天地の店 -空は今日も美しく-
あの戦いから数日が経過した。
だが、塩谷始音の波乱はまだ終わっていなかった。
「……いや、これは流石に予想外だよ。というか、何でこんなに大事な話を僕に言わないんだよ……」
彼は、とある店の前に居た。
そこはかつて辛籐空美が経営していた店だ。しかしつい数日前までは大繁盛だったこの店も、今や人一人見当たらない。
そう。ここは戦わなければ生き残れない超・激戦区だ。この間の勝負で辛籐が負け、ここの勢力図も大きく変化し、たった一度の敗北にも関わらず辛籐空美の「The end of road」という店は潰れてしまったのだ。理由はそれだけでは無いものの、王者の陥落とは物悲しい物である。
立派な木製扉の前に張られている“閉店の旨を告げる張り紙”はあまりにも痛々しかった。ある意味塩谷のせいでもあるので、彼も少し心が痛む。
けれども今この店には新しい動きがあった。
塩谷の横に立つ、天川甘音が満面の笑みで告げる。
「だってびっくりさせたいじゃない!? それに、こうでもしないと始音くんは協力してくれないと思って」
「だからといってさ。これは無いよ」
彼らの視線の先、これまで辛籐の店の名前が書かれていた部分には、新しいアルファベットの文字が並んでいた。「HelleN」というよくわからない英単語のような何かだ。
実際、そんな英単語は存在しない。恐らく造語であるため塩谷自身、その意味を把握出来てはいなかった。だから、彼はふと天川に聴いてみる事にしたのだ。
「で、この店名なんなの? なんて読むのさ?」
塩谷は呆れた感情しかこもっていない声で質問する。もちろん天川の事だからまともな答えが返ってこないであろう事実を、彼は正しく把握していた。
しかし、聞かずにはいられなかったのだ。
「ていうかこれ何? どんな意味なの?」
これは、塩谷からしてみれば至極まっとうな質問だった。
しかし、それを受けた少女はニヤリと嫌な笑みを浮かべる。塩谷はまだ天川との付き合いは浅いが、しかし、それでも考えている事が透けて見えてしまうような笑みだ。「よくぞ聞いてくれました!」と顔に書いてあるのだ。
それを見て、当然いつもの事ながら塩谷は不安を隠しきれない。
だがそんな事知ったこっちゃねえと言わんばかりに、天川甘音は高らかに宣言する。
「HelleNは、HellとHeavenを合体させた造語よ! ふっふっふ、最近新感覚の「地獄料理」の創設者として名高いこのわたしと、かつて「三柱天国」と呼ばれた伝説の技の使い手である始音くん、この二人の店の名前にしてはぴったりじゃない!?」
「あー……そう」
そうなのだ。この二人は、あの戦いに勝利した報酬として店をもつ権利を手に入れたのだ。
これは塩谷のあずかり知らぬ契約だったのだが、どうやら辛籐対天川の戦いには名誉以外に店の権利もかかっていたらしい。もちろん辛籐も、相手が天川だからと慢心してオーケーしてしまったのだろう。塩谷は一度の敗北で大きな物を失った辛籐に対し、同情の念を送るのを忘れない。
今やその店は潰れ、そこを買い取り自分たちの店として活用しようとしている天川の手により、完全に別物に作りかえられている。それは決していい変化とは言えないと、塩谷は一人ため息を吐く。
そして何より、彼が不満を感じているのは自分自身の待遇についてである。
「それにしても、わけわかんないよ。何で、僕ら二人じゃないと店開いちゃいけないルールになったのさ」
「それは二人で得た勝利と判断されたからでしょ?」
「えええ……じゃあ協力しなき良かったよ……」
もちろん塩谷には断る権利もあったのだが、彼は結局、天川達に借金を返せなかったのだ。
財布からお金が抜き取られていたせいで、もうどうする事も出来なかったのだ。
ちなみに辛籐は何もしてくれなかったので、頭にきた塩谷が彼女の口に無理矢理里芋を突っ込んで悶絶させたのは余談である。
