天使君臨 -顕現されし地獄-
一瞬で決める。
塩谷はそう決めた。
実は、他の料理人には無い、塩谷固有の武器というモノが存在する。
それは、数ある料理人の中で唯一塩谷のみが、その身体スペックを振るうのに食柱毒発動の予備動作を必要としないという事だ。
どんな能力にも、必ず食柱毒使用固有動作という行動が存在する。だが、塩谷の場合は「死ぬ事」が発動キーとなっているので、そんな動作は一切必要無いわけだ。
そもそもこの身体能力は自前である。能力が関係していないのでノーモーションで使用可能だ。
そして、その不意討ちのような身体能力解放は、見る者に多大なインパクトを与える。
たとえ塩谷がそういう料理人だとわかっていても、料理に携われば携わる程、無意識でその動きに驚いてしまう。どんな料理人にも半瞬ほどの隙が生まれてしまうのだ。
だからこそ渋堂我竜は意識して先制を取りにかかり、天川照真は塩谷の動きを一旦停止させて自分の焦りを打ち殺したのである。
もちろん、天川甘音はただの素人料理人程度の経験しか無いので、そこまで効果は無いようにも思われる。だが、何気に彼女は料理人の家系で育っているので、むしろ食柱毒予備動作には慣れている方なのだ。
それどころか、そういった記憶は幼い頃に集中しているので、深層心理に刻まれているという意味では誰よりも深く、予備動作の記憶の影響を受けてしまっている事であろう。
そこを突く。
塩谷は、即座に調理台の周辺から姿を消した。
高速移動。
向かう先は、天川甘音の元である。
妨害行為は可だ。
ならば、この身体能力で即座に接近し、首元でも叩いて気絶させ、すぐに勝負をつけるのが懸命である。
まともにやって勝てない自信がないわけではない。だが、全力と言った以上は全力だ。
あそこまで覚悟を決めた相手に対して、出来る事をやらないというのはむしろ失礼にあたる。それは妨害行為とて例外ではない。
故に、塩谷は加速に加速を重ねて、甘音の調理ゾーンに突入する。
塩谷の極限まで引き延ばされた体感……つまりスローになった視界の中で、甘音は当たり前のようにニンジンに包丁を入れるところであった。
どうやら、塩谷の移動に対して何の驚きも感じていないようだ。
理由などいくらでも想像が付くが、そんな事よりも、問題は天川甘音の底知れなさである。
半瞬の隙が生まれなかった。
つまりそれは、通常の敵には通用するはずの常識が、彼女には通用しないという事だ。
けれども、彼女相手では何が起こっても不思議ではない。故に、恐い。
やはり、この勝負、長引かせては危険だ。
塩谷は自分の判断が間違っていなかった事を確信し、甘音の背後を取るなり、軽い横薙ぎの手刀をその細い首筋に打ちたてようとして――――
「っ!」
――――驚き、慌て、二、三歩飛び退いた。
突然。塩谷の目の前。
甘音が包丁を入れていたニンジンから、蒸気のような虹色の煙が、勢いよく噴き出したのだ。だから、塩谷は急いで二つほどバックステップを踏んで距離を稼いだのである。
瞬間。塩谷が先ほどまで立っていた位置の床が、ジュワリ、と熱を伴った音と共に融解した。床表面のパネルが溶け、蒸発し、無機質な抉れたコンクリートを露出させる。虹色の煙に触れたモノが、一瞬で溶けてなくなってしまったのだ。
今の煙に当たっていれば、溶けてしまっていたのは塩谷の方だったであろう。
物理法則がおかしい。
塩谷の頬を、一筋の汗が伝う。
だが油断している暇などなかった。
甘音が、更に深くニンジンに包丁をめり込ませると、先ほどの虹色の煙がどんどんニンジンから溢れ出ていった。
それは徐々に空間を覆う超低空の雲のようになっていき、超高速で動いているはずの塩谷の方にまで接近してくる。まるで意志を持っているかのような正確な狙いだ。
