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また会えたら、名前を聞こう  作者: Ryosuke
第1章 雨宿りの人
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10/11

第10話 また会いましたね

 桐谷恒一は、予定のない休日を嫌っているわけではない。


 ただ、予定がないならないで、その時間をどう使うか決めておきたい。


 午前中に洗濯。


 昼食後に読書。


 夕方には買い物。


 夜は映画を一本。


 そうして組み立てた休日は、たいてい気持ちよく終わる。


 問題は、予定表に書き込めないものがあることだった。


 例えば、雨。


 例えば、猫。


 例えば、名前も知らない女性との再会。


 そして最近、恒一はもう一つ、予定表に書き込めないものを抱えていた。


 期待である。



     *



 七月四日、土曜日。


 午前十時二十八分。


 恒一は吉祥寺駅南口から、井の頭公園へ向かう道を歩いていた。


 手には小さな紙袋。


 中には、昨夜読み終えた文庫本が二冊入っている。


 今日は、古書店へ本を売りに行くつもりだった。


 ただし、売った金額以上の本を買わないという保証はない。


 むしろ、過去の実績を考えると、その可能性はかなり低かった。


 恒一は歩きながら、スマートフォンを確認した。


 藤堂航平からメッセージが届いていた。


『来週、展示の準備をするんだけど、時間あるか?』


 恒一は立ち止まり、返信した。


『土曜日なら空いています。何かお手伝いしましょうか?』


 すぐに返事が来た。


『いや、搬入は業者がやる。展示の並びを見てほしい』


『僕でよければ』


『お前の意見は遠慮がないからな』


 恒一は少し笑った。


『航平さんの写真に対しては、かなり遠慮しているつもりですが』


『嘘つけ。大学のとき俺の写真を「構図はいいけど何を撮りたいのか分からない」って言っただろ』


『あれは感想を求められたので』


『十年以上忘れてないからな』


『恐縮です』


 最後に、怒った猫のスタンプが送られてきた。


 恒一はスマートフォンをしまった。


 航平とは大学時代からの付き合いだった。


 一つ年上の先輩。


 当時から写真を撮ることが好きで、授業の合間にもカメラを持ち歩いていた。


 恒一が初めて航平の写真を見たのは、大学一年の秋だった。


 雨上がりの校舎。


 誰もいない廊下。


 窓に残る水滴。


 その写真を見て、恒一は確かに言った。


『何を撮りたかったんですか?』


 航平はそのとき、少し驚いた顔をした。


 そして、笑った。


『分からないんだよな、俺も』


 それから二人は、よく話すようになった。


 恒一は古書店の看板を見つけた。


 開店まで、あと二分。


 ちょうどいい。


 そう思ったところで、店先に貼られた紙に気づいた。


『本日、都合により午後一時開店』


 恒一は時計を見た。


 午前十時二十九分。


 二時間三十一分の空白。


「……なるほど」


 彼は小さく呟いた。


 予定は、開始前に崩れた。



     *



 同じころ。


 白石美月は、自宅の台所で冷蔵庫を開けていた。


「……ない」


 卵がない。


 牛乳もない。


 バターは、申し訳程度に残っている。


 野菜室には、しなびかけた小松菜。


 冷凍庫には、いつ買ったのか分からない保冷剤が四つ。


 そして、アイスが一個。


 美月はアイスを取り出した。


「……朝ごはん」


 少し考えた。


 戻した。


「いや、違う」


 今日は休みだった。


 木漏れ日では新作プリンの販売が順調に続いている。


 嬉しいことだ。


 ただ、連日同じ作業を繰り返していると、休日には違うものを作りたくなる。


 そこで昨夜、美月は決めた。


 明日は家で、久しぶりにパンケーキを焼こう。


 厚くて、ふわふわで、バターが溶けて、メープルシロップが流れるやつ。


 そのために必要な材料が、ほとんどなかった。


「……買い物か」


 美月は冷蔵庫を閉めた。


 洗面所へ向かう。


 鏡の中には、寝癖のついた女がいた。


 右側だけ、髪が妙な方向へ跳ねている。


「おはようございます」


 鏡の中の自分に挨拶した。


 返事はなかった。


 当然である。


 美月は顔を洗い、髪を整えた。


 そして、適当なTシャツとデニムに着替えた。


 玄関で靴を履こうとしたところで、スマートフォンが震えた。


 橘遥からだった。


