死の味見 -彼女は心の甘さが砕ける音を聞いた 1-
天川甘音は生まれて初めて自分の料理を口にした。
それはまさに地獄の味がした。いや、意味の分からない表現ではあるが、実際そう表現するのが一番的確な味だったのだ。
少なくとも、こんなものがこの世に存在していいわけがないと断言しても問題ないレベルで不味かった。鼻をつく刺激臭。舌さえ溶けてしまいそうな異常な熱さ。喉に絡みつく粘度の強い液体。それはまるで溶かした鉄を飲まされているような味であった。
否。鉄の味ならまだマシだっただろう。実際は舌に触れた時点で味覚が正常に機能しなくなってしまったので、結局よくわからないが気持ち悪いという最悪な風味となっていた。まさに地獄風味だ。
兎にも角にも、生ゴミが天界の宮廷料理に感じるレベルの酷い料理だったのだけは確かだ。それはあまりにも不味かった。
「ぐぶっ、げヴぇっ」
天川は、まともな声が出せなかった。
口の中全体に広がる異物感と異臭、そして言い知れぬ不快感。
まるで酔ったかのような吐き気が込み上げてくる。呼吸すらも難しい。涙が出てくる。平衡感覚が狂ったかのような錯覚。
全身から危険信号が発信されていることに危機感を憶えた彼女は、急いで蛇口のところまで行き、吐瀉物を吐きだす。バイクから漏れ出たオイルのような虹色の液体が、延々と口から流れ出ていく。しかも妙に硬度、粘度のある液体だ。
そのせいで喉奥につっかえそうになり、天川は涙まみれになりながら全力で吐きだす。すると、つっかえていた分の液体が、ダムが決壊するように一気に喉から外部へと解き放たれる。
勢いが強く、そこら中に飛び散っていくが、あいにく今の彼女にそれを気にしている余裕はなかった。
そして全てを吐きだした後、彼女は荒れた息を整える。
「はーっ……はーっ……ぅっぷっ…ぇっ……うっ……」
が、途中で気持ち悪くなる。
急いで右手で口を抑えるが、それで収まれば苦労しない。胸のあたりの不快感がだんだん上へと登って行き、喉のあたりに酸の味が届く。
結局、酸っぱい物がこみ上がるのを抑えられずに、抑えた手の隙間からまた胃液が漏れ出る。それは一滴、二滴とぽたぽた地面に零れ落ちる。今度は薄い黄色の嘔吐物だ。どうやらさっきので虹色の液体は全て体外に出たようだ。
それに安心しつつも、天川はひとまず汚れた手を口から離し、排水溝に向かって全部吐きだす。巻き散る胃液。その中には、昨夜食べた糸こんにゃくやニンジン、ジャガイモの残骸が混じっていた。
それらを全て吐きだす。吐いて、一息。まだ吐き気は残っていたが、もうこれ以上出そうにも無かった。彼女は嫌悪感をこらえつつ、深呼吸。どうにかして呼吸を整えるよう心がける。
吐瀉物の異臭も少しは漂うが、先ほどの虹色と比べたらこちらの方が全然ましな臭いだ。
彼女は呼吸を荒くし汚れてない方の手で蛇口を開き、その薄黄色の液体と物体を流す。ついでに顔を横に倒し、蛇口に口をつけるぐらいの勢いで水をごくごくと飲み喉を潤す。そうでもしないと気持ち悪くてどうにかなりそうだったのだ。
この時ほど、エプロンを着けていて良かったと思う時は無かった。彼女は自分の気まぐれに感謝する。幸い、汚れたのはエプロンと周辺だけだ。
彼女はエプロンを脱ぎ、ちょうど手元にあったキッチンタオルで可能な限り周辺の汚れを取った後、エプロンの汚れを隠すように丸めて持ってきたビニール袋に突っ込み、縛って臭いが漏れないようにする。
「はーっ、ふーっ、ふーっ。ふー。ふー。はぁーっ」
彼女はもう虫の息だった。最早呼吸さえも意識していなければ止まりそうである。
瀕死。そう、彼女は瀕死だった。自らの料理を味見しただけでこれである。まさか自分の料理に殺されそうになるとは、彼女自身思っていなかった。
「何……これ……?」
