいていないだろうが、これは精神的に追い詰められたのが大きな原因である。
ようは焦ったのだ。
こんな手でも使わない限り勝てないのではないかと、自分で自分を疑ってしまったのだ。
そんな臆病風に吹かれて得た勇気など、台風の前の篝火よりも頼りない。
明らかな選択ミスに、辛籐も顎に手を当てながら、渋堂の意見に同意する。
「ええ、あの人に足りないのは精神性……というよりは勇気、というのが適切でしょうね。全く、困りものですよ。何時まで経っても精神的には全く成長せずに、力と勝利ばかりを重ねればいいと思っている。あり得ませんよ、あの人のやり方は……」
「単純に、才能と力のゴリ押しなんだよな。あいつのパワーアップはいつも相手を見ちゃいねえ。自分がどう強くなるかにしか着眼点が置かれてねーンだ。どうやったら勝てるかだとか……そういう戦略性も一切無視して、ただただ自分のレベル上げを続けてんだよあいつは……!」
渋堂と辛籐の出した結論は「今の判断ミスは塩谷の弱い部分が思いっきり出てしまった結果だ」というものだ。
相手を見ずに戦略すら立てないその無策さ。
少しでも負けそうになったらすぐに折れる脆い心。
塩谷は確かに優秀な料理人であるし、かなり強い。が、その強さを支えるだけの土台が無いのだ。
塩谷始音は、自分自身の強さをその他の要因によってことごとく減退させ、百パーセントを出しきれていないのである。
だから、強化すべきは能力でも肉体でも無いのだ。
心と思考。
勇気と知恵。
それらが無ければ、あれだけの大技も、ただの空虚な力の塊に過ぎない。
だが、マキシママキナの話を聞いてからだと、塩谷がこうなってしまったのも、それなりに頷ける。
塩谷は、料理を振る舞う相手が死んでも尚、その人のため、ひたすら美味しい料理を作ろうとし続けているのだろう。
それはもう、自己がどれだけ高みに近づけるか、という一点のみしか見えていない生き方だ。
深く刻まれたその傷痕は、塩谷の心の中から絶対に消える事は無い。
もちろん間違った生き方、というのには根拠に欠ける物言いになってしまうだろう。
しかし、今この場に措いては最悪だ。
このままでは恐らく負ける。
天川甘音特有の他人頼りミラクルによって、辛籐空美や天川照真のように負けてしまう。
それに気がついていない塩谷に未来は無い。
そういった考えは、もちろん天川照真も持ち合わせていた。
照真は、優越感の滲む笑みで戦況を眺めていた。
「……この勝負、甘音ちゃんの勝ちだね」
もちろん天川照真は、自分が鍛え上げた娘だからこそ、自信をもってその勝利を信じられる。
まだ策は残っているのだ。
天川甘音の地獄料理を、食べられる段階までもっていけるような秘策。
これで点数を稼げる事を主張すれば、今の塩谷にもう一度精神ダメージを与える事が出来、そのまま立ち直れなくする事が出来るだろう。
あんな力任せの自信復活など脆い。すぐに崩れ去る仮初の足場だ。
もう勝利は目前である。
その上、甘音には、舞い込む可能性のある奇跡だってあるのだ。
「ああ……これなら絶対に勝てるね。塩谷、お前の負けだよ。大人しく負けて料理人に戻って、そんで全力の僕ちんとタイマンしろ……!」
「はあ? おいおい、本気で言ってるのか父上? そんなわけないって。あの地獄料理のどこにそんな勝算があるって言うんだ?」
甘太郎が半笑いで横槍を入れてくる。
人形に白いドレスを重ね着させながらの、何気ない突っ込みだ。される側としては少し苛立ってしまう。
だが、それはもっともな意見だ。
根本的に、素の状態の地獄料理が点数を稼いだ事など一度も無い。
点数の取れない料理で、どう点数対決に勝利しようと言うのか。
その答えは、まだ天川照真と天川甘音しか知らない。
だからこそ、何も知らない者から見れば滑稽にも見えるだろう。
しかし、照真はそれを笑みで受け止めながら、試合会場に意識を戻す。
その目は、少年のように輝いていた。
「まあ見てなって。面白い事が起こるからさ」
