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HelleN! -愛情よりも大切な-  作者: パンダらの箱
「ROUTE:SWEET」編 vs神
26/98

来客 -日常の終わり-

 超激戦区という場所がある。

 そこは、同系統の料理店が超密集して作られた戦場エリアの事である。そこにある料理店は常に人の奪いあいに参加する羽目になり、少しでも劣勢になれば、すぐにでも店をたたませられるリスクがあるほどの危険地帯。それが超激戦区だ。

 ここは中華系の超激戦区であり、やはり並ぶ店もほとんどが中華風を意識した外観をしていた。

 そんな中、空気を読まずに一つだけ、完全に別系統の見た目の店が存在していた。それは全体的に落ちついた茶色で、煉瓦造りを模したカフェテリア風の店であった。デザイン云々以前に、完全に周囲から浮いている。

 そこの看板には「HelleN」と書かれており、淡いオレンジ色の光が漏れる木製の入り口のあたりには「休業日」という札がかけられていた。よって中に客はいない。

 しかし、中には一組の男女がいた。


「辛籐さん、遅いなぁ」

「もしかして迷子になったのかしら!?」

「何回も行ってるわけだし、君じゃあるまいし、それは無いと思うよ」


 落ちついたオレンジ色の照明に照らされている店内は、どことなく英国風の雰囲気を漂わせており、どう見ても中華料理の店には見えなかった。

 テーブルや椅子には複数の種類があり、それら全ては一見乱雑に設置されているように見えるが、それが何とも生活感のある上品さを演出する事に成功していた。並べられている長いテーブルや、凝った装飾がされた木製の椅子や、低いテーブルの前で鎮座している大きなソファーなど、これら全てには年季が入ったような貫禄が醸し出されており、ここはまさしくアンティークに溢れた世界であった。

 二人は、丸テーブルを挟んだ二人用の席で向かい合って座っていた。


「失礼ね! わたしだって迷わない時ぐらいあるわよ!」


 長い茶髪に、つり上がった目の少女が大声を上げる。彼女は天川甘音。高校生であり、この店のオーナーでもある。

 天川の格好は珍しく私服だ。オレンジを基調とした薄手のパーカーと、赤チェックのミニスカートという明るい感じの服装だ。

 彼女は机を叩いて、眼の前の少年に思いっきり抗議する。


「たまにだけど!」

「そっか。でも、そもそも迷子になるってどうなの? ちゃんと調べてから行かない証拠だよ」

「うう……! でも、でも!」

「でもじゃないよ」


 応じる少年は、特に特徴らしい特徴を持っていなかった。

 強いて言うなら、短く切りそろえられた髪と、気だるげなたれ目の少年だ。服装も、ジーパンに白いシャツという適当なものであるため、特徴とは言い難い。

 彼は塩谷始音しおや しおん。天川の一つ下ではあるが同じ学校の生徒であり、この店の従業員だ。一応、元、伝説の料理人と呼ばれていた経緯のある彼だが、今はとある事情から料理をやめている。

 二人は、とある事情から、この店で辛籐空美の帰還を待っていた。


「それにしても、本当に遅いね辛籐さん。本当に、どうしちゃったんだろう」

「うーん、行く前は確かに『どうせいつものパターンですから。すぐ終わりますよ。きっと』って言ってたのに……おかしいわね」


 数時間前、ここの従業員である辛籐空美という少女は、天川の父親に呼ばれて天川邸まで行ってしまった。天川邸とは、この天川甘音が現在住んでいる屋敷では無く、この街から少し離れた場所にある、実家の超豪華な豪邸の事である。

 そんな場所に、辛籐は今回、名指しで呼ばれたらしい。彼女の家も属している、五味グループという料理界のトップグループの面々も同時に呼ばれたようで、おそらく何らかの話し合いがなされている事は容易に想像可能である。

 だが、天川甘音の父である天川照真は変わり者として有名で、結構気まぐれを起こす人だったようだ。よって、毎回集まったわりに大した話をしないため、すぐ終わるのがお決まりのパターンだったらしい。

