第9話 偶然の続き
桐谷恒一は、三浦直樹の「ちょっといいですか」を信用していない。
正確には、その言葉の後に続く「五分だけ」を信用していない。
過去の実績によれば、直樹の言う五分は平均して二十三分ほどになる。
しかも、その二十三分のうち、最初の十分は大抵、本人が思いついたことの素晴らしさを説明する時間に費やされる。
「桐谷さん、ちょっといいですか?」
七月二日、木曜日。午前十時十二分。
恒一はパソコンの画面から目を上げた。
「五分か?」
「はい!」
「じゃあ、十五分確保しておくよ」
「えっ、五分で終わりますよ」
「前回もそう言ってたな」
「……今日は本当に五分です」
恒一は腕時計を見た。
「分かった。どうぞ」
直樹は嬉しそうに資料を広げた。
「今月のイベントの件なんですけど!」
「ああ」
「施設側から、飲食ブースの条件が正式に来ました!」
恒一は資料に目を向けた。
「そうか。見せてくれる?」
直樹は資料を差し出した。
七月下旬に予定されている、吉祥寺の商業施設での週末イベント。
当初は音楽を中心とした催しだったが、施設側から地域の店舗と連携できないかという話が出ていた。
直樹は以前から、地元のカフェや菓子店を招きたいと提案していた。
ただし、恒一は出店条件が確定するまで、店舗への打診を控えるよう伝えていた。
電源の使用可否。
給排水設備の使用可否。
搬入経路。
火気使用の可否。
食品の販売形態。
必要な許可や届出。
こうした条件が曖昧なまま話を進めれば、後から店舗に迷惑をかけることになる。
恒一は資料を一枚ずつ確認した。
「なるほど。今回は調理を伴わない包装済み商品の販売が基本なんだな」
「はい。会場では水道も電源も火気も使えないので、現地での調理やドリンクの提供はできません」
「施設の既存テナントとの調整は?」
「そこも確認済みです」
「搬入時間は?」
「午前八時から九時半です」
「販売開始が十一時なら、準備時間は確保できそうだな」
直樹は大きく頷いた。
「そうなんです!」
恒一は資料を机に置いた。
「これなら、候補店舗に案内できそうだね」
「ですよね!」
「出店料と備品の負担も、案内に明記しておこう。費用が分からないままでは、店側も判断できないからな」
「はい!」
「店舗によっては通常営業との両立が難しい場合もある。できるだけ無理のない条件にしたいな」
直樹は真剣に頷いた。
そして、少し間を置いてから言った。
「……実は、もう候補を絞ってまして」
恒一は目を細めた。
「まだ連絡はしてないよな?」
「してません!」
「本当か?」
「本当です!」
「なら、よし」
直樹は胸を張った。
「今回はちゃんと我慢しました」
「我慢というより、必要な手順なんだけどな」
「分かってます。でも、褒めてくれてもいいと思うんですよ」
恒一は少し考えた。
「そうだな。今回はちゃんと待てたな」
「ありがとうございます!」
「でも、褒められるのはまだ早いぞ。ここからが本番だからな」
「……はい」
直樹は急に背筋を伸ばした。
恒一はその様子を見て、小さく笑った。
*
同じ日の午前十一時四十分。
カフェ木漏れ日の厨房では、白石美月が小さなタルトを並べていた。
アーモンドクリームを使った新しい焼き菓子。
先の日曜日に友人に試食してもらったものを、さらに調整した試作品だった。
「……うん」
美月は一つを半分に切った。
断面を確認する。
焼き色。
生地の厚み。
クリームの膨らみ方。
悪くない。
ただ、何かが足りない。
美月は小さく首を傾げた。
「……もうちょっと、香りかな」
「また独り言?」
背後から声がした。
佐伯梨花だった。
「独り言じゃないよ」
「じゃあ誰と話してたの?」
「タルト」
「タルトは何て?」
「惜しいって」
梨花は笑った。
「厳しいタルトだね」
「そうなの」
美月は真剣に頷いた。
梨花は試作品を一つ手に取った。
「食べていい?」
「いいよ。でも、まだ完成じゃないからね」
「分かってる」
梨花は一口食べた。
サクッ。
軽い音がした。
アーモンドの香りが広がる。
「……おいしい」
「ほんと?」
「うん。これ、普通に売れると思う」
美月は少し嬉しそうにした。
しかし、すぐに首を振った。
「でも、もうちょっと何か欲しいんだよね」
「何かって?」
「……何か」
「一番困る答えだ」
梨花は笑った。
美月も笑った。
そこへ、小野寺真紀が入ってきた。
「二人とも、何を楽しそうにしてるの?」
「美月がタルトと会議してます」
「あら」
真紀は笑った。
「進捗は?」
「あと少しです」
美月が答える。
