天地決壊 -刈り取る黒い光-
「「デウス・エクス・マキナ……!?」」
その異名を、甘太郎と殆ど同じタイミングで、三ヶ峰ファーストフード店に居る辛籐空美も口にしていた。
辛籐は、驚愕の表情を浮かべている。当然だ。その名前は軽々しく口にして良いものでは無いのだ。
癒葉はゆが、塩谷始音の過去について語った際に、突然出てきたその名前。
旨木嶋眞機無。
マキシママキナ。
それは人らしからぬ名前。それは人ならざる名前。
それは人の形をしているだけで、人間では無い存在。それは舞台装置の名前。
その名に、話を聞いていた他の四人も驚きを隠せぬようだった。
甘音、渋堂、詠華の真面目に話を聞いている層は元より、一歩引いて話を聞いていた甘菜まで、そのあまりにも強すぎる衝撃に呼吸を荒くしている。
塩谷の過去を、もうほぼ全部語り終えた癒葉は、視線を下に向けた俯き気味の表情で、やはり重苦しく告げる。
「そう。今話したその女の子っていうのが、実は、あの、マキシママキナだったの……」
沈黙。
マキシママキナの名に、まともに反応出来る者など居るわけがなかった。
それは畏怖すべき存在である。
まるで神々しき何かが降りてきたかのような、重々しい空気が満ちていく。
途中、治療のためにと無理矢理食事をとらされ、色々あった挙句、トイレで下着を取り換える羽目になっていた辛籐は、顎に手を当てて思考する。
その内容は、やはり今の癒葉の話についてだ。
今、癒葉が語ったのは塩谷始音の過去話である。
過去の純粋だった塩谷と、料理人になって死んだ目をしていた塩谷の間に、一体何があったのかという過去話。
それはあまりに空虚で、あまりに救いの無い物語だった。
辛籐空美に、重い話を聞く覚悟が無かったわけではない。
けれども、蓋を開けて出てきたのは、涙が出るような話では無かった。
ただ救えないだけの虚ろな物語。
今の話を聞いて何の後悔も感じない程、辛籐もまた心が成熟しきってはいなかった。
他の全員も同様に、何かを考えるように俯いている。
渋堂は真剣な顔で腕を組み、詠華は申し訳無さそうに目に涙を溜め、甘菜は居づらそうに視線を斜め下に向け、散葉は俯いたままピクリとも動かないで眠っていた。
天川甘音に至っては、話を聞き終わってからずっと顔を伏せ、沈黙を保ち続けている。
これがまだ、悲しい過去話で済むのならば問題は無かった。
しかし、この悲しくも無い、ただ虚しいだけの物語は今も尚続いているのだ。
塩谷始音は、遥か昔からずっと傷つき続けているという事になる。今も尚。
傷は、癒える事無く、毒のように塩谷の心を蝕んでいるのだ。
辛籐は、深い溜息を吐き捨てる事でしか、その重苦しい想いを解き放つ事が出来なかった。
「……正直、わかりませんね。私には、今の話をどう受け止めていいのか、まるでわかりません……」
「そ、そうデズわ゛ね……も、も゛う、ア゛タグシ……どうじたらい゛い゛か……」
同意する詠華の声は鼻声だ。
もう油断すれば涙が溢れ出てしまいそうである。
というか、ハンカチで随時拭かれているだけで、涙はとっくに頬を伝い地に落ちていた。
何故、関わりの薄さでは一、二を争うお前が泣いているのだという突っ込みは無い。
その涙の理由を、辛籐空美は知っている。
霜月詠華は、昔、気弱だった少女だ。そして、その本質は今も変わっていない。
新しいキャラ性を模索して、迷走しているだけなのだ。
だからその本質は、未だ心優しく、感受性豊かな少女のままなのである。
つまり同情だけで泣いている。
詠華の純粋な涙に、場の空気が一段とまた重くなった。
渋堂が、無言で詠華の頭を軽く撫でるが、その空気はまるで緩和されない。
むしろ、そんな渋堂の方を見た甘菜が複雑な表情を浮かべてしまい、逆に空気が重くなってしまっている。
何にせよ、様々な要因で、場の空気は信じられない程の重さを誇っていた。
癒葉は、そんな重さを締めくくるように、またしても場に似合わぬ笑みを浮かべて、こう告げた。
「はいっ、というわけでお話は終わりっ! さあさあ、みんな、そう暗い顔はやめて、いつも通りオンちゃんを迎えてあげましょう!」
