忍之矜持 -そして真実は語られる-
数分が経過して、裏側から私服姿の癒葉が戻ってきた。
癒葉は、全身を包むようなサイズの、縦線の入った淡い色合いのセーターを身に纏っていた。それが、先ほどまでとは違って結んでいないふわりとした髪と合わさり、隙の無い調和を生み出している。
こうして、店長直々に仕事を終えさせられた癒葉は、甘音達の案内のもと、ちょうどあいていた辛籐の正面の席に座らされる事となった。
全員が食事する手を止め、改まった態度で沈黙する。
そんな状況が出来あがってから、癒葉は笑顔で話し始めた。
「改めまして、癒葉っていいます。ところで、これは何の集まりなのかな?」
本当に今更ながらの質問であるが、先ほどまで状況が荒れていたので仕方なくもある。
しかし、この質問には全員が言い淀んだ。
これがHelleNの四人だけならば問題無かったが、渋堂組に関しては関わり方が複雑である。
だが渋堂我竜は、肉が何枚も挟んであるハンバーガーを豪快に齧りながら、これを呆気なく説明してみせた。
「俺の仲間と、塩谷の仲間が、たまたまここで会って合流したっつー流れだ」
単純明快。
これには癒葉以外も納得の声を上げる。
ちなみに渋堂の手元には、今彼が持っているハンバーガーと同じサイズの包み紙が、三つ置かれていた。その横に置かれているコーラのサイズは一番大きなものだ。
渋堂は、そのコーラの入ったカップを掴み、上につけられている透明なカバーを取り、説明はこれで終わりだと言わんばかりに豪快に傾けて、氷ごと口内に流し込んでしまった。少しして、ぼりぼりという咀嚼音が響く。
それから辛籐が続くように、癒葉へと言葉を投げかけた。
「それで、癒葉さんは結局のところ、始音さん達とどのような関係なのでしょうか? なるべく省略しない長話を聞きたいのですが……」
これもまだ明らかになっていない点であり、塩谷と渋堂の過去に関してはこの場にいる全員の興味の対象なので、無言の好奇心が一斉に癒葉の元へと殺到する形となる。
だが、ここでそれに抗う声もあった。
塩谷始音である。
「ごめん、悪いけど、僕はトイレに行くから」
もちろん話が終わるまで逃げるつもりである。
塩谷のトレイには、まだ包み紙に包まれたハンバーガーと、少ししか減っていない一番小さなサイズのポテトと、手のつけられていないいくつものオニオンリングと、包まれたホットドッグが残っている。
しかし、過去話を嫌いつつも癒葉を止められない事を知っている塩谷は、それでも逃げるしかないのだ。
だが、その意図に気づいた癒葉から声がかかる。
「待って、先に何かかしらお腹に入れた方が安心だわ。ここの食べ物は食柱毒を緩和する作用があるからー」
「……わかったよ」
塩谷は不承不承ながらハンバーガーの包み紙を開く。
中身はチーズバーガーだ。無難なチョイスだが、これでこの店の基準を判断するのだと考えると、あまり凝ったチョイスよりも優れた選択であると判断出来る。これは塩谷なりに計算しきった結果なのだ。
実際、これは大正解だ。何故ならば、この正式名称「エンシェントキリガクレチーズバーガー」は、三ヶ峰の最も得意とする必殺料理なのだから。
しかし、それを知る者は少なく、事実塩谷もわかっていない。だがこれで良い。忍とは暗器を隠して殺すものなのだから。何はともあれ塩谷は正しい選択をした。
このチーズバーガーは見た目からして格が違う。間に挟まれているのはビーフパティでは無く重量感のあるハンバーグだ。そのハンバーグは肉厚で、その上に乗せられている半ば溶けかけのチーズは本能を刺激する香りを放っている。レタスとトマトも挟まれているのがより一層贅沢さを感じさせ、その上かなりの瑞々しさが見てとれて、塩谷の食欲も増していく。それでいながらパン自体もふっくらとしており、メニューにうつっている写真よりも完成度が高いように見えた。