「じゃあ、焦らなくていいわ」
真紀は試作品を見た。
「今はプリンが好調だから、そちらを安定させることを優先しましょう」
「はい」
「新しいものを増やすのは、準備が整ってからで十分よ」
美月は頷いた。
真紀はいつも、そういうところが慎重だった。
新しい商品を出すことに反対しているわけではない。
ただ、店の規模と厨房の設備、スタッフの負担をよく考えている。
美月は、その判断を信頼していた。
「それにしても」
真紀はタルトを一つ手に取った。
「いい香りね」
「食べます?」
「いただこうかしら」
真紀は小さく一口食べた。
ゆっくり味わう。
そして、少し考えた。
「……おいしいわ」
美月の顔が明るくなった。
「でも」
真紀は続けた。
「美月がまだ納得していないなら、もう少し考えてみましょう」
「はい!」
美月は元気よく答えた。
梨花は横で、残りのタルトを見つめていた。
「……ちなみに、これ全部試作品?」
「うん」
「じゃあ、もう一個食べていい?」
「いいよ」
梨花は嬉しそうに二つ目を取った。
真紀が笑った。
「梨花、昼食前でしょう?」
「大丈夫です」
「何が?」
「別腹なので」
美月が真顔で頷いた。
「分かる」
真紀は二人を見比べた。
「……うちのスタッフ、よく食べるわね」
*
午後一時二十五分。
恒一は直樹とともに、イベントの候補店舗を確認していた。
パソコンの画面には、吉祥寺周辺のカフェや菓子店の一覧が表示されている。
「まず、どういう基準で選んだ?」
恒一が尋ねた。
「地元で営業していること、イベントの客層に合うこと、それから持ち帰り商品があることです」
「いいね」
「あと、SNSの発信も見ました」
「なるほど」
「普段からお客さんと交流している店の方が、イベントにも関心を持ってもらえるかなと」
恒一は頷いた。
「その視点はいいと思うよ」
直樹は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「ただ、SNSの発信が活発だからといって、出店できるとは限らない。店舗側の事情も確認しよう」
「はい」
直樹は画面を切り替えた。
「それで、候補の一つがここです」
画面に、小さなカフェの紹介ページが表示された。
木のテーブル。
窓際の植物。
柔らかな光。
そして、皿に盛られたプリン。
『カフェ木漏れ日』
恒一は画面を見た。
「……木漏れ日」
「知ってるんですか?」
「店の前を通ったことがあるよ」
「そうなんですね!」
直樹は嬉しそうに説明を始めた。
「井の頭公園の近くにある、地元のカフェです。最近、新しいプリンが人気みたいで」
「そうなんだ」
「写真もいいんですよ。見てください」
直樹が画面を拡大した。
皿の上には、艶のあるカラメルをまとったプリン。
横には小さなスプーン。
背景には、柔らかな光が差している。
恒一は写真を見た。
「……おいしそうだね」
「ですよね!」
直樹は得意げに笑った。
「それに、店の雰囲気が今回のイベントに合うと思うんです」
恒一は頷いた。
「確かに。候補としてはいいと思う」
「じゃあ、出店料と備品の条件を追記して、連絡してみます!」
「そうだな。追記した案内文を、送る前に確認させてくれ」
「……はい」
直樹は少し肩を落とした。
恒一は笑った。
「大丈夫。費用や販売条件まで明記できれば、すぐに案内できるよ」
「分かりました!」
直樹は再び元気になった。
恒一は画面を見つめた。
カフェ木漏れ日。
以前、あの女性を見かけた店の近くだった。
ただ、それ以上のことは知らない。
あの人も、この辺りによく来るのかもしれない。
近くに知り合いがいるのかもしれない。
あるいは、あの日たまたま通りかかっただけかもしれない。
恒一はそこで考えるのをやめた。
今は仕事中だ。
個人的な偶然と、業務上の判断は分けるべきだった。
「直樹、他の候補も見せてくれる?」
「はい!」
直樹は次のページを開いた。
その後、出店料と備品の負担を明記した案内文を二人で確認し、恒一が送付を了承した。
*
午後三時十分。
木漏れ日のホールは、少し落ち着いていた。
ランチタイムの混雑が終わり、店内には数組の客が残っている。
梨花はレジ横のタブレットを確認していた。
新作プリンの販売状況。
SNSの反応。
写真へのコメント。
少しずつ、数字が伸びている。
「……いい感じ」
梨花は小さく呟いた。
ただ、嬉しいだけではなかった。
売上が伸びるということは、仕込みの量も増える。
材料の発注も増える。
スタッフの負担も増える。
そして、店の設備には限界がある。