 しかしながら、今回、辛籐の帰還はあまりにも遅かった。今日は三人でこの店の整理整頓を行う約束をしていたのにも関わらずだ。


「これは、本当に何かあったのかもしれないわね……」

「ちょっと天川さん、恐い事言わないでよ……ん?」


 唐突に、ドアが開いて、来客を告げるベルの音が鳴り響いた。

 塩谷と天川は咄嗟に振り向く。今日は休業中の札を出しているので、来る相手と言えば辛籐ぐらいだ。

 二人は、待たされた不満をここぞとばかりに爆発させる。


「ちょっと空美、遅いわよ! 何処で何してたの!? もしかして迷子…………あれ?」

「辛籐さん。一体どうしたっていうのさ。結構待ったんだけど…………あれ?」


 二人は、振り向いた姿勢のまま硬直する。

 何故ならば、店に入ってきたのは辛籐空美では無かったからだ。

 軽くウェーブのかかった銀色の短髪に、真っ白な肌、そしてどことなくぼーっとしている銀色の目、そんな不思議なオーラを纏った少女が入ってきたのだ。服装は、何故かそういう季節でも無いのにも関わらず、赤いダッフルコートである。下は黒いロングスカートで、そこから伸びる細い脚には黒いタイツが装備されていた。靴も、温かそうな冬靴だ。

 塩谷も、天川も、一瞬何も言えなかった。

 そして、その隙をついて少女は喋り始める。


「やっほー。ここ、へれんって店だよね」

「ちょっちょっ、ちょっと待って! 君、誰? 天川さん、知り合い?」

「ううん……全然知らないわ……」


 どうやら天川も知らないような相手であった。

 塩谷の中で、どんどん混乱が大きくなっていく。閉めたはずの店に、いきなりこんな外国人のような見た目の少女が当たり前のように現れたら、それは誰だって動揺ぐらいするだろう。

 しかし、彼はふと冷静になる。もしかしたら、入り口についている休業中の文字が見えなかったのかもしれないという可能性に気がついたのだ。間違えたのならば納得である。

 だから、塩谷は口元をなるべく笑みの形にするよう心がけ、椅子から立ち上がって少女に近づく。


「もしかして、お客さんかな? でも、ごめんね。今日は休みなんだ」

「うん、知ってるよー。休業中、って書いてあったもんねー」

「えっ?」

「みーは別にお客さんじゃないよー。ここに居るあまかーさんって人に、伝言があってきたんだー」

「わたし? えっ、誰から? ……いえ、その前に、立ち話もなんだし、まずは座って話しましょう」

「おーけー。じゃ、おことばに甘えてー」


 塩谷は、これはまた妙な人が来訪してきたものである、なんて純粋な感想を浮かべる。

 と、彼がそんな思考をしている間に、天川は席から立ち上がり、四角いテーブルを四つの席で囲んだ四人席へと移動する。

 それから、塩谷と少女を促してきたので、みんなでその席に座る事となる。天川と塩谷が並んで座り、天川の対面に少女が座る形になった。まるで面接しているかのような構図である。


「で。まず何よりも先に、あなたは誰なの?」


 天川は少女に視線を向け、質問を飛ばした。

 とにかくこれを聞かない事には、何も始まらない質問だ。この少女には謎が多すぎる。だいたいにして、天川に伝言をしに来たとの話だったが、本当かどうかも怪しい物である。

 少なくとも、天川の方は全く心当たりが無さそうだったが、本当に伝言を告げる相手があっているのか、塩谷は少し気になっていた。

 けれども、その懸念はすぐに払拭される事となる。

 少女は、頬を緩めるような脱力した笑顔を浮かべ、自分の胸をとん、と叩く。


「じこしょーかいが遅れた。みーは霜月散葉しもつき ちるはっていうんだー。あまかーさんなら知ってると思うけど、五味グループの集まりとかに、いつも霜月家代表であまかーさん家に行ってる霜月詠華っているじゃーん。みーはその妹だよーん」

「え、霜月詠華って、あのキンキンやかましいクソ女の事よね?」

「いえーす。たしかにお姉ちゃんはうるさいよねー」


 どうやら、この霜月という少女は、あながち天川との接点が無いわけではなさそうだった。

 しかし、どうしてそんな少女が突然訪問してきたのか。五味グループというぐらいだから、やはり天川の身内関連の何かなのではないだろうか。塩谷は、辛籐が戻らない事も考えて、次々と嫌な想像を膨らませる。