まだ温かいせいか、パンの匂いまで漂ってきて食欲を誘ってくる。
確かに今が食べ時だ。塩谷は席を立とうとした己の行いを悔いながら「いただきます」の言葉を放つ。
そして、一気に口元に寄せて、一口食べる。
パンの柔らかな食感と共に、中の具の味が口の中へと広がっていく。
その瞬間。予想外の風味が塩谷の口内に広がった。
「こ、これは……!」
塩谷の目が、信じられないものを食べたと言わんばかりに見開かれる。
「ピクルスの酸味……!?」
どういうわけか、肉の食感よりもチーズの濃厚さよりも、まずピクルス特有の爽やかな味わいが口の中を支配したのだ。同時に広がるレタスの風味も手伝い、まるで一陣の風のような爽快感が胸中を満たす。それでいながら、これは主役とならない程度の風味であり、チーズバーガー本来の味を殺していない。
その証拠に、咀嚼していくにつれ遅れてくるように、こういう店のハンバーガーにしては珍しくしっかりとした肉らしい旨みのあるハンバーグの味が肉汁と共に広がり、それがとろけるようなチーズの味によってマイルドにされ完成させられた味わいとなって味覚を刺激する。それと同時に肉厚で瑞々しいトマトの風味も口の中で混ざり合い、たった一口なのにも関わらず尋常ならざる満足感が塩谷の脳を支配する。
調和。そんな言葉がぴったりと当てはまる程、このハンバーガーは完成されていると言えた。
塩谷はここで、先ほど説明された事を思い出す。ここが、酸味の強い料理を武器とする三ヶ峰の店だという事を。
ノーマルのハンバーガーで何気に一番重要なのはピクルスである。
何故ならば、ハンバーガーの場合は肉の味がそこまで自己主張しないので、必然的にピクルスの味が自重する事無く、そのまま舌へと届けられるからだ。だが、あくまでピクルスは主役であってはいけないため、パンの間に挟まれた全てと、パン自体を繋ぐ懸け橋にならなければいけない。
その自己主張と調和のバランスは非常に危うく、一歩間違えればハンバーガーそのものが駄になりかねない。ピクルスを嫌う層があるのはそのためだ。
だがこれは、それでもピクルスに全てを賭け、あえてレタス用のドレッシングやソースを用いないという男仕様である。ケチャップやペッパーすらもこのピクルスの前ではただの不協和音だ。
それはまさしく闇に乗じた手裏剣やマキビシ。使い方を一歩間違えれば逆に不利を呼びかねないトラップ系の暗器だ。
しかし、このハンバーガーはチーズという付加要素があるため、そのバランス調整が難しい。本当に少しでも間違えたら終わりの危ういバランスだ。
だというのに、この「エンシェントキリガクレチーズバーガー」は、全てが完璧に調整させているという完成度を見せつけていた。
このチーズバーガーは、まるで機巧技術の粋を集めた巨大なからくり屋敷だ。まさしく忍者屋敷。仕込まれた味の歯車はぴたりと噛み合い、旨みという巨大な装置を稼働させている。
塩谷は、まるで屋敷に侵入した不埒者のような気分になり、すぐにあらゆる装置に引っかかって、最後に忍に殺されてしまった自分の姿を幻視してしまう。
それほどまでの衝撃だ。
これは“ジャンク”フードなどでは断じてない。立派な料理だ。ここまで噛み合ったパーツ群をジャンクと呼ぶのはあまりにも不適格な表現であろう。
これで190円はお得すぎる。無駄に高かった辛籐の店とは雲泥の差だ。
塩谷は感動し、一気にエンシェントキリガクレチーズバーガーを食べきる。
究極の満足感。至福の瞬間。
心なしか、身体の芯から温まったような感覚まであった。
「美味しい……! なんだこれ、どうしてハンバーガーがこんなに……!」