『今日、吉祥寺いる?』


『いるよー』


『午後ちょっと寄れるかも』


『うち?』


『いや、外。そっちの家は危険』


 美月は眉をひそめた。


『何が危険なの』


『床』


『床はあるよ』


『あるだけじゃ駄目なの』


 美月は笑った。


 遥とは製菓学校時代からの友人だった。


 仕事では驚くほど几帳面なのに、私服はいつも派手だ。


 以前、ピンクのヒョウ柄の上着に虹色のバッグを合わせて現れたときは、美月もさすがに二度見した。


 本人はいたって真面目だった。


『今日は買い物してるから、午後なら大丈夫』


『了解。また連絡する』


 美月はスマートフォンをしまった。


 そして、靴を履いた。


「よし」


 玄関を開ける。


 七月の空は、よく晴れていた。



     *



 午前十一時二十分。


 カフェ木漏れ日では、佐伯梨花が店の前に置く黒板を書き直していた。


『午後のごほうびプリン』


 その下に、小さく説明文を添える。


『ほろ苦いカラメルと、なめらかな口どけ』


 梨花は少し離れて眺めた。


「……よし」


 そこへ、小野寺真紀が出てきた。


「いい感じね」


「ありがとうございます」


「プリン、今日も予約が入ってるわよ」


「えっ、もう?」


「ええ。三組ほど」


 梨花は嬉しそうに笑った。


「すごいですね」


「そうね」


 真紀も笑った。


 ただ、少しだけ表情を曇らせた。


「……でも、そろそろ考えないとね」


「何をですか?」


「厨房のこと」


 梨花は頷いた。


 木漏れ日の厨房は、決して広くない。


 オーブンも冷蔵設備も、開店当初から使っているものが多い。


 新作プリンが好調なのは喜ばしい。


 だが、売れるほどに仕込みの負担は増える。


 そこへイベント出店の話まで来ている。


「設備、ですか」


「ええ」


 真紀は店の中を見た。


「まだ使えるものばかりだけど、いつまでも同じようにはいかないわね」


 梨花は黒板を持ち上げた。


「……イベント、どうします?」


「もう少し検討してみましょう」


「はい」


「でも、私は前向きよ」


 梨花は少し驚いた。


「そうなんですか?」


「ええ」


 真紀は微笑んだ。


「美月も、あなたも、やってみたいんでしょう?」


 梨花は笑った。


「……はい」


「なら、できる方法を考えましょう」


 真紀は店内へ戻っていった。


 梨花はその背中を見送った。


 十二年前、この店を開いた真紀。


 自分が入ったころには、もう木漏れ日はこの街に馴染んでいた。


 それでも、真紀は新しいことを始めようとしている。


 梨花は黒板を所定の位置に置いた。


 そして、スマートフォンを取り出した。


 昨夜、宮本悠真から届いたメッセージを開く。


『今度はラーメンでも行くか』


 梨花は少し考えた。


 そして、返信した。


『その前に、ちょっと相談したいことあるんだけど』


 数分後。


『何?』


『仕事のこと』


『俺でよければ』


 梨花は笑った。


 悠真は、こういうとき妙に頼りになる。


 普段はふざけてばかりいるくせに、仕事の相談になると真面目に聞いてくれる。


『また時間あるときに』


『了解。帝王に任せろ』


 梨花は吹き出した。


「……そこは普通でいいのに」



     *



 午前十一時五十二分。


 恒一は井の頭公園のベンチに座っていた。


 古書店が開くまでの時間を使い、近くの書店で購入した文庫本を読んでいる。


 木陰は涼しかった。


 風が吹くと、葉が小さく揺れた。


 遠くから子どもの声が聞こえる。


 池の周りを歩く人々。


 犬を連れた夫婦。


 ベビーカーを押す若い父親。


 休日らしい光景だった。


 恒一はページをめくった。


 そして、ふと顔を上げた。


 向こうから、見覚えのある人物が歩いてきた。


 派手な服装。


 大きなバッグ。


 ピンクと黄色と水色。


 色の組み合わせが、なかなか大胆だった。


 恒一は少し考えた。


 どこかで見たことがある。


 女性は、スマートフォンを見ながら歩いていた。


 そして、ベンチの少し手前で足を止めた。


「あれ?」


 女性が恒一を見た。


 恒一も顔を上げた。


「……あ」


 女性は笑った。


「いつもありがとうございます」


 恒一は思い出した。


 時々立ち寄る洋菓子店の店員だった。


 ショーケースの前で迷っていると、商品の違いを丁寧に説明してくれる人だ。


「こんにちは。今日はお休みですか?」