癒葉の笑顔にも多少無理があるように見えたが、しかし、露骨に暗い反応を見せつけられた場合の塩谷の心情を察し、辛籐も何とか平時の顔を浮かべようとする。
他の面々も、粗方そういった空気を醸し出していた。
だが、天川甘音だけは、ただ唯一ずっと下を向いたままであった。
しかし、もう全員、それに触れられるだけの余裕をもっていなかった。
誰も彼もが、何とかして、自分の心に圧し掛かった重さを緩和させようと必死である。
冷静に詠華の頭を撫でている渋堂でさえも、神妙そうな顔を噛み殺そうと苦心しているのが見て取れた。
そして、そんな微妙な空気感が充満し始めた頃、ようやくその声が聞こえてくる。
「やあ、ただいま」
全員が一斉に声をした方を見ると、そこには塩谷始音が立っていた。
相も変わらず特徴の無い顔立ちと、ストレートヘアーを真っ直ぐおろしただけの平坦な髪型。それと、真っ黒な高校の制服。
全体的に特徴らしい特徴が欠けている少年の姿がそこにあった。
その異質さに、辛籐は今更ながら気がつく。
本来、人はそこまで無個性にはなれない。たとえ、目立たない地味な学生が居たとしても、それは「地味」という個性がある事に他ならないのだ。どんな人間だろうと、完全なる無個性な見た目など探すほうが難しいのである。
だが、塩谷は本当に引っかかりの無い容姿であった。
考えてもみれば、おかしな話だ。
これだけ高名な料理人の見た目が、ここまで特徴が無いというのは、どう考えても何か変である。
何故なら、特徴が無いと言われている人間の大半は、ポジションや性格のせいでそういう風に見られてしまっているという事が多いからだ。
けれども、塩谷はどの角度から見たところで、立場や性格に印象が引っ張られるような立ち位置には居ないのである。
つまりは、純然たる無個性。
それは言いかえれば、個性を殺しているとも言える。
そんな思考に気を取られ、辛籐は咄嗟に言葉を返す事が出来なかった。
他の面々もそのようである。
しかし、一人だけ例外が存在した。
「ねえ。始音くん」
顔を伏せた天川甘音が、やけに平坦な声を発した。
普段、喜怒哀楽をそのまま表現する甘音にしては、明らかに異常な声色だ。
だから、その場に居た者達は皆、何も言う事が出来なかった。
そこにあるのは、困惑の感情によって生まれた硬質化した空気。
来訪者である塩谷も、ほんの少し表情に驚きの色を滲ませるだけで、何も言えていなかった。
生れし沈黙。
沈黙による支配。
天川甘音は、ゆっくりと柔らかに、その甘い声を繋げて言葉にしていく。
「全部、聞いたわ」
その言葉に、また、その場にある十の目が一斉に見開かれた。
先ほど、癒葉がこの話はそこまで意識しないようにと言った直後なのに、それを真っ向から否定するような言葉を放ったのだ。こうなるのも当然である。
大きすぎる衝撃。
だが、それを受けた塩谷の反応は意外に穏やかであった。
「へえ。どうだった?」
「救いの無い話、だと思ったわ。だけど、だからこそ、わたし思ったの」
天川甘音はそこで言葉を切り、天を指すように指を掲げ、一気に振り下ろす。
その行動に、全員の嫌な予感が集中する。
だが、甘音は気にせず口にする。
真っ直ぐに、射抜くような目で塩谷を貫きながら、同じく真っ直ぐな言葉を放つ。
そこに余計な装飾は一切無かった。
それは剥き出しの、裸の言葉。
「始音くん、あなたはやっぱり、料理人に戻るべきよ」
それは、ここに居る大半の人間が望む事でもあった。
しかし、それをこのタイミングで口にしようとは、誰も思わなかった事だ。
けれども、甘音は絶対に揺らがぬ意志を声に籠め、あろうことか本人に対して言い放った。
その暴挙に、周りはついていけない。
この女は何を考えているのか、そんな疑問しか浮かべる事が出来ない。
塩谷も、口を開けてぽかんと立ち尽くす。
だが、すぐにその言葉を咀嚼し、呑みこんでその意味を理解する。
そして、変貌した。
塩谷は、目を死んだような黒へと染め、口元を醜悪に歪めて首を傾けたのだ。
それはまるで、生者が屍者へと変貌したかのようだ。
甘音は動じていないようだったが、塩谷はそんな事実などまるで無視して、生き物らしい抑揚を一切もたない冷めきった声を発した。
「何、言ってんの?」
