決戦前夜 -僕の人生に初めて舞い降りたラブコメディ-
それは、遠い日の記憶。
無垢なる少年は、とある女性に恋をした。
女の子、ではない。女性だ。
具体的な言葉を用いて説明するのならば、まだほんの七歳程度だった少年に対し、その女性は二十代に突入していたのである。
ならばやはり、少年から見れば、相手は女の子ではなく女性と表現するのが適切であるだろう。
だが、そこまで年齢差があるという事実を少年は知らなかった。
何故なら、その女性はどう見ても十代前半程度の容姿であったからだ。
いつだって真っ白な服を着ていたその女性の身体は、枯れ木を彷彿とさせる程にか細く、まるで本当に肉が無いのではないかと周囲に思わせるぐらい痩せ細っていた。背だって相当低かった。
明らかな栄養不足。明らかな成長疾患。
その姿は、まるで死体のようであった。肌は生気の宿らぬ骨よりも白い純白。髪は枯れ草のようにくたびれた白髪。それでいながら骨の形がはっきりと確認出来る程の身体つき。
その姿を見た者は、皆例外なく「死」という単語を想起してしまうであろう。
女はまるで機械のように同じ言葉を繰り返す。
「おなかへった」
けれども、真に異常なのは「彼女は別に病気を患っているわけでも、虐げられているというわけでもない」という点にある。
それと、もう一つの異常もまた存在する。
それは、誰もが彼女の事を人間として扱っていないという点だ。
だが、だからといって、人間以下の存在として見下しているというわけではない。
むしろ逆だ。
その女性は、人間以上の存在として、周囲から半ば崇められるように祀りあげられていたのだ。
彼女を崇める層は、はっきりと言って異端だった。
全てを作った神よりも、作られた人間の方が優れており、また人間よりもその手によって作られた機械の方が優れているという考え方をもった不可思議な層だ。
その影響で、彼女は人を越えた機械として崇拝されるようになってしまった。
しかし、機械扱いされた理由はそれだけでは無い。
その女性自身にも「機械」と呼ばれるだけの要素が確かに存在したのだ。
それは、目。
万物を機械的に判別するような無機質な目。
それは見る人全てを畏れさせた。
だから、女性を機械と呼ぶ層が現れても、一切の反論が生まれる事が無かったのである。
それでも、機械は同じ言葉しか繰り返さない。
「おなかへった」
少年は、その機械に恋をした。
だから、痩せ、やつれた彼女に、なんとか美味しいご飯を食べさせてやろうと右往左往して、絶え間ない努力を続けていったのだ。
それが全ての解決になると信じ、ひたすらに前へと歩みを進めていった。
その努力が、その想いが、その時間が、全て無駄になるとは知らずに、ただただ無意味を重ねていったのだ。
その過程で、少年も徐々に人間らしさを無くしていった。
擦り切れ、抉れ、壊れ、元の姿すら保てなくなってしまったのだ。
まず、心が死んだ。次に、肉体が死んだ。最後に、魂が死んだ。
それでも、少年は消滅せずに生き残ってしまった。それはささやかな奇跡。
否。悲劇。
最後に残ったモノは、もはや元の少年とは言えないただの抜け殻だった。
天へと飛び立とうとした純白の翼だけが残り、他の部位はもう原形を留めていなかったのだ。
それを異形と呼ばずして、何を異形と呼べばいいのだろう。
その異形は、聖書に登場する天使に似ていた。
その天使にも似た「何か」は、もう一度天へと戻るために再度飛翔した。
すると、人間達から本当に「天使」と呼ばれるようになってしまった。
名実共に天使となった少年は、しかし、届かなかった無念を胸に抱えたまま、無意味で無価値な飛行を続ける。
そんな事をしていても、絶対に天界には戻れないというのに。
「おなかへった」