「はい。珍しく土曜日に休めまして」


「そうなんですね」


 女性は笑った。


「お買い物ですか?」


「古書店へ行こうと思ったんですが、開店時間が変更になっていたので」


「あら、残念」


「ええ。時間ができたので、少し読書をしています」


 女性は手に持っていた紙袋を持ち直した。


「そういえば、前に買ってくださったチョコレートのケーキ、いかがでした?」


「とてもおいしかったです。甘さが控えめで、香りがよかったですね」


 女性の顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか! あれ、私が仕上げを担当したんです」


「そうだったんですね」


「嬉しいです」


 恒一は微笑んだ。


「また伺います」


「ぜひ!」


 女性は嬉しそうに頭を下げた。


「それじゃあ、よい休日を」


「ありがとうございます。そちらも」


 女性は手を振って歩き去った。


 恒一はその背中を見送り、本に目を戻した。


 名前は知らない。


 ただ、仕事に誇りを持っている人なのだろうと思った。


 自分の作ったものを褒められたときの笑顔は、印象的だった。



     *



 午後零時十四分。


 橘遥は、井の頭公園を抜けながらスマートフォンを操作していた。


『美月、今どこ?』


 返信はすぐに来た。


『スーパー』


『何買ってるの?』


『卵』


『それだけ?』


『牛乳とバターも』


『何作るの?』


『パンケーキ』


 遥は笑った。


『私も食べたい』


『もうお昼だよ』


『パンケーキに時間制限はない』


『名言っぽく言わないで』


 遥はさらに笑った。


 美月は昔から、妙なところで真面目だった。


 製菓学校時代もそうだ。


 実習では誰よりも熱心で、失敗すると納得するまで作り直した。


 そのくせ、授業が終わると食堂で大盛りのカレーを食べていた。


 遥は思い出し笑いをした。


 そして、先ほど公園で会った男性のことを思い出した。


 時々店に来る、感じのいい客。


 いつも商品の説明をきちんと聞いてくれる。


 余計なことは言わないが、気に入ったものは素直に褒めてくれる。


 接客する側としては、ありがたい相手だった。


「……あの人、また来てくれるかな」


 遥は小さく呟いた。


 そして、スマートフォンをしまった。


 待ち合わせまで、まだ少し時間がある。


 どこかでコーヒーでも買おう。


 そう思って、歩き出した。



     *



 午後一時五分。


 美月はスーパーの袋を提げて歩いていた。


 卵。


 牛乳。


 バター。


 小麦粉。


 メープルシロップ。


 そして、なぜか唐揚げ。


 最後の一つは予定になかった。


 ただ、惣菜売り場で揚げたての唐揚げを見た瞬間、昼食が決まってしまった。


「……仕方ないよね」


 美月は誰にともなく言った。


 空腹には逆らえない。


 特に、揚げたての唐揚げには。


 彼女は公園沿いの道へ出た。


 少し歩くと、向こうから自転車を押した男性が来た。


 後ろの荷台には、大きな段ボール箱。


 男性は困ったような顔をしていた。


 どうやら、荷物を固定していた紐が緩んでいるらしい。


 美月は一度通り過ぎた。


 そして、戻った。


「あの、大丈夫ですか?」


 男性が顔を上げた。


「ああ、すみません。ちょっと荷物がずれちゃって」


「押さえましょうか?」


「いいんですか?」


「はい」


 美月は買い物袋を足元に置いた。


 男性が紐を結び直す間、段ボール箱を支える。


 中には、古い本がぎっしり入っていた。


「重いですね」


「いやあ、古本屋をやってまして」


「あ、そうなんですか」


「店に持っていくところなんですけどね。今日は朝から予定が狂っちゃって」


 美月は笑った。


「そういう日、ありますよね」


「ありますねえ」


 男性は紐を締め直した。


「よし。これで大丈夫」


「よかったです」


「ありがとうございました。助かりました」


「いえいえ」


 男性は頭を下げた。


 そして、自転車を押して歩き出した。


 美月も買い物袋を持ち上げた。


 唐揚げが少し傾いていた。


「……無事かな」


 袋の中を確認する。


 無事だった。


 美月は安心した。


 それから、家へ向かって歩き出した。



     *



 午後一時十二分。


 恒一は古書店へ戻ってきた。


 店は開いていた。


 入口の前では、先ほどの男性が自転車から荷物を下ろしている。


「こんにちは」


