決意 -まさかのヘッドバッド-
あれから数日経ったある休日、塩谷始音はとあるバスに乗っていた。
彼が住んでいる街から、少し離れた場所へと向かうバスである。
中には、数人の子供や老人ぐらいしか乗っていない。それに加え、走っているのが街の外の森林地帯のため、車内には本当に静かな時間が流れていた。
塩谷は、ジーパンに赤みがかったシャツというほとんどいつもの格好で、ゆったりと後ろの方にある二人用の座席に座りこんでいた。彼の隣はあいているが座る者はいない。彼は、外の緑溢れる光景を見ながら、ひたすら黄昏れ続けていた。
だが、そんな緩やかな時間も、長くは続かなかった。
バスが途中の停留所で止まり、中に一人分の足音が入ってきたのだ。とはいっても、塩谷はそちらに目も向けず、窓の外から一切視線を逸らさなかった。単純に興味が無かったのだ。
しかし足音は、不思議と塩谷の方向に向かってくる気配があった。
そして、叩かれる肩。それを受け、塩谷はゆっくりとその方向へと視線を移動させた。
「……ん?」
「あのっ……すみませんっ。ここ、隣いいですか……?」
そこには長い黒髪の、清楚そうな少女が立っていた。やたらとひらひらした白いワンピースを身に纏っている美少女がそこに居たのだ。
見開かれた大きな目は気弱そうにきょろきょろしており、色素の薄い小さな唇の前には不安そうに左手が添えられている。そのわざとらしいほど高い声といい、全体的にまるで小動物のような印象を与えてくる少女だ。
彼女は、他に多くの席が空いているのにも関わらず、塩谷の隣に座りたいと言ってきたのだ。
そこで塩谷は全てを理解する。そして、ため息を吐きながら同意する。
「うん。いいよ……ていうか、キャラ作り徹底してるね。辛籐さん。最早誰だよ、って感じだよ。僕、軽く感動しちゃったよ」
「えっ……? なんの、事でしょうか……?」
「いや別に。まあ、とりあえず席どうぞ」
「す、すみません。では、お言葉に甘えて……」
清楚系少女を装った辛籐空美が、スカート部分を手で抑えながら上品に座る。この少女、辛籐空美は普段と違う格好をしていた。
というのも、彼女はとある事情から外面をある程度気にしており、学校に居る時や外出時など、時々こういった清楚キャラを演じる事があるのだ。オフの、料理が絡まない場所ではこのキャラを保っていようという辛籐の心構えは、塩谷にとって非常に落ちつかないものであった。
辛籐が隣に座る際に、彼女特有の石鹸のような殺菌系の匂いが塩谷の鼻に届く。
彼女は少し潔癖すぎる節があるので、そういう匂い対策はやり過ぎなぐらいやっているのだ。
「ところで。あの、少しいいですか……?」
「何さ?」
「あのですね……」
辛籐は塩谷の手の上に、自分の手を絡めるように乗せてくる。冷たくて柔らかな感触に、塩谷も一瞬だけどきりとする。
しかし、直後、刺されたような痛みが走り抜ける。
思い切り爪を立てられたのだ。明らかに敵意や攻撃の意志を隠そうともしない攻撃だ。
「――――――っ!?」
爪が皮膚にめり込み、塩谷の肌が変色する。激痛。塩谷は、思わず声にならない叫びを上げた。
辛籐はそれを見て、薄く攻撃的な笑みを浮かべる。
そして、塩谷の耳元に思いっきり口元を近づけ、囁くような甘い声で告げるのであった。
「私が本性隠したいのは知っていますよね? 次、余計な事を言ったら眼球一個潰しますから」
「…………す、すんませんでしたー……」
辛籐が声を発するたびに耳に吐息がかかるのもあって、塩谷はあらゆる意味で落ちつかなかった。
そもそもにして、塩谷はこの状態の辛籐に苦手意識を感じていた。
本音を隠している感じがどうにもやり辛いのだ。その上、今のような攻撃行為までしてくる時があるので油断ならない。
加え、辛籐空美の清楚モードは塩谷の好みドンピシャリであり、それがむしろ彼の不快感を掻きたてていた。何故なら、どんな美少女を演じようとも辛籐は辛籐だからだ。
しかし、そんな話をしていても仕方がない。塩谷はとりあえずまず本題に入ろうと気持ちを切り替える。
