開戦理由っ!
時は数時間前まで遡る。
HelleN店内は、休業日のため閑散としていた。
だが今日は、後日のために少しやる事があったため、従業員は集まるようにと言われていた。そんなわけで、今、店の中には塩谷と辛籐が居る。
しかし、だいたいの雑用はすぐに終わらせてしまったため、二人ははっきり言ってする事が無かった。と、いうわけで今は半ば自由時間のようなものである。
今日は用事で学校に行くという天川に、ついでに食材の調達を任せ、店内で暇を持て余していた辛籐空美は、客用のテーブルの上でがっくりと項垂れていた。
「ううう……」
「どうかしたの、辛籐さん?」
辛籐が声のした方に首を動かすと、そこには特徴のあまりない少年が立っていた。塩谷始音だ。
どうやら辛籐がこうして項垂れているのを見て、何かあったのかと心配したのだろう。
それは当然だ。何故ならば、この店は辛籐が命綱と言ってもいい程、ギリギリの状態に追い込まれているのだ。彼女がここで再起不能になると、色々と面倒な事になるのだ。
塩谷の心配はそんな打算的なものだろう。なんて事を辛籐は理解しつつも、あえて相談に乗ってもらおうかなとも考える。別に相手にどんな思惑があろうと、話を聞いてもらう分には問題ないはずだと思ったのだ。
「いえ、ただ、最近思う事がありましてね……」
「何さ?」
「私って、料理を作ってるくせに、料理が食べられないじゃないですか……それなのに、最近、近所の人達が私の現状を知ったのか、憐れみで色んな食べ物をおすそ分けしてくれるようになったんですよ……食べられないというのに……」
「ああ、ありがた迷惑ってやつだね」
「失礼ですが、全くその通りなんです。食材だけならまだしも、調理済みのものも多くて……どうしようかと思っていたところなんですよ」
「なるほどね」
塩谷の口調から一気に興味の色が抜け落ちた。やはり、彼は店の事だけを案じて聞いたという事がよくわかる反応だ。彼は、辛籐の悩みがそんなに致命的じゃないという事しか見てないはずだ。
しかし、辛籐はそれでも良かった。彼女が欲しいのは解決案では無く、ただの愚痴を言う事によるストレス発散だ。
辛籐空美という人間は、体質的に料理を食べると大変な事になるので、食事はいつも栄養剤だけで済ませている。だというのに、それを考慮せずに料理を渡してくる連中が、正直な話疎ましく感じていた。だいたいにして、彼女は他人の作った料理をあまり快く思っていなかったのだ。
たしかに、元々豪邸に住んでいたはずの彼女が、勝負に負けたせいでボロアパート暮らしになってしまったのを聞けば、誰でも気の毒ぐらいには思うだろう。しかし、だからといって、食事に困るレベルでは無いのだ。
「善意はありがたいんですよ。善意は。でも、ありがたいのは本当にそれだけなんですよ。捨てるのも何か申し訳ない気がして、今や冷蔵庫が狭いです。あーあ。せめて私の体質さえ何とかなれば……」
「それ、もうどうにもならないんじゃないかな」
「ですよねー……こればっかりは、どうにもなりませんしねー……」
辛籐空美の特異体質。
それは、咥内の粘膜が過敏というものであり、もっと言うなら口が性感帯という不便極まりないものだった。この体質のせいで、彼女は何かを食べるたびに拷問のような刺激に苦しむ事となり、最悪失禁してしまう事もあるのだ。事実、あった。
そのせいで彼女は、幼少期から人前で食事をとらないようになり、やがて栄養剤のみで過ごすようになったのだ。
それでも、今までは何とかハンデを乗り越えてやってこられたので、特に問題は感じなかった。しかし、余裕が無くなりつつある今、こういった問題が気になって気になって仕方がなくなってしまっていたのだ。
「そうだ。塩谷さん、もらった料理いります?」
「えー。それはちょっと気が進まないかなぁ」
「ですよね。私が逆の立場でも嫌ですもん」
「うーん、でもたしかに勿体ないかもね。じゃあ、折角だし、色々試してみる?」
「えっ、何をですか?」
「辛籐さんの口を直せる料理。もしかしたら作れるかもよ」
「……それ、本気で言っているんですか?」
保守的な塩谷から、随分とまた珍しくアクティブな言葉が飛び出したものである。
