彼の過去 -彼女は心の甘さが砕ける音を聞いた 2-
だが、そこで天川は思わぬ遭遇をすることになった。校門のあたりで、ちょうど下校しようとしていた塩谷始音の姿を見つけたのだ。彼女はそれを見て一瞬で気持ちを切り替え、早速声をかける。
「あ、あれっ、始音くんじゃない。久しぶりね」
「げっ。あ。天川さん……久しぶり」
塩谷は嫌そうな顔を隠そうともせずに応えてくる。
しかし、天川はそんな事を気にするような女では無い。彼の態度を全力で無視し、普通に話しかけにいく。
暗くなった心は一旦封印だ。彼女は、落ち込むときは一人でと決めている。完全に切り替え、もうその暗さをおくびにも出さないよう心がける。実際、その目論見はいつも通り上手くいき、きちんといつも通りに話す事が出来た。
「これから帰るところ? わたしはこれからよ。もしそうならいっしょに帰らない?」
「えっ。やっ、ごめん。僕、今日はちょっと急いで寄るところあるから。じゃ、急ぐからまた!」
そう言って、塩谷は走り去っていく。
どうやら相当急いでいるようだ。
今回の塩谷の行動は、いつもの天川なら気にしていなかっただろう。
しかし、今の彼女はどうしても誰かと話したかったのだ。その気持ちは暴発する。気がつけば、彼女まで走り出していた。
足音に気付いた塩谷が振り向き叫ぶ。
「ええっ!? 何で追いかけてくるのさ!? 知らないけど、天川さん家こっちなの!?」
「違うわ! でも、一つだけ聞いてくれない!?」
「何さ!?」
「始音くんは、どうして料理人やめちゃったの!? それを聞かせて!」
「……」
塩谷の走るスピードが上がる。
これは天川にも同じ事が言えるわけだが、塩谷は恐らく運動系の人間では無いためか走る速度はそこまで速くない。けれども、無理をして出す限界を越えた最高速度という概念が存在するのもまた事実だ。必死になって夢中で走れば、どんな人間でもそれなりの速度は出る。
今の塩谷の速さは、まさにそういう類のものだった。
「ちょっと、無視しないでよ! 聞いて! わたし、料理人をやめる人の気持ちが知りたいの! 本当にそれだけだから、お願い!」
速さで追いつけない天川は、もう近所中に響くほどの大声で話しかける事しか出来なかった。
彼女は今、気持ちが折れそうになっている。ならば本当に折れた人はどういう思いを抱える事になるのか、それが気になってしまったのだ。それだけを問いたくて必死に塩谷に追いすがる。
だが彼は無反応。それに少しいらついた天川は、もっと大声を出して何度も何度も話しかける。そうして数分間追いかけっこは続いた。
最初に根負けして足を止めたのは、塩谷の方だった。
「あーもう! なんなのさ! はーっ、はーっ。何でそんな、はーっ、どうでもいいこと聞き、はーっ、聞きたがるのか知らないけど、そこまで、はーっ、言うなら教えるよ。はーっ」
「はーっ、はーっ。あ、ありがとう……はーっ」
お互い息切れしながらの会話。
二人は走り続けたせいで、学校から少し離れた位置にある公園にまで来ていた。そこからは天川の提案でまず自販機で買った飲み物で喉を潤し、ベンチに腰をかける。
塩谷は缶のコーンポタージュを傾け喉を鳴らして一気に飲み、ゆっくりと話し始めた。
「で、僕の料理をやめた理由だっけ。わかったよ。それ話せばもうどっか行ってくれるんだよね。いいよ。じゃあ話すよ」
「なんか自分で聞いておいてこう言うのもアレだけれど、今まで散々渋っていたのにやけにあっさり話すわね」
塩谷は以前、辛籐の店でも過去を語るのを渋っていた。
もちろん自分が強引に行き過ぎたというのもあるだろうが、それにしてもあの渋り方はそれだけで説明しきれる物ではなかった。
天川は、彼の胸中に何があったのかどうしても気になってしまう。