 彼は、黙っていても不安が募るだけだと判断し、とりあえず質問をしてみる事にする。


「それで、どうしてその、霜月さんがここに? 伝言って誰から?」

「ちょーっと、たいむ! その霜月さんっていうの、お姉ちゃんと被るからやめてほしーな。両親はともかく、おにーさんも料理人って事は、いつかお姉ちゃんと会うかもしれないし」

「元、料理人だけどね。じゃあ、なんて呼べばいいのさ……」

「散葉ちゃんでいーよ。あ、先に言っておくけど、さん付けとか呼び捨ては無しね。さん付けだと、なんかみーが偉そうだし、呼び捨てはもうちょっと仲良くなってからがいーな」

「えー……あんまり気乗りしないなぁ」


 正直な話、塩谷は、あまり他人を下の名前で呼ぶのが好きではなかった。自分が言われた時、落ちつかないからだ。

 しかし、相手がこう言う以上は、従わないと話が聞けないだろう。

 塩谷は渋々、相手の言う事に従う事にした。

その際、隣の天川が何故か若干不服そうな顔を浮かべていたが、今はそちらに意識を向けるわけにもいかないので、無視する事にする。どうせ、本来付き合いが長いはずの自分が名字で呼ばれているのに、霜月は初対面で下の名前で呼ばれているのが気に食わなかっただけだろう。

 だが、後にしこりを残すわけにもいかないので、塩谷もなるべく真剣な顔を浮かべ、あくまで質問のために話しかけたというのを強調する。


「じゃあ、散葉ちゃん」

「なにー?」

「なんで、ここに伝言をしに来たのが君だったの? あと、その伝言は誰から聞いたもの?」

「それはねー。あまかーさんからの伝言でー。みーはあまかーさんの秘書だからー」

「天川さんが天川さんに伝言? どういう事?」

「あー、こっちにいる娘の方のあまかーさんじゃなくて、みーが伝言を預かったのは父親の方のあまかーさんだよー」

「えっ、父上が!?」


 天川が大きく反応する。

 霜月は、天川家の父も娘も何故か両方「あまかーさん」と呼んでいるため少しややこしいが、今の言い方だと天川父から天川甘音に何か伝言があるようなのは確かなようだ。

 その事実に、天川の表情は複雑そうなものへと変化していく、どうやら父親から伝言が来たというのが相当珍しかったようだ。

 天川甘音の父、天川照真は「天照大御神」の異名をもつ、最強の料理人のうち一人だ。その実力は、あまりにも料理による人心掌握力が高すぎるため、普段は本気の料理を封印するように国から言われているほどのものだ。それだけの処置を受けているのは、彼と渋堂我竜という同格の料理人ぐらいである。

 そのせいか、天川照真は昔から娘に構う事が少なかったようで、塩谷も天川甘音本人から父の話を聞く事はほとんど無かった。だから、今回は本当に珍しい事だったのだろう。

 しかし、だからこそ何か嫌な予感がすると、塩谷は少し身構えた。ちなみに隣に座る天川は、逆に身を乗り出している。


「そんな、珍しいわね……一体、なんて?」

「じゃー早速伝えるよ。ちょっと待ってねー。あっ、あ……あー……あっ、あっ……」

「? 一体、何してるの?」

「あー、おほん。伝言、再生。『マイクテス、マイクテス』」

「「!?」」


 塩谷と天川は仰天する。

 なんと、霜月のか細かった声が、突然優しそうな男の声へと変化したのだ。

 塩谷は、即座に食柱毒だと判断する。食柱毒とは料理人が持っている超能力の事で、その種類はかなり豊富だ。

 だから、こういった声を変えるような、料理と関係の無い能力も珍しくない。今のを聞いて天川が「父上の声だ……」とぼやいていた事から、おそらくこれは天川照真の声なのだろうと考えられた。

 霜月は、その照真の声で続けた。いつの間にか、顔つきもニヤニヤしている軽薄そうな物へと変化している。どうやら真似出来るのは声だけじゃないようだ。彼女は、まるで別人のような笑みで話し始めた。


「『やあ、甘音ちゃん。久しぶりだね。今日は、甘音ちゃんに伝えたい事があって、こうして伝言を飛ばしたんだ。あっ、そうだ。その前に、辛籐ちゃんはもう二度とその店に戻らないからね。待っても無駄だよ』」