けれども、あまりにデリカシーに欠ける発言であったため、辛籐も思わず深い深いため息をついてしまう。彼氏でもないのに異性の性感帯克服に付き合おうとするとは、なんともまあ恐ろしい男である。
だが、やはり本気では無かったようで、辛籐が軽く睨んだだけで、あっさりと訂正にかかりだした。
「もちろん冗談だよ。だいたい、そんな事で簡単に治るものでもないだろうしね」
「そうですよ……全く………………む!」
言いつつ、辛籐は重大な事態に気がついた。
この状況は二人きりだ。という事は、もし、塩谷の言った色々な料理を試すという実験をした場合、塩谷が作るという事になる。少なくとも、既に色々と一人で試した経緯のある辛籐が作る事にはならないだろう。ならば消去方で、やはり塩谷が料理をする事になる。
塩谷始音は、かつて伝説の料理人と呼ばれた男なのにも関わらず、今はとあるきっかけによって料理をするのをやめてしまっていた。そんな彼の、調理が見られるチャンスなのだ
そうとわかれば、一応、高名な料理人であった辛籐の好奇心に勝る物は無かった。彼女は慌てて、身を翻して何処かへ行こうとしている塩谷の手を、両手で強く握った。彼は慌てて振り返るが、これでもう逃がさない。
「えっ、急に何さ! 手が痛い! 離してよ!」
「塩谷始音さん……貴方は今、色々試してみようと言いましたね。それは名案です。やってみましょう」
「は、はあっ!?」
「その代わり、作るのは貴方です。オーケー?」
「や、やだよっ! あれは冗談って言ったじゃないか!」
「そうですか。じゃあ貴方は、私が、今後このまま美味しい料理を食べる事が出来ずに死んでもいいっていうんですね!」
「そんな事一言も言ってないよね! とにかく離して、僕はちょっと用事思い出したんだから!」
「今、露骨に目を逸らしましたね! 完全に嘘ですね、わかります! もう、どうしてそんなに料理を作るのを拒むんですか! いいじゃないですかちょっとぐらい!」
「嫌なものは嫌なんだって! いいから離して!」
「ううっ!」
そうこうしているうちに、辛籐が突き飛ばされる。その際に尻もちをついてしまったが、彼女はそれぐらいじゃめげない。
塩谷は一瞬申し訳なさそうな顔を浮かべるが、すぐに振り返って走り出そうとする。
これでは、どうあがいても捕まえきれないだろう。常人ならば。
だが、辛籐空美は違う。彼女は、倒れたままの態勢で軽く首の骨を左右に鳴らしながら、右手を前に突き出す。
「……甘いですね、塩谷さん。私の食柱毒を忘れましたか?」
「……うわぁ、そういえば! やばっ!」
「逃がしません!」
辛籐が、伸ばした右手を、まるで何かを掴むような動きで握りしめる。
すると、塩谷の穿いていたジーパンの腿の部分が、まるで透明人間に握られたかのように陥没する。おそらく塩谷の脚にも、何かに握られたかのような感触がいってるはずだ。
直後、それによりバランスを崩した塩谷が転倒する。それを見てから、辛籐はゆっくり立ち上がって彼に近づいていく。
これは「食柱毒」という、食によって人類が手に入れた超能力である。この力は「食」によって進化した人類が手にした、天へと至るための「柱」であり、同時に己の身を蝕む「毒」となりかねない力だ。だから食柱毒と呼ばれている。
辛籐のそれは、念動力という性質を持っていて、周囲の物を遠隔操作出来る能力であった。この力のお陰で、辛籐は従業員何十人分の働きを同時にこなす事が可能であり、この店の中核を成しているのだ。
一見、料理とは関係の無い力に見えるが、そのせいで塩谷と天川が料理対決で随分追いつめられたのはまた別の話である。
「はは、また逃げても無駄ですよ。私の食柱毒は、精密動作と補足数特化型ですから……次はもっとがんじがらめにしてやりますよ」
「……ああ、もう……! なんでこうなるかなぁ」
「貴方の往く道は二つです。料理を作りますか? それとも……」
辛籐が軽く左手の小指を動かすと、テーブルに設置されていた、銀製の箸が浮かび上がってくる。そして、彼女がおもむろに左手を振るうと、それに呼応するようにして箸が高速で木製の床に突き刺さった。
それを見て怯える塩谷を、辛籐は思い切り睨みつけ、こう告げる。
「料理を、作りませんか?」
「ひっ……!」
どう見ても脅しだった。
ここで断れば、塩谷は殺されかねないだろう。