「ふふっ。店長はね。調理する時、完成度を上げるために三周しているの。一つ一つを一作業で完成させるのではなく、途中途中でより美味しくするための工程を全部に二度以上も挟んでるってわけね。挟む……そう! まるでハンバーガーのようにね!」
癒葉の言っている意味はちょっとよくわからなかったが、塩谷はとりあえず納得した空気を醸し出しながら感想を口にした。
「成程……凄い、なんて心構えだ……」
その料理人らしい姿勢に、塩谷は敬意を払う。
それから、他の食べ物にも手をつけていく。
このまま全て食べきってしまいそうな勢いだ。
そして、その流れに場の空気がもっていかれそうになるが、辛籐は何とか咳払いで皆の視線を元の位置へと戻す。
もちろん、彼女の手元には水しかない。
「そういえば、この店の料理は何故、食柱毒に効くのですか?」
塩谷がトイレと言って逃げようとしている以上、ここで過去話を問いただすほど辛籐は野暮では無かった。だから癒葉に当たり障りのない質問をしたのだ。
そして、他の皆もそれで良いという顔をしていた。
話の流れを作りやすくするようためにか、甘音も便乗してくる。
「そうそう、わたしもそれ気になるわっ!」
そんな甘音のトレイには、食べかけのアップルパイと、同じく食べかけの、やたらと間に具材を挟んだ豪勢なハンバーガーが置かれていた。もちろんハンバーガーの方は、この店で二番目に高い代物だ。
甘音は好奇心に満ちた笑みで、癒葉に対して視線を向ける。
それらを受け止め、癒葉は柔和な笑みで応じた。
「んー。私の食柱毒はね、人の身体の中に害を与える“よくないもの”を中和出来るの。いっつも完成品にそれを使ってるから、食べた人の異常が治るってわけね」
「でも、それで食柱毒で起こった異常も治せるというのですか? 毒の日の反動というのは、いわば筋肉痛みたいな物なのですが……」
「それも問題無いわよー? そうだ、実践してみるのが一番手っ取り早いわね! えっと、そこの銀髪のお嬢ちゃん。ちょっと食柱毒を使ってみてくれないかな?」
「あ、アタクシ……デスかぁ!?」
唐突に話に入れられた霜月詠華は、動揺しつつ癒葉の方へと視線を向ける。
その右手には、甘音に対抗して選んだ一番高い豪華絢爛なバーガーが握られており、そこにはまるで栗鼠が齧ったような歯痕が三つ程度刻まれている。
詠華は、それを名残惜しそうにトレイに置きながら、きちんと姿勢を正して会話の輪に加わった。
「食柱毒、と言われマシてもぉ……アタクシの能力は、ここにいる全員を巻き込んでしまいマスがぁ……?」
「いいわよー。だって、派手な能力の方がわかりやすいじゃない?」
「えっと、よくわかりマセンが……本当に大丈夫なようデシたら、アタクシも本気で使いマスわよ……!?」
詠華はすっかり乗り気になっていた。
だが、その力を不味いと思っている男が、それを否定しにかかった。
当然のように渋堂我竜である。
渋堂は、もう半分しか残っていない、肉ばかりが挟まれたバーガーを持ったまま叫ぶ。
「ちょっ! オメーの能力はマジで洒落にならねーって! やめろ霜月ィ!」
だが、その制止を聞く者は誰もいない。
笑顔の癒葉は「あら、大丈夫よ?」と当然のように返し、食べるのに夢中になっていた塩谷は「食事の席で叫ばないでよ」と不満を漏らし、肝心の詠華でさえも「大丈夫って言うのなら、大丈夫なんデスわぁ、きっと!」と楽観視している。
渋堂はそれらの反応に溜息を吐き、それでも助けを探すが、生憎頼れそうな者は一人もいなかった。
甘音と辛籐は、もう期待の籠った目で詠華を見ているし、甘菜に至ってはもう全く気にもしないで携帯端末を弄りながら、片手で手元の大きなサイズのポテトを一本ずつつまんで食べている。その横の紙コップは、もう何が入っていたかわからないぐらい空っぽだ。甘菜は普通にファーストフードを満喫していた。
