決戦前夜 -覚悟なんてとうの昔に出来ている-
天川甘音が癒葉はゆから聞いた過去話は、概ね以下のような概要であった。
癒葉が初めて塩谷と出会ったのは、今より九年前の出来事である。
それは、まだ癒葉が十四歳だった頃の物語だ。
癒葉がある日道を歩いていると、血まみれで地面に横たわっている塩谷の姿を見つけたそうだ。
それが塩谷の運命を変えた邂逅。
その時は、あまりの異質さに思わず逃げだしてしまった癒葉だが、後日また同じ場所で塩谷が倒れているのを見かけて、ついに接触を試みてしまったという。
塩谷は全身傷だらけで、何時死んでもおかしくないような惨状であった。その頃の塩谷にはまだ食柱毒も無く、放っておいたら本当に死んでしまう状態にあったのだ。
何故、そこまで死にそうになっていたのだろうと癒葉は疑問を隠しきれなかったが、とにかく簡易ではあるが家に呼んで手当をしてやり、そこで初めて事情を聞いたらしい。
幼かった塩谷は、癒葉に対して謝礼の意を述べた後、己の事情を話し出した。
とある少女に、美味しいご飯を食べさせてあげたい。
でも、いつも失敗して日に日に傷が増えていってしまう。
塩谷が語ったのは、そんな話だったそうだ。
まだ疑問の残る話ではあったものの、癒葉は何を言ってもこの少年は止められないと思い、せめて何が起こっているかだけでも知りたいと足を突っ込んでしまった。
強い煌めきを両目に宿している塩谷は、しかし、どこか危うげに見えてしまい放っておけなかったのだ。
だから、癒葉は塩谷に協力する事にした。
二人は、共通の知り合いとして渋堂我竜の話題があったのですぐに打ち解け、徐々に距離を縮めていった。
どうやら、塩谷の親は数日間やむを得ない用事で出かけてしまい、近くに頼れる人物も居なかったので、塩谷は今“一人”で家にいるようであった。後に、それは嘘である事が判明するのだが。
兎にも角にも、どこかへ行って傷だらけで戻ってくる塩谷の治療や、その後の傷口を考慮した上での洗浄などはその後全て癒葉が行うようになったという。家族の居ないタイミングを見計らって、塩谷の面倒を見続けていったのだ。
そして、塩谷が癒葉に心を開ききった時、ついに塩谷が食事を食べさせてあげたいという少女の元へ、癒葉は案内される事となる。
「おなか、へった」
そこで出会ったのは、痩せ細り、今にも死にそうな機械のような純白の女性。
何故か塩谷の家にあがりこんでいたその女性は、癒葉も知る有名な審査員であった。
その少女のような女性は、この世で一番優れた審査員。
けれども、代償のように手に入れた食柱毒によって、まともに生きられない存在。
癒葉が戦慄して動けずにいると、塩谷は手慣れたように、作った料理を女性へと差し出す。
白い女が遠慮がちに出された物を食べきると、変化が起こった。
突如、何かが光ったと思ったその次の瞬間には、塩谷の心臓が何かに貫かれていたのだ。
溢れ出す鮮血。止まらない赤色。
塩谷の心臓を貫通したモノ、それは先ほど食事を食べるのに用いられていた食器だった。それが高速で飛来し、塩谷の心臓を穿ったのである。
だが、癒葉が全てを認識する前に、塩谷は心臓から信じられない量の血を流し、すぐに絶命してしまった。
これが、天使誕生の瞬間。
塩谷は奇跡的にも、死ぬ寸前に己の食柱毒を覚醒させていた。
それは、死を否定する力。
塩谷は心臓を貫かれた身体が修復すると同時に、地に足のついていないような不安定な笑みを浮かべた。
何が起こったのかだいたい察せているような、痛々しい歪な笑み。
どうやら、白い女に食事を食べさせると、何らかの現象が起こって、食べさせた者が何らかの傷を負わされてしまうようであった。
