鉄槌 -五味グループ、再集結-
それから、天川照真はHelleNの取り壊しを撤回する事となった。
その事実は、五味グループの面々には隠す事が出来ず、結果として彼は大恥をかく結果となってしまった。
それどころか、今度は天川照真以外全員のメンバーが一度集まりたいと言い出し、彼は渋々それに乗る事にしたという。嫌な予感しかしなかったが、神故のプライドから逃げるわけにもいかなかったのだ。
というわけで、とある豪邸の一室。
数日前と同じように、天川照真は一番奥の席に座って、縦から見えるテーブルを俯瞰していた。
「……で、今回の議題は何かな……?」
その表情は苛立ち混じりであり、今の彼の機嫌の悪さを強調するようであった。
そんな天川照真の前にあるテーブルの周りには、やはり以前と同じように依然として四人の人物が四隅に陣取っていた。
天川照真から見て右手前から時計回りに、左右非対称のゴシックロリータ服を纏った二つ縛りの髪の少女、影のような忍装束を纏った閉眼の忍者、真っ白なダッフルコートを纏った銀髪ウェーブの少女、龍の刺繍が入った紺色の和服を纏い髪を逆立てた男が、それぞれ馴染みの席に座っていた。
全員、己が個性を示す格好であるためか、前回と服装が変わっていない。天川照真自身も変わらぬスーツ姿である。
しかし、表情だけは違った。
天川照真を見る目が、全員清々しいまでに変化していたのだ。
まず、左右非対称ゴシックロリータ服の「不落嬢」辛籐空美が、珍しく満面の笑みを浮かべている。
「ああ、その前にまず軽く雑談しましょうよ。そういえば天川さん、具合はどうですか? 何やら、プライドが傷ついたとかで最近随分と仕事を休みがちだと聞きましたが、本っ当にお気の毒ですよねー」
全て皮肉である。
辛籐は、HelleNが潰れそうになった一件に相当腹を立てていたのか、天川照真に遠慮の無い口撃を仕掛けてきていた。
もちろん平時の天川照真ならば問題無く返せたが、生憎状況が状況なので返答に困ってしまう。
だが、そうこうしている間に別の所からも声が飛んでくる。
今度は、目元が少し嬉しそうな忍者、「影喰ラウ疾風」三ヶ峰酸叉之雄からの追撃だ。
「……辛籐、これは致し方無い……天川照真は無様を晒した……もう日の下は歩けぬだろう……」
いつになく声色が弾んでいた。
どうやら忍者は忍者で、何か溜まっている物があったようだ。
寡黙な彼にしては、異常なまでの喜びようである。
それに対しても、天川照真は歯を食いしばる事しか出来ない。
だが、まだ投げかけられる言葉は残っている。
次は、複雑そうな表情を浮かべた銀髪美少女の「月詠の女王」霜月詠華が口を開く。
「そ、そのぉ……お気持ちはお察し致しマスわ……あれだけ大見得を切っておきながら、圧倒的格下に負けるというのは辛いものデスからねぇ…………アタクシもよくわかりマスわぁ……い、いっそ死んでしまった方がマシと思えるほどの羞恥心って……どうにも出来ないモノなのデスわよね……」
同情しているような口調なのに、何気に一番ストレートに酷い事を言っていた。
これは下手に悪意が感じられない分、天川照真の心に一番深く突き刺さってしまう。
そろそろ、天川照真の心の体力も限界に近かった。
しかしながら、まだ最後に一人、何も言っていない男が残っていた。
快活な笑みを浮かべている「三柱龍帝」渋堂我竜だ。
「ま、これでオッサンの野望は潰えたってわけだ。で、どうだったよ? やっぱ相手は強かったか?」
渋堂は唯一、かなりの無茶をするものの、単体で天川照真と闘える男だ。
だからこそ、その領域に近づいてきたであろう対戦相手に、興味を抱いた次第である。
もっとも、天川照真と戦った一員である辛籐空美はここにいるのだが、生憎と渋堂の興味は他二人に向けられていた。
だが、天川照真に返す言葉は無い。
負けた事実を未だに認めきれないこの中年は、まだ相手の強さを素直に認められるような状態に無かったのだ。
だから、思いっきり眉を歪めて机を叩く。