「……ところで、辛籐さん。状況はどうなの? なんで僕、呼び出されたの?」
今回、彼らがバスに乗った理由。そしてその先にある目的は、一筋縄ではいかないようなものであった。
というのも、事のきっかけは、塩谷の元に送られてきた一通のメールだった。辛籐から送られてきたそのメールには短く「甘音さんの実家に行きませんか?」とだけ書かれていて、塩谷はそれにすぐ同意し、バス時間を調べたり詳しい時間を決めたりして、現在に至るというわけだ。
理由は聞かなかった。ただ、塩谷はこのままでは悶々として仕方がないから行くのだ。理由なんか後回しでいいと判断したのだ。
そして、その答えが今明らかになる。
「そうですね。現状は正直、最悪です……」
「何があったのさ?」
「まず、ですね。甘音さんの父である天川照真さんが、私含んだ複数の料理人を呼んだ話し合いの場でHelleNを潰す……と宣言したんですよ。理由は二つあって……」
「天川さんに対するふざけた親心と、僕に対する怒りってわけね」
「そうです……そして、甘音さんにも使者を送っていたみたいで……ここまでは、わかりますよね?」
「うん。でも、何で話し合いに行ったはずの天川さんが戻ってこないのさ?」
塩谷が何気なく聞くと、辛籐は急に真剣な表情を浮かべ、彼の襟首を掴んで引き寄せてきた。そうする事によって、塩谷の顔のすぐ傍に辛籐の顔があるという構図になる。事情を知らない人間が見たら、まるでこれからキスでもするかのような距離感である。
しかし、辛籐の目は平時のような鋭さを取り戻しており、塩谷からしてみればそんな甘い空気のわけがなかった。彼女からしてみれば、ただ単に、なるべく本性を隠すため顔を寄せたに過ぎない。このまま小声で、いつものテンションで話すつもりなのが簡単に想像出来た。
だからむしろ違う意味で緊張してしまう。
「な、何……? 本当に何……?」
「始音さん。貴方に、覚悟はありますか?」
「えっ……?」
低い声。それと、感情的な鈍い輝きを宿した辛籐の目に射抜かれ、塩谷は一瞬動けなくなる。
直後。辛籐は掴んでいた襟を離し、塩谷の身体を軽く押して元の位置に戻す。
一体何なのだと動揺する彼だが、とりあえずすぐに気持ちを整え、疑問を形にする。ちなみに辛籐は、何事も無かったかのように外面全開のモードに切り替わっていた。
「覚悟って、何の……?」
「あのですね。甘音さんが戻らない理由は、私にも詳しくわかりません。でも、甘音さんが相手にしている天川照真さん、って人は絶対に意志を通す人なんです。たとえ、それがどんな我がままだったとしてもです」
「やっぱりそういう人だったか……」
塩谷は、より強い怒りを感じる。
天川照真とは、人間として根本的に相いれないと思ってしまったのだ。
恐らく、それで天川甘音は抗議しても受け入れられなかったのだろう。戻らないというのはそういうことだ。
そしてその予想は当たる。
「天川照真さんは、甘音さんの意見を潰して、そのままお店の方も潰すつもり……みたいです。そこで、どうして私が始音さんまで連れて、天川邸に行こうとしているのか……わかりますか?」
「……やっぱり、天川照真さんに抗議するため、なのかな……?」
「よくわかってるじゃないですか」
辛籐がいきなり顔を近づけ、いつもの笑みで微笑む。
だが塩谷は、一番当たって欲しくない可能性が見事的中し、嫌な予感に全身を震わせた。
彼としては、もっと穏便に行きたかったのだが、辛籐のテンションは完全に徹底抗議のそれだった。
しかし、確かにそれぐらいはしないと天川照真は納得しないだろうと、彼は心のどこかで理解していた。それが今まで認められなかっただけで、認めた今となっては色んな物が見えてきていた。
辛籐は、そんな大がかりな事までして、HelleNを取り戻そうとしているのだ。そして、塩谷にその覚悟があるかどうかを問うたのだ。
けれどもその件について、塩谷はまだ結論らしい結論を出せてはいなかった。