そして、今回はそれが運悪く致命の一撃となってしまったわけだ。
しかし、塩谷はすんでの所で不死身の力を身に付けて、何とか生き返る事が出来たというだけの話である。
それが、報われぬ物語の本章が始まる瞬間。
好きだった人のために食柱毒さえも捧げた塩谷は、ここから更に迷走していくのだ。
あたかも、毒でもがき苦しむかのように。
「……それじゃ、本当に毒みたいじゃない……」
そんな事を思い出しながら、天川甘音は白い息を吐きだした。
決戦前夜、真っ暗な公園。
甘音は、土の地面をブーツでしっかりと踏みしめながら歩いていた。
まだ昼間はそこまで寒くない季節だが、夜は少々冷え込む。
だから、私服の上にジャケットを羽織り、ポケットに両手を突っ込みながら歩いているという現状だ。
下は短いスカートと足首を覆う程度のソックスしか無いので、やはり寒さは緩和しきれていないが、そういった冷気を逆に切り裂くような威風堂々不遜とした態度で、天川甘音は足を進めていく。
その表情は、どこか浮かない。
だが、それでいながらその双眸には、おぞましい程の決意が込められていた。
「……勝たなきゃ……」
明日、塩谷始音との決戦が控えている。
そして、甘音は何が何としてでも勝たねばならない。
だから、この数日間の間に力を蓄えた。
最強である父にまで修業を頼み、それ以外にも出来る事は片っ端からこなしていった。
その結果、以前とは比べ物にならないぐらいに強くなれた。
だが、それでも塩谷の高すぎる実力の前では微々たる進化であるのは、目に見えている。
当然だ。
たった数日で、塩谷を越えられる程強くなれるのならば、苦労はしない。
けれど、それでも甘音は負けるつもりなど毛頭無かった。
この気晴らしの夜の散歩を終えたら、明日に支障が出ぬよう熱いシャワーを浴びてリラックスした後に寝る。
その予定に変更は無い。
言ってしまえばこの散歩は、己の気持ちを整えるために必要なプロセスなのだ。実際、心は湖面のように落ちついてきている。
天川甘音は、芯が真っ直ぐに通ったような歩き方で、この公園を横切って行く。
しかし、前方からも聞こえてくる足音に、ふと足を止める。
静とした夜なので、その音はやけに鮮明に響き渡る。
甘音が公園の入り口の方を見ると、どうやら誰かがこの公園の入り口から入ってくるところだったらしい。
そして、公園に入ってきて、そのまま歩いてくるその人物は、甘音のよく知っている人物であった。
その、赤紫色の外套を纏った人影は、甘音の傍まで来て足を止める。
錆びついた街灯が二人の姿を薄く照らす。
それから、来訪者はその色素の薄い唇を動かし、よく通る声でこう告げた。
「こんばんは、奇遇ですね」
長いストレートヘアーをそのまま流し、綺麗に生え揃った前髪を揺らすその少女は、辛籐空美である。
辛籐は、平時は鋭いはずの眼を緩やかに見開き、穏やかな笑みを浮かべていた。
その姿に、甘音は少し冷めたような笑みを浮かべて応じる。
「そうね。あなたも散歩かしら?」
「ええ、そうです。けれど、少し語弊がありますね」
そんな辛籐の続きが読めない言葉に、甘音はほんの少しだけ眼を丸くした。
だが、続く言葉は至って普通の内容であった。
辛籐は、何故かちょっと誇らしげな笑みとなり、自身の薄い胸を軽く叩いて、上品に鼻を鳴らす。
擬音をつけるのならば「どやぁ」というのが似合いそうな態度である。
「私の場合は日課です。恐らく突発的に散歩してみただけであろう貴方とは、ちょっとニュアンスが違うんですよ」
そんな事を自信満々に言ってのける辛籐に、甘音もどう反応したものかと一瞬考えた。
けれども、結局これはただの挨拶代わりであるという事実を思い出し、再度辛籐に細めた視線を向ける。