梨花は厨房の方を見た。
美月は新しい焼き菓子の試作を片づけていた。
真紀は事務スペースで、仕入れの伝票を確認している。
この店は、決して大きくない。
だからこそ、誰か一人が無理をすると、すぐに全体へ影響する。
梨花は画面を閉じた。
そのとき、店の電話が鳴った。
「はい、カフェ木漏れ日でございます」
梨花が受話器を取る。
『お忙しいところ恐れ入ります。私、イベント企画会社の三浦と申します』
「はい」
『七月下旬に吉祥寺で開催するイベントについて、ご相談がありまして』
梨花は少し姿勢を正した。
「イベント、ですか?」
『はい。地域の店舗様と連携した催しを予定しておりまして、ぜひ一度、お話を伺えればと思いまして』
梨花はメモを取った。
日時。
場所。
販売内容。
出店条件。
そして、担当者の連絡先。
電話の向こうの男性は、少し勢いがあった。案内に記された出店料や備品の条件も、順を追って説明してくれた。
だが、説明は丁寧だった。
少なくとも、必要な情報は整理されている。
「ありがとうございます。店主に確認して、改めてご連絡いたします」
『ありがとうございます! よろしくお願いいたします!』
電話が切れた。
梨花は受話器を置いた。
「……へえ」
少し面白そうだった。
地域の店舗が集まるイベント。
新しい客に店を知ってもらう機会になるかもしれない。
ただし、出店には人手が必要だ。
通常営業との両立も考えなければならない。
梨花はメモを持って、真紀のところへ向かった。
*
午後三時二十二分。
「イベント?」
真紀はメモを受け取った。
「はい。七月下旬に、商業施設で開催するそうです」
「なるほど」
真紀は内容を読んだ。
梨花は横で待った。
「悪い話ではなさそうね」
「私もそう思います」
「ただ、うちの規模で対応できるかしら」
「そこが問題ですね」
真紀は少し考えた。
「美月にも相談してみましょうか」
梨花は頷いた。
二人は厨房へ向かった。
「美月、ちょっといい?」
「はい!」
美月は手を止めた。
梨花がイベントの話を説明する。
すると、美月の目が輝いた。
「えっ、楽しそう!」
梨花は笑った。
「まだ決まってないよ」
「分かってる。でも、楽しそう!」
真紀が微笑んだ。
「もし出店するとしたら、何を持っていけそう?」
美月は少し考えた。
「……焼き菓子ですかね」
「そうね」
「プリンは冷蔵が必要ですし、持ち運びや販売時間の管理が大変なので」
真紀は頷いた。
「その通り」
「焼き菓子なら、個包装にできますし」
美月は指を折りながら考えた。
「日持ちも確認できますし、数も調整しやすいです」
梨花は感心したように頷いた。
「ちゃんと考えてるね」
「もちろん!」
美月は胸を張った。
そして、少し考えてから言った。
「……でも」
「ん?」
「今の設備だと、通常営業分とイベント分を一緒に作るのは、ちょっと大変かもしれません」
真紀は頷いた。
「そうね」
「だから、もしやるなら、商品を絞った方がいいと思います」
梨花は笑った。
「美月が商品を絞るなんて、珍しい」
「失礼な」
「だって、いつも増やしたがるじゃん」
「それは……」
美月は少し考えた。
「……おいしいものが増えるのは、いいことだから」
梨花は吹き出した。
真紀も笑った。
「でも、今回は慎重に考えましょう」
真紀が言った。
「はい」
美月は頷いた。
そして、メモを見た。
イベントの開催日。
場所。
出店条件。
出店するかどうか、何をどれだけ作るか。まだ決めることは多い。
それでも、少しわくわくしていた。
自分が作ったお菓子を、店の外で誰かに食べてもらう。
それは、いつか自分の店を持ちたいと思っている美月にとって、興味のある経験だった。
*
午後六時四十分。
恒一は会社で、イベントの進行表を確認していた。
直樹が隣の席から声をかける。
「桐谷さん!」
「どうした?」
「木漏れ日さん、電話でお話できました!」
「そうか」
「店主さんに確認してくださるそうです」
「よかったな」
「はい!」
直樹は嬉しそうだった。
恒一は頷いた。
「じゃあ、先方からの返事を待とう」
「はい」
「こちらから急かさないようにな」
「分かってます!」
直樹は少し笑った。
「今回はちゃんと手順を守ってますから」
「ああ。今回は段取りがいい。助かってるよ」
恒一がそう言うと、直樹は一瞬、驚いた顔をした。
「……桐谷さん」
「何だ?」
「今、褒めました?」
「いい仕事をしたら、ちゃんと褒めるさ」
「本当ですか?」
「もちろん」
「じゃあ、もう一回お願いします!」
恒一は少し考えた。