「言葉のままの意味よ。多分、いいえ、絶対。あなたは、ここで料理をやめてしまったら、一生後悔する事になるわ」
「何だ、その説教。だいたい、天川照真の時はやむを得なかったけど、僕は一番最初に言ったよね。悪いけど、僕はもう料理はやめたんだ、って」
それは、天川甘音が塩谷始音に料理を教わろうとした時、塩谷始音が返した始まりの言葉である。
無論。そんな事は甘音も理解しきっている。
その上で、彼女は自分の意志を貫こうとしているのだ。
だから、料理をやめたといくら言っても無駄だ。通用しない。
そもそも、こんな言葉で説得できるのならば、今のHelleNは出来ていなかった。
だから、塩谷は更に言葉を続ける。
「そもそも、僕は料理そのものに関わりたくないっていうのも言ったよね。今まで、何だかんだ僕も甘かったけど、もう限界だ。ここらできちんと宣言しておく必要があるね。いい? 僕は、今後一切料理なんてしない。料理人になんて戻らない。……これは、覆らない僕の想いだよ」
塩谷は言葉に言葉を重ねる。
自分の意思を重ね、そのまま甘音の意見を圧殺するつもりだ。
しかし、それに対する天川甘音の対応はシンプルそのものだった。
ただ、己の底知れぬ何かを秘めた目に、一直線に想いを乗せ、意志の矢を解き放ったのだ。
よける間もなく打ち抜かれた塩谷は、つい反射的に視線を逸らしてしまう。
その隙に、甘音は一気に踏み込んだ発言を叩きこむ。
「本当にいいの、始音くん?」
それは、塩谷が築き上げてきた心理的外壁に、衝撃を与えるような一言だった。
塩谷は、そのダメージを分散させるような回避の言葉すら浮かばず、直撃を受けてしまう。
古傷から直接心に入り込んだ言葉は、塩谷の魂を直に震わせる。
シンプルながら、意志の籠った一撃は塩谷の心によく響いた。
まるでボディブローのような破壊力。じわりじわりとダメージが増幅していくという点も同一だ。
弱い精神力の持ち主ならば、ここで諦めさせられる程の攻撃力だ。
しかし、塩谷はそこから何とか気持ちを立て直し、すぐに反撃に走る。
それは明らかなる強がりの言葉。
「ああ、構わないよ。だって、もう過去の話だ。別に、僕はもう気にしてないし」
だが、それは取り繕いの言葉であるせいで、守りは明らかに手薄である。
そして、そこには大きすぎる弱点が存在しているのを、甘音は見落とさなかった。
甘音は、再度視線に力を籠めて塩谷を見据える。
しかし、今更、視線程度に後れをとる塩谷でも無い。
輝きの籠められた瞳に、塩谷も死んだ目で対抗する。
拮抗する視線。眼力は互角だ。
けれども、それも長くは続かないだろう。甘音が後もう一押しすれば崩れる程度の危うい均衡だ。
だから、甘音は言葉を放つ。
この均衡を破る、大ぶりな一撃を。
「だったら、何で……始音くんは、そんな悲しい顔をしているの……?」
「は……っ!?」
塩谷の目に一瞬だけ出現した悲しみの色を、甘音は見逃さずに記憶していた。
そして、それをピンポイントで穿つ、精密射撃にも似た口撃を放ったのだ。
隙をついた見事な脆弱部一点突破技術。
それは塩谷の心に弾痕を刻み、大きく怯ませる。
今の塩谷の弱点は、感情論だ。
臆病な理屈は、一撃突破の感情論に弱い。
理屈系の口撃は、勢いなんぞに負けない強固な魂があって、初めて感情系の相手にまともなダメージを与えられるのだ。だが、そんな硬い魂は今の塩谷には無い。
つまり、今の天川甘音と塩谷始音は、極端に相性が悪いのだ。
優位は甘音にある。
だから彼女は、この流れを保ったまま決定打を打ち込む。
「始音くん、お願い。あなたの心を癒せるのは、もう料理だけよ! たしかに、それでまた傷が増えるかもしれない……でも!」
「わかったような口を利かないでよ」
だが、甘音渾身の一撃はかわされる。その上で、甘音は次の一歩を踏み込めなくなる。
回避と封殺。
今のは塩谷の妙手だ。
過去の己の感情をもちだす事により、相手と自分の心の距離を大きく引き離す、強力な回避技。
自分の想いは自分しかわからないという理屈を振り翳す事により、相手の同情心の薄さを強調する乖離属性を伴った発言。感情と理屈の複合系の大技。
それは、今の甘音の感情系一本の語彙を大幅に削るという効果まで発揮し、再び二人の心の距離は会話開始地点へと戻される。