 恒一が声をかけた。


「ああ、いらっしゃい」


「今日は午後からだったんですね」


「すみませんねえ。ちょっと用事がありまして」


「いえ。ちょうど公園で本を読んでいました」


「それはよかった」


 男性は笑った。


「さっきも、荷物がずれて困ってたら、若い女の人が手伝ってくれてね」


「そうなんですか」


「いやあ、ありがたいもんです」


 恒一は頷いた。


「親切な方ですね」


「本当に」


 男性は段ボール箱を持ち上げた。


「さて、どうぞ。今日は何かお探しで?」


「まず、こちらをお願いしたいんですが」


 恒一は紙袋を差し出した。


 中には、読み終えた文庫本が二冊。


 店主は受け取り、奥へ向かった。


 恒一は店内を見回した。


 古い紙の匂い。


 棚に並ぶ背表紙。


 静かな空気。


 こういう場所は落ち着く。


 恒一は一冊の本を手に取った。


 表紙には、昔の吉祥寺の写真が使われていた。


 まだ今ほど建物が多くなかったころの街並み。


 駅前の様子。


 商店街。


 井の頭公園。


 恒一はページをめくった。


 知らない時代の、知っている街。


 不思議な感覚だった。



     *



 午後二時四十分。


 美月は自宅の台所で、パンケーキを焼いていた。


 フライパンの上で、生地がゆっくり膨らむ。


 甘い香りが広がる。


「……いいね」


 美月は満足そうに頷いた。


 そのとき、インターホンが鳴った。


「はーい!」


 玄関を開けると、橘遥が立っていた。


 今日の服装は、鮮やかなピンクのシャツに、白いパンツ。


 バッグには、なぜか小さな恐竜のぬいぐるみがぶら下がっていた。


「お邪魔しまーす」


「いらっしゃい」


 遥は玄関に入った。


 そして、足元を見た。


「……今日は床が見える」


「失礼な」


「前回は見えなかった」


「見えてたよ」


「部分的にね」


 美月は笑った。


「今、パンケーキ焼いてるよ」


「やった!」


 遥は嬉しそうに靴を脱いだ。


 二人は台所へ向かった。


 テーブルには、すでに皿が二枚用意されている。


「最初から私の分も作ってたの?」


「うん」


「優しい!」


「その代わり、洗い物お願いね」


「……なるほど」


 遥は笑った。


 美月も笑った。


 やがて、厚いパンケーキが二枚、皿に盛られた。


 バターをのせる。


 メープルシロップをかける。


 美月は満足そうに眺めた。


「完成!」


 遥は拍手した。


「素晴らしい!」


 二人は向かい合って座った。


 そして、同時に一口食べた。


「……おいしい!」


 遥が声を上げた。


 美月は嬉しそうに笑った。


「でしょ?」


「これ、お店でも出せるんじゃない?」


「いやあ、どうかな」


「なんで?」


「注文が入るたびに焼くの、大変だし」


「そっか」


「それに、今の厨房だと場所がない」


 遥は頷いた。


「設備の問題かあ」


「そうなの」


 美月はパンケーキを切った。


 そして、ふと思い出した。


「そういえば、今度イベントに出るかもしれないんだ」


「イベント?」


「うん。吉祥寺の商業施設で」


「へえ!」


 遥は目を輝かせた。


「いいじゃん!」


「まだ決まってないけどね」


「何出すの?」


「焼き菓子かなあ」


「なるほど」


 遥は少し考えた。


「……美月のアーモンドタルト、いいと思うけど」


 美月は顔を上げた。


「ほんと?」


「うん。この前もらったやつ、かなりよかったよ」


「でも、もうちょっと何か欲しくて」


「何かって?」


「……何か」


 遥は笑った。


「それ、学生のころから変わらないね」


「え?」


「美月、納得するまでずっと作るじゃん」


 美月は少し照れたように笑った。


「そうかな」


「そうだよ」


 遥はパンケーキをもう一口食べた。


「でも、そういうところ、私は好きだよ」


 美月は少し驚いた。


 そして、笑った。


「……ありがと」


 二人はしばらく、パンケーキを食べながら話した。


 仕事のこと。


 最近の客のこと。


 新しい材料のこと。


 製菓学校時代の友人のこと。


 そして、話題はいつの間にか恋愛へ移った。


「そういえば、美月」


「ん?」


「最近、誰かいい人いないの?」


 美月はフォークを止めた。


「……急に何?」


「いや、何となく」


「いないよ」


「本当に?」


「うん」


 遥はじっと見た。


「……怪しい」