「……音響の確認が終わったらな」
「そこは今、褒めてくださいよ!」
直樹は笑った。
恒一も笑った。
こういうところが、直樹のいいところだった。
失敗することもある。
勢いで話を進めようとすることもある。
だが、注意されたことを素直に受け止め、次に活かそうとする。
それは、簡単なようで難しい。
恒一は進行表に目を戻した。
「じゃあ、次は音響の確認を頼むよ」
「はい!」
直樹は元気よく答えた。
*
午後八時十五分。
木漏れ日では、閉店後の片づけが進んでいた。
梨花はレジの締め作業を終え、椅子に腰を下ろした。
「……疲れた」
美月が厨房から顔を出した。
「お疲れさま」
「美月もね」
「うん」
美月は隣に座った。
二人はしばらく黙っていた。
店内には、冷蔵庫の低い音が響いている。
窓の外では、人々が家路を急いでいた。
「……ねえ、美月」
梨花が口を開いた。
「ん?」
「イベント、どう思う?」
「楽しそう」
「それは聞いた」
「えへへ」
美月は笑った。
そして、少し考えた。
「でも、やるならちゃんと準備したいな」
「うん」
「お店の名前で出るんだから、適当なものは出したくない」
梨花は頷いた。
「そうだね」
「それに、もし来てくれた人が、あとで木漏れ日に来てくれたら嬉しいし」
梨花は少し笑った。
「それ、私も考えてた」
「ほんと?」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
梨花はテーブルに置いたメモを見た。
イベントの案内。
担当者の名前。
連絡先。
その紙一枚が、いつもの店の外にある世界と繋がっているように思えた。
「……面白そうだね」
梨花が言った。
「うん!」
美月は笑った。
そのとき、スマートフォンが震えた。
梨花のものだった。
画面には、宮本悠真の名前。
『この前の店、また行きたい?』
梨花は少し驚いた。
そして、笑った。
『行きたい!』
送信。
すぐに返信が来た。
『じゃあ、今度また』
梨花は画面を見つめた。
少しだけ、頬が緩んだ。
「……何?」
美月が覗き込もうとした。
「何でもない」
「えー」
「何でもないって」
梨花はスマートフォンを伏せた。
美月はにやりと笑った。
「……怪しい」
「怪しくない」
「ふーん」
梨花は笑った。
「美月だって、最近あの傘の人に会ってないの?」
「会ってないよ」
「そっか」
「うん」
美月は少し考えた。
最後に会ったのは、日曜日。
まだ数日しか経っていない。
それなのに、何となく、少し前のことのように感じた。
「……また会うかな」
美月が小さく呟いた。
梨花は横顔を見た。
「会うんじゃない?」
「どうして?」
「だって、もう三回も会ってるんでしょ」
美月は笑った。
「それ、理由になる?」
「ならないかも」
二人は笑った。
梨花は立ち上がった。
「さて、帰ろっか」
「うん!」
美月も立ち上がった。
厨房の明かりを消す。
店内の照明を落とす。
最後に、真紀が戸締まりを確認した。
「二人とも、お疲れさま」
「お疲れさまでした!」
美月と梨花が声を揃えた。
店の外に出ると、夜の空気が少し涼しかった。
真紀は二人を見送った。
そして、店の鍵を閉めた。
鞄の中には、今日受け取ったイベントの案内が入っている。
新しいことを始めるには、少し勇気がいる。
ただ、何もしなければ、何も変わらない。
真紀は小さく息を吐いた。
「……さて」
そして、いつもの帰り道とは少し違う方向へ歩き始めた。
路地の先には、小さな暖簾が揺れている。
『酒処 夕凪』
真紀はその暖簾をくぐった。
「こんばんは」
カウンターの向こうで、黒田修司が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
その声は、いつもと同じように穏やかだった。
「今日は少し遅かったですね」
「ちょっと、仕事の話が長引いて」
「お疲れさまです」
修司は水を出した。
真紀は小さく笑った。
「ありがとうございます」
それから、いつもの席に腰を下ろした。
今日は、少しだけ話したいことがあった。
店のこと。
新しいイベントのこと。
そして、これからのこと。
ただ、何から話そうかは、まだ決めていなかった。
修司は急かさなかった。
静かに、おしぼりを差し出した。
真紀はそれを受け取った。
「……今日、ちょっと面白い話があったんです」
「そうなんですか」
修司は微笑んだ。
「よかったら、聞かせてください」
真紀は少しだけ嬉しそうに笑った。
そして、ゆっくりと話し始めた。
第9話 了