しかし、それは塩谷が意図的に開かせた間合いだ。この距離は、塩谷の優位な距離だ。
だから、塩谷はその絶妙な距離感を保ったまま遠距離系の口撃を放つ。
「だいたい、天川さんは僕の何がわかるっていうのさ。……ただの一年足らずの付き合いなのに! 僕の気持ちなんか知らない癖に! 何も分かって無い癖に! 好き勝手言わないでよ!」
どんどん距離を広げながらの遠距離射撃。
距離をおいているため、狙いは正確では無いものの、これで甘音は距離を詰められない。
多少強引な手を使わない限り、甘音の用いる感情論系の口撃は遠距離攻撃が出来ない。たとえ出来たとしても、殆ど威力の無い弱々しい口撃になってしまうのだ。
その点、いざとなれば根拠を用いた理屈系の補助的根拠を付加できる塩谷の方が、遠距離戦においては優位である。
しかも、天川甘音の口論用全語彙は、殆どが近接一撃特化系だ。
対し、塩谷始音の口論用全語彙は、大概が距離をおいて使うものばかりだ。
遠距離を保っている限り、塩谷の優位は揺らがない。
相性を活かした連続口撃。多撃必倒。
塩谷は、とにかく距離を詰められないようにしながら、とにかくまともな威力をもたない遠距離感情論の砲撃を放ちまくる。その横で、すぐ出撃できるように高威力の理屈弾もセットしておく。
後退しつつの弾幕口撃。
だが、それに対して、ただやられているだけの甘音でも無かった。
「いえ、わかるわ。だって、時間は短いけど、わたしと始音くんの付き合いはそんなに浅く無いものっ!」
一気に距離を縮められる。
やはり感情論系の口撃は、甘音の方が一枚上手だ。
思い出による精神的急接近。突発的加速。
それは塩谷の張った感情論の弾幕を易々と突破し、逆に己の間合いの中へと侵入していく。
このままでは突っ切られる。
そう判断した塩谷は、咄嗟に脳内に展開した手札の中にあった感情爆発系の口撃で、再び距離を取ろうと考える。
思考は一瞬。それから発動までも一瞬。
合わせて二瞬。その隙が、命取りになった。
何故ならば、塩谷が己の感情を爆発させた一言を放とうとする寸前に、それを軽く抑えつける柔らかな声が甘音の口から放たれていたからだ。
それは、爆発系の口撃を封殺する優しい声色。
「見て、始音くん。わたし達の距離は、そんなに遠くないわ」
そう言って、甘音は椅子から立ち上がって、塩谷の手を両手で優しく包む。
まさかの物理的直接干渉だ。
今度は塩谷の口論用全語彙が、その効力を失う番であった。
塩谷の用いる感情論系の口撃は、基本的にあまり想いが伴わない軽い一撃だ。その真価は、複数回当てながら距離を取る事によって初めて発揮される。
だが、こうして物理的な距離感と共に精神的な距離感を縮められては、もうどうあがいても距離を稼ぐ事は出来ない。
現実の身体を用いた拘束兼使用語彙制限。
これを回避するには、自分も同じく身体を動かす必要がある。
塩谷は、咄嗟に甘音の手を振り払おうとする。
が、思いの外強く握られていて、どう頑張ってもその暖かな感触は離れそうにも無かった。
むしろ、物理的に一歩踏み込まれ、更に逃げられなくなる。
身体の密着。近寄る顔。
塩谷を捉えて離さない、目。
これは、感情論系が最も効果を発揮できる特異的状況が生成された事を意味する。
ここまで近ければ、表情や微量な感情の推移の誤魔化しが利かなくなる。相手の顔が互いによく見えるからだ。要するに、単純な回避行動が取りづらくなり、お互いに弱点が露呈しやすい状態になるわけだ。
つまりは剥き出しの感情のぶつけ合い。より意志が強い方の勝つ殴り合いだ。拳の代わりに言葉を用いた殴り合い。
こうなってしまえば塩谷に勝機は無い。
だから塩谷は、先ほど不発した爆発系の口撃を再度発動させる。
「五月蠅いッ! いいから離れてよっ! こっち来るな放せーーーーーーーーーーっ!!!!」
しかし、追い詰められたせいか感情力が足りず、ただの悪あがきにしかならなかった。
こうなったらと、塩谷も覚悟を決めざるを得なくなった。
この至近距離での口論ならば、結局のところ求められるのは意地だ。
いくら寝技系の闘いになるとはいえ、そこにも塩谷が闘える余地は残されているというわけだ。