「えっ、どういう事!?」

「わかんない、でも、とにかく聞いてよう……何かわかるかもしれない」

「『とはいっても、別に辛籐ちゃんに何かがあったわけじゃないよ。むしろ逆、甘音ちゃんが今やってる店、それが今日、無くなるんだ。いや、正確には僕ちんが全力でこの店を潰して、君を楽にしてあげるんだ。もう正直、甘音ちゃんも才能無いのに料理やってるの疲れたでしょ? これはせめてもの親心だよ!』」

「はあ!? どういう事よ! ねえ! ねえってば!」


 霜月の肩を掴んで揺らしている天川をぼんやり眺めながら、塩谷は嫌な予感が的中した事に奥歯を噛みしめる。

 天川照真が一体どんな手を使ってくるのかは不明だが、どうやら彼はこの店を潰すつもりのようだ。実際、彼ほど強大な人物ならば、店一つぐらいどうとでも出来るだろう。何せこの男は国内最強クラスの料理人なのだ。その気になって出来ない事の方が少ないだろう。

 それは、あまりにもストレートすぎる死刑宣告であった。


「……なんて勝手な……」


 塩谷の胸に湧き上がってきたのは、恐怖や混乱などでは無く純粋な怒りであった。

 彼自身、この店に特別な愛着があるわけでは無かったが、ただ単純に天川照真の横暴さに苛ついたのだ。

 天川甘音はたしかに不完全な人間ではあるが、少なくとも店の経営はきちんとしていたし、学業とも両立していたし、そもそもこの店の権利は彼女が勝ちとったものである。

 それをよくわからない理屈で潰すのが、塩谷にはとても気に食わなかった。

 天川も同意見だろう。しかし、彼女がいかに肩を揺さぶろうが、霜月はただただ不気味な笑みを浮かべて、無情な機械のように伝言を続けるだけである。


「『とはいっても、甘音ちゃんはすぐには納得してくれないだろうね。だから、一旦帰ってきなよ。実家の方に。僕ちんとゆっくり、話合いをしよう』……ぷしゅー。はい、さいせーかんりょー! なにか質問あるー?」


 霜月の声が元に戻る。

 これで伝言が終わったらしい。しかし、それを受けた二人には不満しか無かった。

 だから、質問という形でそれをぶつけるつもりだ。

 塩谷がちらりと天川の方を見ると、彼女は完全にやる気のようだった。天川は即座に机を叩いて発言する。


「ありまくりだわ! まず第一に、何で電話じゃないの!?」

「それは僕も気になってたけど、それ真っ先に聞く質問かな!?」

「あーそれね……あまかーさんは、最近色んなところから連絡くるから、もうやになって、通信機器の類には嫌がって触れよーともしないんだー」

「駄目人間じゃない! だったら他の誰かにかけさせればいいじゃないの! あと、なんでこんなに手間かかる方法選んだのよ!?」

「えー? そこどうでも良くなーい? ま、いっかー。たしか。あまかーさんは、この店に直接出向いていろいろ見てこーいみたいな事いってたんだよねー。ま、実際見てみて、みー的には問題なさげだったけど」

「……そう。じゃあ、最後に聞くわ。今の話ってどういう事?」

「そのままの意味だよー。詳しい話は、直接こーいだってさー」

「わかった。行くわ」


 言うなり、天川はすぐに立ち上がって、霜月を促す。迷いの無さ過ぎる動きだ。それを見て、霜月も「よっこらせー」という脱力しきった声を上げて立ち上がる。こうして二人は、店の出入口の方へと歩いていった。

 どうやら話をつけにいくようだが、塩谷にはもう悪い方向にしか話が進まない予感がしていた。

 だから、簡単に同意するわけにはいかなかった。

 そんな思考があった後に、塩谷も遅れて立ち上がる。


「ちょっ、ちょっと待ってよ天川さん!」

「何よ?」

「なんか、やな予感するし、もうちょっと出方を確認してからでも……」

「嫌な予感がするのはわたしも同じだわ。でも、来いと挑発された以上は行ってやる。そっちがどんな考えなのかはわからないけど、わたしはこの店が大事だから、やめるつもりは無いって」

「で、でも……」

「大丈夫よ。どうせ気まぐれな父上の事だし、真剣に話せば聞いてくれるわ。何も心配する必要なんて無いから、始音くんは、そうね……今日のところはもう帰って、家でゆっくり待ってて」