「ふーん。ま、あの愚妹が俺様の顔に泥を塗らないぐらい大きくなってくれるのなら、それに越したことは無い、かあ……」
甘太郎が更に人形のドレスを重ねながら、何やら納得していた。
その甘音を舐めた発言に照真も少し苛立つが、しかし照真よりも速く反応した者が居た。
冷めた目をした甘菜である。
「あ、愚兄賢妹の愚兄の方が何か言ってる」
「あ? 何か言ったか賢兄愚妹の愚妹の方……!」
甘太郎の顔が、またしても怒りで赤く染まった。
こうしてまた甘太郎と甘菜は睨み合いを始めてしまう。
また始まってしまった、残念極まりない、いつものやり取りである。
だが、タイミングが悪かった。
照真が、得意げに甘音の話をしようとしていた矢先に、この不毛な喧嘩が始まったのだ。
ほんの少し、照真は苛立ちを抑えられなくなってしまった。
だから、照真は小規模な殺気を放ちつつ、いつもよりも小さな声で叱りつける。
「おい」
その言葉の圧力に、甘太郎と甘菜は背筋をピーンと伸ばして硬直する。
全く同一の反応だ。
どうやら今の一言が相当効いたようで、カタカタと震えるその二人の表情に、一切の抗戦意志など宿っていなかった。
何気に、普段斜に構えている甘菜が、ここまで恐怖心を露わにするのは珍しい。
それだけ照真の殺気の重みが凄いという事だ。
何にせよ、これで矛を収めてくれたようなので照真も殺気をしまう。
そして、穏やかに告げる。
「別に黙って見ろとは言わないけど、喧嘩はするなよ。せっかくの甘音ちゃんの晴れ舞台なんだから」
「「う、うん……」」
何故か全く同じタイミングで返す、地味に似た者兄妹。
急に思い出したかのように“しつけ”を始めた照真に対して、二人はなかなか恐怖を感じているのだ。
しかし、溜まっていた殺気を出してすっきりした照真は、やはり晴れやかな笑みを浮かべ、試合会場の方に視線を戻していた。
もう説教は終わったので、これ以上続ける意味は無いとの判断だ。
その姿を確認した天川兄妹は、そこでようやく安堵の息を吐いて、平時の状態へと戻っていく。
「…………それにしても、正直な話、いくつか策を用意しただけで勝てる相手なのか……? 相手方、名前知らないけどなかなか強い奴じゃないのか?」
「…………ま、我竜がいっつも話してる感じだと、かなりの実力者って事だけは確かみたいだケド……その点に関してなら、たぶん最近直接闘ったパパの方が詳しいんじゃない?」
妙な間を挟んだ上に、少し声色がぎこちない二人の言葉だが、言っている内容はそうズレてはいなかった。
むしろ、ようやく話の本題に入れるような踏み込んだ発言だ。
ようやく二人が甘音の方に意識を向けてくれた。
照真は、その喜びによって落ちついた笑みで、それらの発言の答えを出した。
「そうだね、確かに塩谷は、タイマンなら僕ちんに未来永劫絶対に及ばないだろうけど、結構それなり……そう、それなりに強かったよ。それでも僕ちんのが強いけど……」
「や、パパと比べたら大概の料理人が弱い扱いだし、そこの比較は求めてないカラ……」
「そんな事言われてもさー」
娘の指摘に唇を尖らせる、いい年こいた中年親父。
正直客観的に見たら、気持ち悪い顔と言われても齟齬は無いような酷い顔だ。
それに対し、甘太郎が本気で不快そうな顔をして視線を逸らし、人形遊びを再開させてしまったが、改めて咳払いした照真は何事も無かったかのように話を続ける。
「で、そんなそこそこ強い塩谷相手に、甘音ちゃんが策を用意した程度で勝てるかどうかって話ね……まあ、正直な話。闘う前までは五分五分って所だったけど、塩谷があそこまで腑抜けてくれたお陰で、このままいけば多分勝てるよ。それに、何らかの原因で立ち直られても、こっちにはまだ頼れる奇跡もあるしね」
「「奇跡……?」」
甘太郎と甘菜が声を重ねつつ、同じような好奇の視線を照真に浴びせてきた。
幼い頃から、対立や殺し合いの多かったこの兄妹だったが、こうしている時だけは本当に仲睦ましい兄妹のように見える。