意地に関してなら、塩谷もかなりの意地っ張りなので、勝機は見えなくも無い。
塩谷は、強い意志を両目に宿して甘音を見る。
だが、甘音の眼には、恐ろしいまでの感情が渦巻いていた。
それを見た瞬間、塩谷は思わず自分が言い負かされるところまで想像してしまう。
そこで、塩谷の抗戦意思は一気に下降する。
その隙は、天川甘音を相手にするのには、あまりに大きすぎる隙だった。
畏れる塩谷。
甘音は精神的な距離を一気に詰め、言葉という名の刀を、脳という名の鞘から解き放つ。
抜刀。
「始音くん。あなたは、まだやり直せる……あなたのその過去は、決して無駄じゃない!」
一刀両断。
今の一撃で、塩谷の精神的体力は、一気にその数値を減らしていった。
ここで塩谷は気がつく。
甘音が、何度も何度も「始音くん」と、その名前を呼び続けていた事に。
これは、言ってしまえば精神的間合いを縮めるための一歩としての効果をもっている小技だ。話術における擦り足的技術。
塩谷は、知らぬ間に距離を縮められていたのだ。
単純威力プラス至近距離プラス防御力低下分の精神的苦痛が、塩谷を襲う。
減少していく精神的体力に、塩谷は気持ちを委ねようとする。
だが、すんでの所で踏みとどまり、意地による補正のかかった一撃を喉元に装填する。
塩谷の眼は、再び奈落のような闇色に染まっていた。
口元は、もちろんにやけ気味の不気味な笑みだ。
「五月蠅い。君には、関係無いだろ」
それは決裂の一言。
その言葉は、同時に場外乱闘を意味していた。
たとえこの口論で負けても、相手の思い通りには絶対ならないという意地。それをはっきりと口に出してしまったのだ。
つまり今のは、徹底抗戦するという意志表示。
それと、遅れてやってきた「自分の過去をさっき知ったばかりなのに知ったような口をきくこの女に対しての怒り」が、塩谷の内側で燻っていく。
塩谷は、心の内燃機関を再燃焼させ、未だ揺らがぬ甘音と視線を正面衝突させて、またしても向かいあう。
「何があろうと、僕は料理界には戻らない。何度も言うけど、今まで何度か料理してあげたのは出血大サービスなんだよ? むしろ、感謝して貰いたいぐらいだね。でも、それももう終わりだ。ここまでしつこく催促されたら、流石の僕も限界だ……いいかな……」
塩谷は、今まで何度口論になっても、絶対に使わなかった手札の封印を解き放つ。
それは、実はある時から使用可能になっていた手札であるが、塩谷はあえてその存在を無視していたのだ。
今が楽しいから。これで満足だから、と。
しかし、ここまで嫌な事を強要されるぐらいなら、塩谷はその手札を使わざるを得ないのだ。
それは、天地決壊の爆弾。
これまで積み上げてきたモノを崩壊させる、文字通り最後の切り札。
最終戦争のスイッチは、今まさに押される。
塩谷始音は、思い出を一瞬思い浮かべ、それらを全て何も無かった純白へと消し去っていく。
そして、ただの少年に戻っていた塩谷は、ここでまた、天使として再誕するのであった。
天使は、黒い眼で告げる。
「これがこれ以上続くなら、僕はHelleNをやめる。言っておくけど、これは本気だ」
それは、そっと成り行きを見守っていた者達をも驚かせる一言。
その中でも、ひときわ大きな反応を示したのは辛籐空美だ。
辛籐は、その鋭かった目を限界まで大きく見開き、塩谷に対して複数の感情が入り混じった視線をぶつける。
「始音さん……それ、本気、ですか……?」
その言葉に、天使は答えない。
否。これはもはや天使では無い。
何故ならば、この存在には飛べるだけの翼も無く、だからといって俗世から離れた潔白さをもっているわけでも無いのだから。これを、とても天使とは呼べない。
だからこれは、言ってしまえば「天使のなれの果て」だ。
一度地上に降りて、天使ですら無くなってしまったこの少年は、人にもなれず天使にもなれず中途半端なまま、ただただ存在しているだけなのだ。
それはもうただの抜け殻のような存在だ。
そんな天使のなれの果てに対し、甘音はそれでも砕けぬ瞳で対峙する。
「本気って言っている以上、本気なのでしょうね。いいわ。始音くん、あなたの意思はよくわかった。わたしも譲る気は無いけどね。でも、あなたなら、わたしを完全に沈黙させる方法を知っているはずよ?」