天使は、かつて救えなかった哀れな機械との出会いを忘れられない。
たとえ表層意識から記憶を消し去っても、深層に刻まれた傷は絶対に癒えない。
天使を束縛するその機械は、いつの間にか、いっそ舞台装置とも呼べる程大きな存在と化していた。
少年が好きだった、純白の女性。
その名を、マキシママキナといった。
「……夢、か」
塩谷始音は、自宅のベッドの上で、ゆっくりと瞼を開いた。
蛍光灯の電気は消えていて、目を開いても見えるのは闇だけだ。
白いパジャマを身に纏った彼は、たった今夢から覚めて、現実へと意識が戻されるところであった。
夢に見たのは遠い過去の記憶。つまり悪夢だ。
塩谷の身体は、寝汗でびっしょりと濡れていた。
胴体には温かくも柔らかな感触。どうやら愛用の抱き枕を抱いて眠っていたようだ。
しかし、塩谷の熱が伝播したのか、相当に暖まっていた。しかも、気持ちを落ち着かせる匂いを発するタイプの代物だったのにも関わらず、その匂いの質も少し変化してしまっていた。
別に臭くなったわけではないのだが、塩谷の感覚が狂ったのか、どういうわけか全然違う匂いしかしないのだ。まだ半分以上もまどろんだ思考で何度も嗅いでみるが、落ちつく事には落ちつくが、やはり質の違う匂いがしてしまう。しかも、ほんの少し汗の匂いも滲んでいた。
おそらく、寝汗のせいで抱き枕の匂いがおかしくなってしまったのだろう。
その事実に気が付き、塩谷はただでさえ優れない気持ちを更に沈ませる。
「……何で、こんな事に……」
無理した体勢で寝ていたせいか、下になった腕の感触が無くなっていた。
妙な抵抗を感じつつも、抱き枕の下部から腕を引き抜くと、腕の感覚が戻るまで軽く仰向けになる。
それから、ゆっくりと身体を起こすと、そこには薄暗い塩谷始音の部屋の風景が広がっていた。
必要な物以外は置かれていない質素な部屋。
目に付く物はベッドとクローゼットと学習机ぐらいだ。
カーテンは閉じられていて、部屋は暗いままだという状況を見るに、どうやら寝るつもりの無い時間帯に眠ってしまい、夜中に目が覚めたといったところだろうと塩谷は推測する。
塩谷は、緩慢とした動作でベッドから降り、微かに冷たいフローリングの床へと足を下ろす。
それから、部屋の端に置かれた学習机の上に置かれている携帯端末を手に取り、時間を確認する。
意外な事にも、まだ午後六時三十分であった。まだ夜になったばかりである。
だが、電源をつけた携帯端末の画面には、時刻以外にもメールの通知が表示されていた。
「……誰だろう」
塩谷は携帯端末を操作し、送られてきたメールを開く。
差出人は意外な人物であった。
「散葉ちゃん……?」
それは霜月散葉からのメールである。
送られてきた時間は、ちょうど午後四時頃であった。おそらく塩谷が寝ている時間帯だ。
そして、そこには驚くべき内容の文章が書かれていた。
携帯端末の画面には、シンプルな一文。
「今から遊びに行くから出迎えよろしくPlease!」と、そんなこと急に言われても困ってしまうような内容である。
塩谷は、そのメールが送られてきたのが二時間以上も前である事に気が付き、ひたすらに困惑を隠せなかった。
「えっ……? これは、どういう……?」
塩谷が寝ている間に何が起こったのか。
それを想像するのには、あまりにも情報が少なすぎた。
塩谷は、困惑しつつもひとまず電気をつけようと、部屋の入り口まで歩いていく。まずはそうしない事には始まらない。
だが、途中で何かが足に触れる感触があった。
闇に隠れて見えなかったが、何か柔らかい布の塊のような感触が足元にあったのだ。
その感触に、どことなく覚えのあった塩谷は、しゃがんでそれを掴み、よく見てみる。
「……えっ?!」