「何が?」


「今、ちょっと間があった」


「パンケーキを飲み込んでただけ」


「ふーん」


 遥はにやりと笑った。


 美月は目をそらした。


「……まあ」


「まあ?」


「ちょっと、面白い人には会ったけど」


 遥の目が輝いた。


「えっ!」


「声大きい!」


「誰? どこで? 何歳?」


「知らない」


「え?」


「名前も知らない」


 遥は固まった。


 そして、ゆっくり言った。


「……どういうこと?」


 美月は笑った。


「雨の日に、傘を一緒に使った人」


 遥は口を開けた。


「……え?」


「それで、何回か偶然会って」


「何回?」


「三回」


 遥はフォークを置いた。


「三回!?」


「うん」


「それで名前知らないの!?」


「うん」


 遥はしばらく美月を見つめた。


 そして、深く息を吐いた。


「……美月」


「何?」


「それ、漫画だったら読者に怒られるやつだよ」


 美月は吹き出した。


「何それ!」


「三回会って名前聞かないって、どんな展開よ!」


「だって、聞くタイミングがなくて」


「作るの!」


「どうやって?」


「普通に聞けばいいじゃん!」


 美月は笑った。


「それができたら苦労しないよ」


 遥は頭を抱えた。


「……もう」


 そして、少し考えた。


「でも、気になるんでしょ?」


 美月はフォークを置いた。


 少しだけ黙った。


「……うん」


 遥は笑った。


「そっか」


 美月も笑った。


「でも、まだよく分からないんだよね」


「何が?」


「その人のこと」


 美月は窓の外を見た。


「ちゃんとしてる人だなって思うし、話してて面白いんだけど」


「うん」


「それだけ」


 遥は頷いた。


「それだけで十分じゃない?」


 美月は少し考えた。


「……そうかな」


「うん」


 遥は笑った。


「また会えたら、今度こそ名前聞けば?」


 美月も笑った。


「……そうだね」



     *



 午後四時三十五分。


 恒一は古書店を出た。


 紙袋の中には、三冊の本が入っている。


 二冊売って、三冊買った。


 収支は、当然ながら赤字だった。


「……まあ、想定内か」


 恒一は小さく呟いた。


 空はまだ明るかった。


 少し雲が出てきている。


 天気予報では、夕方に一時的な雨の可能性があると言っていた。


 降水確率は三十パーセント。


 恒一はスマートフォンを確認した。


 雨雲レーダー。


 西から小さな雨雲が近づいている。


「……微妙だな」


 恒一は空を見上げた。


 傘は持っていない。


 ただ、駅まで歩けば十分ほどだ。


 雨が降る前に帰れるだろう。


 そう判断して歩き出した。



     *



 午後四時四十二分。


 美月は遥を見送ったあと、近所のドラッグストアへ向かっていた。


 洗剤が切れていたことを思い出したのだ。


 ついでに、キッチンペーパーも買う。


 そして、できればアイスも。


 美月は空を見上げた。


「……あれ?」


 雲が増えていた。


 さっきまで晴れていたのに。


 風が少し強くなっている。


 美月はスマートフォンを取り出した。


 天気予報。


 降水確率三十パーセント。


「……三十なら大丈夫でしょ」


 彼女はそう判断した。


 もちろん、傘は持っていない。



     *



 午後四時五十一分。


 最初の一滴が落ちた。


 恒一は歩道で足を止めた。


 頬に、冷たいものが当たった。


 空を見上げる。


 灰色の雲。


 次の一滴。


 そして、三滴目。


「……来たか」


 恒一は周囲を見た。


 近くに、軒のある建物があった。


 小さな雑貨店。


 入口の脇には、雨を避けられる場所がある。


 恒一はそこへ移動した。


 数秒後。


 雨が強くなった。


 通りを歩いていた人々が、足を速める。


 自転車が通り過ぎる。


 店先の看板に、雨粒が当たる。


 恒一は腕時計を見た。


 午後四時五十二分。


 駅まで、あと七分ほど。


 走れば四分。


 ただし、紙袋の中には本が三冊ある。


 濡らすわけにはいかない。


 恒一は小さく息を吐いた。


「……待つか」


 そのときだった。


「……あれ?」


 聞き覚えのある声がした。


 恒一は顔を上げた。


 通りの向こう。


 スーパーの袋とドラッグストアの袋を提げた女性が、こちらを見ていた。


 白石美月だった。