それは挑発の言葉。
だが、それさえ用いれば天川甘音を完全に沈黙させられる禁断の一手が、確かに存在するというのは事実だ。
塩谷は、その言葉を手札に加える。
それは崩壊の序曲。
天と地が大きな音を立て、今、世界は崩落の日を迎えようとしていた。
世界最後の日は唐突に訪れる。
甘音の提案は、塩谷の信念には反するものだ。
だから、塩谷もじっくりと考える。間違えないように。
が、答えなど、最初から決まっているも同然だ。
何故ならば、まともに考えて、ここまでして結果が塩谷の思い通りにならないわけが無かったからだ。
塩谷は、その選択肢に誘導してきた甘音に憤りを感じながらも、それを強い笑みで上書きしてから、挑発に対する返答を行う。
「なるほど。でも、君の言うとおりにしたら、結局僕はまた料理をしなくちゃいけなくなるけど……ま、こないだの天川照真戦である程度吹っ切れたっていうのもあるしね。いいよ、あえて乗ってあげるよ」
先ほど霜月詠華と料理対決をしそうになっていた事をすっかり忘れている塩谷は、虚無的な白さに満ちた表情で、続く言葉を解き放つ。
それはもう、後戻りできない言葉。
だが、塩谷はそれを淀みなく告げる。
「ああ、料理対決で勝負だ……真上から、骨まで砕ける程に、叩き潰してやるよ」
それはいつもの勝利宣言。
けれども、籠められている気迫が違った。
その気迫のせいか、店内に変化が訪れる。
まるで世界が怯えているかのように、店内なのにも関わらず、強い風が吹いたという錯覚。
そんな不気味な錯覚が、多くの人の意識に介入してきたのだ。
それは、塩谷の放つ殺気が、多くの人の感覚に干渉して異常を引き起こしているから、起きてしまった現象だ。
三柱天使、塩谷始音。
その「天使のなれの果て」は、天川甘音に宣戦布告を叩きこんだ。
そして、もちろん、それを受けない甘音では無い。
「受けて立つわ。でもね……」
甘音が言葉を切って、両目を閉じた……その瞬間。
今まで眠っていた天川甘音の真の才能が、開花した。
天川甘音、完全覚醒。
支配発動。
世界が変質していく。
塩谷の殺気によって不穏になっていた空気が、一瞬で霧散する。
そして、それと入れ替わるようにして、とある感覚が店中を支配した。
その直後。塩谷を含めた、店に居る全ての人間が心の中に芽生えた「とある感情」に支配され、身動きさえも取れなくなる。
殺気。だなんて生易しいモノでは無い。
威圧感。という表現すら軽い。
それは、生きとし生ける者全てに死を想起させる原初の感情。
それは、世界を根底から揺るがす程の圧倒的感情。
その名を、恐怖。
どんな人間でさえも、その根源的感情には抗えない。
塩谷は、心の奥底で芽吹いてきたその感情を客観的に認識しながら、何とか倒れぬよう意識を保って天川甘音を見据える。真正面から。真っ直ぐに。
だが、そんな覚悟もこの地獄盟主の前では無為に等しかった。
「……いい? 始音くん……」
天川甘音は両目を開く、そこにはとても理解できない程の感情が爆ぜまわっていた。
闇。黒い炎。漆黒の光。
あまりにも強すぎて、その色さえも認識させない眼光。
天川甘音の「刈り取る眼」は、覚悟を決めた塩谷始音でさえも心の底から怯えさせる。それは、かつて天川照真を恐れさせた感情しか無い眼。
地獄を体現したようなその眼に、塩谷の抗戦意志は徐々に刈り取られていく。
塩谷の脳内に展開するのは、自身が敗北するかもしれないという無数の可能性。ありとあらゆる負の未来が脳内を所狭しと駆けまわっていく、頭が割れてしまいそうな程の強烈なイメージ。
嫌な汗が止まらなくなり、呼吸をするのすら難しくなってくる。
塩谷は、目の前に居る天川甘音に恐怖を隠しきれない。
だが、追撃をかけるかのように、甘音はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「簡単に勝てるとは、思わない事ね」
重力が何倍にも膨れ上がったかのような莫大な負荷が、今ここに存在している“全て”を押し潰しそうになった。
ここで、天川照真戦を知る人間、その全員が思い至る。
