第10話 また会いましたね
桐谷恒一は、予定のない休日を嫌っているわけではない。
ただ、予定がないならないで、その時間をどう使うか決めておきたい。
午前中に洗濯。
昼食後に読書。
夕方には買い物。
夜は映画を一本。
そうして組み立てた休日は、たいてい気持ちよく終わる。
問題は、予定表に書き込めないものがあることだった。
例えば、雨。
例えば、猫。
例えば、名前も知らない女性との再会。
そして最近、恒一はもう一つ、予定表に書き込めないものを抱えていた。
期待である。
*
七月四日、土曜日。
午前十時二十八分。
恒一は吉祥寺駅南口から、井の頭公園へ向かう道を歩いていた。
手には小さな紙袋。
中には、昨夜読み終えた文庫本が二冊入っている。
今日は、古書店へ本を売りに行くつもりだった。
ただし、売った金額以上の本を買わないという保証はない。
むしろ、過去の実績を考えると、その可能性はかなり低かった。
恒一は歩きながら、スマートフォンを確認した。
藤堂航平からメッセージが届いていた。
『来週、展示の準備をするんだけど、時間あるか?』
恒一は立ち止まり、返信した。
『土曜日なら空いています。何かお手伝いしましょうか?』
すぐに返事が来た。
『いや、搬入は業者がやる。展示の並びを見てほしい』
『僕でよければ』
『お前の意見は遠慮がないからな』
恒一は少し笑った。
『航平さんの写真に対しては、かなり遠慮しているつもりですが』
『嘘つけ。大学のとき俺の写真を「構図はいいけど何を撮りたいのか分からない」って言っただろ』
『あれは感想を求められたので』
『十年以上忘れてないからな』
『恐縮です』
最後に、怒った猫のスタンプが送られてきた。
恒一はスマートフォンをしまった。
航平とは大学時代からの付き合いだった。
一つ年上の先輩。
当時から写真を撮ることが好きで、授業の合間にもカメラを持ち歩いていた。
恒一が初めて航平の写真を見たのは、大学一年の秋だった。
雨上がりの校舎。
誰もいない廊下。
窓に残る水滴。
その写真を見て、恒一は確かに言った。
『何を撮りたかったんですか?』
航平はそのとき、少し驚いた顔をした。
そして、笑った。
『分からないんだよな、俺も』
それから二人は、よく話すようになった。
恒一は古書店の看板を見つけた。
開店まで、あと二分。
ちょうどいい。
そう思ったところで、店先に貼られた紙に気づいた。
『本日、都合により午後一時開店』
恒一は時計を見た。
午前十時二十九分。
二時間三十一分の空白。
「……なるほど」
彼は小さく呟いた。
予定は、開始前に崩れた。
*
同じころ。
白石美月は、自宅の台所で冷蔵庫を開けていた。
「……ない」
卵がない。
牛乳もない。
バターは、申し訳程度に残っている。
野菜室には、しなびかけた小松菜。
冷凍庫には、いつ買ったのか分からない保冷剤が四つ。
そして、アイスが一個。
美月はアイスを取り出した。
「……朝ごはん」
少し考えた。
戻した。
「いや、違う」
今日は休みだった。
木漏れ日では新作プリンの販売が順調に続いている。
嬉しいことだ。
ただ、連日同じ作業を繰り返していると、休日には違うものを作りたくなる。
そこで昨夜、美月は決めた。
明日は家で、久しぶりにパンケーキを焼こう。
厚くて、ふわふわで、バターが溶けて、メープルシロップが流れるやつ。
そのために必要な材料が、ほとんどなかった。
「……買い物か」
美月は冷蔵庫を閉めた。
洗面所へ向かう。
鏡の中には、寝癖のついた女がいた。
右側だけ、髪が妙な方向へ跳ねている。
「おはようございます」
鏡の中の自分に挨拶した。
返事はなかった。
当然である。
美月は顔を洗い、髪を整えた。
そして、適当なTシャツとデニムに着替えた。
玄関で靴を履こうとしたところで、スマートフォンが震えた。
橘遥からだった。
『今日、吉祥寺いる?』
『いるよー』
『午後ちょっと寄れるかも』
『うち?』
『いや、外。そっちの家は危険』
美月は眉をひそめた。
『何が危険なの』
『床』
『床はあるよ』
『あるだけじゃ駄目なの』
美月は笑った。
遥とは製菓学校時代からの友人だった。
仕事では驚くほど几帳面なのに、私服はいつも派手だ。
以前、ピンクのヒョウ柄の上着に虹色のバッグを合わせて現れたときは、美月もさすがに二度見した。
本人はいたって真面目だった。
『今日は買い物してるから、午後なら大丈夫』
『了解。また連絡する』
美月はスマートフォンをしまった。
そして、靴を履いた。
「よし」
玄関を開ける。
七月の空は、よく晴れていた。
*
午前十一時二十分。
カフェ木漏れ日では、佐伯梨花が店の前に置く黒板を書き直していた。