その表情は、やはり何処かニヒリスティックな笑みであった。
「そう……。そういえば、最近店を開けてばかりでごめんなさいね。わたしが居ない間、大丈夫だった?」
徐々に核心に近づいていく口調。
辛籐もその空気を敏感に感じ取ったのか、即座に両目を細め、平時の鋭い目つきへと変化させる。
だが、口元と声色はまだ穏やかなままであった。
「ええ。むしろ、私と散葉さんだけで全然回していけるという事に気が付いたぐらいですね。これなら別に、一人ぐらい欠けても問題無いかと」
「そう……」
それは、暗に塩谷がHelleNをやめて居なくなったとしても、問題は無いという事を告げる台詞。
それと同時に、一気に本題へと近づいていくような踏みこみの言葉。
甘音の表情が若干強張る。
今、その話題をもちだされた以上、もう誤魔化しはきかなくなるからだ。
しかし、甘音もここで退くつもりは無かった。
違う話題に逃げるつもりも、肝心な事を誤魔化すつもりも無い。
むしろ、一歩踏み出して、双眸に滲ませた感情の色を格段に濃くする。
刈り取る眼、暴発。
その視線が繰り出す重圧に、辛籐も瞳を逸らさざるを得なくなる。
辛籐の心に、一瞬の空白が生まれるのを甘音は見逃さない。
その隙に、天川甘音は、特有の甘い声色で言葉を奏でる。
「ところで、空美はどう思っているの?」
「どう、ですか……?」
返す辛籐の声色には、先ほどまではあった安定感というものが欠けていた。
だが、刈り取る眼の前で咄嗟に言葉を返せただけでも、大した精神力だと評価されるべきであろう。
辛籐空美には、実力も、思考も、精神力もそれなりに揃っている。
だからこそ、いざという時頼れる存在となるのだ。
そんな事実を再確認出来て、甘音の胸中にも喜びの感情が浮かぶ。
だから、甘音は口元だけで笑い、ゆっくりと言葉を続けた。
「あなたは、わたしと始音くんが闘う事についてどう思っているの?」
あらゆる工程を無視して、一気に本題まで近づくその一言。
そんな甘音の急接近に、辛籐も面喰ったような表情を浮かべる。
けれど、それも一瞬だ。
辛籐はすぐに両目を鋭い形へと戻し、刺し貫くような声色で即座に返す。
「別に」
そこで一呼吸。
辛籐は、多少余裕の戻った表情で続ける。
「好きにすればいいと思っています」
その表情は何ともなさげである。
しかし、何かを噛み殺したような声色のせいで、そこに込められた複雑な感情をほとんど隠せていなかった。
だが甘音は、ここではまだ言葉を返さない。
辛籐は、まだ自分の気持ちをはっきりと言いきってはいないのだ。
だから、ここは待つべきなのである。
甘音はそう判断して、意図的な沈黙を作り出す。
そんな甘音の意志は、すぐに辛籐にも伝わったようで、彼女は根負けするかのように溜息を吐いた。
「ま、本音を言えば、ここで貴方に勝って貰いたいっていう気持ちもありますがね。やっぱり、今まで三人で続けてきたお店ですから……一人いなくなるのは、寂しいものです」
ここにきて、辛籐の眼にははっきりとした感情の色が浮かんでいた。
寂しいような切ないような、何処か遠くを見ているような眼。
眼を見ればすぐにわかる。声を聞けばすぐにわかる。
今のが辛籐空美の本当の感情なのだろう。
だが、辛籐は彼女なりに塩谷の気持ちも考えた上で、はっきりとその感情を表に出すのが憚られていたのだと、甘音は推測した。事実それは正しい。
何にせよ、これで辛籐は自分の正直な気持ちを告げた。
次は、甘音の番である。
甘音は眼を伏せ、声のトーンを落として声を発した。
「そうよね……ごめん。わたし、周りの事が見えてなかった。勝手にあんな勝負もち出して、本当に申し訳ないと思っているわ。でも……」