 もちろん、恒一はその名前を知らない。


 ただ、顔は分かる。


 あの雨の日。


 あの猫の日。


 そして、先週の日曜日。


 三度、偶然会った女性。


 彼女は少し驚いた顔をした。


 そして、笑った。


「……また会いましたね」


 恒一も笑った。


「そうですね」


 美月は小走りで軒下へ入った。


「すみません、ちょっと雨宿りさせてください」


「どうぞ。僕の店ではありませんけど」


 美月は吹き出した。


「そうでした」


 二人は並んで、雨を見た。


 しばらく、何も言わなかった。


 雨音が、通りを満たしていた。


「……また雨ですね」


 美月が言った。


「そうですね」


「最初に会った日も雨でしたよね」


「ええ」


「何か、雨の日によく会いますね」


 恒一は少し考えた。


「正確には、四回中二回です」


 美月は笑った。


「出た」


「何がですか?」


「そういうところ」


 恒一は少し首を傾げた。


「……どういうところでしょう」


「すぐ数字で考えるところです」


 恒一は笑った。


「癖ですね」


「でしょうね」


 二人は笑った。


 雨は、まだ降っている。


 美月は袋を持ち直した。


 恒一は、その中に洗剤とキッチンペーパーが入っているのを見た。


「お買い物ですか?」


「はい。ちょっと足りないものがあって」


「そうなんですね」


「そちらは?」


「本を買いに行っていました」


「本?」


「ええ」


 恒一は紙袋を少し持ち上げた。


 美月は目を輝かせた。


「へえ! 何の本ですか?」


「古い映画についての本と、街の写真集です」


「映画、好きなんですか?」


「はい。よく観ます」


「へえ」


 美月は少し考えた。


「私、映画館で観るのは好きなんですけど、家だと途中で寝ちゃうんですよね」


 恒一は笑った。


「疲れていると、そうなりますね」


「そうなんです。特に夜!」


「夜は眠くなるものですから」


「ですよね!」


 美月は嬉しそうに頷いた。


 そして、少し考えた。


「……でも、映画って、最後まで観ないと失礼な気がしません?」


 恒一は首を傾げた。


「誰に対してですか?」


「作った人?」


「なるほど」


「だから、寝ないように頑張るんですけど」


「はい」


「頑張ると、余計眠くなるんですよね」


 恒一は少し笑った。


「それは、なかなか難しい問題ですね」


「そうなんです」


 美月は真剣に頷いた。


 恒一はその横顔を見た。


 この人は、時々不思議なことを真面目に話す。


 けれど、聞いていると妙に面白い。


 会話の行き先が予測できない。


 恒一にとって、それは少し新鮮だった。



     *



 午後五時三分。


 雨は、少し弱くなっていた。


 美月は空を見上げた。


「……止みそうですね」


「そうですね」


 恒一も空を見た。


 雨雲の端が、少し明るくなっている。


 あと数分で止むかもしれない。


 そう思ったとき、美月が言った。


「そういえば」


「はい」


「この前の猫、どうなったんでしょうね」


 恒一は顔を上げた。


 六月二十日。


 公園の近くで見つけた、小さな子猫。


 二人で交番まで運んだ。


 あれから、どうなったのかは知らない。


「気になりますね」


「ですよね」


「ただ、交番では必要な対応をしてくださるとおっしゃっていましたから」


「うん」


「無事に保護されているといいですね」


 美月は頷いた。


「……そうですね」


 少しだけ、沈黙が落ちた。


 雨音が静かになる。


 美月は袋を見た。


 恒一は時計を見た。


 午後五時五分。


 そろそろ帰れる。


 そう思った。


 そして、ふと気づいた。


 このまま別れれば、また名前を知らないままだ。


 四回目。


 さすがに、そろそろ聞いてもいいのではないか。


 恒一は少し考えた。


 不自然ではない。


 むしろ、自然だ。


 何度も会っているのだから。


 ただ。


 なぜか、少し迷った。


 名前を聞くこと自体は難しくない。


 初対面の取引先なら、普通に名刺を交換する。


 店で何かを尋ねるときも、必要なら名乗る。


 けれど、この人とは、そういう関係ではない。


 偶然会って。


 少し話して。


 また別れる。


 それだけの関係だった。


 名前を聞いたら、何かが変わるのだろうか。


 恒一は、自分でもよく分からなかった。


「……あの」


 恒一が口を開いた。


 美月が顔を向けた。