それは、暗闇であろうと見間違えようも無い物であった。
塩谷愛用の真っ黒な抱き枕。
それがどういうわけか床に転がっていた。
これはおかしい。明らかなる異常。
塩谷は起きた時すぐに、抱き枕の感触を確かめたはずだ。そして、その抱き枕を蹴飛ばした記憶は無い。
ならば、さっきまで塩谷が抱いたまま寝ていたモノは、一体何だったのだろうか。
塩谷の脳内は途端にパニック状態に陥る。寝起きの頭には強すぎる衝撃だ。
思考を纏めようとするが、どう足掻いても纏まらない。
塩谷は、とにかく自分が電気をつけようとしていた事を思い出し、動揺混じりの早歩きで部屋の扉の前まで行き、そして呼吸を軽く整えてから、蛍光灯のスイッチをカチリと押した。
明るくなる室内。
だが、塩谷はまだベッドの方を振り向けない。
ひとまず、心の中のスイッチを切り替え、普段は封印している超人的身体能力を全て使えるように準備しておく。
それから、警戒心を限界まで引き上げ、振り返る。
ベッドの上にある布団は、中に何かが入っているかのように膨らんでいた。
明らかに、抱き枕以上に大きな物が入っているようだった。
塩谷は、恐る恐るその膨らんだ布団に近づき、思いっきり布団をひっぺがした。
その瞬間。目と目が合った。
「うヴぇッ!?」
驚きのあまり、塩谷の喉から変な音が漏れる。
布団の中に居たのは少女であった。
それも、水色の兎柄のパジャマを身に纏った少女だ。
短いウェーブがかった銀髪に、ふんわりと気の抜けたような垂れ目。
身体付きは、中学生になりたてのような幼いもので、まだ女性的な要素が見え隠れしている段階であった。
そんな少女を、塩谷始音は知っている。
というか、実は途中からある程度察しはついていた。
だから、内心そこまで驚いていなかったのだが、しかしまさか本当にいるとは本気で思っておらず、実際問題、身体にある心臓は嫌になるぐらい早鐘を打っていた。
塩谷と目があったその少女は、横たわった姿勢のまま、とろけるようなだらしのない笑みでこう言った。
「おはよー、おにーさん。遊びにきたよー」
「ち……散葉ちゃん……っ!?」
塩谷はメールを見た時と同じ台詞を吐く。
霜月散葉が寝ている間に家に来て、何故か塩谷のベッドで寝ていたという衝撃的状況。
まるで、中高生向娯楽小説のような展開である。
それは、塩谷のこれまでの人生には一回も無かったようなイベントだ。
だが、そんなライトノベル的な展開に全く耐性の無い塩谷は、どうしていいかが全くわからなかった。
もう脳内は混乱し過ぎた挙句転覆しそうな勢いだ。
けれど、散葉はそんな塩谷の混乱などお構いなしに、寝そべったままの姿勢で言葉を続けた。
「んーっ、どうしたのー?」
「どうしたのじゃないよっ!!!! そっちがどうしたのだよッ!!!!?」
塩谷は、混乱をそのまま口から吐き出すのが限界であった。
これはあまり考えたくない事であったが、塩谷が愛用の抱き枕だと思っていたそれは、まさかの霜月散葉その人だったのである。
抱き枕だと思って手を回していたのは散葉の腰もとで、抱き枕だと思って匂いを嗅いでしまったのは散葉の背中だったのだ。意味がわからない。本当に意味がわからない。
いくら寝惚けていたとはいえ、すぐに気が付かなかったのが不思議なレベルの大事件である。
しかし塩谷は、よくよく振り返ってみても、寝息らしい寝息が聞こえてこなかった事を思い出す。
となれば、塩谷の中で新たな疑問が浮かんでくる。
「……散葉ちゃん。あの、いつから起きてた?」
「えーっと、何か背中に鼻のような何かが当たってるのに気が付いたと……」
「ごめん! やっぱごめんやめて! これ思いの外キツい!」
「あとねー、息を吸う、くんかくんかって感じの音がー……」