しかも虹色の雲は、いつの間にか取り囲むように広がって襲いかかってくるので、退路はもう背後しか無い。
されど、バックステップで距離を取ろうとしても、自分の料理台との距離はどんどん離れていく一方だ。
どこかで強く地面を踏み締め、大きく前に跳ねる必要がある。けれどそんな隙は無い。右も左も前も退路は無い。それは唐突な絶望。
だから塩谷は、咄嗟に足元の溶解しかけた床のパネルを足で剥がして、そのまま空へ向けて蹴飛ばした。それから追うように自身も跳ね、空中に浮かせられたパネルを両脚で強く蹴飛ばし、その反動で飛ぶようにして虹色の雲から一気に距離を取る。
空中に足場を用意した二段ジャンプ。空ならば虹色の雲はついてこられない。思いっきり踏ん張って、大きく跳躍する事が可能だというわけである。
今のは塩谷始音にのみ許された退路だ。
渋堂ならば力の制御が雑過ぎてここまで器用な真似は不可能であるし、三ヶ峰にしても床のパネルを剥がす事自体がパワー不足なため不可能だ。
何にせよ、今ので相当虹の雲から距離を取った塩谷は、急いで自分の調理台に移動し、そこでようやく現状を確認した。
「何だ……アレ……!?」
甘音の姿はもう見えなかった。
甘音の調理台は既に虹色の雲に覆われ、何がどうなっているのかがまるで確認出来ない。
何も、わからない。
ただ、推測出来る箇所があるのだとしたら、それは、あれが「地獄料理によって引き起こされた現象」なのであろうという一点のみである。
塩谷は、詳しい事を何も知らない。
もちろん見ている観客も、ほとんど全員が呆気に取られている。
わかっているのはただ一人。
数日前、甘音に稽古をつけた天川照真である。
照真は、観客席でほくそ笑んだ。
「地獄料理バージョン3……地獄顕現……!」
それは、地獄料理バージョン1「地獄送り」や、地獄料理バージョン2「生き地獄」と肩を並べる第三の地獄だ。
この誕生には、照真も少なからず関わっている。
だから知っているのだ。
そんな照真に対し、甘太郎は鼻息を荒くして顔を接近させてくる。
「なっ、何か知っているのか父上!?」
「そりゃあね。あれは、僕ちんと甘音ちゃんの二人が考え出した、地獄料理の新たな可能性だよ」
正直な話。天川照真が、地獄料理使いの甘音に対して言える事は、ほとんど無かったと言っていい。
料理人としてのベクトルが違いすぎて、まともなアドバイスだと逆効果になってしまうのだ。
だから、照真が自分の培ってきたものを伝授する事は、ついに出来なかったのである。
しかし、それでも真摯な姿に心打たれた照真は、二人で新技を開発する事にしたのだ。
その結果がこれだ。
原理は簡単だ。食材を事前に用意出来るのならば、前もって食材に「仕込み」を入れればいい、というだけの話である。
まるで漬物のように、まるで水にふやけさせるように、まるで出汁を浸みこませるように、ただ普通に仕込みをしただけなのだ。もちろん、全て地獄料理を使っての仕込みだ。地獄料理に食材を漬けたり、地獄料理の中に食材を埋めてみたり、とにかく色んな事を試みたのである。
その結果、見た目は普通だが少しでも手を入れた瞬間、地獄瘴気が溢れ出すという仕様になった新しい地獄料理が誕生した。
それがこの地獄顕現である。
しかし、照真がしたり顔でその説明をすると、急に甘太郎と甘菜は浮かない表情を浮かべてしまう。
二人とも何かを言いたそうだったが、先に言葉を発したのは甘菜だった。
「でも、だったらお姉ちゃんが危ないんじゃ……」
「実はね、あれ、至近距離の方が安全なんだよ。どういうわけか知らないけど、今まで甘音ちゃんが地獄料理の際に発生させていたあの奇妙な雲は、甘音ちゃんに一切の影響を与えなかっただろう? あれも同じみたいでさ。それに、地獄顕現によって生まれたあの雲のような瘴気は、ドーム状に展開するような性質をもっててね。意外と安全なのさ」