だがそれに対し、塩谷は至極どうでも良さそうな顔で淡々と返す。
「いや、前は単なる興味で聞かれた感じだったけど、今回はもう全力で聞きに来られたからね。君、要望や希望は貫き通すタイプでしょ? もう逃げるのも面倒になってさ。あっ、あと、お金はもうちょっと待って」
「それは別にいいわよ。何にせよ話してくれるならありがたく聞くわ。それで、何があったっていうのよ?」
塩谷の顔はどこか疲れていたので、天川もあまり詮索はしなかった。
もしかしたら、ここ数日で何か嫌なことでもあったのかもしれない。そんな実際当たっている想像を働かせつつ、彼女も集中して話を聞くため座る姿勢を整える。
それから天川が話すよう促すと、塩谷はゆっくりと視線を下ろし、記憶を掘り返すようにしながら小さく口を開く。
「……昔、友達が居たんだよ。渋堂我竜って言ってさ……」
「えっ!? 渋堂我竜ってあの渋堂我竜!? 嘘よね!?」
渋堂我竜。それは超有名料理人の名前である。
「渋堂」は王道的な和風料理を得意とし、今や現代の料理業界のトップに立っている一族だ。彼らの特性として、渋みのある味わい深い和食という物がある。
それは本来人を選ぶ味のはずなのだが、渋堂の料理は何故か万人受けしてしまう。そんなことからも、いかに彼らの持つ技術が高いのかがよくわかる。
渋堂我竜はその家の一人息子であり、派手な名前なのに全く名前負けしていない実力を誇っていた。強靭な肉体を武器とするその男は、単純戦闘においても強かったのだ。
しかし手先は芸術的と称されるほど器用で、発想力や度胸もあり、全ての性能が軒並み平均を大きく上回る最強のオールラウンダー。
それが渋堂我竜のキャッチフレーズであり、彼の本質でもある。加え、彼も天川甘音の父と同じく“あまりにも料理による人心掌握力が高すぎる”ために、国家転覆を恐れた政府からリミッターをかけられている。
つまり、お前の料理は凄すぎるから本気を出すなというお達しだ。無断で破れば命は無い。この封印処置を施されているのは、この世で天川照真と渋堂我竜のたった二人だけである。
渋堂は、天川からしてみても因縁のある相手だ。何せ立場は違えど同じ五味グループに属する者同士だ。むしろ今の塩谷よりも関わりが強いと言っても過言ではない。
そんな男の名前が塩谷の口から飛び出したのだ。これは完全に想定外である。
そのせいで、天川も驚愕を隠しきれない。
「うん。あの有名な渋堂我竜だよ。あいつと僕は、昔仲が良くてね。僕が料理をするようになったのも渋堂が原因なんだ。お互い、料理人になってからも競い合いながらも頑張ってきたんだよ……頑張って、来てたんだよ」
「へえ、それは普通に凄い話じゃない。結局、何が問題だったのよ?」
「……はぁ」
そんなデリカシーの欠片も無い言葉に腹を立てたのか、塩谷が不快そうな深いため息を吐く。そして黙ってしまう。
しかし、そんな相手の心の機微に気を配っていられるほど人間の出来ている天川甘音では無い。彼女は塩谷の方を向き、思いっきり顔を近づけ再度問いにかかる。塩谷が嫌そうに顔を逸らすが、天川は身体の向きを変えて追い、絶対に視線を逃がさない。
「これ、始音くんが料理人をやめた話よね? なら原因は十中八九、その渋堂我竜くんでしょ? 何かあったに決まってるわよね。それで、もう一度聞くけど何が問題だったの?」
「あー、もう、この人は……! 何でこうもずかずか入ってくるかな……じゃあわかった。ちゃんと話すよ。だから顔、よけて」
「はいはい、わかったわ」
天川が顔を引き離し、再度距離をおく。
そんな少しの間があった後、会話が再開される。俯いた塩谷の、後悔の篭った一言から。