「はい?」


 そのとき。


「あっ!」


 美月が突然、声を上げた。


 恒一は驚いた。


「どうしました?」


「アイス!」


「……アイス?」


「買ったんです!」


 美月はドラッグストアの袋を見た。


「やばい、溶ける!」


 恒一は一瞬、言葉を失った。


 そして、笑った。


「それは急いだ方がいいですね」


「ですよね!」


 美月は慌てて袋を持ち直した。


 雨は、ほとんど止んでいた。


「すみません、私、行きます!」


「はい。お気をつけて」


 美月は一歩踏み出した。


 そして、振り返った。


「あの!」


「はい?」


 美月は少し笑った。


「……また会えますかね?」


 恒一は、すぐには答えなかった。


 少し考えた。


 四回。


 偶然。


 雨。


 公園。


 街角。


 確率を計算することはできる。


 ただ、その答えが何かの役に立つとは思えなかった。


 恒一は微笑んだ。


「……どうでしょう」


 美月は笑った。


「そこは、会えますって言ってくださいよ」


「根拠がありませんから」


「もう!」


 二人は笑った。


 恒一は少し考えた。


 そして、続けた。


「でも」


「はい?」


「また会えたら、嬉しいですね」


 美月は一瞬、黙った。


 そして、少しだけ目を細めた。


「……そうですね」


 雨上がりの風が吹いた。


 美月は笑った。


「じゃあ、また!」


「はい。また」


 彼女は小走りで去っていった。


 袋の中のアイスを守るために。


 恒一はその背中を見送った。


 そして、少し笑った。


「……アイスか」


 名前を聞く機会は、また逃した。


 ただ、不思議と残念ではなかった。


 むしろ、少し楽しかった。



     *



 午後五時二十七分。


 美月は自宅の冷凍庫を開けた。


 アイスを入れる。


 少し柔らかくなっていた。


「……危なかった」


 美月は安心した。


 そして、買い物袋を片づけた。


 洗剤。


 キッチンペーパー。


 卵。


 牛乳。


 バター。


 今日の買い物は、なかなか充実していた。


 ただ、それ以上に。


 美月は、さっきの会話を思い出していた。


『また会えたら、嬉しいですね』


 あの人は、そう言った。


 少し考えてから。


 いつものように、落ち着いた声で。


 美月は冷蔵庫の扉を閉めた。


「……ふふ」


 自然と笑みがこぼれた。


 そして、スマートフォンを取り出した。


 梨花とのメッセージ画面を開く。


『また会った!』


 送信。


 すぐに返信が来た。


『えっ!?』


『四回目!』


『ちょっと待って』


『何?』


『名前は!?』


 美月は画面を見つめた。


 少し考えた。


 そして、返信した。


『……聞いてない』


 数秒後。


『なんでよーーーー!』


 美月は声を出して笑った。



     *



 午後六時十分。


 恒一は自宅の机に座っていた。


 古書店で買った本を並べる。


 三冊。


 どれも、しばらく楽しめそうだった。


 その横に、スマートフォンを置く。


 恒一は少し考えた。


 そして、メモアプリを開いた。


『偶然ログ004』


 日付。


 場所。


 天候。


 遭遇時刻。


 会話の内容。


 そこまで入力して、手を止めた。


 四回目。


 最初の出会いから、三週間ほど。


 名前は知らない。


 仕事も知らない。


 住んでいる場所も知らない。


 分かっていることは、少しだけ増えた。


 甘いものが好きらしい。


 猫を放っておけない。


 よく笑う。


 映画を観ると眠くなる。


 そして、アイスが溶けることには非常に敏感だ。


 恒一は画面を見つめた。


 それから、一行付け加えた。


『再会を希望する発言あり』


 少し考えた。


 削除した。


「……いや」


 これは、さすがに違う。


 恒一はスマートフォンを伏せた。


 椅子にもたれる。


 窓の外には、雨上がりの空が広がっていた。


 雲の切れ間から、夕日が差している。


 恒一は小さく笑った。


 また会えたら、嬉しい。


 自分で口にした言葉だった。


 それは、予定表に書き込めないものだった。



     *



 午後七時四十五分。


 カフェ木漏れ日では、閉店後の片づけが進んでいた。


 梨花はスマートフォンを見つめていた。


 美月からのメッセージ。


『四回目!』