正直、辛籐からしてみてもこれはやりすぎな気もしたが、しかし、この男はこれぐらいしないと作ってくれないだろうと判断し、これで断られたらより物騒な手段を用いることを決心する。
何故ここまでするのかと言えば、ひとえにチャンスだったからとしか言いようがない。
何せ、今まで何があっても料理を作らなかった伝説の男の料理が、ついに見られるかもしれないのだ。そのためならば彼女は恥を捨てる。
それもそうだ。相手は、天川に手伝いを頼まれようが、辛籐に料理を振る舞われた上で頼まれようが、何があっても絶対に料理をしてこなかったあの塩谷なのだ。まともな恥を持ち合わせていては対抗出来ない。
辛籐は、せっかくここまで来たチャンスを逃さない。より強い眼差しで射止め、より低い声で告げる。
「どっちですか……? ねえ」
「これ実質選択権ないよね! ああ、もう! そこまで言うならわかった! やる! やるから! だから、メニューの角をこっちに向けて浮かせるのはやめてよ!」
「本当、ですか……?」
「うんうん! 辛籐さんの口を何とか出来る何か考えるから! それに、どうせ今嘘ついても、また後で同じ事になるでしょ! ね!?」
「言われてみれば、そうですね」
そこまでして、ようやく辛籐の暴走が停止した。
塩谷は心底怯えた息を吐いていたが、辛籐はこれでようやく彼の料理が見られるのだと小さくガッツポーズをとっていた。
こうして、辛籐が箸を引き抜いた後、二人はそれぞれ行動を始める。
塩谷は厨房へと向かい、辛籐は客用の椅子に座ってそわそわしながら待っていた。その鼻息は心なしか荒い。彼女は待ちきれないのか、しきりに厨房に向かって大声を出す。
「塩谷さーん! まだですかー?」
「……いいから、待っててよ」
そんなこんなで時間は過ぎ、こういったやり取りが十回ほど繰り返された後だった。
ようやく、塩谷が盆に何かを乗せて歩いてきた。
辛籐は、それを子供のような笑みで待ち受ける。
こうして、塩谷の料理がテーブルに置かれた。辛籐の目が、驚愕で見開かれた。
「はい、どうぞ」
「……塩谷さん」
「なにかな?」
「これ、何ですか?」
「料理だよ」
「違いますよ。いいですか、水道水は料理とは言いません。と、いうか。逆に、何をここまで時間かけてたんですか!?」
テーブルの上に置かれたのは、単なる透明な水だった。硝子のコップだから間違いない。これは水だ。中に氷が入っただけの水だ。
確かにこれならば辛籐の咥内に刺激を与える事はないだろう。しかし、流石の辛籐でも水ぐらい飲めるのは知っている。
彼女は非常に落胆した。ここまでしたのに、またこういった方法でかわされてしまったのだから。
「……はーっ。本当に、何と言うか、筋金入りですね、貴方は」
「ま、第一段階だからまずはテストにね。どれぐらい平気なのかもわかんないから。とにかく、飲んでみてよ」
「……その言い方だと、次があるって解釈でいいんですよね? 期待しますから裏切らないで下さいね!」
辛籐は、なるべく恨めしそうな表情を作って見せつけた。が、視線を逸らされた。
そんな小さなやり取りにもがっかりしつつ、兎にも角にも、出された以上はこの水を飲むしかない。
彼女はコップを口元まで寄せ、一気に傾けた。氷が上唇に当たって冷たかったが、気にせず飲み干す。その姿は、まるでやけになって一気するサラリーマンのようだった。
こうして全て飲んで、コップを机に叩きつける。そして、叫ぶ。
「何これ甘いじゃないですかっ!?」
「そりゃ、入ってるのただの氷じゃないからね。それ、すごく甘いよ。で、そのぐらいの甘さなら大丈夫かな?」
「えっ? あ、はい。まだ大丈夫です。まさか本当に、私のために……」
「あんな強引な頼み方しておきながらその反応は凄いね」
そう言いつつ、塩谷は既に盆に載せていた水を入れる容器から、彼女の飲みほしたコップに水を継ぎ足す。
とはいっても先ほどよりは量が少なめだ。
「溶ければ溶けるほど甘くなるから。次はもっと甘いのいってみようか」
「ちょっとまどろっこしいですが、確かにこれなら味加減が見極められますね……」
こうして二人は氷が溶けるのを待った。