「で!? 今! 回! の! 議題は!?」
それは溜まった怒りの主張であったが、誰一人としてそれに耳を貸す人物はいなかった。
その上、忍者に関しては一瞬消えて、音が耳に届く前に安全地帯まで逃げ、また一瞬で戻ってくるという騒音対策までしていた。
そして、天川照真が喋り終わるなり、五味グループの面々は、それぞれ言いたい事を好き勝手口にしていく。
「そう怒んなって。俺らはただ、オッサンの今後が知りてーだけだって。で、どうすんだよ、こっから」
「……そう、デスわね。大事なモノを賭けて負けた責任というのは、絶対に取らねばならないものデスし……已む無しデスわ……」
「…………店を一つ、潰そうとしたのだ……相応の責任は取って然るべき……」
渋堂、霜月、三ヶ峰の総意は決まっていた。
そして、言うまでも無いが辛籐空美もだ。
むしろ、辛籐こそ溜まりに溜まった不満を吐きだせる絶好の機会なので、もう煮るなり焼くなり好きにしていいのだ。
「天川さん。私、言いましたよね。勝った方が全てを得て、負けた方は全てを失うと。貴方はそれに対して疑問を抱く事無く了承しました。交渉は成立したわけです。加え、貴方は自分が負けた場合、その処分はこちらに任せるとまで言いましたよね? というわけで、私としてはもう全部失っていただきたいのですが、如何でしょうか?」
辛籐は相変わらず目つきの悪い眼差しで、天川照真を見下すような視線を飛ばす。
これは冗談でも何でもない。ただの本気である。
辛籐には、過去に己の店の隣にあった邪魔な店を潰し、代わりに駐車場を作ったという経緯がある。
目的のためならば、多少の障害など何ら問題無いのが、辛籐という少女の特徴だ。
天川照真もその意味は理解出来ているので、冷や汗をかきながら視線を逸らす事しか出来ない。
「……ぼ、僕ちん、勝負前に誓約書とか書いて無いしー……そんなのは知らないなー……」
「クズ、ですね。ですがまあ構いませんよ。貴方が私達の店を潰そうとした事に関しての証人は、ここにいる全員がそうですし、あの別荘に居た使用人達も皆そうですから、貴方がいくら誤魔化そうと無駄な話です。何なら散葉さんでも連れてきましょうか? 勝負前のやり取りまで全部わかりますよ。もみ消す、なんて不利益な行為はお勧めしませんよ? 些細な事から大事になって消えた有名人などいくらでもいます。これだけの料理界上位陣を相手にしては、貴方も信用を無事に保つのは難しいと思いますよ。さあ、そろそろ観念して下さい」
「う……ううう……! ぼ、僕ちんは……!」
天川照真が俯いてしまうが、相変わらず辛籐の視線は鋭いままだ。
許すつもりなど欠片も無い。
やられたのだ。やり返していけない道理が何処にある。
目には目を、歯には歯を、理不尽にはもっと大きな理不尽を。否。
同じだけの痛みを返すのでは足りない。もっと強い意志が必要だ。
目をやられたのなら相手の頭の上半分を破壊し、歯をやられたのなら相手の頭の下半分を砕くのが適切だ。理不尽には死を。
復讐は何も生まないというのなら、何か利益が生まれるような復讐の仕方をすれば良い。
憎しみの連鎖が止まらないというのなら、相手側の戦意を完全に削ぎ落せば良い。
辛籐の心情はもう徹底抗戦のそれだった。
当然、他の五味グループの彼女の側に付く。
「おい、オッサン。そろそろもう良くねーか? 諦めろよ」
「ええ……ちょっと、往生際が悪いデスわぁ……! ここで渋っていても天災地変、蛮烟瘴霧は去ってくれマセンわよっ!!! さあ、早く断頭台に首を差し出すのデスわぁ!!!」
「言葉が過ぎるぞ、霜月……だが、我も概ね同意見……」
そんな言葉と空気の前に、天川照真はただひたすらに狼狽するのが関の山であった。
「ちょ、誰か一人ぐらい僕ちんを庇ってくれる人はいないのぉ!? けっこー手をかけてあげたじゃないか!」
それはある意味では正論だ。
けれども、それに同意する声は一つとして存在していなかった。