照真はその事実に頬を緩めつつも、甘音の勝利を後押しするかもしれない“奇跡”の名を口にした。
「食柱毒、だよ」
試合会場では、巨大な虹色の雲の塊と、左右不揃いの三枚翼の天使が対峙していた。
時折、空を覆う勢いで虹色の砲弾を飛ばす虹色の異形に対し、天使はあらゆる方法でそれを回避しつつ、時には消え、別の台座へと逃げ、そこでまた高速で手を動かしながら激しい調理を行っていた。
今、天使は最上階の四階部分に居る。階下には、幾つもの溶けた調理台。
凄惨なる戦場の傷痕。
それはまるで黙示録の一ページ。
天なる者と魔なる者の聖戦。
生と死さえも超越した超越者達の狂宴。
神話が如き最終戦争は熾烈さを増し、刻は瞬く間に過ぎゆき、世界を宵闇の空へと導いていく。
時折聞こえる破砕音は、まるで世界が終わりを認識し啼いているかのよう。
天川照真は、そんな世界の終わりを観察しながら、怪訝そうな顔の子供達に声を聴かせる。
「聞いたけどさ、こないだ甘音ちゃんの周りの人間が、みんな毒の日になったって事があったみたいじゃないか。その時に甘菜ちゃんも実感したと思うけど、食柱毒の毒って、口論的な意味で毒を吐けば吐く程楽になれるだろ? あれは、何でだと思う?」
「えっ……? 何でだろ……」
「唐突な質問だな……えと、不満を吐いて気分を楽にした方が、毒の影響を受けにくいだとかか……?」
「違うよ。僕ちんの考えではね、あれは、多分言霊的な何かに乗って、物理的に食柱毒の有害なエネルギーが外に出ているからだと思うんだよね」
「……ねえパパ、それ、適当に言ってない? 雑な小説の設定みたいになってるケド」
甘菜が突っ込みを入れる。事実その通りだ。
けれども、今はそんな事実に対する議論をしている場合では無い。
照真は、涼しい顔のままで、事も無さげに話を続ける。
「まあ、あくまで仮説さ。でもね、そもそもにして甘音ちゃんは、どうしてここまで料理に携わっておきながら、食柱毒に目覚めなかったのか不思議なぐらいなんだよ。それに加えて、もしこの仮説が正しければ、もしかしたら来るかもしれないよ」
「何がだよ?」
「甘音ちゃんの時代……いや。世界、さ」
照真が言うなり、戦場に大きな変化が訪れた。
今まで等間隔で射出されていた虹色の砲弾が、急に発射されなくなったのだ。
そのせいか、警戒している塩谷の顔にも困惑の色が浮かんでいた。
しかし、時間差攻撃の節もある。
だから、塩谷も迂闊に気は抜けない。のだが、どうにも攻撃の気配そのものが止まってしまったかのような雰囲気である。
もしかしたら、これはただの小休止で、一定時間後には避けきれない大きな攻撃が迫ってくるかもしれない。
そういう可能性もある。
されど、塩谷にはまだ三回分の疑似時間停止が残っている。
これさえあればどんな攻撃が来ようと問題無い。全然平気だ。
塩谷は、極度の緊張状態に身を委ねながら、作業を続けつつ、次なる攻撃を待つ。
が、訪れたのは予期せぬ衝撃。
想像もしなかった圧倒的な重さだ。
それは死よりも暗く、生より淀んだ粘度のある絶望。
聴覚が強化された塩谷の耳に、聞き慣れた声が届けられる。
「ねえ、始音くん」
その甘い声に、塩谷の背筋は一瞬で凍りつく。
まるで、心臓か脊髄を見えない何かに掴まれたような怖気が、塩谷の全身を所狭しと駆けまわる。
忘れていたのだ。
この闘いが始まってから、甘音は一度も声を発する事は無かった。姿を見せる事も無かった。
だから、その矛盾に気が付けなかったのだ。
忘れ去られ、墓標に沈みしその真実は、今蘇生し這い上がり、塩谷の全身を歪に撫でまわすかのように甘く包みこんでくる。醜悪な違和感。闇夜のように暗い何かが塩谷の喉元から脳へと流れ込んでいく。
自ら動く事無く、遠隔攻撃のみで決着を着けようとするその闘い方。
今までの闘いを鑑みると、それは甘音らしくもない戦略だ。
天川甘音の真骨頂は、いつだって相手の真正面に立ってから発揮されるものであった。