「でも、万が一って事があるんじゃないのか?」
「その時は、お前が生き返らせてくれよ。息子」
その言葉に、甘太郎は当然表情を歪めてしまう。
やはり命が軽すぎる世界だ。
しかし、観客席はいいとして、試合会場は今それどころでは無い。
今の地獄顕現によって、塩谷の行動は相当制限されたどころか、もう直接攻撃に関してはその一切が不可能となってしまったのだ。
塩谷はこの地獄顕現を前にして、速攻で勝負をつける事が出来なくなってしまったのである。
塩谷もそれを悟ったのか、自分の手元にある食材を高速で刻み始めた。
それは調理再開の行動である。
それは、間違いなく正しき判断だ。妨害が不可ならば自分の料理を洗練させる。それは間違っていないはずだ。
けれども、その表情は苦々しげである。
当然だ。塩谷ほどの料理人が、甘音のような格下を一瞬で沈めようとして失敗したのだ。
失敗、したのだ。その精神的ダメージは想像以上に大きい。
だが、変化はそれだけに留まらなかった。
「っ?!」
塩谷が何かに気が付き、咄嗟に調理中の食材を全てボウルに入れ、残りの食材を無理矢理抱えられるだけ抱え、焦りの滲んだ顔で背後に跳び退いた。
直後。塩谷の調理台に虹色の塊が飛んできて、激しい蒸気を打ち上げた。
調理台は瞬く間にその体積を減らしていき、最終的には、完全に平らになって見えなくなってしまった。
つまり、溶けたのだ。
調理台は一瞬で融解した。まるで見えない溶岩が通り過ぎたかのような惨状に、塩谷は困惑しつつも、背後にある別の調理台に食材を置き直し、何が起こったのかを確認する。
そして、全てを理解した。
何の事は無い。甘音の発生させた地獄の瘴気は、塩谷の調理台の方まで肉薄してきたというだけの話だ。
甘音の周囲に展開した虹色の雲の一部が千切れ、まるで大砲のような弾道で塩谷の調理台に直撃したのである。
今ので幾分かの食材は失った。まだ使っていない物まで消し去られてしまった。
だが、それに関しては余分に多く持ってきたので問題無い。
作る物は寸前まで迷ったので、結局フルコースでも作ろうとしたのだが、今ので二品程減ってしまった。それだけの話だ。
虹色の雲が追ってこられない場所での調理。
塩谷は、何とか対応出来つつも、精神的に相当追い詰められていた。
「調理台を破壊する」という究極的な必勝法。
その様子を観客席で見ていた霜月詠華は、思わず叫び声を上げてしまう。
「な、なんデスのぉぉぉ~~~~ッ!!!!!? あ、あれは一体……ていうか調理台の方まで手を出しマシタわぁン!!!! 反則デスわ反則ッ!!!!!」
料理人は原則として、相手調理台に対する直接攻撃を禁止されている。
それを知っている者からすれば、確かに今のは反則に見えるだろう。
詠華の発言はもっともである。
しかし、渋堂我竜は腕を組みながら、首を横に振った。
その表情は、やはり憎々しげだ。
「いや、あれは反則じゃねぇ……悔しいがな」
「えっ!? そ、そんなわけありマセンわ……! だって……」
詠華は自分の常識が傾いたような感覚に、立ち眩みに近い何かを感じてしまう。
今のが反則では無いというのは、常識的に考えてあり得ないのだ。
なのに、観客席には他に騒ぎ立てる者はいない。
先ほどから、冷静に試合経過を見守っている辛籐でさえもだ。
「いえ、違います……だってアレ、ルールにはふれていないんですよ……?」
辛籐も渋堂の言葉に続く。
実際、反則では無いのだ。正しいのは渋堂と辛籐である。
わかっていないのは、悔しそうにハンカチを噛んでいる詠華だけだ。
だから、渋堂はなるべくわかりやすく説明するよう心がけてから、ゆっくりと口を開いた。
「なあ、霜月……逆に聞くが、今、塩谷の方を浸食しているアレは何だ……?」
「えっ……? それは、噂の地獄料理によって生まれた煙……デスわよね……?」