天川甘音はここ数日、料理の勉強をしていた。塩谷があそこまで自分を拒否した以上、もう戦うためにはこれしかないと判断したのだ。
そしてその果てに答えを得て、今日になってようやくオリジナル料理の試作品を作り始めたのだ。
その最中、彼女はふと塩谷に言われたことを思い出し、味見をしてみることにしたのだ。その結果がこれだ。悲惨すぎる結末である。
これはまだ未完成の料理だからギリギリ生存出来ただけで、これがもし完成品なら彼女は間違いなく死んでいただろう。どうやら早めに味見をしたのが功を成したようだ。
「これが、わたしの実力だっていうの……?」
彼女は、グツグツ煮立っている鍋を茫然と見つめる。
中には、虹色のスープらしき「何か」が入っている。虹と言えば聞こえはいいが、結局は惨事を生み出すものでしかない。少女はとにかく鍋の火を止め、その邪悪なる液体らしき何かを水道に全て捨てる。間違いなく深刻な環境汚染になるだろうが、仕方ないとしか言いようがない。
この現実は、今まで自分を天才だと思い込んでいた少女には、あまりにも辛すぎるものであった。
「……くそっ!」
彼女は涙目で机を殴りつける。ただの八つ当たりでしか無かったが、そうでもしないと気持ちを保てそうに無かったのだ。
「何で!? 何で何で、何で! くそっ! くそっ!」
天川は、父から強制されてきた女言葉を使うことすらやめて、ひたすらに机を殴り続けた。
「……何で、こうなる……!」
彼女は、自らへの失望を抑えきれずに倒れこむ。
これでは、とても父に自分の実力を認めさせることなど不可能だ。
どうあがいても、これでは勝ち目がないということを彼女も認めなければいけなかった。
「父上……」
天川甘音は、天川家の中で最も料理の適性が無かった。
幼い頃、そう判断された彼女は、その後一切料理に関わらせてもらえなかったのだ。
それに嫌気がさした彼女は何度も挑戦しては家族に料理を振るまおうとしたが、どれも手をつけてもらえる事すら無かった。
だから奇抜な料理を作るようになったのだ。より注目して貰えるように、より興味を引けるようにと。
しかし結果は変わらない。使用人やクラスメイトも、決して天川の前で料理を食べることはなかった。今なら彼女にも分かる。恐らく捨てていたのだろう。
たしかに、これはとても食べられる代物ではない。
「わたし、やっぱり、駄目だったんだ……」
最強クラスの料理人、天川照真。それが父の名だ。
「天照大御神」の異名を欲しいままにしている天川家当主にして最大級の強さを誇るこの王は、娘に一切の愛情を与えなかった。だから、天川甘音は認められようと精一杯だったのだ。対人戦最強である辛籐に勝てば、認められると思ったのだ。
決して最初から自信に満ち溢れていたわけではない。半ばやせ我慢のような気持ちで、周囲の応援や絶賛を胸にここまで頑張ってきた。けれども、支えていてくれた声援も嘘だとわかってしまった。
もう彼女には何も残っていない。いや、むしろ最初から何も無かったというのが正しい。
ここまで来て彼女の自信は、ついに無くなった。
「……何してんだろ、わたし。ほんと、何をしてるんだろう……」
今まで彼女が折れなかったのはメンタルが強かったからでは無く、単にそれを支える物があったからだ。
それらが全て虚構の産物だと分かってしまえば、後に残るのは弱々しい彼女自身の心のみだけである。
「……もう、帰ろ……」
天川は片づけをし、荷物をまとめ、下校準備に取り掛かる。
それ自体は数分で済み、彼女はすぐに調理室を出て、学校を出て、家まで続く道を歩いていく。
どうせ家族は今日もいない。料理人の家系である天川家は、甘音以外が全員多忙でほとんど家に居ない。そのため、実際一人暮らしのようなものだ。広い屋敷の中、他には数人の使用人しかいない中、彼女はたった一人だ。そんな日常には慣れている。だから、彼女はいつも通り帰ろうとする。