「でも、退くつもりは無いのでしょう? わかっていますよ。今更言うまでもありません」
言いたかった台詞を取られ、甘音は呆気にとられる。
辛籐は、微笑を浮かべて甘音を見つめていた。
どうやら、言うまでも無く、甘音の気持ちは伝わっているようであった。
それから、甘音が次の言葉を放つ前に、またしても辛籐が素早く口を開く。
「どうせ貴方の事ですから、全部突発的な行動でしょう? ええ、わかっていますよ。何年間の付き合いだと思っているんですか?」
辛籐空美と天川甘音は、まず前提として親戚同士の間柄であり、その上で幼稚園、小学校と一緒だった腐れ縁である。
中学だけは別々だったが、何気に高校でも一緒だ。
無論、小学生の時に、口が性感帯だからまともに食事がとれなかった辛籐に対し、甘音が無理矢理ご飯を食べさせようとした事を切っ掛けに始まった冷戦のせいで、しばらく口もきいていなかった時期も確かにあった。
しかしながら、付き合い自体が相当長いのは覆りようの無い事実である。
何だかんだ喧嘩しつつも、友人関係自体はちゃんと続いていたのだから。
だから、辛籐はもう甘音の事ならばだいたい知っているのだ。
そんな辛籐に対し、甘音も多少狼狽してしまう。
「うう……返す言葉も無いわ……」
「ええ、返されても困ります。しっかりと受け止めて反省して下さい。だいたい、なんで貴方はこういつもいつも圧倒的格上相手に対して啖呵を切るんですか。始音さんみたいに負けを恐れすぎるのもどうかと思いますが、貴方のそれも、それはそれで問題ですよ?」
「それはそうだけど……でもね、空美……!」
「どうせまた、譲れないモノがあるという話でしょう? 言わずともわかっていますって。全く……私相手にちょっと怯えてた時はまだ可愛げがあったというのに……いつの間にか、勝手に向こう見ずになってしまって……本当にもう……」
唇を尖らせる辛籐に、甘音も苦笑する。
今の辛籐の態度は、塩谷始音や霜月散葉や天川照真と接する時とは、また少し違ったものであった。
世話を焼くようでいながら、辛籐自身も素直な言葉を口に出せる関係性。
こんな距離感の辛籐は、甘音の前だけである。
これは、お互いそれなりに分かりあっているからこそ掴める絶妙な距離感なのだ。
だが、今の辛籐の発言には少しだけ誤りがあったので、それだけは否定しておこうと、甘音は両目に感情を滲ませる。
そして、完成された真剣な眼で辛籐を射抜き、混じりけのない純粋な言葉を放つ。
「少し違うわ、空美。わたしが父上との闘いで自信をもてたのは、あなたと始音くんが居てくれたからよ。一人だったら、そこまで踏ん張れなかったわ。きっと、あなたとの闘いの時みたいに震え声で無理矢理自分を奮い立たせる事しか出来て無かったはずよ。わたしはね、自分を信じたんじゃなくて、みんなと居るHelleNを信じたの。だから頑張れた。言ってしまえば、あなた達のお陰よ。ありがとう、空美」
「……っ!」
辛籐の顔が急に赤くなった。
どうやら相当照れくさかったようだ。
もっとも、面と向かって、しかも眼まで合わせた状態でそんな事を真っ直ぐ言われれば、誰だって照れる気持ちを抑えられなくなるだろう。
そんな思わぬ衝撃を受けてしまった辛籐の言葉は、妙にか細い声となっていた。
「……べ、別に、貴方のために頑張ったわけじゃありませんし……私は、待遇の良い気に入った職場が無くなるのに耐えられなかっただけです! あれは全部自分のためにした事ですよ! だから、急にその……感謝とかされても困ります……!」
辛籐は、珍しく両手をもじもじさせながら喋っていた。
どうやら、意外と褒められ慣れしていないようである。