「その通りだ。ならよ、自分の料理で相手の料理を攻撃した事になるんだよな……? でもな、ルールブックに指定されている禁止行動の中に、自分の料理を用いて他人の料理を妨害する行為については殆ど触れられていないんだ……!」
「は……!?」
それは、もちろん言うまでもないから書かれていない、というだけの事である。
そんな屁理屈が通る事に、詠華は驚愕の表情を浮かべる事しか出来ない。
その表情には一切の納得の色がない。当たり前だ。
真っ当な料理人ならば、たとえどんな理由があろうとも、調理台を破壊するという行為が正当化される事に納得がいくはずもないだろう。
だから、そこに辛籐も補足を加える。
「もちろん、食材や食べ物を“投げつけたりする”行為は禁止されています。ですが、ですがアレは……言ってしまえば調理の飛沫が“誤って跳ねてしまった”だけの扱いとなっているんですよ……当然、そこに食柱毒の力が加わっていれば反則ですが……アレは、そのどちらでも無い……つまり……」
「合法的反則ってわけだ」
「…………っ!」
その事実に、詠華は絶句する。
半ば屁理屈のようなルール回避。
それは普通、許されるものでは無いはずだ。
けれどもルールはルール。絶対である。
事実、トップクラスの料理人同士の闘いでも、ルールの穴を突いた展開は意外と多い。
それに、詠華がまともに意識していないだけで、上位陣の闘いでは調理台が破壊される展開も時々見かけられる。
加え、五年前にあった塩谷と渋堂の闘いの時でも、危うく渋堂の調理台が破壊されそうになった事があった。
前例は多々ある。
それにルールの穴とは言っても、今回の場合、そこを突けるのは天川甘音ぐらいだろう。何せ、料理を殺害道具とし、食柱毒抜きで使役出来る料理人など、他に居るわけも無いのだから。ある意味では、個性を活かした闘い方とも言える。
言ってしまえば、これも戦略の一つなのだ。文句を言っても仕方がない。
詠華は、ここで悔しさを呑みこむ。
「そう……デスか……」
だが、ここで詠華の頭に一つの疑問が浮かび上がる。
「……そ、そういえば……あそこまで寄ってきているあの地獄の瘴気は大丈夫デスの……? ここまでこられたら、流石に危険なのでは……? あっ! そうデスわ! 審査員席なんてもっと危ないのではっ!!?」
「おい、霜月。一体何のためにゆゆ姉が居ると思ってんだ?」
「あっ……」
今、審査員席には癒葉はゆが居る。
彼女の「人に害為すモノを浄化する稲妻の食柱毒」さえあれば、審査員席はおろか、観客席も守れるだろう。
よく見てみると、審査員席はもう既に、稲妻のカーテンによって守られていた。
これならば安心だろう。
問題が解決しているという事実を知る事によって、詠華の心にゆとりが生まれた。
何にせよ、ここで塩谷が地力で負けるわけがない。
そこまで大きな不利が生まれたわけではないのだ。合法的反則など、塩谷の敵では無い。
ならば、もう後は試合経過を見守るのが先決だろう。
霜月詠華は、両手に力を込めて口にする。
「……とにかく、塩谷さん……どうにか、勝って下さいまし……! アタクシは、信じていマスわぁ……!」
だが、その期待に反し、いざ調理台の前に立っている塩谷の表情は苦々しかった。
「くそっ……何だこれ……」
塩谷の内心は荒れに荒れている。
危機を脱した事によって落ち着きを取り戻した塩谷の思考だが、そのせいで、今まであえて意識してこなかった様々な感情が浮上してきたのだ。
一瞬で勝負を決められなかった敗北感。それどころか、反撃まで喰らってこんなに後退させられているという屈辱感。
それから、触れたモノを溶解させていた地獄の瘴気に対する恐怖感。
今現在、塩谷の心の中では、それらが一気に溢れ出てきて止まらなくなっているのだ。