 その下には、名前を聞き忘れたという報告。


 梨花は深く息を吐いた。


「……もう」


 厨房から、真紀が顔を出した。


「どうしたの?」


「いえ、ちょっと」


「何かあった?」


 梨花は笑った。


「友達が、なかなか前に進まなくて」


 真紀は少し首を傾げた。


「恋愛?」


 梨花は驚いた。


「……分かります?」


「何となく」


 真紀は笑った。


 梨花も笑った。


「まあ、そんな感じです」


「そう」


 真紀は少し考えた。


「でも、急がなくてもいいんじゃない?」


 梨花は顔を上げた。


「え?」


「人との関係って、急いだからうまくいくものでもないでしょう」


 梨花は少し黙った。


 そして、笑った。


「……そうですね」


 真紀は頷いた。


「それに、何度も会えるなら、次の機会もあるかもしれないし」


「……ですね」


 梨花はスマートフォンを見た。


 そして、美月に返信した。


『まあ、次こそ聞きなよ』


 少し考えて、もう一通。


『でも、楽しそうでよかったね』


 送信。


 すぐに返事が来た。


『うん!』


 梨花は笑った。


 そして、スマートフォンをしまった。


 そのとき、真紀が言った。


「そういえば、イベントの件だけど」


「はい」


「来週、先方と一度話してみましょうか」


 梨花は顔を上げた。


「本当ですか?」


「ええ。条件を確認してから、正式に決めたいと思うの」


「分かりました!」


 梨花は嬉しそうに頷いた。


 真紀は微笑んだ。


「美月にも伝えておいてくれる?」


「はい!」


 梨花は再びスマートフォンを取り出した。


 そして、美月にメッセージを送った。


『そういえば、イベントの件、来週打ち合わせするって!』


 返信はすぐに来た。


『やった!』


 その下に、もう一通。


『頑張ろうね!』


 梨花は笑った。


『うん!』



     *



 午後九時二十分。


 酒処夕凪。


 カウンターの奥で、黒田修司が小さな鍋を火にかけていた。


 店内には、静かな音楽が流れている。


 客は二人。


 そのうち一人は、小野寺真紀だった。


 真紀はグラスを持ち上げた。


「……今日も暑かったですね」


「そうですね」


 修司は頷いた。


「雨も降りましたし」


「ええ」


 真紀は笑った。


「でも、少し涼しくなりましたね」


「そうですね」


 修司は鍋の火を弱めた。


 そして、真紀の前に小鉢を置いた。


「よかったら、どうぞ」


「何ですか?」


「夏野菜の揚げ浸しです」


 真紀は目を輝かせた。


「おいしそう」


「ありがとうございます」


 真紀は一口食べた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「……おいしい」


 修司は小さく笑った。


「よかったです」


 真紀は箸を置いた。


 少し考えた。


 そして、言った。


「……来週、ちょっと新しいことを始めるかもしれないんです」


 修司は顔を上げた。


「そうなんですか」


「ええ」


 真紀は笑った。


「まだ、決まってないんですけど」


「楽しみですね」


「……そうですね」


 真紀はグラスを持ち上げた。


 修司はそれ以上、何も聞かなかった。


 真紀も、急いで説明しなかった。


 静かな時間が流れた。


 店の外では、雨上がりの風が暖簾を揺らしていた。



     *



 その夜。


 吉祥寺の街には、いくつもの明かりが灯っていた。


 カフェの明かり。


 居酒屋の明かり。


 マンションの窓。


 駅のホーム。


 それぞれの場所で、それぞれの一日が終わろうとしている。


 恒一は、新しく買った本を開いた。


 美月は、冷凍庫からアイスを取り出した。


 梨花は、悠真との次の食事の予定を考えていた。


 航平は、来週の展示に向けて写真を並べ直していた。


 真紀は、夕凪で静かに酒を飲んでいた。


 修司は、最後の客に料理を出していた。


 そして直樹は、イベントの企画書を修正していた。


 まだ、誰も知らない。


 これから何が起こるのか。


 誰と出会い、誰とすれ違い、誰の人生に関わっていくのか。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 七月は、まだ始まったばかりだった。



第1章 雨宿りの人 完


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