けれども流石にここまで照れられると、甘音としてもやや首を傾げたくなってくる。
そういえば以前、天川照真戦後、塩谷が帰って来た時にお礼を言った時も妙な反応をされてしまった事もあった。それと今回の辛籐の態度には通ずるものがある。なので、もしかしたら何か失言があったのではないかと、甘音の心に不安の色が浮かぶ。
しかし、いくら考えてもそれらしい答えは出ないので、とにかく話を進めようと口を動かす。
「そうは言っても事実よ。そんな事より、結局、あなたはこの闘いに肯定的という解釈でいいのかしら?」
本題再開。
その言葉に、辛籐のもじもじとした動きが止まる。
それから、辛籐は鋭い両目をまた作り直して、すぐに対応する言葉を放った。
「……ま、そうですね。ぶっちゃけた話、悪い展開ではありませんよ。正直なところ、あのまま始音さんの件を先送りにし続けていても、先が見えませんでしたからね。あの人の、料理人と一般人の間で揺れ動く気持ちに決着をつけるのには、丁度いい機会だったと思っています」
塩谷は元々HelleNをやめたがっていた。
だが、天川照真戦以降は愛着がわいてきたのか、不思議な程やめるだとかそういった話をしなくなったのだ。そこには、何らかの心情変化があったのだと察する事が出来る。
これは悪い変化では無い。けれど、良い変化ともいえなかった。
何故ならば、塩谷は結局のところ料理人をやめつつ料理店で働いているという矛盾を抱えたままなので、根本的には何の解決にもなっていないのである。このまま続けていても、いつか塩谷の中にある気持ちが爆発し、何らかの形でHelleNから去る可能性だってあったわけだ。
だから今、その気持ちに決着をつけるという以上は、今回の決闘も一概に悪い事とは言えないのだ。もっとも、やり方が極端すぎると言われてしまえばそれまでなのだが。
兎にも角にも、こんな荒れてきた現状も、そこまで悪い状況では無いというのだけは確かだ。
辛籐は、深い感情を滲ませた吐息と共に、空を見上げた。
つられるようにして、甘音も空を見上げた。
そこには、天を満たしつくす程の星と、煌々と金色の輝きを放つ光の円が浮かんでいる。
「それにしても、今夜は月が綺麗ですね」
「そうね。わたし、今まで月ってあまり好きじゃなかったけれど、今なら不思議と悪い気がしないわ」
「珍しいですね。月なんて、好きでも嫌いでも無いというのが大半の意見でしょう?」
そんな辛籐の問い。
それは当然の質問である。
一般論から外れた事を言えば、多くの場合、待っているのは相手の好奇に満ちた視線だ。
しかし、辛籐の声色にはそこまで疑問の色は宿っていなかった。
むしろ、何の気なしに聞いただけだという雰囲気である。
だから、甘音も同じように肩の力が抜けたような声で応じた。
「どうしても、高い所から見下ろされているって感じがして、苦手だったのよ。向こうからはこっちの姿なんて小さすぎて見えないのに、向こうはあれだけ自己主張しているから……どうしても、絶対に敵わない大きな壁って感じがして、ね……だけど」
天川甘音は右手を開き、空へと掲げる。
月と手が重なり、甘音の視点から見れば、まるで月を掴んでいるような構図となる。
そして、力強く揺れない笑みを浮かべて、甘音は右手を強く握りしめた。
まるで、月を握り潰すかのように。
その両目には、強すぎる感情が渦巻いていた。
「それでも、人はあの月まで行ったのよ……今の技術なら、人間は月を壊そうと思えばブッ壊せるわ! 兎が住んでようがかぐや姫が居ようがオールジェノサイドよ! あんなの、ただただ無駄に大きいだけのデカブツよ! 決して、届かない象徴なんかじゃない! ……って、そう思ったら、自然と苦手意識なんて無くなったわ」