「それとこれとは話が別だろ。まあそれによ、条件づけで負けたんなら、ちゃんとその分は払わなきゃ駄目だろーがよ。なんたって、オッサンだって条件付きの勝負で負かした相手には、きっちり見合うモン要求してんだからよ」
「話をはぐらかさないで下さいまし! そろそろ、死刑台の階段ぐらいは上ってもいいのではありマセンのぉ!?」
「……そういう事だ。ここで逃げるのは、我らが許さん……」
「ぐ、ぐぐぐぐぐぐ…………! うぐぐぐぐぐ…………!」
天川照真は、机にへばりついて血管を震わせる。
だが、何時までもそうしているわけにもいかず、ついに観念したのか、ゆっくりと顔を上げる。
その表情には悔しさしか宿っていなかった。
それを見た辛籐の口元がどんどん笑顔になっていく。ご満悦だ。
そんな屈辱に耐えながらも、神のような威厳をもっていたはずのただの男は、絞り出すように言葉を紡いでいった。
「……よ、要求は何かな……何が欲しい……!?」
「貴方の破滅と終わり、と言いたいところですが、生憎今の貴方は料理界に欠かせない存在です。それに、私の大事な大事な友人のご親族ですからね、それは勘弁してやりますよ」
その言葉に、何処からともなく安堵の気配がする。
ほぼ何でも持っているはずの天川照真が、ここでこんなに渋っていた理由は、悔しいという以前に、辛籐が本気でこういう事を言いかねないからでもあった。
しかし、穏便に済ませるつもりは、辛籐には欠片も無かった。
辛籐は更に眼光を鋭くし、天川照真を射抜く。
「等価値として店を一つ潰してやってもいいのですが、生憎それではそこで働いている罪の無い方々に迷惑がかかるだけで、貴方にはほとんど何の痛みも与えられない。それでは、する意味が無い。そこで、私は考えました」
「な、何かな……?」
「ようは、私達でいう店を潰されるようなダメージを貴方に与え、尚且つこちらがリターンを得られれば良いのです」
辛籐は心底楽しそうに続ける。
だが、それに対しては、多少猜疑的な意見も上がらざるを得なかった。
霜月が軽く左手を上げる。
「で、デスが辛籐さぁん? 別にリターンを得られれば、そちらとしては問題ないのではありマセンこと……? それに、天川さんは滅多な事が無い限り傷つかないのではありマセンの……?」
それはもっともな意見である。
HelleNを潰された場合、辛籐は、友人との接点を奪われ職場も失うという結果になっていたはずだ。
しかし、天川照真にそれと同様の苦しみを与えるとなると、なかなか難しい話になる。
だが、辛籐は何も問題無いと言わんばかりの笑みで、自信満々に続けた。
「そうですね。本来ならばもてる立場と財産を全て放棄していただいた上で、この場でこの男の服を全て焼却処分し、一番痛い方法で去勢してから全裸で土下座したところを体重全乗せスパイクで踏みつけてやりたいところですが、私は優しいのでそこまではしません。感謝して下さい」
「……この女、何と恐ろしい発想だ……!?」
三ヶ峰が怯えていたが、辛籐はそれなりに本気であった。
何故ならば、辛籐はたった一度の敗北で全てを失った経緯があるからだ。
半ば八つ当たりである。否。完全に八つ当たりである。
辛籐の時は、大衆の前で失禁させられ辱められた挙句、家を追い出され、自分を倒した元凶に雇われるという最悪の状況になっていたのにも関わらず、この天川照真が無事でいる事が許せなくて許せなくて仕方がないのだ。
辛籐空美の抱える膨大な怒りの中には、少なからず関係無い怒りも混じっていた。
だが、辛籐は、それをあえて前面に押し出してこようとはしなかった。
「私に、そこまで酷い事は出来ませんよ。優しいでしょう? まるで女神様ですよ。崇めて下さい」
女神爆誕に全員がドン引きしていたが、辛籐は気にも留めない。
最近は状況のせいで忘れられがちではあったが、辛籐空美は本来理不尽を与えられる側の人間では無く、むしろ他人に理不尽を強いて平気な顔をしている側の人間だ。
辛籐空美は、今にも笑い出しそうな顔で続ける。