『午後のごほうびプリン』
その下に、小さく説明文を添える。
『ほろ苦いカラメルと、なめらかな口どけ』
梨花は少し離れて眺めた。
「……よし」
そこへ、小野寺真紀が出てきた。
「いい感じね」
「ありがとうございます」
「プリン、今日も予約が入ってるわよ」
「えっ、もう?」
「ええ。三組ほど」
梨花は嬉しそうに笑った。
「すごいですね」
「そうね」
真紀も笑った。
ただ、少しだけ表情を曇らせた。
「……でも、そろそろ考えないとね」
「何をですか?」
「厨房のこと」
梨花は頷いた。
木漏れ日の厨房は、決して広くない。
オーブンも冷蔵設備も、開店当初から使っているものが多い。
新作プリンが好調なのは喜ばしい。
だが、売れるほどに仕込みの負担は増える。
そこへイベント出店の話まで来ている。
「設備、ですか」
「ええ」
真紀は店の中を見た。
「まだ使えるものばかりだけど、いつまでも同じようにはいかないわね」
梨花は黒板を持ち上げた。
「……イベント、どうします?」
「もう少し検討してみましょう」
「はい」
「でも、私は前向きよ」
梨花は少し驚いた。
「そうなんですか?」
「ええ」
真紀は微笑んだ。
「美月も、あなたも、やってみたいんでしょう?」
梨花は笑った。
「……はい」
「なら、できる方法を考えましょう」
真紀は店内へ戻っていった。
梨花はその背中を見送った。
十二年前、この店を開いた真紀。
自分が入ったころには、もう木漏れ日はこの街に馴染んでいた。
それでも、真紀は新しいことを始めようとしている。
梨花は黒板を所定の位置に置いた。
そして、スマートフォンを取り出した。
昨夜、宮本悠真から届いたメッセージを開く。
『今度はラーメンでも行くか』
梨花は少し考えた。
そして、返信した。
『その前に、ちょっと相談したいことあるんだけど』
数分後。
『何?』
『仕事のこと』
『俺でよければ』
梨花は笑った。
悠真は、こういうとき妙に頼りになる。
普段はふざけてばかりいるくせに、仕事の相談になると真面目に聞いてくれる。
『また時間あるときに』
『了解。帝王に任せろ』
梨花は吹き出した。
「……そこは普通でいいのに」
*
午前十一時五十二分。
恒一は井の頭公園のベンチに座っていた。
古書店が開くまでの時間を使い、近くの書店で購入した文庫本を読んでいる。
木陰は涼しかった。
風が吹くと、葉が小さく揺れた。
遠くから子どもの声が聞こえる。
池の周りを歩く人々。
犬を連れた夫婦。
ベビーカーを押す若い父親。
休日らしい光景だった。
恒一はページをめくった。
そして、ふと顔を上げた。
向こうから、見覚えのある人物が歩いてきた。
派手な服装。
大きなバッグ。
ピンクと黄色と水色。
色の組み合わせが、なかなか大胆だった。
恒一は少し考えた。
どこかで見たことがある。
女性は、スマートフォンを見ながら歩いていた。
そして、ベンチの少し手前で足を止めた。
「あれ?」
女性が恒一を見た。
恒一も顔を上げた。
「……あ」
女性は笑った。
「いつもありがとうございます」
恒一は思い出した。
時々立ち寄る洋菓子店の店員だった。
ショーケースの前で迷っていると、商品の違いを丁寧に説明してくれる人だ。
「こんにちは。今日はお休みですか?」
「はい。珍しく土曜日に休めまして」
「そうなんですね」
女性は笑った。
「お買い物ですか?」
「古書店へ行こうと思ったんですが、開店時間が変更になっていたので」
「あら、残念」
「ええ。時間ができたので、少し読書をしています」
女性は手に持っていた紙袋を持ち直した。
「そういえば、前に買ってくださったチョコレートのケーキ、いかがでした?」
「とてもおいしかったです。甘さが控えめで、香りがよかったですね」
女性の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか! あれ、私が仕上げを担当したんです」
「そうだったんですね」
「嬉しいです」
恒一は微笑んだ。
「また伺います」
「ぜひ!」
女性は嬉しそうに頭を下げた。
「それじゃあ、よい休日を」
「ありがとうございます。そちらも」
女性は手を振って歩き去った。
恒一はその背中を見送り、本に目を戻した。
名前は知らない。
ただ、仕事に誇りを持っている人なのだろうと思った。
自分の作ったものを褒められたときの笑顔は、印象的だった。
*
午後零時十四分。
橘遥は、井の頭公園を抜けながらスマートフォンを操作していた。
『美月、今どこ?』
返信はすぐに来た。
『スーパー』
『何買ってるの?』
『卵』
『それだけ?』
『牛乳とバターも』