「いやいやいや、何でそんな物騒な発想なんですか……!? 別に、それでも人は月に到達出来た……で終わって良かったじゃないですか……! そんな壊すとか言わないで下さいよ! あれで重要な役割を果たしているんですから!」
辛籐の声には、若干の怒気が含まれていた。
どうやらこの真剣な空気を壊された事に、ちょっとした憤りを感じているようである。
だが、甘音はそれでも自分は間違った事を言っていないと思ったので、やはり物騒な言葉を放ちにかかる。
「到達しただけじゃ、勝った事にはならないわ。勝つことだけが自己の証明になる、なんてことは思わないけれど、それでも負けてばかりじゃ悔しいじゃない。だから、勝てる可能性だけは考えておかないとね」
「……は、はあ……」
「それに、今度の闘いはわたし一人の力で闘う事になるわ。だったら、気持ちだけでも誰にも負けないぐらいでいかないと……きっと気迫の時点で負けてしまうはずよ」
塩谷と甘音の実力差はあまりにも大きい。
だからこそ、最善を尽くすためにも気持ちで負けてはいけないのだ。
辛籐空美との闘いの時は、審査員席で助言をくれた塩谷が居た。
天川照真との闘いの時は、辛籐と塩谷という心強い味方が居た。
しかし、今回ばかりは本当に一人である。
それも、いつも何だかんだ助けてくれた塩谷が敵に回っているのだ。
並の覚悟では勝てない。
それ故に、甘音は自分の気持ちをはっきりと声に出して、これまで以上の覚悟を決めようと考える。
声に出して形にしてしまえば、覚悟は逃げない。
だから天川甘音は、天に浮かぶ月に向けて告げる。
「空美と闘った時は、わたしは自分を信じ切れなかった……父上と闘った時も、信じたのは仲間達だった……だけど、そろそろわたしも自分自身を……天川甘音を信じてもいいんじゃないかと思うの。確かに、力の差は大きいわ。でも、埋めるだけの努力もしたし、どうやったら勝てるかもいっぱい考えた。それにその過程で、力を貸してくれた人たちだっている。そう考えたら、ここまでわたしを連れてきてくれた全ての人達の事だって信じられる! だったらっ! それだけの想いを乗せたわたしが、負けるわけが無いって心の底から言う事が出来るわ!」
甘音は、そこで一旦大きく息を吸い。
月を砕きかねない勢いで叫ぶ。
「わたしは始音くんに勝ぁつ!!!!! 絶対絶対、負けてなんかやるものですかっ!!!! たとえ始音くんがこの真上に浮かぶいけ好かない満月だったとしても、真下から飛びあがって近づいて、刈り取るように切り伏せて……半月にしてやるっ!!!!!!」
それは、絶対的勝利宣言だ。
これは、塩谷が闘う前に多用する「真上から叩き潰す」という勝利宣言に対応させた、甘音なりの対抗策である。
真上から来るのならば、真下から迎え撃つまで。
叩き潰しに来るのなら、その力ごと刈り取ってやるまで。
相手が天上の存在だとしたら、こちらは地の底から湧き上がる力を武器に闘うまでだ。
天川甘音の表情に不安は無い。
これは勝利を確信した傲慢などでは無く、やるだけの事をやったからもう後は意気込みだけだという気持ちの表れだ。
つまり、気持ちを奮い立たせるための儀式のようなものなのだ。
甘音は、やりきった顔で、荒くなった鼻息を吐きだす。
だが、横で聞いている辛籐は半ば呆れ顔であった。
「……いや、近所迷惑ですよ。何をしてるんですか、貴方は……」
「うっ……」
咎める声に、甘音の気持ちも少し萎んでしまう。
けれども、辛籐はすぐに笑みを浮かべ直した。
心の中の何かが溶けたような穏やかな笑みである。