「それに、ありますよ。天川さんが奪われて困る大事なモノ。だから私は要求します。何、別に難しい話ではありませんよ? ただ、今HelleNは人材不足なので従業員を一人提供して頂ければよろしいのです」
意外と軽かった。
受けた天川照真すらも、驚いたように瞬きを繰り返している。
けれども、これは当然の結果だ。
何故ならば、これは辛籐自身もあまりにも軽すぎると思っているからだ。
鉄槌はこの程度じゃ済まされない。
引き裂かれかけたのだ。引き裂かねばならない。
殺されかけたのだ。殺さなければいけない。
全て殺せば憎しみの連鎖は止まる。
だから、辛籐は憎しみの連鎖をここで止めるため、天川照真の心を抉り砕く事を決意する。
そして、色素が薄い唇から、続く言葉を吐き捨てた。
「ただし、従業員はこちらで指定させて頂いても構いませんね?」
「あ、ああ……僕ちんとか言いださなかったらね……」
「そんなのこっちから願い下げです。ま、何にしても交渉成立ってわけですね」
「そ、そうだね……」
不穏な空気に狼狽する天川照真に、辛籐空美は絶頂しそうな程の多幸感を感じていた。
数日前まで、上から見下ろすように好き勝手やられてきた相手を追い詰めるのはここまで楽しいものなのかと、どんどん心を弾ませていく。
笑顔。満面の笑み。
辛籐は、流れに乗りながらどんどん希望を口にしていく。
「あのですね、今、HelleNには調理が出来る人間が不足しています。まともなのは私しかいません。そのため、メニューは私が作るものばかりになっています。なので、既に己のスタイルを確立している料理人は少し困りますね。そこで、今の実力はさておき、教えたらまともに料理を覚えられる人間が欲しいですね。恐いもの見たさに甘音さんの生き地獄を頼む人もいますが少数ですし」
「じゃ、じゃあ中華系の料理人見習いを用意すればいいわけだね。わかった。僕ちんが何とか……」
「話は最後まで聞いて下さい。もしくは、私を完全に調理場だけに専念させてくれるような有能な人材でもいいですよ。始音さんや甘音さんもそこそこ数人分の働きをしてくれるので、もう一人優秀な人間が増えたら万事解決ですよ。その場合なら、調理をこなせる人というよりは補助要員でも構いませんね。現状、私一人でも相当回せているので、その助けとなりつつ接客もこなせる人が居ればいいのです」
「なるほど……じゃあ、補助に特化した人材を……」
「あ、ついでに甘音さんの経営サポートもこなせる人材であると嬉しいですね。甘音さんも優秀ですが、時々妙な危なっかしさがありますので」
どんどん注文が増えていく。
まるで、具体的な答えが既に存在しているかのようだ。
天川照真もそれに気付きつつ、しかし一度了承した以上断れずに、じわじわと眉を寄せる事しか出来ない。
他の五味グループは、もう成り行きを見守る形となっていた。
天川照真に逃げ場はない。
「そうなってくると、だいぶ限られてくるよ……? 中華系料理人になれるだけの素質があって、店内の接客も人並み以上に万能にこなせて、それでいながら経営補助も出来る……なんてなると、本当に難しいよ。僕ちんもここで紹介出来た方が得だけど、限度を越えたお願いは聞けないというか……」
天川照真にしては珍しく困ったような口調だ。
実際、辛籐の注文に応えるのは結構難しい。
注文が多いため、並の人材では賄いきれないのだ。
これでは、交渉するのも苦労するような者を、連れてこなければならない。
それは、絶対に聞けるという保証はしかねる、という事になりかねないというわけだ。
だが、辛籐は、確かな確信があるかのような笑みを、決して絶やさなかった。
「それと、一応身内同士で楽しくやっている店なので、あまり交流の無い方は嫌ですね。後、私の冷蔵庫には食べられない料理が詰まっているので、おすそ分けしても問題無いぐらい食いしん坊な子がいいです」
「ちょっと待って、辛籐ちゃん。流石にそこまで指定されちゃ……」
