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HelleN! -愛情よりも大切な-  作者: パンダらの箱
「ROUTE:SPICE」編 ~性感帯克服~
21/98

天川之拳っ!

「さて、これぐらい待てば、外ではち合わせる心配も無いよね。じゃ、僕ももう帰るね」


 塩谷始音は、少ししてから、辛籐に言われた通り帰る事にした。

 どうせあんな相手と話したところで、こちらの不満が溜まるだけである。

 彼からしてみれば、もうどうでもよかったのだ。こんな瑣末事など。

 だから、さっさと荷物をまとめて帰る準備に取り掛かる。


「待って、始音くん」

「……」


 塩谷は手を止め、背後から話しかけてきた天川に対して、不満げな表情を浮かべる。

 天川は俯いたまま佇んでいた。何か言いたげな雰囲気である。

 だが、塩谷は今更そんな第三者の意見など求めていなかった。正直、このままHelleNをやめてもいいぐらいなのだ。

 だから、あえて無視して作業を再開させる。


「ちょっと! ねえってば!」

「何さ、今ちょっと話したい気分じゃないんだよね」

「料理で手を抜いたって、本当?」

「……っ」


 こうやって、相手の発言を無視して話を進められるのは、天川の特権である。

 塩谷は、そんな知りつくした事実を、みすみす見過ごしていた自分にため息を吐きながら、再び手を止めて、きちんと振り返る。

 天川相手に無視は通用しない。多少は疲れるが、一度話し合って、意見をぶつけてねじ伏せるしかない。

 そう判断した彼は、再度怒りを再燃させる。


「別に。手なんて抜いてないよ。むしろ、結構本気で見極めて、ギリギリ負ける料理を全力で作ったつもりだけど」

「でもそれ、勝つためのベストを尽くしてないじゃない。少なくとも空美は、本気で勝とうとしてたわ」

「そうかな。僕には半ば諦めてるように見えたけどね」

「それでも、手は止めてなかったし、勝つためにやるべき事はちゃんとしてたわ。どう考えても、勝ちを捨てる発想には至っていなかったと思うけど」

「あのさ、みんなして何を怒ってるの? だって、僕が本気出したら勝つに決まってるじゃん。だけど、それじゃ解決しないからこうやって花を持たせてあげたのに……」


 塩谷は、一切の嫌み抜きで、今の台詞を言ってのけた。

 彼にとって、勝つのは当然の事なのだ。実際、渋堂我竜という少年と出会うまで、彼の無敗神話は続いていた。それも全て勝とうとして勝ったわけではなく、ただ単純に思うがまま調理していれば勝てたのだ。これが天才と言われていた所以だ。

 だから彼は、今までの料理人生において、まともに転んだ事がほとんど無かった。

 そもそも今の塩谷始音の状態は、それなりに緩和されている状態であり、昔はもっと歪んでいた。

 敗北を味わうまでの彼は、自分以外の人間は敗者であると本気で思っていたり、あえて手を抜いてギリギリの勝利を楽しんだり、負かした相手の才能の無さを糾弾して料理をやめさせたりなど、もっと問題のある人格だったのだ。

 それがここまで改善したというのに、何故ここまで言われなくちゃならないのか、塩谷には不思議で不思議でしょうがなかった。


「だいたい手を抜いても僕は勝てたんだから、手を抜く事に関して何か言われる筋合いは無いよね。むしろ、それで勝たせてあげただけ感謝して欲しいというか……」

「始音くん」

「何さ? 言っておくけど、説教とかそういうのはもう聞きたくな……」

「馬鹿ぁっ!!!!」

「ぎゅもっ!?」


 天川に顔面をグーで殴られ、塩谷は妙な声を出して、地面に頭から倒れこんでしまった。

 体重の乗ったいいパンチだ。それは、握った手のひらというよりは拳、という表現が似合う硬さの一撃である。それは明らかに女らしい破壊力では無かった。

 塩谷的には、何か来るにしても、どうせビンタ程度であろうと予測していたので、完全に予想外過ぎて何も反応出来なかった。仰向けに倒れたため、店の天井がよく見えた。

 が、詳しく見る前に胴体の部分に重さを感じて、すぐに視点を切り替える。すると、天川はスカートを手で抑えながら、塩谷の腹の部分に座り込んでいた。一発のパンチで終わるかと思いきやまさかのマウントポジションである。と、認識した直後にはまた殴られていた。


「!? ? ? !?」

「今、何で自分が殴られたかわかる? わかんないなら、さっさと歯を食いしばりなさい!」

「…………えっ!?」


 塩谷は咄嗟に「それ一発目の前に言おうよ」と考えたが、その直後には、拳によって制裁されていた。

 マウントポジションとは、仕掛ける側と仕掛けられる側で、優劣がはっきりする態勢である。

 上に跨った方は、上から下へと叩きつける攻撃が出来るため、単純に攻撃力が上がる。

 それに対し、受けた方は、下から上へと反撃しなければいけないので力を入れにくい。そもそも寝た態勢から繰り出す攻撃の威力など、たかが知れている。その上、上体がフリーの相手はそれをかわしやすいという特性まである。