「……う、うん……」


 塩谷は、それ以上何かを言う事が出来なかった。

 これは一応他人の家の事情であるので、あまり深く介入してはいけないと判断したのである。

 それに、天川の力強い口調と、光の宿った強い視線に安心してしまったのだ。事実、これで彼女は絶対的格上相手の辛籐に勝利を収めている。無論、塩谷のサポートなくして得られる勝利では無かったが、それでも塩谷に頼ったのは天川であるので、彼女自身が奇跡を呼び寄せたと捉えられなくもない。

 これは、実績を伴った笑顔であるため、不思議な説得力があった。

 だから、ここで天川に任せるしかないと決め、塩谷は制止するために上げた手を下ろす。

 そんな彼の懸念とは裏腹に、天川と霜月の会話はどんどん進んでいく。


「すぐ行くのー? 荷物の整理とかはー?」

「必要無いわ。鍵とかは持ち歩いてるし、それに、すぐ戻るもの」

「そー? じゃあ、いこっかー」

「そうね。それじゃ、行ってくるわ」

「う、うん……いってらっしゃい……」


 塩谷は手を振り、二人を見送る事しか出来ない。

 彼は、こんな状況だというのに何も出来ない自分に、抑えきれない歯がゆさを感じる。

 しかし、いくら元伝説の料理人といえど、結局のところ彼は普通の人間より料理が上手いというだけの、ただの高校生だ。こういった危機に対応する能力はもっていない。

 だから、ここは天川に任せて傍観する事しか出来ないのだ。塩谷には、何ともそれが苦痛だった。

 別に、彼はこの店を守りたいと思っているわけではない。ただ、このまま天川照真の言いなりになるのが気に食わなかったのだ。

 彼がそんな悔しさを噛みしめていると、ふいに扉の方に居た霜月が振り返る。


「あっ、そうだ。もいっこ伝言忘れてたー。しおんさんっていうのは、そこのおにーさんの事でいいんだよね?」

「えっ、ああ。僕だけど……」

「そっかー。じゃ、あまかーさんの伝言いっとくねー。ちょっと待って、あっ……あああ。あっ……あ……」


 霜月は再度発声練習を始める。どうやらこれは能力発動に欠かせない仕草のようだ。

 実は、こういう発動スイッチみたいな物は他の能力にも存在する。例えば辛籐空美の能力は念動力だが、彼女は能力使用前に必ず首を左右に動かして音を鳴らしている。これは心の中にある発動スイッチを押すために必要な仕草なのだ。霜月の場合はそれが発声練習なのだろう。

 それにしても天川照真からの伝言とは一体なんなのか、と塩谷は思う。お互い面識がないのにも関わらず、いきなり伝言とはどういう事なのか。彼は色々と想像を膨らませるが、それらしい答えは見つからなかった。

 しかし、すぐにその答えは霜月の口から発せられるだろう。何故なら、彼女はもう発声練習を終え、ニヤニヤした軽薄そうな笑みを浮かべ始めたのだから。

 だが、一秒後にはその表情は憤怒の形相へと変わる。


「伝言、再生。『とぉころぉでぇ! 塩谷始音くん、とか言ったっけ? 娘の店で働いてるクソ従業員は!』」

「……あっ。いきなり喧嘩腰なんだ。すごく気分悪いや」

「『ま、どうでもいいけどさ。君、娘に何か変な事してないだろうね!? いや、聞くまでも無いな……娘と二人で仲良く協力してた時点で下心見え見えだものねぇ! こんのクソエロガキめ!』」

「ええっ!? いきなり何言ってるの父上!? それはあり得ないわよ! ねえ、始音くん!」

「……」


 塩谷は、呆れるあまり深いため息を吐き、霜月のそばに立つ天川に視線を向ける。

 こうして改めて確認すると、天川甘音は確かに美少女だ。顔立ちは整っているし、強気そうな顔つきも好む層は好むだろう。別に太っているわけでも痩せているわけでも無く、いたって健康そうな身体つきもプラス要素だろう。