そこで、天川照真の言葉が止まる。最高に嫌な予感が脳裏をよぎったのだ。
そして、間髪いれずに、辛籐が言葉を上乗せする。
「いるじゃないですか。ピッタリな人材が、貴方のすぐ傍に」
その言葉に、誰もが呆気にとられる。
だが、天川照真はすぐに気がつく。辛籐が言わんとしている事に。
そして焦る。
そんな天川照真の冷や汗を見て、今度は霜月詠華が勘づく。
それからワンテンポ遅れて三ヶ峰が気づき、最後に霜月に耳打ちされた渋堂が理解して全員に知れ渡る。
執行する刑は確定した。後はもう受刑者の最後の言葉を聞くだけだ。
そのための沈黙が流れる。
そうして、数秒の間を置いた後、天川照真が震えるような声で言葉を吐きだす。
「ま、まさか……辛籐ちゃん、駄目だよそれは……! あ、あの子は僕ちんの……!」
「何を言っているんですか? そちらこそ駄目ですよ。一度、言った以上、取り消しはききませんので」
「で、でも……! ほ、本人の意思が……!」
「本人の了承ならとっくに得ています。意外とあっさりでしたよ?」
辛籐が望むその従業員は、HelleNに入るかどうかという問いかけに、信じられない程簡単に同意したのだ。
きっと何か思う所があったのだろうが、意外と天川照真の傍にいる事に対する未練は、そこまで無かったようである。どうやら今の興味の対象はHelleNにあるようだ。
その事実に、天川照真の表情がぐにゃりと悲しげに揺らぐ。
だが、辛籐はそんな事など一切気にしない。
続ける。
「後は貴方だけです。だいたい、これまでそんな事全く意識していないようでしたのに、急にそんな事を言い出すのはおかしくありませんか?」
「ええっ!? そ、それは……!」
天川照真から大量の汗が流れ出る。
何故ならば、辛籐が挙げようとしている人物だけは、絶対に従業員に渡したくなかったからだ。
昔から仲が良く、常に一緒に行動しているその従業員とは、もはや家族以上の絆が芽生えていた。その上、かなり有能で天川照真もその従業員のお陰で相当助かっていたのだ。
というか、秘書だ。
本当に昔から連れ添っている超有能で超仲の良い秘書であり、相棒でもある。
それに、それ以上に、天川照真にとって、それは本物の娘よりも愛情を注いできた対象なのだ。
ある意味で、娘がわりの存在だったのだ。
いつも傍らに居て、面倒を見続ける対象であり、いつも誇らしい活躍を見せつけてくれるその秘書は、まさしく天川照真の望む娘像そのものだったのだ。
他人ではあるものの、家族愛が確かに存在していたのだ。
だから、それを突然渡せと言われても、簡単に同意できるわけが無かった。機嫌の悪い時に突然言われたら殺しにかかるレベルである。
半身を引き裂かれるような絶望感。他の何が無くなるよりも、その秘書と離れ離れになるのが、天川照真にとっては一番辛い。これが実現してしまえば、もう最悪としか言いようがない。
娘を奪われた父親以上の悲しみと無力感しか、そこには無いのだから。
天川照真としては、何があってもそれだけは阻止せねばと必死になる。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ、待って! でも、でもさ! 違くないそれ!? 人と建物は等価じゃないよ!」
「繋がり、という意味では同義ですね。私達のHelleNはそういうものの象徴ですので」
「でも、店が無くなっても人まではいなくならないしさ……!」
「そんな事を言ってしまえば、貴方の元から従業員を一人頂いた所で、二度と会えなくなるわけでもないでしょう? 私はただ、貴方と同じく一つの繋がりを断ち切るだけです」
「でも、でもでもでもさ!」
「イチイチ五月蠅いですね、負けたくせに、しつこいですよ」
「……ま、負け……!」
「そうです。貴方は散々余裕をかました挙句、無様に負けたのですよ」
「うっ……!」
天川照真の言葉が詰まり、もう従業員を手放さない方向に話をもっていくのは困難になった。