だが、今は違う。
甘音はこれだけ塩谷を絶望させておきながら、結局やったのは付け焼刃の新技だけである。
まだ、自分の料理の状態すらも見せつけていない。
何を作っているのかも、何を秘めているのかも、何もかもが未知数の可能性のまま鎮座しているのだ。
されど、その声が聞こえてきたという事は、秘匿する段階は終わったという事だろう。
塩谷は、恐怖による息苦しさで動きを止めてしまった。思わず呼吸さえも止まる。
主観的停止世界の到来。
それだけ、前に居る存在から深い恐怖を感じ取ってしまったのだ。
終わりの時が、訪れる。
終わりの始まり。
「調子は、どうかしら?」
息苦しくなる重さを伴った言葉。
塩谷の喉元から血が一滴流れ落ちる、ような錯覚。
それだけ鋭い何かが、まるで喉元に当てられたかのような寒気。
そして、訪れる変化。
甘音を覆っていた虹色の雲が、その体積を徐々に減らしていく。
中で調理をしているから、こんな虹色の異物が発生していた。
ということは、これが晴れるという事は、それは一つの終わりを示している。
塩谷の料理はまだ六つしか完成されていないというのに、もうその時が訪れてしまったのだ。
どんな優れた人間にもいつかは死が訪れる。
そして、塩谷の首筋にも今、鎌にも似たプレッシャーが突き付けられている。鎌は喉元を薄く裂き、じわりじわりと流血させるかのように心を弱らせていく。
「わたしはね……」
終焉を告げる声は、世界を震わせながら、ゆっくりとその正体を露わにしていく。
雲はどんどん小さくなっていき、徐々に覆われていた地面が見えてくる。
それは最早、溶解して白い煙を吐く、火口付近のような惨状であった。
焼け焦がれ、溶けた地面。露出した荒いコンクリートが、まだ蒸気を放ち続けている醜悪な光景。
それだけ虹色の影響は凄まじかったのだ。
だが、その猛威を振るった虹色の雲もどんどん収束していき、やがて存在が見えなくなったかのように消えていく。
最後には、虹色のドーム状になった部分だけを残して消えてしまった。
そうして、その直後。
虹色の半球は勢いよく弾け、中から調理台と、その後ろに立つ一人の少女が現れた。
長い髪と、強気に弧を描く唇。
見に纏うエプロンは深淵のように真黒で、それが何とも様になっている。
その少女の名は、天川甘音。
地獄を統べる閻魔すら越えた、世界を殺す死神。
死神の調理台に並べられているのは、それぞれ黒い何かを載せた八つの皿。それも、一つ一つが腕や脚、頭など、人間の身体部位を模したような形状となっている。それは、黒い死体を載せているかのような不気味な絵面だ。
あまりに速過ぎる調理。塩谷には認識できない領域の異能的異常。
天川甘音は、その双眸に力を込め、まるで世界を黒い光で照らすかのように意志を解き放った。
刈り取る眼。
それも、試合開始前とは比べ物にならない程の意志力だ。
塩谷は、それに押しつぶされそうになる。胸を抑え、呼吸を荒くしていなければ、とても立っていられない程の暴力的恐怖。
甘音は、そんな塩谷を見上げながら、ゆっくりとその桜色の唇を動かす。
ピアノのような声音は弾む。それは空気を震わせ、五線譜の上に音符を生み出しているかのようだ。
「……今しがた一段落、ってところかしら」
甘音の料理は今、形になったところのようだ。
いくら妨害で塩谷がペースダウンしているとはいえ、塩谷六品に対して既に八品は早すぎる。
どんな手品を用いたのかは不明だが、明らかにおかしい速度だ。
だが、そうして作られた完成品を見て、塩谷の感情の暴走も落ち着きを取り戻していく。
――――良かった、いつも通りだ。
塩谷の胸中にはそういった想いが生まれていた。
いくら早く作られようとも、甘音の地獄料理はいつも通りの代物であったのだ。
それに比べ、塩谷は今回気合いを入れて作っている。だから、時間がかかるのは必然である。なのに、スピードタイプでも無い甘音がこんなに無茶をして、まともな料理になるとは到底思えない。