渋堂が甘菜に恨めしそうな視線を向けると「何、ポテト食べる?」と聞かれたが、そういう問題では無かったので、七本ほど貰って食べて話を戻す。
話を振る相手はもちろん癒葉だ。
「マジで、大丈夫なんだろうなァ……? 頼むぜ、ゆゆ姉?」
「うんうん。そういえば、リュウくんには初めて見せるのよね、私の食柱毒。これはすごいわよ~!」
「そうか……じゃ、信じるからな」
癒葉は自信満々だったので、渋堂も渋々ながら納得する。
これで全員合意の上で、詠華の能力が発動させられる事となった。
ちなみに、その妹である霜月散葉についてはもう論外なので、もう描写するまでも無い。
散葉は、他の面子が会話している横で、何度も追加注文にカウンターに行っては、大量に食べてはまた注文に行くというループを繰り返していた。もう散葉のトレイは紙屑で一杯である。しかし、まだ両手に焼き肉を挟んだライスバーガーを持っているあたり、自重するつもりはまるで無いようだ。
もちろん、全員と書かれた描写の中に散葉は含まれていない。散葉は基本的に食べ続けているだけである。会話に参加していない。
そんな妹の姿に、詠華は一瞬物憂げな表情を浮かべるが、すぐに真面目な表情を浮かべ直す。
「では、行きマスわよぉ……!」
詠華の発言に、皆に気合いが入る。
だが、その前に詠華はスカートのポケットから小型のスプレーのような物を取り出し、口を開けて自分の口内へと何度か吹きかける。どうやら口臭対策用の小型スプレーらしい。
その際、辛籐がぼそっと「それ、殺菌効果が無い商品じゃないですか。無駄な道具を何故使う必要があるのでしょう」と呟いていたが、詠華は一切気にせずに口臭対策を続けた。
そして、落ちつく。後はもう食柱毒を発動するだけだ。
毒の日の症状が進行していけば、やがて食柱毒を使えなくなるわけだが、今の詠華はそこまで達していない。それに症状もある程度緩和しているので、暴走の危険も無いわけだ。
それから、霜月詠華は唇の下に開いた手を添えて、ゆっくりと上品に息を吐きだす。
その息は、そんな温度でも無いのにも関わらず、白く染まっていた。
これが、詠華の能力発動固有動作だ。
「うお、始まったか……!」
渋堂がハンバーガーを手元に置き、全身に気合いを入れる。
霜月詠華の能力は、他者のもつ基準点の上昇だ。
つまり、どれぐらいで熱いと感じるかだとか、どれぐらいで苦しいと感じるかだとか、そういった基準を強制的に引き上げる事が可能なのだ。
それによって感覚を暴走させられた人間は、まるで凍えるかのように、まともに動けなくなってしまう。
そして、まるで全てを読み切ったような表情で、女王のような傲慢さを前面に押し出した態度で、詠華は平然と自分だけが動き回るのだ。その姿はまるで月のように超然としているとの話である。
そういったスタイルからついた異名が「月詠の女王」だ。
この食柱毒は、複数同時に捕捉する事が可能であり、下手すればここにいる全員が巻き込まれかねない。
なまじ効果発揮までに時間がかかるというのが、より一層恐怖を駆り立てる。
だが、癒葉は笑顔を絶やさず、前に出した右腕を直角に曲げた。
それから、まるで右腕に鍵盤でもついているかのように、左手の指でリズム良く軽快に何度か叩く。
その仕草は、誰がどう見ても能力発動固有動作であった。
「さーて、行くわよー!」
癒葉が、まるでエンターキーを力強く押すような挙動で、右腕を、左手の人指し指で叩き上げる。
その瞬間。
緑色の稲妻が、癒葉の右腕から迸る。
癒葉は、稲妻の纏った右腕を前に掲げ、もう一度左手で右腕を叩く。
すると、腕に纏わりついていた稲光は弾け、周囲全体に飛び散っていった。
それは決して人や物に当たる事無く、まるで意志をもった生き物のように空中を這いまわって、やがて消えた。