せめてもう少し天川照真に口論の経験があれば、それとこれとは少し違う話であると反論が出来ただろう。
しかし、この男はこれまでに都合が悪くなったら逃げるという手を何度も使ってきている。
そんな事をしているから、こういった状況になった時、頭が真っ白になって反論すらも出来なくなるのだ。
皮肉にも、辛籐空美と天川照真の優位関係は「反転」していた。
だからもう、天川照真に万が一での勝ち目は残されていなかった。
渋堂が楽しそうに便乗する。
「ま、ここまでだな。オッサンなら、一人でもやってけんだろ」
それから、霜月も流れに乗っかってくる。
「あの子なら、きっと大丈夫デスわぁ。大概、何処に居てもやっていけるだけの順応性はありマスからねぇ……」
無論、言うまでも無く三ヶ峰も同意する。
「天川照真……貴様はまだ救いのある選択肢を選ばれたのだぞ……破滅を望むなら、其方を選べ」
それらの言葉を受け、ついに天川照真は何も言えなくなる。
そもそも、天川照真はかなり口喧嘩が弱い方であった。
娘や辛籐と口論した時も、旗色が悪くなるや否や、逃げて顔を合わせないようにして意見を貫こうとしていたぐらいだ。
こうやって逃げ場の無い状況まで追い詰めれば、もうどんな言葉だって届く。
辛籐は、罵倒の言葉を更に重ねる。
「強調しますが、貴方は天川甘音さん率いるHelleNに負けたのです。完膚なきまでに、負けたんです! 勝った者は全てを得て、負けた方は全てを失うというこのルールで!」
「……うう、し、しつこいよっ! そんなに繰り返さなくてもいいじゃないか!」
もう天川照真のプライドは、剥き出しの痛点となっていた。
辛籐はそこに指を突っ込み抉り取りかねない残虐性極まりない目で、天川照真をきつく睨みつける。
それだけで、中年男性は委縮してしまう。弱い。かつて神だった威厳は既に消え去っていた。
だから、このタイミングで、辛籐は軽く息を吐いて、ゆっくりと言葉を続けた。
この言葉が届くのは、恐らくこのタイミングしか無いと判断して。
「もう……いいじゃないですか。逃げないでくださいよ。これを機に、他人の娘よりも自分の娘をきちんと直視した方がいいのではありませんか?」
それは、霜月散葉とばかり交流し、実の娘達をおざなりにした父親としての天川照真への言葉だ。
料理の才能が無いと言われ、長らく見限られていた長女、天川甘音。料理がさして得意でもないのに、天川家当主を継がされそうになっている次女、天川甘菜。
この二人は立場故に苦悩し続けていたが、天川照真はそこに一切意識を向ける事が無かった。
辛籐は、他人ながらもこれだけは言わねばならないと続ける。
「別に、何とかしろと言うつもりはありませんが、せめて見てあげて下さいよ。知らぬ存ぜぬでは、ちょっとあんまりじゃないですか」
これが、他人として言える最大ラインの発言であった。
もうこれ以上は踏み込めない。だが、この言葉は充分過ぎるぐらいに届いた。
渋堂や霜月も何か思う事があるのか、目に真剣さが宿る。忍者は目を閉じているのでわからないが、意味深な沈黙を保っている。それは不可侵めいた不思議な空気。
天川照真は、今初めて気づいたかのように目を丸めて茫然としていた。
何も言葉を発せず、ただただ間抜けに口を開いたまま停止している。
辛籐の言葉は、天川照真の心の奥底に深く深く深く深く突き刺さったのだ。
どうやらこの男も塩谷同様、小学生にでも言って聞かせるようなレベルの事すら言われた事が無かったので、こういった発言も新鮮に感じられるようであった。
ここで、初めて天川照真は娘達の現状と過去を直視する。
その「気づき」は、人によっては遅すぎると感じるかもしれないだろう。実際、天川姉妹が思い悩んだ時間を考えれば遅すぎるのかもしれない。
だが、それでもまだ間に合う。拗れに拗れた歪んだ家族関係は、まだ修復可能な段階だ。
それに、天川照真は娘との闘いで教えられた。真に不可能な状況などそうそう無いという事を。
天川甘音がここに居たら、間違いなくこう言うだろう。「遅すぎる、なんて事は絶対に無いわ」と。