「それで、覚悟、ね……。でも、僕はまだ自分がどうしたいかわからないんだ……別に、あの店に愛着があったわけでもないし、何より天川さんが納得してるなら仕方ないなって思うんだ……」
「そうですか……では質問を変えます」
「えっ?」
またしても顔を近づけ、真剣な表情を作る辛籐。
それに対して塩谷はまたか、などと思いつつもロクな反応が出来ずに、ただ慌てる事しか出来ない。
辛籐もそれに気付いているような仕草を見せつつも、あえてそれを無視した冷たい声色でこう告げた。
「貴方は、心の底から本当にHelleNでの日々がつまらないと感じていましたか?」
「……! それは……っ」
それは本当にずるい質問だった。
何故ならば、これは今まで塩谷が頑なに認めようとしなかった一つの真実を、浮き彫りにするような一言だったからだ。加え、もし塩谷がこれを肯定出来るような男であった場合、わざわざここまで時間をかけてまで来ているわけがない。だから、これはもう答える余地がないような、どうしようもない質問であったわけだ。
それを言った辛籐の表情は、真剣なまま戻らない。どうやらこの質問に関しては演技を挟むつもりは無いようだ。
塩谷は、静かに考える。考えながら、口を動かす。
「ごめん……それも、よくわからないんだ……」
「良く分からない、ですか。以前の貴方ならば、そんな曖昧な答え方はしなかったでしょうね」
「だろうね……でも、本当にわからないんだ。僕は、ずっとやめてやろうって思い続けてきたし、今だって少し清々した気持ちもあるぐらいなんだ……」
「では、どちらかと言えばつまらないと思っていたんですか?」
「うん。そう、言いたい……でも、何かが邪魔して言えないんだ。嫌だったはずなのに、嫌なこともいっぱいあったはずなのに、本当になくなった今、どうしてか少しだけ寂しいんだ……くそっ。なんなんだ、この気持ちは……」
「ふむ……貴方の気持ちはよくわかりました。でもまだ足りませんね。ああ、もう。じれったい! なんかむしゃくしゃしてきました」
「えっ?」
塩谷が驚きの声を上げると同時、辛籐が思いっきり頭を後ろに傾けた。まるで弓を引き絞るような、バネを引くような「溜め」を感じさせる動きだ。
その動きに、塩谷は恐怖を多大に感じ、咄嗟に逃げようと考える。が、逃げ場など無い事に気がつく。
何故ならここはバスであり、そして、彼のシャツの襟はいつの間にかまた辛籐に掴まれていたのだから。
「ちょっ、ちょっと待って!」
「これで、目を覚ましてください!」
直後。
弾かれるように辛籐の頭が戻ってきて、その弾丸のような勢いを伴ったヘッドバットは塩谷の頭蓋に激突する。まるで爆撃のような衝撃が、彼の頭蓋を突き抜け脳にまで届く。
刹那、彼の脳が激しく揺れ、一瞬全ての機能が放棄されかける。それだけ強い衝撃だったのだ。
ヘッドバットは、人間が簡単に使用出来る硬くて強い一撃である。自分もダメージを負いかねない諸刃の剣ではあるものの、相手の頭に鈍器系のダメージを与えられるのは何よりの強みだ。
そんな辛籐からの強烈な一撃を喰らった塩谷は激しくよろめくが、すぐに辛籐に両肩を抑えられて、無理矢理体勢を整えさせられる。彼の脳は、まだ揺れているかのような錯覚から抜け出せず、まだ正常な思考をする事が不可能であった。
しかし、それにも関わらず、辛籐は再度顔を近づけて言う。
「いいですか。私はこれから、何があっても自分の意見を通すつもりで行きます。天川照真相手にはそれぐらいしないと意味がありません。貴方はどうしますか、始音さん」
「えっ、えーっと……あれ?」
塩谷は、まだ脳が混乱していてまともに考える事が出来なかった。
彼がひたすら「?」を連発していると、しびれを切らした辛籐に思いっきり肩を揺さぶられる。
また、彼の脳は激しく揺れる事になってしまった。
「うわぁあぁ! やめて、辛籐さん、ちょっとこれはっ……!」