あれほどまでに圧倒的な強さを誇っていた天川照真が、何故か天川甘音の前でだけは、何かに怯えるように視線を逸らしたり一歩引いたりしていたという事実に。
その答えが、今ここにあった。
あの時は味方だったが、塩谷は正面から敵対して初めて気がつく。当時、天川照真がどれだけのプレッシャーを背負わされていたかを。
天川甘音は、世界を覆い尽くさんばかりの意志力で、ありとあらゆる存在、有象無象を支配していた。
支配、しきっていた。
「わたしは、絶対にあなたに勝つ方法を見つけてみせる。無理なら、強くなってみせる。絶対に、何があっても絶対に、あなたを倒す。始音くんが……真上から殺しに来るというのなら、こっちは真下からでも追いすがってやる!」
その文字一つ一つに言霊が詰まっているかのような重さに、塩谷は危うく潰されそうになる。
が、相手が格下という事を思い出して何とか踏みとどまった。
辛うじて繋がる意識。しかし、何とか耐えきった。
けれども、このままでは精神的に押されたままだ。
だが塩谷に、こうして負けたまま帰るつもりは毛頭無かった。
ここで逃げたら、この時の負けたイメージがこびり付いたまま離れなくなり、むしろ増幅して心を押しつぶしかねない。それだけは避けねばならないのだ。
塩谷は、甘音に対抗できるだけの強い意志はもっていない。故に、ここで追い詰められるのは半ば必然である。
だから、塩谷はいっそ全てを空っぽにする事にした。
今までの自分を作り上げてきたあらゆるモノを消し去って、まっさらな純白の心で対抗するのだと決めたのだ。
それから、塩谷は脳内にあるほとんどの思い出を、心の中の白い消しゴムで次々と消し去っていった。
消すのは記憶そのものではなく、そこに込められた感情である。
躊躇いなどあるわけがない。元より、塩谷は空っぽなのだ。だから、そんな付け焼刃の想いなど全て消し去っても構わないのだ。
だが、その時、意図的に辛籐や散葉、渋堂の方は見ないようにする。
そうでもないと、消しきれないかもしれなかったからだ。この悪鬼……否。死神を前にして迷いは命取りだ。
恐らく消去は一時的なものになるだろうが、それでも今、甘音にだけは負けないよう空っぽにならなければいけないのだ。
だから、消す。消す。消す。
完全に消す。全て。消し去る。
心の消しゴムは徐々に全てを白く染めていき……
そして、全てが純白になった。
高速作業はすぐに終了し、ついに塩谷始音は天使のなれの果てとして覚醒する。
「……いいよ。天川さん……」
もうその目には何の感情の色も浮かんでいない。
光。白い靄。純白の闇。
それは純然たる空虚さしか含まれていない、虚ろで何も見てない眼。
塩谷始音の「天から俯瞰する眼」は、天川甘音の強い視線を真っ向から受け止める。それは、かつて渋堂我竜を恐れさせた感情の無い眼。
天界から見下ろすようなその眼は、甘音の意志さえも全て呑みこんでいく。
もう塩谷の心は傷つかない。何も考えなければ負のイメージなど簡単に押し殺せる。それは、何も得ない空虚な存在となった今だからこそ可能な芸当だ。
絶え間なく流れていた汗は止まり、思いっきり呼吸する事だって出来る。
天川甘音の呪縛を、塩谷始音は完璧に破ったのだ。
塩谷は、何の感情も籠っていない声で、告げる。
「お互い全力を尽くして潰し合おう。どうせ、最後だしね」
最後。
そう、ここで塩谷が勝てばそれでもう終わりだ。
それに対し甘音は、言葉の前半部分に対してのみ肯定の意を示した。
「ええ、そうね。でも、始音くん。どうして自分が勝つ前提で話を進めているのかしら?」
「だって、どうせ最後に勝つのは僕だしさ」
「いいえ、勝つのはわたしよ。忘れないで」
ぶつかり合う、黒い光と白い闇。
地獄を背負いし生まれたばかりの死神と、天界を背負いし天使のなれの果て。
世界は二つに分け隔たれた。
地面の“真下”にある死後の世界と、空の“真上”にある死後の世界は、ついに正面衝突する。
もうそこに、多くの言葉は不要だ。
二人は、頭と頭をぶつけて意志を激突させる。
そこに宿るのは異なる概念。有と無。黒と白。光と闇。地と天。
けれど、言葉は両者共に同じ。
「「絶対に、倒す……!」」
天地が、割れた。