「ですが、いい意気込みだとは思いますよ。まったく……本当はどちらにも肩入れしないつもりでしたが、ちょっと揺らいじゃったじゃないですか……だから、その揺らいで零れた分の気持ちだけは、しっかりと受け取ってもらいますよ」
それから言葉を切った辛籐は、月から視線を戻した甘音を、しっかりと見据えた。
辛籐の表情は、緩やかで穏やかな色合いになっている。
しかし、やや儚げな何かを感じさせる顔だ。
それは、辛籐空美がずっと着けていた理屈の仮面が外れかけているという現状を、如実に表していた。
だから、辛籐は外れかけた仮面を戻しもせず、真っ直ぐに、何処までも純粋な声で、しっかりと気持ちを届ける。
「……甘音さん、頑張って、下さい。私自身、まだ始音さんの過去とどう向き合えばいいのかわかりません。それでも、貴方は結論を出して始音さんはそれに応じました。なら、そこにもう迷いは不要です……! 正直……これまで貴方には何度も不安にさせられましたが、そのたびに貴方は私の予想を越えて奇跡のような勝利を掴み取って来ました! だから……だから……!」
辛籐の声は徐々に不安定になっていく。
甘音の前だからなのか、普段なら絶対に表に出さないような感情までもが外に出ていた。
瞳は潤んでいき、声は震えていき、辛籐の仮面は少しずつ剥がれていった。
塩谷と甘音が激突するにあたって、辛籐は今まで冷静な態度を取り続けてきた。
けれど実際のところ、辛籐は急に揺れ動いた状況に少なからず動揺していて、どうすればいいかわからないという気持ちを抱え込んでいたのだ。
理屈の上ではもう納得していても、感情の面ではまだ割りきれていなかったのだ。
辛籐空美はまだ十代の少女なのだ。まだ十七歳の未完成品だ。
抑えているだけで、感情の振り幅は大きいのだ。
それが、長らく一緒に居た友人の前で決壊しそうになっていた。
甘音は、その感情を正面から受け止める。
そして、その姿を見て安心したのか、辛籐の感情がついに溢れ出ていく。
「……勝って、下さい……! 身勝手な事を言うようですが、やっぱりみんなと一緒に居たいです……離れ離れはイヤです……」
雨は降っていないのに、地面を濡らす水滴の音が聞こえてきた。
ここでもし甘音が負けてしまえば、塩谷はもうHelleNのメンバーとは関わろうとしないだろう。
それは、四人で過ごしてきたHelleNでの生活の終わりを意味する。
せっかく天川照真から居場所を守ったというのに、こういった形で終えてしまうのはあまりにも惜しい。
辛籐の立場からしてみれば、本当はここで闘いが無効になってしまえばいい、という願望がある。
辛籐空美が望んでいるのはあくまで「このまま」なのだ。
HelleNに来るまで、辛籐は、家でも店でも戦場でも妙な居心地の悪さを感じていた。
けれど、HelleNに来てからは、ようやく肩の力を抜いて安らぐ事が出来たのだ。仕事量は大幅に増え、かなりのハードワークとなってしまったが、それでも辛籐は今の生活が気に入っていたのだ。
そこから、誰一人として居なくなって欲しく無かったのである。
その割には、天川照真と霜月散葉を引き剥がしたりしていたが、それも自分の「このまま」を脅かしてきた相手に対して怒りを隠しきれなくなった結果である。それに、あの男の場合はああでもしないと、自分の家族に目を向ける事は無かったはずだ。加え、散葉のような人間はどの道欠かせない人材だった。その判断に後悔は無い。
兎にも角にも、散葉のお陰でHelleNは今安定している。
辛籐の希望はこのまま現状維持なのだ。
しかし、辛籐がどう思っていようと、甘音と塩谷が闘いをやめる事はあり得ないだろう。
それに、お互い譲れない思惑もあるようなので、下手に干渉は出来ない。
だからもう、離別を伴わない天川甘音の勝利を信じるしか無いのである。