これならば余裕で勝てる。
その取り戻した余裕で、塩谷は笑みを浮かべた。
けれども塩谷は知らなかった。
現状が、どれほどの状況なのかという事を。
それは、観客席の天川照真が、わかりやすく身体で表現していた。
照真は、身体全体で驚きを表現し、震える指で甘音を指さしながら叫んでいた。
「な、何やってんの甘音ちゃんっ!!?!!」
これは、天川照真と天川甘音以外は誰も知らない事実であるが、実は甘音の料理はこんな形になる予定では無かったのだ。
これがミスならば致命的である。が、もしそうなら同時に納得も出来る。
しかし、甘音の表情は落ち着き尽くしていた。
まるで、この敗北不可避の大失態を、意図的に引き起こしているかのようにも見えてしまうような顔。
照真は、甘音のそんな行動の意味を、全く理解出来ていなかった。
そんな照真の動揺に、天川家の子供達も怪訝そうな表情を浮かべていく。
「おいおいおい、どうしたんだよ父上? あれが、いつもの地獄料理じゃんかよ。何をビビっているんだ?」
「……もしかして、何か不味い事でもあった……とか?」
いつも通り能天気な甘太郎の言葉と、何かを察したであろう甘菜の言葉。
対照的ではあるが、今声に出されたその二つの事実を照らし合わせると、まさしく真実となる。
いつもの地獄料理が作られたから不味いのだ。
照真は、動揺を隠しきれずに会場の甘音をじっと見つめ、茫然とした声で子供達へ言葉を返す。
「……ああ、不味いよ。これは相当意味がわからない。甘音ちゃんは一体、何を考えているんだ…………はっ、もしかして……わざと負けるために……!?」
天川照真は、一つのそれらしい答えへとたどり着く。
だが、それは数秒後に、試合中の天川甘音によって否定される。
甘音は、正体を現した地獄料理に対して安堵の表情を浮かべた塩谷に、優しく声をかけた。
ただし、自分よりも高い所に立つ塩谷に対し、自身は顔を伏せ俯いての発言である。
「ねえ、始音くん。今、安心したわよね?」
甘音の声色はどこまでも穏やかだ。
しかし、その言葉の内容は、塩谷の精神的動揺を的確に貫いている。
言葉を受けた塩谷は、何の言葉すら返す事も出来ず、動揺に目を丸くして身体を震わせる事しか出来ていない。
まさしく図星であるからだ。
甘音の地獄料理が相手なら勝てるという慢心。
そこを指摘された以上、返す言葉も無い。
そして、ここでそんな台詞が言えるという事は、甘音にもそれなりに思惑あっての事だったのだと容易に想像可能だ。
もちろん甘音の声から余裕の色が消えるわけも無い。
甘音は、噎せ返るほど甘ったるくて重い声で、塩谷の心を更に沈ませていく。
「わたしの地獄料理なら勝てると、そう思ったわよね? いえ、答えなくてもいいわ。わかってるから。わたしが逆の立場でもそう思うもの。でもね……始音くん。これだけは言わせて……」
天川甘音は言葉を切り、それからゆっくりと顔を上げて、上階で調理している塩谷に視線を向ける。
直後。感情が吹き荒れた。そこにあるのは、意志が過剰に密集した事によって生じた黒い眼光。
第二撃。
刈り取る眼。
言葉だけでも塩谷を十二分に屈服させられかねないこの状況で、更に上乗せされた強すぎる感情。
ただでさえ息苦しくなる重圧なのに、そこから加えるように感情の重みが増幅させられたのだ。
これはもうただの暴力だ。
塩谷は、押し寄せる感情に押し潰されるかのように、胸を抑えて片膝をついた。
開幕時よりも強烈になっている感情の波は、塩谷をその心に宿った灯火ごと呑み込み、消し去り攫って行ったのだ。この世の誰一人として、押し寄せるこの黒い波には勝てない。
甘音は、武器も料理も使わずして、ここまで戦闘調理に長けた塩谷を平伏させていた。
それは常識が狂ったかのような異常な光景。
この時点でもう精神的な勝敗は決していた。
だが、天川甘音は更にそこに追い打ちをかけるかのように、蕩けるような甘味を伴った特大の重圧を上乗せする。