実は、これは塩谷のどうしても料理を作りたくない一心で生みだされた代物であった。ぶっちゃけた話、こんな事をしなくても単純に水に徐々に砂糖を足していく方が遥かに効率がいいはずなのだ。しかし、それだと本当に料理でも何でもないと怒られそうだったので、少しだけ工夫を凝らした感を出そうとしたのだ。
そのため、多少やっつけなアイディアであったが、辛籐は見事に騙されてしまっていた。やはり元有名料理人がやるというだけで、何でも無い事でも凄く見えてしまうという現象のお陰だろう。
兎にも角にも、そうして二人は何度かこれを繰り返し、味の加減を確かめていく。意外にもしばらくは問題なかった。
そして、事態が動いたのは、辛籐が、氷一つが溶けた水を飲んだ時だった。
「うっ……!」
「もう無理かな?」
「……はい。ちょっと、これ以上は辛いですね……」
「了解。じゃあこれ下げるよ」
「お願いします」
襲い来る甘さの暴力に、辛籐は思わずうずくまるような姿勢をとってしまった。
まるで、全身を柔らかい筆先で撫でられているかのような不快感に襲われたのだ。こうなってくると、もう味云々以前に不快感しか感じなくなってしまう。
しかし、そうなる基準を見つけられたのは朗報である。
辛籐は多少の羞恥と共に、塩谷に感謝するのであった。
数秒間だけ。
「……って! あ……貴方は……いいい一体何をしているんですか……?」
「えっ? 何って。これ捨てるの勿体ないし、それにどんなもんなのか、やっぱ味で確かめた方が確実だし……」
辛籐が驚愕で思わず立ち上がる。
塩谷が、辛籐の残した水を飲んでいたのだ。
辛籐の中で、嫌悪感と悪寒が暴れまわる。これは、彼女の人生であってはならない事だった。
もちろん、辛籐は間接キスがどうこうを気にする女ではない。問題は、もっと根底の部分にあった。
「何をしているんですかぁ!?」
「えっ!?」
「人の口がどれだけ細菌にまみれているのかわかってやってるんですか!?」
「えっ、えっ、ええーっ!?」
「先に言ってくれれば殺菌ぐらいしたのに、何で黙って飲んじゃったんですか! 信じられません! 不潔です不潔!」
辛籐空美にとって、人が一度口にした物は毒でしか無かった。
咥内の粘膜のみならず味にもそれなりに敏感な彼女は、そういうものを口にすると、他人の唾液の味まで理解出来てしまうという事情があった。それから不快感が芽生え、実際に調べてみて、それがさらに穢れた物と知り、今のような嫌悪感を抱くところにまで至ったわけだ。
もちろん、そんな事情を知らない塩谷は、辛籐が何故ここまで怒っているのか、まるで理解していないようであった。その態度は、更に彼女の怒りを加速させる。
「貴方だって、汚いと思いませんでしたか!? そういう所に残留した微妙な体液が、何らかの病気を感染させる例だってあるんですよ!?」
「えっ、何? 辛籐さん病気持ちなの?」
「もちろん違いますよ! 私はただ、そういうリスクを一切考慮しないで手をつけた貴方のその汚れきった性根が気に食わないって言っているんです!」
「ええっ!? いやいや、勝手に飲んだのは謝るけど、別にそういう衛生面の問題は君に関係なくない!?」
「あーりーまーす! だって、同じ場所で働く仲間だと信じていた人が、まさかそんな不潔な人間だったなんて、ショック受けるに決まってるじゃないですか!」
「潔癖症なの!?」
「違います! ただ汚いのが嫌なだけです! そんな汚いのを肯定する貴方こそ変です! 変態です! 近寄らないで下さい!」
「やっぱり潔癖症じゃん!」
「だから違うって言ったじゃないですか! こうやってステレオイメージで人を決めつけて、話を聞こうともしないのはどうかとと思いますよ! だいたい、貴方はいつもいつも……なんでそう人の話を聞かないんですか! だから駄目なんですよ!」
「はあ!? それは今関係無いよね!」
やり取りの末、塩谷もキレた。この際、彼らは喧嘩の時に過去の事を持ちだすのは関係がこじれるのでタブー視されている事を知らなかったため、過去の事まで掘り起こす壮大な口喧嘩となってしまったわけだ。
そんなこんなで、彼らの間に溝が生じ、冷戦が勃発したのであった。
天川が帰ってくる頃にはもう、お互い自分の言い分が通らないので、何を話しても無駄だという態度を取り始めていたというわけだ。
これが、天川の戻るまでに起こった出来事であった。