HelleNは再び、HeavenとHellに分離する。
文字通りの、天変地異。
こうして、塩谷始音と天川甘音の対決は実現した。
後はもう、何を話そうとこの事実だけは絶対に揺るがない。
不可避の戦争。
それが今、可決されるのであった。
霜月散葉が寝ている間に、全てが決まってしまった。
だから、散葉が眠たげに眼をこすりながら起きた時には、もう既に皆がそういう空気だったのは言うまでも無い。
「あ、おはよー……」
もちろん、それに反応する声は無かった。
何はともあれ、お互いの気持ちをぶつけ合った塩谷と甘音は、最終的にルールの指定だけはしておく事にした。
数人の意見も混じって決まったそのルールは、奇しくもデュエルルールだった。
デュエルルール。それは全国で二番目ぐらいに慣れ親しまれている基本的な試合形式だ。ルールはシンプルで、ただお互い同時に料理を作り始め、出来た順に食べて貰うという形式だ。ただし、品目はお互い同じものと指定されているため、自由度は少ない。
ここで重要視されるのは、早さだ。これはただ単にスピードがある方が有利というわけではなく、先に食べさせて腹を膨れさせるか、もしくはゆっくり作って完成度を高めるかなど、完成までの速度が絡む駆け引きが発生するという試合形式なのだ。
それは、塩谷がHelleNに来て、初めて料理対決に臨んだ時のルール。
その闘いを通して、三人は本格的に打ち解けたのだ。HelleNの絆を作った料理対決。ある意味では始まりの闘いと言っても良いだろう。
これは、終わりを告げる闘いの舞台は、始まりの舞台こそが相応しいという天からの啓示だろうか。
だが、今回は最初の時とは異なり、食材は試合日時までに各自用意の形となった。
これで駆け引きの要素が強まる。
後は、ほとんど以前と同じだ。
品目指定有り。品数自由。調理中の妨害行為有り。味見有り。食柱毒の使用有り。
妨害行為が許可されたのは大きい。これによって、あらゆる戦略の幅が広がる事であろう。
判定方法は、複数の審査員が双方の料理を食べた後、優劣だけを判断するという形だ。
ちなみに、デュエルルールは同じ料理を作らなくてはいけないが、同じテーマでも良いと言われている。
今回はテーマとなり、なんとそのテーマは「お互いの最も得意とするジャンルの料理」であった。
曖昧だが、今回ばかりはこれぐらい自由度があっても許されるだろうという最終決定だ。
何はともあれ、これで闘いの舞台は整った。
塩谷始音と天川甘音の闘いが始まる。
それは、今までありそうで無かった対戦カード。
その結末は、誰にもわかりはしない。
決戦は、数日後。
舞台は、非公式戦なので、当日一度集合してから、甘音の指定した場所へと向かう手筈になっているそうだ。
天地戦争の結末は、そこにある。
それまで、塩谷始音は平和な日常を謳歌する形となった。
ファーストフード店から帰宅して以降、意外な事に目ぼしい変化は何も無かったのだ。
とても決闘が控えているとは思えない平和な日常。
その間、シフトの都合で塩谷がHelleNに出る事は無かったので、とくに甘音や辛籐、散葉と顔を合わせる事も無かった。本当に平坦な日常。
だからこそ、天川甘音がその間に、どれだけ大きな行動をとっていたかのかに全く気付けない。
とある日。
天川甘音は、とある人物の前でこう言っていた。
「……今、わたしがこんな事を頼むのも随分と都合のいい話だけれど、それでもどうしても勝ちたい相手がいるの……」
それから、天川甘音は続けるように告げる。
それは、彼女がかつて塩谷始音にした頼み事と同一のもの。
「だから、お願い……わたしに料理のコツを教えて……」
一拍。
続けざまに放つのは、頼み込んでいる相手を呼ぶ言葉。
「……父上……!」
こうして、天川甘音は前へと進んでいく。
対し、塩谷の元へ訪れるのは変化の無い日々。
動と静、対照的な日々。
変わる日常と変わらぬ日常。
甘音が何をしていようが、塩谷の生活には何の支障もきたさない。
だから何も起こらない。
塩谷はそんな日常を満喫し、どんどん時間が過ぎていくのを、優れぬ思考で辛うじて認識するのであった。
そして、変化が起こったのは決闘前日の夜になってからだった。




