閉幕 -日常の続き-
さて。
塩谷始音はどうなったかというと、彼は結局全治一ヶ月の大怪我を負ってしまった。
何故か今回ばかりは治りが遅く、そのせいで彼だけしばらく天川邸のお世話になる事になってしまったのだ。どうやら食柱毒による時止めは、相当負荷がかかっていたらしい。あれはもう使えないだろう。
天川甘音と辛籐空美も残ろうとしたが、それは駄目だと天川照真に止められ、いつもの街へと戻って学校に通う日々を送っていたそうだ。
ちなみに滞在している間、塩谷は会うたび天川照真に嫌みを言われ続け、非常に不快な思いをした。定期的に屋敷を訪れる霜月散葉は、やたらとべたべたくっついてきたわけだが、それもまたお守のようで面倒であった。
そんなこんなで一月経って帰る時になると、帰りのバスに乗る際に見送りに来ていた天川照真に「また戦おう。次は最初から本気で。そしてタイマンで」と言われたので「やだよくたばれ」と返し、鬱憤を晴らしてやった。こうして彼も家へと戻っていく。
そして、今日は塩谷が久々にHelleNに顔を出す日だ。
中華系の超・激戦区に存在する、洋風のカフェテリアのような外観の店。それがHelleNだ。入り口には休業日と書いてあるが、今日は今後の方針を決めるミーティングがあるらしい。だから、それに彼も出席する事にしたのだ。
彼はまだ痛いような気がする手足を慣らしながら、ゆっくりと深呼吸する。
何だかんだ言って、天川や辛籐と顔を合わせるのは久しぶりである。
だから、気合いを入れて店をのドアを開ける。
「えっと、みんな、久しぶりー」
「あっ、おにーさんだ」
「えっ? しもつ……じゃない。えっと、散葉ちゃん?」
店内には季節外れの赤いコートを身に纏った少女が居た。髪はウェーブがかった短髪で、妙にゆったりした表情の少女である。
一ヶ月前、料理対決の際に審査員を務めた霜月散葉がここに居るのだ。
彼女はたしか天川照真の秘書をやっていたはずだ。なのに、何故こんな所に来ているのかが理解不能だった。
もしかしたら、また良からぬ事が起きているのではないかと邪推してしまう。
「ああ、こら。なんで真っ先に出てくのよ!」
「本当ですよ! なんなんですか貴方は!」
しかし、店の奥から出てきた天川と辛籐の姿を見て、塩谷も安心する。
この雰囲気なら問題なさそうだと判断したのだ。実際その通りである。
「あっ、始音くん! 聞いてよ。あなたの居ない間にこの子がね……」
「みーは、娘の方のあまかーさんの料理に感動したんだー。だから、もう一回あの味を確かめたくてきたのー。父親の方のあまかーさんの所に戻るのは、それからって事で」
「あれはあの場一度きりの切り札ですから。そんな簡単に使えるものではありません。それに、勝手にまた天川照真さんの元へ戻るのは許しませんよ。貴方はそのために来たわけじゃないでしょう?」
これは塩谷の知らない事実であるが、霜月散葉は、天川照真に勝ったお陰で手に入れた従業員である。
世界最高峰の審査員である彼女は、どんな料理人にもなれる無垢なる可能性を秘めているのだ。己の舌を満足させるような料理を目指し、今まで見てきた料理人達の技術を用いていけば、恐らくどんな方向へも飛ぶ事が出来る。
その上、天川照真の傍でずっと働いていただけあって、ありとあらゆる雑務や仕事を並以上に万能にこなせるのである。
まさしく、霜月散葉こそが、辛籐の要求した理想の従業員の姿であったのだ。
しかしながら今、霜月は頬を膨らませ、見るからに不満を露わにしていた。
「むー。なんかしんどーさん口うるさい。ここで手伝いしてるんだから別にいーじゃん。しんどーさん。なんかおねーちゃんみたい……」
「な、なななな何ですって!?」
辛籐の顔が真っ赤に染まる。
この三人の感じからすると、さっきまで奥の方で料理をしていたようだ。
塩谷の居ない間はこの三人で何とか回していたのか、思いのほか馴染んでいる。
こうなってくると、今後HelleNがますますにぎやかになるというのは、容易に想像出来た。
以前までの塩谷なら、ここで顔をしかめて眉間を弄っていた事だろう。しかし、今の彼は違う。
塩谷始音は、少し困ったような、それでいて少し嬉しいような笑みを浮かべていた。
「ははは、相変わらず楽しそうだね……」
こうしてHelleNの日常は、ほんの少し様変わりしつつも、いつも通りの形に戻っていく。
塩谷始音は、またしてもこの騒がしい日々に身を投じていく。
これから先、どんな困難がこの店に訪れる事になるのかはわからない。
しかし、それでも何とか乗り越えられる気がしてならなかった。塩谷はもう一人では無いのだ。
彼の力だけじゃどうしようも無くなった時、意志を継いでくれる仲間がいる。だから心配いらないのだ。
従業員が一人増えて騒がしくなる店内で、塩谷始音はぽつりと呟く。
「おかえり、天川さん。辛籐さん……」
これは単に独り言のつもりだった。
この店がまた元通りになった事を祝福したかったのだ。
しかし、その言葉は二人の耳にきっちり届いていて、二人同時に言葉を返されてしまうのであった。
「「はい、ただいま」」
そんなこんなで塩谷は照れて赤面し、今回の物語は幕を閉じる。
幕切れの間際、塩谷がふと天川甘音の横を通り過ぎようとした時、確かに聞いたその言葉を最後に。
「そういえば、あなたにはまだ言ってなかったわね……」
それは、必要以上に甘く甘く甘く、ただひたすらに甘い声で告げられた一言。
それは、塩のように白い塩谷の肌を、とびきり甘い苺のような深紅に染めさせるような一言。
耳元で囁かれる言葉は、小さくても、たしかな甘みをもって鼓膜を震わせる。
その言葉は、やはり当たり前の言葉で、何の甘みも伴わないはずなのに。
その言葉は、初めて言われる言葉では無いはずなのに。
というか、おそらく辛籐空美も同じ事を言われたはずなのに。
それでも、塩谷始音の脳は勝手に、その言葉に甘い味付けを見出してしまったようだ。
天川甘音は、塩谷始音に囁く。甘い香りが漂う髪を揺らし、闘いの最中傷だらけになった塩谷の身体を愛おしく撫でるような横目で眺め、色彩のはっきりした桜色の唇から、はっきりと優しく甘い声色で、空間を小さく震わせる。
「ありがとう、始音くん」
このどう考えても甘いニュアンスを含むわけがない言葉を最後に、ついにこの長かった舞台は幕を閉じる。
天川甘音が発した言葉を、塩谷始音がどう受け取ってどう返したかは、もう本人達のみが知る事実だ。
もしかしたら脳ごと沸騰して正常な思考が出来なくなったのかもしれないし、意外と冷静に一言だけ返したのかもしれない。
けれども、塩谷がどんな返答をしたところで、その脳内に、天川照真の作ったどんな甘いお菓子よりも甘い感情が芽生え始めているのは、もう揺らぎようの無い事実であった。
芽生えた感情は、生まれて初めてのもの。
それが芽吹くか、はたまたその前に枯れるか。
それもやはり、当人達がもっと後になってから知る事実だ。
そして、この物語は仄かな甘みと共に終幕を迎えるのであったとさ。
ROUTE:SWEET 完
ちなみに、このあと時々HelleNに天川照真が顔を出しに来るようになってしまい、そのたびに全員が嫌そうな顔を浮かべるというのは、もちろん当然また別の話である。