塩谷の食柱毒は、正確に言えば「肉体が死を迎えた後、自動的に身体を修正して復活させる」という能力である。
けれどもその身体修正は、果たして溶解系の攻撃には有効なのかどうかという点に関しては、使用者の塩谷自身にもわかりかねる部分であった。もし跡形も無く溶かされてしまえば、その時は身体修正が追い付かないかもしれない。死亡から修正までの間にもう一撃喰らったら本当に死んでしまうかもしれない。
だからこそ恐い。
もしかしたら、復活すらも出来ずに死んでしまうのではないか、という恐怖が漏れ出てくる。
不死身の力を手に入れてから、塩谷は永らく「死に対する恐怖」を忘れていた。
が、こんな些細な切っ掛けで、それが思い出されてしまったのだ。
これは耐え難き心の揺れである。
塩谷は、無意識のうちに手が乱れている事に気づいていなかった。
塩谷の眼にはまだ迷いがある。
しかし、その眼はすぐに見開かれる。
「っ!?」
何故ならば、またしても虹色の塊が跳んできたからだ。それも今度は複数。
まるで空を埋め尽くすかのような虹色の隕石群が、塩谷の方向へ雨あられと降り注いでいく。
次々と床が溶解していき、塩谷の背後に用意されている複数の調理台のうち数個までもが犠牲になった。
そして、そのうち一つが、今まさに塩谷の調理している調理台に向けて襲いかかってくる。
目前に迫ってくる“死”そのもの。
塩谷は恐怖しつつも、また食材をまとめ、後ろに飛び退いて直撃を避ける。
それから、一気に腰を屈めて高く跳躍し、背後にある四階重ねの足場の二階部分に着地する。
そこにはまた三つの調理台が並んでいる。塩谷はそのうち一つでまた作業を再開させた。
だが、やはりその表情は浮かない。
今の表情は、困惑と驚愕のブレンドであった。
「何だ……天川さんは……僕を本気で殺すつもりなのか……!?」
塩谷の恐怖は徐々に倍加されていく。
もう勝負どころの騒ぎでは無い。殺される。
塩谷は、甘音よりも圧倒的に高い実力を誇っていながら、精神的に被害者の側へと追いやられていた。
このままでは塩谷が負ける。
その考えを、動揺している塩谷はもちろんのこと、ここに来ている多くの人間すらもが抱いてしまっていた。
最後に採点されるタイプの料理対決において重要なのは、お互いの料理の点数が現状どれほどのモノなのかを見極める審美眼だ。
当然。ここにきている人間は、だいたいその技術を取得している。
そして、多くの人間がその審美眼によって判断した結果、やはり塩谷が負けるという最終判断を下したのだ。それは塩谷自身の見立ても含めての話である。
根拠は二つ。
まず、天川甘音に何らかの勝算があるのだろうという事。もう一つは、塩谷始音が動揺によって全力を出し切れないという事だ。
塩谷は、動揺によって、自らの点数をどんどん落としていっているのを自覚していた。傍目から見ても、普段と比べて精彩に欠く調理風景だ。
だから、ここで手を打っておく必要がある。
塩谷は自分の中の恐怖を殺し、呼吸を整えた。まだ策はある。
甘音を見くびっていた所は少なからず存在するので、その心を押し潰しながら、塩谷はとある大技を解禁させる。
実は、いざとなった時の最終手段は用意されていたのだ。
本当なら使うはずの無かった幻の絶技。
塩谷始音の切り札。
天川照真との闘いが終わった後、ふとした時に思い付いた技が、ここで実るのである。
「……なら……! 仕方、無い……!」
塩谷は、自分のスピードによって生まれたアドバンテージに感謝していた。
それさえあれば、明らかに時間のかかる無駄な行為をしても、余裕で取り戻せるからだ。
だからもう迷わない。
迷わずに、迷いを殺す。己を殺す。
塩谷は、自分の調理服を胸元まで捲り上げ、それから自由な方の手で手刀の形を作り、勢いよく自らの心臓を刺し貫いた。
飛び散る鮮血。硬直する観客。