直後。バチリと、電気が弾けるような音が何処からともなく響いた。
その現象の意味を、癒葉以外の人間は何一つとして理解出来ない。
だが、癒葉は変わらぬ笑みでこう告げた。
「はいっ、これで完了ー!」
その言葉に、全員が呆気に取られる。
もちろん、説明無しに現状を理解出来る訳も無い。
しかし、それがわからない癒葉では無かった。
癒葉は、人指し指を立てて説明を始める。
「私の食柱毒は、異常を落ちつかせる効果をもつ、この稲妻ちゃんなの。ただし、腕から解き放ってからの挙動は全部事前に入力しなきゃいけないから、結構手間なんだけどね~」
癒葉が能力発動前に腕を叩いていたのは、どうやらその稲妻の軌道を決定づける事前入力のためのものだったようだ。
これで、また全員が納得する。
しかし、解せない点も幾らか残ったため、まだ渋堂は不安から解放されなかった。
「で、何でそれが食柱毒に効くんだよ? つか、消したかどうか判別つかねーじゃねーか!」
「ううん。食柱毒も、身体に異常をきたす『毒』だから。なんら問題ないのよ~? 人の身体に害を為す毒素なら、別に体内に入っているもの以外でも干渉出来ちゃうし」
「何ぃ!!?」
「それに、何も出来なかった場合、また戻ってくるようにって稲妻ちゃんに命じてあるから、これで問題無いはずよっ!」
「す、すげー自由度のたけー能力だな、そりゃまた……」
「使いこなすまでに時間かかったけどねー。でも、食べ物に仕込めるのは大きなメリットだと思ってるし……多分欠点になるはずの稲妻特有のビリっとくる感じも最初に口に含んだ時だけで、一度身体が慣れちゃえば無くなっちゃう感覚だし……この力、結構長所だらけの力なのよね。って、自慢みたいかな、これ」
癒葉は苦笑する。
今回、結果として対象が地味だったせいで今一つ分かりにくかったが、どうやらその力こそが癒葉の食柱毒であるようだ。
状態異常治癒と食柱毒無効化の稲妻。
これは、辛籐空美の捕捉精密特化念動力と同じく、自由度が高い反面扱いにくい能力。
それが癒葉の力であった。が、見るからに完全に使いこなしているようだ。
言葉に偽りは無いようである。
そろそろ詠華の能力が発動するはずの時間なのに、誰一人としてそれらしき痛みを感じていないようだ。
能力が発動するタイミングを知っている、渋堂と詠華は驚愕に目を見開く。
天川甘音に至っては光る笑顔で癒葉の方をじっと見つめており、対照的に辛籐空美は顎に手を当ててじっくりと何かを考えているような仕草を見せていた。携帯端末を弄る甘菜でさえ、少し感心したような表情を浮かべている。
そんな納得に満ちた空気。
だが、それは直後の一言によって壊される事となる。
「ごちそうさま」
先ほどまで食事に夢中だった塩谷始音が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
トイレという言い訳で逃げるつもりである。
それを見た癒葉が、より一層笑みを濃くする。
「じゃ、行くの?」
「うん。僕の事は気にしないで、好きに話してていいよ」
「わかったわよー。ところで、長くなりそう?」
今のは、文面ままの意味ではない一言だ。
これは、塩谷がどれだけの間席を外しているのかと聞いている質問であり、それは同時に「どこまで過去を話していいか」という質問へと繋がる。
その意図は、塩谷に滞りなく伝わった。
塩谷は、軽く溜息を吐いて、歩き出しついでに背を向けて告げる。
「多分、それなり。具合も悪いしね」
「そう。分かったわ~。じゃ、いってらっしゃ~い!」
「うん、それじゃ、また後で」
こうして、塩谷はトイレの方向、とは逆方向にゆっくり歩いて行った。
トイレというのは方便で、実際は外で時間を潰す予定のようだ。
だが、そこにわざわざ野暮な突っ込みを入れる者など居やしない。