「……ごめんね。もう、これから先の展開は、あなたの思い通りにはならないわ。だってここはわたしの世界。地獄だもの」
勝利宣言の重ねがけ。
それは単なる過信では無く、確かな確信と共に放たれた一言である事は、誰の耳にも明らかな事実であった。
世界が揺れるような感触に、塩谷は、込み上げる吐き気を堪えるように口元を抑えた。
塩谷が甘音よりも強い、という法則の元で成り立っていた世界。
それが今、音を立てて崩壊していく。
地が割れ、その下の地獄へと引き摺り込まれていく。
黄泉の水先案内人は、天川甘音という名の死神。
今、天界は地の底へと崩落しようとしていた。
復活した天使も、怯えから流れる汗を地に落とす事が精一杯だ。
この絶望の前に、為す術も無い。
普通にしていれば勝てるという事実を、真っ向から否定された。
となればもう、塩谷の勝算など何処にあろうか。
もちろん、甘音が具体的にどのような策を用いるかなど、今の塩谷に分かるわけが無い。
だが、塩谷には問う事すら恐ろしかった。
現に、この自信の前に沈まなかった者はいない。
塩谷の脳裏に浮かぶのは、これまでの敗北者達と同じように、訳も分からず敗北している自身の姿。
心はもう今にでも限界を迎えそうだ。
そして、折れかけていた塩谷の心を完全に折るように、甘音は真っ直ぐな重さを、またしても上乗せていく。
「ところで、わたし……ずっと疑問だった事があってね。食柱毒についての事なんだけれど、みんなどうして自分の能力を正確に理解しているのかなーって、ずっと気になってたの。でもね、その答えが今やっとわかったわ」
それは奇跡の到来を告げる宣告。
黙示録のラッパが声となり、終末が訪れたという事実を世界へと届けるのだ。
もう余計な言葉を放つ者など誰一人として居なかった。
究極の存在が誕生してしまった。
ついに死神は完成する。
真なる死神は、王すら射殺すその眼で、崩れかけの天上に居る天使を真っ直ぐに射抜いた。
撃ち抜かれた天使は、もう抗戦意志など残っていない酷く怯えた眼で、全身から流血のような汗を流した。
それはまるで、心が流した血が、肉体からも溢れ出ているかのようだ。
同時に、背に生成された三つの青い翼が消失する。心の乱れにより、能力を制御しきれなくなったのだ。
少年はついに天使でいる資格を失った。
甘音は、やはり愛おしそうな声色で、塩谷を撫でるように甘く、声帯から空間を震わせる。
「食柱毒って、身に付けた瞬間、ある程度どんな能力か直感的に分かるモノなのね。驚いたわ。それから、みんな細かい部分を図るために試運転するわけね。理解したわ。さて、始音くん…………」
天川甘音は、そこで言葉を切る。
そして、塩谷にとっては奪命に等しい一言を放つ。
「わたし、食柱毒を手に入れたわ」
世界最後の日が訪れた。
冗談も誇張も無く、これだけの料理人が世に出てしまえば、料理界はこれまでの常識のままではいられなくなるだろう。
最凶の最弱が、災悪を呼びし最強となった。
手に入れた力は未だ未知数だが、これだけの自信と共に言いだせるのならば、どう考えても弱い能力の訳がないだろう。
ここで力の天秤は大きく傾いたのだ。
塩谷はもう言葉すら発せない。反応すらも取れない。
この時点で、もう諦めてしまったのだ。
度重なり植えつけられた強い敗北のイメージ。
何度も失敗してきた自身の策。
そして、史上最悪の覚醒。
死神を前にして、塩谷はもう勝つのを放棄してしまった。
まだどれほどの力なのかを見てすらいないが、それはもう足掻く理由には直結しない。
何故ならば、既に未来は見えてしまったからだ。
失敗。敗北。死。
それらは、いざ目の前に現れるまでわからないモノでは無い。
きちんと状況を把握していれば、目に見える概念なのだ。
現在、塩谷の視界には幾億もの敗北の可能性が見えていた。
もう無理なのだ。
そんな塩谷に対し、甘音はまたしても追い打ちをかける。
「今、その力を見せてあげるわ……」
ついに地獄が動く。