「ついて、いけなかったんだよ。あいつは僕より何でも出来たし、何よりレベルが違ったんだよ。もう、それだけ言ったら察してよ。僕は、あいつの居る世界には到底いられなかったんだ……」
「渋堂我竜の居る世界というと、本当に外国とか全部含めた世界レベルの戦いって事でいいのよね?」
「うん……あれは、僕程度がどうにかなる場所じゃなかったんだ……」
料理人が居るのは何も日本だけでは無い。
世界にもレベルの高い場所は数多く存在し、むしろ日本よりも平均レベルが高い国なんてざらである。食柱毒の概念が生まれてからは更にそれは顕著となり、料理レベルは低いのに強力な食柱毒の能力により強豪扱いされている国すらあるぐらいだ。
そんな強敵達と日本代表として戦い続けているのが渋堂我竜だ。彼は、負けるどころか逆に日本のレベルを世界に思い知らせ、今度は世界すらも牛耳りそうになる勢いで快進撃を続けている。
それに対し、塩谷は伝説扱いされているものの、それは日本のしかも一部地域のみにとどまっている。枠組みが既に違いすぎるのだ。天川は、彼が言ったように察する。これでは心が折れても仕方がないと。
実力差だけをとってみれば、辛籐と天川も似たようなものである。こうなってしまえば、彼女にも諦める理由が生まれてくる。
(でも、本当にいいの? 天川甘音……)
彼女の中から心の声がした。
このまま諦めていいのか、という声。
たしかに敵は強大で、自分は弱い。しかし、それがわかったからといって諦めるのか、なんて事を彼女の心が囁く。
(仕方ないわよ。だって、無理なものは無理だし……)
己の心の弱い部分がそう告げる。
正直、これでは勝てるわけがないのだ。
そんな事、辛籐の料理を食べた時に気付くべきだった。どうしてあの時の自分はああも愚かだったのか。
彼女は恥ずかしさでしゃがみこみたくなる衝動をぐっと堪える。
(なんであの時、諦めなかったんだっけ……)
これも今となっては純粋な疑問である。あの時は半ば意地になっていた部分もあったとはいえ、本当にそれだけだったのだろうかと、彼女は記憶を掘り起こしていく。
そして浮かぶ、何でもない一言。
『うん、勝てるわ! 勝つの! 想像よりちょっと強いのが相手だからって、何も落ち込むことなかったわよね!』
かつて、天川甘音はそう言った。彼女は、唐突にそれを思い出す。
(そういえば、そんな事も言ったっけ……)
彼女は冷静に考え直す。相手が想像より強かったというのも、自分が想像より弱かったというのも、想像以上に実力差があったという意味では同じ事である。
ならば想像以上であった辛籐空美の強さに怯えなかった彼女が、ここで臆する理由が何処にあるというのか。その思考が、彼女の後退を止める。
少女は心の声に耳を傾ける。自分は、本当はどうしたいのか。それを自分自身に問うてみる。
すると、またしても思い出される一つの言葉。
『いいえ。戦う理由も、頑張る理由も、結局は人それぞれじゃない。意味のある負けだってあるし、価値のない勝ちだってあるわ』
これも、かつて天川が自分で言った言葉だ。
これはほとんど勢いだけで言った中身の無い台詞である。だがしかし今の彼女が戦う理由、頑張る理由、勝ち負けの価値というものは一体どうなっているのだろうか見直すきっかけとなる。
(わたしが戦う理由、それは父上、いいえ、みんなにわたしの実力を認めさせること。だから頑張る。たとえ勝てなくても、その気持ちと頑張りは無駄じゃない気がする。だって、続けてればそのうちラッキーパンチで勝てるかもしれないし……)
カチリと、心のレールが切り替わる音がする。
少女の心のギアが上がっていく。よりポジティブな方向へと、三速、四速、五速と加速していく。