 しかし、塩谷はそれらの情報と彼女の性格や能力を合わせて考慮し、真剣に結論を出す。


「……同感だよ。無いわー」

「無いわとまで言われた!? 始音くん、それは流石に失礼よ!?」

「ごめん。でも、急になんて事言いだすんだろうね。この人」


 塩谷が天川に手を出す事はあり得ない。

 なぜならば、天川甘音の全てが、塩谷の好みからかけ離れているからだ。あまりにも、かけ離れ過ぎているのだ。

 彼はもっとおしとやかな人が好みなのだ。それに、もっと譲れない拘りもある。

 そう、これは彼が幼少期から抱き続けている理想だ。

 自分より料理が上手い子と付き合いたいという高すぎる理想。それを満たさない天川は、塩谷にとってストライクゾーンどころか、打席にすら立っていないほど理想とかけ離れていた。


「『で! 君はどうせ僕ちんの目の届かないところでよろしくやってるんだろぉどうせさ! ああ、僕ちんの甘音ちゃんが穢されていく……ああ、何なんだこの不快感は……この……このぉ!』」

「不快はこっちの台詞だよ。なにこの人」


 塩谷の怒りは来るところまで来ていた。

 これでは濡れ衣もいいところである。百歩譲って言っている内容を許容したとしても、根拠に欠けるその物言いは、彼にとって不快な要素以外の何物でもなかった。

 今、この場に居るのは霜月だが、塩谷と天川照真はこの場でもう既に火花を散らし合っていた。


「『くたばれクソゴミエロガキィ! 二度と娘に近寄るな! わかったな!?』……ぷしゅー。さいせーしゅーりょー。どー?」

「胸糞悪過ぎて吃驚だよ。正直、ここに娘と秘書が居るから言い辛いけど、真剣に人の親を殴りたいと思ったのはこれが初めてだよ」

「……わたしは今、どんな顔をしていいのかわからないわ」

「そっか。それにしても、今の感じだと、店を潰す理由って絶対私怨混じってるよね」

「そりゃーそーだよ。だって、あまかーさん最近すっごくお怒りだったもん。なんか、娘の店に男が居るだとか言って叫び回ってた」

「私怨確定だね。僕は今、すごく気分が悪いよ」


 塩谷は、これによって天川照真を気に食わない対象として認識したという。

 その傲慢な態度や、人の都合を考えない自分勝手さ、動機が私怨という器の小ささ、これら全てが塩谷の逆鱗に触れた。

 彼の脳内で怒りが炸裂する。会った事も無い人間にここまで不快感を抱いたのは、彼至上初めての出来事だった。

 そんな怒りを爆発させている塩谷だったが、その後の天川の発言によってすぐ正気に戻る。


「さて、用事はもう終わり? なら、もう行きましょ」

「あっ……」

「そーだねー。もう流石に用事ないしねー。じゃ、行こ行これっつごー」

「そうね。じゃあ始音くん、行ってくるわ」

「……うん。二度目になるけど行ってらっしゃい……」

「行ってきます」


 こうして、少女ら二人は扉を開け、店の外に出ていく。

 塩谷は、天川の後ろ姿に、今まで感じた事の無い類の不安を感じてしまうが、やはり何も言えなかった。

 扉の閉まる音と共に、彼は店内に一人取り残される。

 さっきまでそれなりに会話があったため、その静寂が妙に寂しく感じられた。

 塩谷は、そんな自分の心情に苛つきながらも、このままこの店に居ても仕方ないと気がつく。


「帰るか……」


 それから、塩谷は荷物をまとめて店の鍵を閉め、家に帰った。

 彼は別にHelleNに好きでいたわけでは無かったので、これは悪くない展開であるはずだった。

 が、家で何をしていても、何故かいつも以上に胸がざわついて、全く落ちつかなかった。

 彼は、そんな自分に対して怒りを覚えながらも、感情のぶつけ場所がわからずにむしゃくしゃしていた。


 そして、その日の夜。

 天川からメールが来たので確認してみると、そこには「HelleNはしばらくお休みになるわ。必要な時になったら呼ぶから来て」と書かれていた。塩谷はそれを見て、また言い知れぬ不安を感じるのであった。

 それから数日間、天川からの連絡は無く、塩谷自身もHelleNに行く事は無かった。彼としてはこれで良かったと言える結末だったのにも関わらず、妙に持てあましている感じが落ちつかなかった。

 結局、彼は一週間ほど落ちつかない日々を過ごす羽目になってしまった。彼の元に天川が現れる事も辛籐が現れる事も無かった。まるで、これまで過ごしてきた日々が幻だったかのように。

 そんなある日、塩谷の携帯に一通のメールが届く。それは辛籐空美からのメールであった。

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