 もっとも、塩谷に反撃のつもりは無いが、天川の攻撃の威力が上昇しているのはまごう事なき事実である。

 彼はまだ、殴られ続けていた。


「い、痛い! 痛いって! 何すんのさ!」

「わたし自身よくわかんないけど、一発殴らなきゃいけない気がしたの!」

「じゃあ一発で済ませてよ!」

「やかましーーーっ!」


 マウントなのにも関わらず、顎を掬いあげるような低めの軌道のアッパーカット。特に強い一撃が、顎にクリティカルヒットする。

 マウントポジションの恐ろしいところは、下敷きになった人間が顔面に強烈な一撃を食らった時、後頭部が地面に叩きつけられてダメージが増すという点だ。まさしく塩谷はそれを身をもって痛感し、ついに鼻の血管が切れて血が流れ出す。

 それを見た天川は、自分の制服のポケットからポケットティッシュを取り出し、雑に丸めて、無理矢理塩谷の鼻に押し込んだ。

 そして、ゆっくりと立ち上がって、一度天に向かって指を掲げてから一気に振り落とす。


「聞きなさい、塩谷始音くん!」

「……な、何かな」

「あなたは、自分が手を抜かれたら悔しくないの!?」

「……それは……そうだけど」


 それは、小学生相手にするようなレベルの説教であった。

 しかし、塩谷のこれまでの人生において、そこまで言ってくる相手は皆無だった。

 そのため、彼は今激しく混乱していた。こんな経験、人生で初めてだったのだ。そうそうあってたまるかという話でもあるが。

 何故殴られたのかは全くもって不明だが、とにかく真面目に怒られているのだけは確かだ。塩谷は、それだけをぼんやりと認識しながら、虚ろになって話を聞く。


「もし、塩谷くんが今まで倒してきた人の中で、わざと負けた人が居たとしたらどう思う!? ムカつくって思わない!?」

「……でも、再戦したらどうせ勝つのは僕だし……」

「じゃあ、もし勝てない相手にそれをやられたらどう!? 例えば、あなたを負かしたって話の渋堂我竜くんがそれをやったとしたら!?」

「…………確かに、嫌だけど……」

「なら、自分が一体どんな事をしたのかわかるでしょ!?」

「……う、うん」


 殴られたせいもあり、塩谷には反撃の気力が残っていなかった。

 普段ならば屁理屈で逃げられるはずが、そんな気力すらも削がれていたのだ。

 言われている内容は、正直かなり低レベルだ。しかし、塩谷にとってそれは初めての事だったので、対処方法が見当たらなかったのだ。お陰で、やたらと素直な受け答えしか出来ない。

 その姿は、まるで母親に怒られ、しょぼくれる小学生のようだった。


「わかったら、まだここに残ってなさい」

「ええー……何でさ。時間の無駄だよ……それにあんまり顔合わせたくないというか……」

「ねえ、始音くん。もし、あなたが倒した相手が、後から実は手を抜いてましたって言ってたら、あなたはその人をどうしてやりたいと思う?」

「えっ、そうだな……とりあえず、じゃあ次は本気でやろうと言って、そいつの本気を叩き潰すかな。なるべく手を抜いて」

「……そう。た、多分、空美もそう思ってるはずよ。最後の一言以外」


 天川は、ちょっと予想外の事を言われて予定が狂ったかのような顔をしていたが、概ね言いたい事は伝わった。

 つまり彼女は、全力で再戦しろと言っているのだ。

 ここに来て、塩谷も自分の本当の気持ちに気がつく。彼としても、このままわだかまりが残るのは、やはり落ちつかなかったのだ。一応、それなりに長くなりそうなこの店での勤務なのだから、過程はどうであれ同期とは仲良くやっていたい。そんな思いに今更気がついたのだ。

 塩谷は、それはもう大きくて深いため息を吐く。

 もう、ここまで来たら、やる事は決まってしまったからだ。彼は今日一日の平穏を犠牲にする事に涙を呑みながら、ひとつの決心をする。それは戦う覚悟を伴う決断である。

 しかし、それはあまりに面倒な事であり、彼はやはり落胆の色を隠しきれなかった。


「あーあ……面倒臭いなー……でも、仕方ないか。いいよ。ここまで来たらやるよ。やるから」

「良かったぁ。わたしとしても三人の仲がこじれるのは嫌だったから、本当に良かったわ! 今度は、ちゃんと本気でいくのよ?」

「わかってるよ。あんな、全力の四十分の一以下の低クオリティではもうやらない。次は、本気で行くから」


 塩谷は決心を口にする。

 今度はもう、あんな雑すぎる仕上げや、あんな雑すぎる味付けはしない。

 そういった決意を胸にした言葉であった。

 だが、何故か天川は目を丸くして「えっ……?」と言っており、それだけが不可解だった。

 それが、塩谷の秘めた実力に対する驚きだったという事実は、それこそ彼の知る由も無い事実であった。

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