塩谷は、滞りなく歩き去っていく。
それを見送るなり、癒葉はテーブルの方へと視線を戻し、笑みを消して真剣な表情を浮かべた。
その変化に、全員が多少なりとも驚きを浮かべる。
が、当たり前のように癒葉は続ける。
「……それで、みんなはオンちゃんについて何処まで知ってるの?」
その質問に、皆が顔を見合わせる。
そして、まず最初に天川甘音が、辛籐と顔を見合わせて頷いた後、こう告げた。
「料理人をやめて高校に入学してから、今に至るまで、かしら。十一歳の頃の試合の話は聞いたけど、直接見たわけじゃないわ」
これは辛籐に関してもほとんど同じ事が言えた。
それと比べれば付き合いは短いが、散葉もだいたいそれに近い知識量である。
ちなみに、散葉は食べるのもひと段落ついて寝ているところだったので、もう誰も気にしない事にしていた。
癒葉はそれらを見て納得した後、今度は渋堂側に視線を向ける。
渋堂は、それを真剣な顔で真っ向から受け止めた。
「俺は、本当に昔の純粋だった塩谷と、いつの間にか料理人になってた塩谷と、今の不貞腐れた塩谷しか知らねえ」
「なるほど、ね。他の二人は?」
そうして質問対象となった詠華と甘菜は、困ったように顔を見合わせ、声を揃えて答える。
「「五年前、料理人をやってた頃を少し……」」
それは少し乏しい知識量であったが、詠華や甘菜からしてみれば、決して浅い因縁とは言えない相手である。
その意志は伝わったのか、癒葉はゆっくりと頷く。
そしてまた、笑顔を作り直す。
「そっかぁ。あ、ごめんね? その、別に、空気を壊したいわけじゃなくってね……」
「でも、塩谷と関わりのある人間がこれだけ揃って、みんな知りたがってる以上、ゆゆ姉は言わなきゃいけねーだろ。ずっと俺に黙ってた、あの頃の話をよ」
「うん、そうだね……こんな話、やっぱり安易にしちゃいけないと思うけど、それでもこれからオンちゃんと一緒に居るつもりだとか、昔のオンちゃんに何か浅からぬ因縁があったのだとしたら、やっぱり知っておいた方が絶対にいいと思うから……だから、話すね」
癒葉の声色は重い。
何やら不吉さを孕んできた空気の中、辛籐空美は視線を鋭くして問う。
「それは、始音さんについて深いところまで語る。というわけですね? 私はただ関係性を聞いただけなのに、こんな空気になっているという事は、貴方と始音さんの間に何かがあった、と。そして、それはまだ渋堂さんにも明かしきっていない重大な出来事だった。と、いう解釈で構いませんか?」
「うん。そういう話になるわね……」
「そう、ですか……」
そうして辛籐も沈黙する。
これは予想外の展開だ。
期せずして、塩谷始音の閉ざされた過去が紐解かれる瞬間が訪れるのだ。
それは渋堂すらも知らない物語であり、それでいながら一番わけありのような空気を醸し出している過去話だ。
おそらくこれから語られるのは、幼く純粋だった塩谷と、死んだ目で料理人をしていた塩谷を繋ぐ空白のエピソードだ。
そこに全ての答えがある。
痛いほどの沈黙が、テーブルを支配する。
だが、そこから目を背けようとする者などいない。口横に食べカスをつけて満足そうに眠っている散葉以外。
癒葉は、ゆっくりと視線を動かし、それからゆっくりと一呼吸した。
「じゃ、オンちゃんが戻ってくる前に、早速話しちゃおうか」
そして、顔から笑みを消して、真剣そのものの表情で続ける。
「オンちゃんと、私の出会いについて」
こうして会話内容は、今の塩谷始音が形成される前の過去へと遡る。
塩谷の印象深いエピソードの中では、恐らくこれが最古になるであろう。
それは伝説誕生の瞬間であり、塩谷始音という普通の少年が終わりを迎える物語でもある。
生まれてはならなかった天使は、何故生まれてしまったのだろうか。
その答えは、全てその先にある。