兎にも角にもここで天川が働いて借金を返せと言ってきたせいで断りきれず、こんな状況になってしまったのだ。
「ったく、よくよく考えたら、だいたい辛籐さんのせいじゃないかこの状況……今度会ったらどうしてくれようか……」
「悪いですけど、私も今底辺なので見逃してくれませんか? 貴方にお金返す余裕も無いんですよ。正直、自分で精一杯です」
「……? えっ!? 辛籐さん!? 何でここに?」
塩谷が驚き振り向くとそこにはツインテールで眼つきの悪い小さな少女、辛籐空美が立っていた。
しかし服装は以前の対決の時のゴスロリ風味のものから変わっておらず、何故かところどころ破けていた。
何やら悲惨そうな空気を感じ取った塩谷は、それだけでもう既に居たたまれない気分になってしまう。
「……なんか、少し見ない間にみすぼらしくなったね、随分」
「ええ。自分でも思います。でも仕方ないでしょう。勘当されてしまったので、身寄り無いんですよ。うち、敗者には異常に厳しいんですよね」
「思ってたより大変そうだね!?」
「いや、ほんと、誰かさんのせいでですね……でも、ま、こうして職場を提供してくれる以上、あまり文句は言えませんがね」
辛籐は目を細め、天川に視線を向け、彼女の方へと歩いていく。
天川もそれを横目で確認し、笑みを作りながらゆっくりと振り向く。
二人の間には何やらよくわからない情のような物が芽生えているようだったが、よくこの辺りの事情を知らない塩谷はただただ驚く事しか出来なかった。
「えっ、職場って? まさか……」
「そうよ! この辛籐空美こそが、うちの従業員第一号よ! わたしが呼んだの!」
「気に食いませんが、そういう事です。これから、よろしくお願いします」
「ええっ!?」
いきなり強すぎる従業員である。
彼女の能力があれば、雑用から調理まで何でも可能である。
それはそれで構わない塩谷だが、一つ腑に落ちない事があった。
「というか、君ら仲悪くなかったっけ?」
「それはもういいの。わたしも過去に無視されたぐらいで引っ張りすぎたわ。でも、心に余裕の出来た今なら許せるわ! 全然ね!」
「上から目線が気に食いませんね。だいたい私ほどの人間がフリーになったからって全力で取りにきた人に、そこまで言われたくありませんね。それに、過去の件は……あれは、その、貴方が無理矢理料理を食べさそうとするから嫌だっただけですよ」
「だって、わたし間違ってないでしょ? いっぱい食べなきゃ大きくなれないって言ったのに無視するからそんなに小さく……」
「うっさいですね! 放っておいてくださいよ!」
「なるほどね。ははは……」
これだけのやり取りで、だいたい彼女らの過去を想像する事は出来た。
塩谷は薄い因縁に苦笑しつつも、ひとまずこのメンバーで店を経営していくために気持ちを固めていく。
ここまで来てしまえばやむを得ない。彼はもう、逃げられないなら仕方ないと覚悟を決める。同時に、すぐに稼いでやめてやるという気持ちも膨らませる。
何はともあれ、このままだと料理担当は塩谷で、接客や雑務、料理補助は辛籐で、天川は何か好きにやらせるという構図になってしまう事に不安を感じた塩谷は、いかに自分が料理から離れられるかという所から思考をスタートさせる。
見上げると、そこには「HelleN」の看板が見えた。
今は今一つ慣れないネーミングだが、いつかは慣れる日が来るのだろうか。
だが彼としてはそんなに長く勤務したくないので、慣れる前には店をやめてやろうと決心を新たにする。
もちろん、そこに至るまでの過程は一筋縄ではいかないだろう。
塩谷はそんな懸念や悩みを抱えつつも、天川達と一緒に準備に取り掛かるのであった。
地上に立つ少年は、何処までも続く青い空に思いを馳せる。
それは、まさに天国のように澄みきった綺麗な青空だった。