したり顔で、閉じた口から血を流す塩谷。
この意図を理解出来ている者など、他に居るわけも無い。塩谷はここで一気に余裕と自信を取り戻す。
これは、一度死ぬ事によって気持ちをリセットさせる、などという生易しい策では無い。
むしろ、今までの積み重ねを全て形にするような究極の応用技だ。
塩谷は、心臓から手刀を引き抜くと、赤く染まったままの手で、更に再度心臓を突き刺した。
もう一度、散りゆく赤い血。全身を駆け巡る激痛。
しかし、塩谷は歪んだ笑みで、またしても身体を手刀で貫く。尚も飛び散る血。
それでもまだ動きは止まらない。貫く、もう一度。血。もう一度。血。もう一度。血。血。血。
中空へ浮かぶ紅の桜吹雪は絶え間なく舞い散り、絶叫と悲鳴の混じったような嗤い声が周囲に鳴り轟く。
それは行き過ぎた自傷行為。
何度も何度も自分に向けて致命傷を放つという、一見無為な行為。
その異端さに、観客席の渋堂も思わず目を見開く。
「んだよ、お前……そんなに自分を傷つけて……一体何がしてーんだよッ!?」
だが、そんなライバルの声も届かない。
塩谷の喉からは、やけに幼い無邪気な笑い声が発せられている。
それは生まれ変われるが故の歓喜なのか、それとも狂喜に身を委ねた結果なのか、その答えは本人しか知らない。
塩谷は赤く染まりながら、何度も何度も自分に致命傷を負わせては死に、何度も何度も復活を繰り返した。
自分を刺し殺し、それからまた蘇る。延々とその繰り返しだ。
その目的は再誕。
生まれ変わるためには、まず死ぬ必要があるのだ。
だから、何度も死亡を繰り返す。
常人ならば発狂しかねない痛みを受けて尚も嗤いながら、生と死を廻っていく。
壊れていく人間性。変わりゆく身体。歪む世界。
生まれては死に、壊れてはまた直る。そんな歪なサイクル。生死の循環。
そんな塩谷の身体に、わかりやすい変化が訪れる。
何度も刺し貫かれた心臓のあたりから、青と碧と蒼の光が迸り始めたのだ。
血と光。赤と青の絶妙なコントラストは、芸術的とさえ思えるほどの美麗さである。
最初は仄かに照らすだけだった光も、刺し貫くごとに、死ぬごとに、どんどんその輝きを濃くしていった。
それはまるで、人の殻を脱ぎ捨て、中から天使が登場してもおかしくないような絵面だ。
そして、その青く碧く蒼く輝いているその光は、塩谷のもつ「再生の力」そのものである。死亡を繰り返す事によって力が半ば暴走しかけ、身体から溢れ出てきたのだ。
それは塩谷のもつ真なる力の源。
故に、本人の意識次第で、ある程度のコントロールは可能だ。
塩谷が無理矢理コントロールしようとしたのか、青く碧く蒼い光はまるで空中に固定された粘液のように形を変えていき、一気に塩谷の背の方へと集中させられる。
そうして、最後に一際大きな光を放った。
再誕。
激しい発光を終えた塩谷の姿は、明らかに以前とは別物になっていた。
「…………成功、したか……うん、良し! ……これが僕の、新しい力だ……!」
塩谷の背には、青く輝く鳥類のような翼が生えていた。
左に三枚、右に三枚、二対上中下段三揃いの六枚翼。
天使を彷彿とさせる半透明の青い六枚翼が、塩谷の背より生えていた。
正確に描写するのならば、塩谷は体外に溢れさせた修正エネルギーをコントロールし、身体と循環させる血液のようにエネルギーの流れを作る事によって、身体の“外”にエネルギーを出したまま、その場に固定したのだ。
つまり、この翼はエネルギーの塊というわけである。
これが塩谷の奥の手。
修正エネルギーのコントロールだ。
その姿は、まさしく六枚翼の天使そのものだ。
塩谷始音は天使として転生した。
それは、彼の新たな切り札である。
驚く甘音の表情が、虹色の雲で隠れて見えないという点は残念だ。だが、今の大技によって、その悔しささえも補えるだけの自信を手に入れられた。