『さっきあなたは『これが現実』とか言ってたけど、都合の悪いことや、うまくいかなかった事全部に『現実』ってレッテル貼るなんて、そんなのつまらないじゃない? 案外上手くいくことも、楽しいことも、全部現実のうちよ』
これも彼女自身の言葉だ。
これも勢いだけの台詞だが、今の彼女にはどんな自己啓発本の言葉よりも効いた。何せ、自分の言った言葉なのだから受け止め方が違う。他人を励ますために使った自らの言葉がブーメランとして返って来たのだ。
つまりこれは、自分自身に慰められていることに他ならない。もう半ば自慰だ。しかし、自慰でも気分は晴れる。
たとえ一時的とはいえ、晴れるのだ。今の彼女には、それだけで充分だった。
心が活力を取り戻していく。再び闘志がわいてくる。もともと並大抵のことでは諦めなかった心が、今度はきちんと重みをもって舞い戻ってくる。一度そうなってしまえば彼女は止まらない。
今なら何を見ても前向きにしかとらえられない自信があった。何もかもが全て光輝いてくる。
この復活の早さ。それこそが天川甘音の持つポジティブさの恐ろしい所であった。
「そうね……うまくいくのも現実、なら、奇跡任せに挑んでみるのもいいかもね……」
「えっ、急に何さ?」
塩谷が驚いて天川の方を向く。
だが、彼女は全く気にせずベンチから立ち上がる。こうしている時間が惜しくなってきたのだ。もう彼女に立ち止まる理由は無い。
「ごめんね、始音くん。忙しいって言ってたのに引きとめちゃって。もういいわ。ありがとう。わたし、学校に戻るから」
「えっ。う、うん。わかった。それじゃ、僕も行くよ」
そうして塩谷もベンチから立ち上がり、天川とは反対方向へと歩いていく。
天川も学校の方へと戻って行く。
呆けている場合では無かった。落ち込んでいる暇など無かった。何故なら、彼女は戦う決心を固めたからだ。
そんな彼女の脳裏に、またしても過去の思い出が再生される。それは天川が幼い頃に見た絵本の話だ。
それを思い出した彼女は、より強い笑みを浮かべ、足を速める。
ほんの数秒前まで風にすら負けそうだった華奢な少女は、今、肩で風を切って堂々と歩んでいた。全ては心の有り様だ。
それだけで、何もかもが変わる。たとえそれが己の目を通して覗く広大な世界そのものであっても、気持ちさえ切り替えれば変わって行く。
「見てなさい。辛籐空美。あなたはうさぎ、わたしはかめよ。せいぜい慢心して負けてよね!」
天川が昔好きだった絵本に、うさぎとかめがレースをして、鈍い筈のかめが勝つというおとぎ話がある。
このかめの勝因は四つあり、一つ目は相手に油断という敗因を作ったこと、二つ目は勝負というルールのある枠組みで戦ったこと、そして三つ目は勝機が全く無かったのにも関わらず最後まで諦めなかったことだ。
四つ目の勝因は運だが、他の要素がどれか一つでも欠けていたら、たとえ運が向いても勝つことは出来なかっただろう。かめは諦めちゃいけない。それは、少女が幼い頃から知っていた事だった。
「なんで、忘れてたのかしら……」
そう言った天川の表情は明るくなっていた。
こうして彼女、天川甘音は、ほとんど自分の力のみで復活するのであった。彼女はこれから塩谷の言葉を思い出し、ひとまずレシピ通りに料理を作ることに専念する。これで少しはまともに戦えるようになるはずだと淡い期待を抱いて。
何はともあれ、決戦の日が近づいていく。
それぞれがそれぞれの想いを胸に、数日間を過ごしていく。それは長いようであっという間の期間であった。
天川はひたすら料理の修行を重ね、塩谷は不安な日常を過ごし、辛籐は悠然と待ちかまえる。三者三様の日常。これからの戦いに備える準備期間。その日常の中で彼女たちは何を思うのか。その答えを知るのは当人たちのみである。
そうして瞬く間に数日が過ぎ、ついに決戦の日がやってきた。