「だから待って! ごめん! 僕が悪かった! 悪かったから!」
塩谷は、頭を抱えて散葉に背を向ける。
塩谷の脳内では、もう既に悲しい過去を再生した夢の事なんて、完全に隅に追いやられていた。
今はそれどころでは無いのだ。
女子中学生とパジャマで二人、自宅のベッドで眠る男子高校生。
それも付き合っているわけでも無ければ、意図的にやったわけでもないという、本当によくわからない状況だ。
その上、結構力を込めて抱きついていた上に、背中に鼻をくっつけて相当匂いも嗅いだ。
それを意図せずやってのけたという凄まじさ。
もう何というか、ずっと行方不明だった幸運補正のようなものがようやく帰ってきたかのようである。
塩谷は、全くそんなわけがないのに、あたかもラブコメディのワンシーンのようになってしまった状況に頭を悩ませる。
「ど、どうしてこうなった……!? えっと、何処から聞いていいのか……! ああ、もう! とにかく!」
とにかく、どうしてこういう状況になったのかを、一から散葉に聞く必要があるだろう。
塩谷は、改めて散葉の方へと向き直る。
「あっ」
「……えっ!? あっ! ごめん!」
が、すぐにまた背を向ける。
塩谷が見た時、驚いた顔を浮かべていた散葉は、ちょうどパジャマのボタンを外している所だったのだ。
白みがかった健康的な肌が垣間見えた事を思い出し、塩谷の心臓はどんどん加速していく。
だが、すぐに何故そんな事をしているのかという疑問が浮かび、声だけで質問を飛ばす。
「な、何で脱いでんのォっ!?」
「だ、だって、着替えなきゃいけないし……ちょうどおにーさん後ろ向いてたし……すぐ着替えられると思ったから……え、えっと、そーりー……」
散葉の声色にはそれなりの動揺が含まれていた。
どうやら、あまり見られたくないという最低限の羞恥心はもっているようだ。
塩谷は、その事実に安心感と背徳感を同時に感じてしまう。
だが、着替えると言っても、何処にそんな服があるのかという疑問もわいてくる。というか、何故今着替えようと思ったのかという疑問も浮上してきた。
もっとも、そんな疑問よりも先に、塩谷はまず申し訳ない気持ちだけを声に乗せる。
「ご、ごめんっ! 本気でごめん! でも、だったら、脱ぐなら脱ぐって言ってよ!」
「えっ……? ええー……っ!? ……う、うん…………えっと、今、上脱いだところだよ……」
不満と混乱の混じった声、同時に響く衣擦れの音。
先ほど見た脱ぎかけの姿から察するに、散葉はパジャマの上着の下に何も着けていないようであった。
ならば、上のパジャマを脱いだという事は、上半身に何も纏っていないという事を意味する。
つまり、今のは上半身裸になったという報告である。
だが、そういう話では無い。塩谷はそういう事を言っているのではない。
塩谷は顔を真っ赤にして声を張り上げる。
「ちっがうよッ!!! 確かに“脱ぐなら言って”とは言ったけど、そういう意味じゃないよっ!!! 誰が実況しろって言ったのさ!? あーもう! なんかもうほんとにもう!」
塩谷の心はもう既にパンク寸前であった。いつ破裂してもおかしくない。
実は、次の日にはもう天川甘音との決闘が控えているのだが、そんな事実を気にしている余裕は今の塩谷には無かった。まるで無かった。
こんな特異な状況に巻き込まれたせいで、全てが吹き飛んでしまったのだ。
ただ、失礼ながら塩谷はこう思わざるを得なかった。何故、よりにもよって散葉なのだ、と。
こういった状況になるのには、もっと適任が居るのではないかという不満を抱かざるを得なかったのだ。
だが、そんな思考は速度を増した心臓の音に掻き消されていく。
決戦前夜。
本来、重要なはずのそのエピソードは、何故だかこんな奇怪な始まりを迎えるのであった。