まさか甘音相手に、実験途中のこの技を使う事になるとは塩谷自身思っていなかったが、しかし、それでも使った事に後悔は無かった。これで勝てるのならば問題無い。
そしてタイミング良くおあつらえ向きに、塩谷の調理台に向かって、またしても虹色の塊が跳んできた。
だが、今度の塩谷に動揺は無い。
むしろ、寸前まで引き付けるかのように、その場に立ち尽くす。何故か背中の翼が白く発光し始めたが、それで何をしようにも動くつもりが無いのならば、見ている側としても不安を隠しきれないのは確かだ。
それには、観客席の面々も動揺せざるを得ない。
詠華は叫んでいた。
「塩谷さぁンっ!!!! 早く! 早くそこから逃げて下さいましっ!」
けれども、無情にも虹色の塊は調理台へと激突し、次の瞬間にはドロドロに溶かしてしまっていた。
そこに塩谷の姿は無い。
誰もが、死んだ、そう思った。
しかし、直撃したわけではない。
その証明と言わんばかりに、塩谷の自信満々の声が、四階建て足場の三階部分から響き渡る。
「何処、狙ってるのさ? こっちだよ」
その声に皆が視線を向けると、塩谷は三階部分の一番奥にある調理台で、調理を再開させていた。いつの間にか、血に濡れた両手は、何故か綺麗に洗い落とされていた。
背にある翼は五枚になっている。いつの間にか一つ欠けていた。右上の翼が一つ無くなって、左右不揃いになってしまっているのだ。
もちろんそれには理由がある。
それは、何故、こんな瞬く間に移動が出来たのか、という疑問にも繋がるものだ。
その答えは意外と単純である。
疑似時間停止。
塩谷は、天川照真との闘いで自分の身体能力を極限まで強化する事によって、その境地に達する事が出来た。
相対的に時間が止まって見えるほど、極限強化された動体視力と身体能力。
それが塩谷の最終奥義だったわけだ。
しかし、それはあまりにも負担が大きく、半ば能力を暴走させている側面もあるので安全性に欠け、結局それをやったあとに塩谷は反動で動けなくなり、全治には一ヶ月もの時間を費やしてしまった。
そのため、疑似時間停止はまともに使える技では無かったのだ。
だが、だからこそ、塩谷はその負担を削るためにとある方法を用いた。
それが今の六枚翼である。
身体修正エネルギーを強制的に身体強化エネルギーに変換させる、という強引な方法のせいで、前回は身体に必要以上の負荷がかかってしまった。エネルギー変換の際、身体にかかる負担は信じられない程である。
なので、塩谷はまずエネルギーを体外で安定させ、そこ……つまり自らの身体の外でエネルギー変換を行う事にしたのだ。これによって、変換時に生じるダメージが軽減される。
それに加え、疑似時間停止の発動時間も六分割する事にした。体外に出した翼状のエネルギーそのものを六分割し、使用時にその中から一つだけを体内に入れるという方式をとる事によって、一度の発動時間は大幅に減るものの、負担事態はだいぶ軽減される事となるのだ。つまりは一時的身体強化による疑似時間停止を、数回にわたって行うというわけである。六回もストックがあるのなら充分だろう。
この二つの工夫で、塩谷は疑似時間停止を完全にモノにしていた。
前人未到の無秒領域、停止世界の支配。
この力さえ用いれば、どんな攻撃も避けられぬわけも無い。
力の誇示によって自信も取り戻した。
天使として復活を遂げた“三柱天使”塩谷始音は、ここで再度勝利を確信するのであった。
「…………! 勝てる。この勝負勝てる……!」
それは、ここまでの技を見せつけたからこそ言える言葉であり、それなりの重さを持った言葉である。
事実、これだけの力と自信さえあれば負けるわけがない。
塩谷はメンタルに左右される料理人だ。故に、波に乗れている今ならば、勝機は十二分に見えるというわけだ。