それは打算ありきの身勝手な願いだ。
もしこれで塩谷が勝った方が別れを伴わないという流れになっていたのなら、辛籐は迷い無くそちらへついていただろう。
随分と都合のよい話である。だが、それでも、それを自覚しつつも辛籐は、甘音の勝利を願う事しか出来ない。
「……勝手なお願いで、申し訳ありません……だけど、それでも私は……!」
辛籐の言葉がそこで止まった。
甘音が、無言でその身体を抱き寄せたからだ。
そこにもう余計な言葉は不要であった。辛籐は言葉を手放し、自らを包む熱に身を委ねる。
それから、天川甘音は力強く、それでいながら安らかに告げた。
「ありがとう。あなたも色々と思う事はあるだろうけれど、何にせよ自分の勝利を後押ししてくれる声が一つでもあるのなら、やっぱり嬉しい物だわ。大丈夫、わたしは勝つから……何が起きても、絶対に負けないから……だから安心して、ね?」
その言葉と、慈しむように頭を撫でる手の感触に、辛籐の気持ちをせき止めていたものは全て決壊した。
直後、辛籐空美は叫ぶように自分の感情を解き放った。甘音に気持ちをぶつけるように、自分の中の淀みを全て外に出すように。とにかく感情を溢れさせていった。
それからしばらくの間、辛籐は甘音の胸の中で、己の感情を外へと出し続けた。
甘音はあくまでそれを受け止めるだけで、それ以上は何もしなかった。何も、必要無いと思ったから。
むしろ問題はその後である。
辛籐が落ちついたら、彼女は自分がしでかしてしまった身勝手な感情の暴走に、また自責の念に囚われる事だろう。
だから、それをフォローする役も必要だろうと判断し、甘音はこれから辛籐と何処か落ちつけるところに行こうという算段を立てる。
しかし、自宅は駄目だ。
何故ならば、今、天川家は大変な事になっているからだ。
久々に帰ってきた甘太郎に煽られた甘菜が、久々に溜まりに溜まっていた怒りを解放し、今、全力で甘太郎を追いかけ回しているところなのだから。
事の発端は、今日の天川家の夕飯である闇鍋の時、甘太郎が中の食品を“反魂”の能力で復活させ、大量のゾンビを量産してしまったのに、甘菜が不快感を感じてしまった事にある。
そこから口論が始まり、最終的に甘菜は甘太郎を殺しにかかったというわけだ。
しかもエアミキサーをフル活用し、地上に大量の攻撃用エアミキサーをばら撒き、自分はプロペラ用のエアミキサーで浮遊し続けるという全力戦法まで取っているのだ。
甘太郎は、自分で自分に保険として反魂の力を注入してあるので、死んでも生き返る事が可能である。そこが、甘菜の全力を引き出した最大の理由であるだろう。
相も変わらず命が軽い世界だ。
なので、とりあえず甘音は代案を考えつつ、辛籐を優しく宥めていくのであった。
「ごめんね、不安にさせて……でも、絶対になんとかするから、安心して……」
ごめんね、という言葉。
こんな状況を作り上げてしまった天川甘音に、自責の念が無いわけではない。
しかし、やはり譲れない物があるのだ。
塩谷始音は気づいていない。自分がどれだけ過去に引っ張られているのかに。
もう動けない程固く拘束されているというのに、本人だけがそれに気づいていないのだ。
その呪縛から解き放つには、やはり料理しか無い。
料理で出来た傷は、料理で癒す他無いのだ。
塩谷に、もう一度料理を好きになってもらう必要がある。
そのためにまず壊すべきは意地だ。
そんな思惑があったからこそ、甘音はあんな条件で勝負を挑んだのだ。
天川甘音は譲らない。
だから、甘音は明日の闘いに向けての意気込みと共に言葉を吐きだす。
「勝つから……絶対……!」
こうして決戦前夜は更けていくのであった。