「いいから、さっさと結論を出して下さい! 私だって不安で不安でしょうがないんですから! 正直、ここ潰れたら私もうロクな行き場残ってないんですよ!? 貴方はハローワークに通い続ける元・超激戦区の覇者の姿を見たいんですか!?」
「そんな事言われても…………ぐっ!」
「づっ!」
勢いあまって二人の顔が激突する。
塩谷は歯のあたりに鈍い衝撃を感じ、頭の混乱含めたWショックでしばらく動けなくなってしまった。彼は頭と口元を手で抑え、ひたすら痛みを堪える。
涙に滲んだ視界の先には、同じく口元に手を当てて痛がっている辛籐が居た。どうやら自爆したらしい。彼女も細かい事を考えているほど余裕のある痛みでは無かったようで、涙目になってひたすらうずくまっていた。
しかし、数秒してから辛籐はゆっくりと動き出し、口のあたりを全力でウェットティッシュで拭いてから、機敏さに欠ける動きで塩谷に一指し指を向けてくる。最早、外面を気にしている設定は何処かに消えていた。
「ああもう……! 本当にじれったいです全く! 始音さん! 間違いなく、甘音さんはこの件について納得していません。でも、きっとそれだけじゃどうしようもないからこうなっているんでしょう? そこで質問です。貴方は、天川甘音さんを助けたくないんですか!?」
「天川さんを……助ける……?」
塩谷は、今まで考えたことも無かった事柄に、またしても疑問符を浮かべる。
確かに、辛籐の言う通り、これは天川を助けるかどうかの問題である。彼は、そんな事実に今更気が付く。
天川甘音。それは彼にとって大変迷惑な少女だった。突然、塩谷の教室に入ってきたと思えば人を拉致して、何を言い出すのかと思えば料理のコツを教えてほしいと勝手な事を言い出した。その理由も自分が料理対決をするためであり、思い返して見れば本当に身勝手な少女だった。それでいながら強い少女だ。一度、壁に当たって落ち込んでいる時もあったが、結局自力でよくわからない復活を遂げていたのだから。
そんな彼女が今、自力だけじゃどうしようもならない状況下にいるという事実。
塩谷はそれを受け止め、ゆっくりと思考を回転させていく。彼は、天川に借りがないわけでもない。
けれども、それを動くだけの理由には出来なかった。塩谷の今までの人生において、ちゃんと他人のためになる行動をした事など一度も無かった。それもあり彼は今迷っていた。
しかし、たった一つだけ言える確かな答えが胸中にあるのも、間違えようのない事実であった。
「……やっぱり、よくわかんないや……」
「全く、貴方という人は……!」
「でもっ……! なんか、今のまんまじゃ嫌だ……とも思う。そうだ。僕は、伝言での天川さんのお父さんの態度にムカついてたんだ……うん。やっぱり、そんな人に無理矢理店ごと無くされるのは、やっぱり気分が悪い。だから……」
「何ですか?」
「あの人の鼻っ柱をへし折って、僕は自分の意志でHelleNをやめてやる。天川さんを助けるなんて大きな事は言えそうにも無いけど、これだけは確かに僕の感情だよ」
塩谷は、ようやく自分の中で答えを見つける。
やはり、彼は元々守るとかそういった理由のために、頑張れる人間ではないのだ。
今までの料理対決だってそうだ。結局、ただどうでもいい相手を事務的に倒すか、気に食わない相手を叩き潰すのがほとんどだったのだ。
彼はその時の感覚を思い出し、覚悟を決める。これは、今の彼の限界であった。少なくとも、数ヵ月前まではこんな事は絶対に言えなかっただろう。
そんな彼の遅すぎる成長を認識したのか、辛籐も心なしか自然な笑顔で受け止める。
「何ですか、その自分勝手な理由は……でも、ま、その気持ちがあるなら合格です」
「合格?」
「こっちの話です。あっ、バスがつきましたよ」
こうして、バスは天川邸のすぐ傍の停留所で止まる。周囲に人工物がほとんど無い自然に満ちた背景をバックに、その洋館のような大きな建物は存在していた。
二人はそこを降りて、まっすぐ天川邸へと向かう。
胸に小さな覚悟を秘め、今、高名な料理人同士による話し合いが始まろうとしていた。