だから、まだハッピーエンドには手が届くのである。そんな思考と幻想の狭間にある境界線。けれども、手を伸ばせば実現可能な現実の延長線上。
天川照真はしばらく沈黙した後、ついに何かを諦めるように大きな溜息を吐いて顔を伏せた。
「…………あーあ。甘音ちゃんといい、辛籐ちゃんといい。なーんか、死んだ女房思い出すなー……ほんと、懐かしいよ。理不尽で、気が強くってさ……」
天川照真は、全身から力が抜けた様子で、ぐったりと椅子の背もたれに体重を預ける。
そして、四本足の椅子の足を一本残して軽く浮かせ、重心移動によって座ったまま百八十度向きを変え、五味グループの面々に背を向けてしまった。
だが、それは今までのような無視の意思表示では無い。
「……なーんか、もう好きにしなよ……僕ちん、ちょっと疲れちゃった……」
声にも力が籠っていないが、交渉成立。
どうやら相当思う所があったようだ。
だから、集まった面々もこれ以上は何も言わず、静かに席を立って部屋を後にする。
そして、最後に席を立った辛籐は去り際に、己の中で温めてきた最大級の皮肉を天川照真にぶつけるのであった。
「ありがとうございます。これで、HelleNの営業もずっと楽になると思いますよ。助かります。何というか、HelleNを“助けて”いただいて、ありがとうございました」
それは、かつてHelleNを潰そうとしていた男に対しての皮肉である。
が、天川照真は力無く後ろ向きに右手を上げて応じるだけで、それ以上の反応を見せなかった。
だから、辛籐も気にせず部屋を去っていく。
何はともあれ、これで天川家のお家騒動は終わりを迎えるのであった。
後は、それぞれ別の戦場へと戻っていくのみだ。
「にしても、塩谷……あの野郎……強くなってんじゃねえか。いつかまた闘いてえなァ」
「……同意。しかし、まさか我が闘わずしてかませ犬にされるとは……屈辱……もう模倣など出来ぬ程極めねばな……」
「ああ、天川照真の異能模倣ですか。気にしなくていいですよ。始音さんも手こずってましたし」
「だけど、アタクシの力も真似られていたなんて、よくよく考えれば不快極まりないデスわねぇ! 陰々滅滅デスわぁ! ……もっと強くならないと……」
「とりあえず、今回でみんなやる気出てきたみてーだな。俺も頑張らねーとなぁ!」
「うわ、まさかの全員乗り気ですか。まあ、私も置いていかれるつもりは毛頭ありませんがね」
それぞれが、己の意思を胸に進んでいく。
お互い、決意に水を差す事は無い。最終的に向かう場所は同じだからだ。
歩みは力強く、視線は前に、先へ先へと進んでいく。
そして、やがて屋敷の前までたどり着き、後はもう別れるのみとなった。
だから、次に告げるのは別れの言葉だ。
「じゃ、また何か機会があったら会おうぜ! 何なら、いきなり料理対決を挑んでくれても結構だかんな! またな!」
「では皆さん、ごきげんよう! 会者定離とは言いマスが、アタクシ達の場合、まだまだ縁が切れる事は無さそうデスわね。次の会議があるのなら……その時までお元気でぇっ!」
「……我は、此の侭終わるつもりは無い……次に会った時は、更なる忍技を披露してやろう……!」
「皆さん、何だかんだで次会う気満々ですね。ま、私はこんな騒動二度とごめんですけど。ですが……そうじゃないなら、また会うのも悪くはありませんがね。それでは皆さん、また会いましょう」
それぞれがそれぞれの別れに首肯し、後はもう未練なく進んでいく。
こうして、世界トップクラスの料理人達は天川邸を去っていった。
その運命がまた交差する時まで、また別々の道を歩んでいくのだ。
歩みを止める者など、誰一人として居ない。
まず、各々が帰る場所へと戻っていく必要があるからだ。
世界は今日も平常運転である。全ては丸く収まったのだ。
「ま、何はともあれこれで一件落着、ですね」
そして、辛籐空美もまたHelleNへと帰っていくのであった。