『何作るの?』
『パンケーキ』
遥は笑った。
『私も食べたい』
『もうお昼だよ』
『パンケーキに時間制限はない』
『名言っぽく言わないで』
遥はさらに笑った。
美月は昔から、妙なところで真面目だった。
製菓学校時代もそうだ。
実習では誰よりも熱心で、失敗すると納得するまで作り直した。
そのくせ、授業が終わると食堂で大盛りのカレーを食べていた。
遥は思い出し笑いをした。
そして、先ほど公園で会った男性のことを思い出した。
時々店に来る、感じのいい客。
いつも商品の説明をきちんと聞いてくれる。
余計なことは言わないが、気に入ったものは素直に褒めてくれる。
接客する側としては、ありがたい相手だった。
「……あの人、また来てくれるかな」
遥は小さく呟いた。
そして、スマートフォンをしまった。
待ち合わせまで、まだ少し時間がある。
どこかでコーヒーでも買おう。
そう思って、歩き出した。
*
午後一時五分。
美月はスーパーの袋を提げて歩いていた。
卵。
牛乳。
バター。
小麦粉。
メープルシロップ。
そして、なぜか唐揚げ。
最後の一つは予定になかった。
ただ、惣菜売り場で揚げたての唐揚げを見た瞬間、昼食が決まってしまった。
「……仕方ないよね」
美月は誰にともなく言った。
空腹には逆らえない。
特に、揚げたての唐揚げには。
彼女は公園沿いの道へ出た。
少し歩くと、向こうから自転車を押した男性が来た。
後ろの荷台には、大きな段ボール箱。
男性は困ったような顔をしていた。
どうやら、荷物を固定していた紐が緩んでいるらしい。
美月は一度通り過ぎた。
そして、戻った。
「あの、大丈夫ですか?」
男性が顔を上げた。
「ああ、すみません。ちょっと荷物がずれちゃって」
「押さえましょうか?」
「いいんですか?」
「はい」
美月は買い物袋を足元に置いた。
男性が紐を結び直す間、段ボール箱を支える。
中には、古い本がぎっしり入っていた。
「重いですね」
「いやあ、古本屋をやってまして」
「あ、そうなんですか」
「店に持っていくところなんですけどね。今日は朝から予定が狂っちゃって」
美月は笑った。
「そういう日、ありますよね」
「ありますねえ」
男性は紐を締め直した。
「よし。これで大丈夫」
「よかったです」
「ありがとうございました。助かりました」
「いえいえ」
男性は頭を下げた。
そして、自転車を押して歩き出した。
美月も買い物袋を持ち上げた。
唐揚げが少し傾いていた。
「……無事かな」
袋の中を確認する。
無事だった。
美月は安心した。
それから、家へ向かって歩き出した。
*
午後一時十二分。
恒一は古書店へ戻ってきた。
店は開いていた。
入口の前では、先ほどの男性が自転車から荷物を下ろしている。
「こんにちは」
恒一が声をかけた。
「ああ、いらっしゃい」
「今日は午後からだったんですね」
「すみませんねえ。ちょっと用事がありまして」
「いえ。ちょうど公園で本を読んでいました」
「それはよかった」
男性は笑った。
「さっきも、荷物がずれて困ってたら、若い女の人が手伝ってくれてね」
「そうなんですか」
「いやあ、ありがたいもんです」
恒一は頷いた。
「親切な方ですね」
「本当に」
男性は段ボール箱を持ち上げた。
「さて、どうぞ。今日は何かお探しで?」
「まず、こちらをお願いしたいんですが」
恒一は紙袋を差し出した。
中には、読み終えた文庫本が二冊。
店主は受け取り、奥へ向かった。
恒一は店内を見回した。
古い紙の匂い。
棚に並ぶ背表紙。
静かな空気。
こういう場所は落ち着く。
恒一は一冊の本を手に取った。
表紙には、昔の吉祥寺の写真が使われていた。
まだ今ほど建物が多くなかったころの街並み。
駅前の様子。
商店街。
井の頭公園。
恒一はページをめくった。
知らない時代の、知っている街。
不思議な感覚だった。
*
午後二時四十分。
美月は自宅の台所で、パンケーキを焼いていた。
フライパンの上で、生地がゆっくり膨らむ。
甘い香りが広がる。
「……いいね」
美月は満足そうに頷いた。
そのとき、インターホンが鳴った。
「はーい!」
玄関を開けると、橘遥が立っていた。
今日の服装は、鮮やかなピンクのシャツに、白いパンツ。
バッグには、なぜか小さな恐竜のぬいぐるみがぶら下がっていた。
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃい」
遥は玄関に入った。
そして、足元を見た。
「……今日は床が見える」
「失礼な」
「前回は見えなかった」
「見えてたよ」
「部分的にね」
美月は笑った。
「今、パンケーキ焼いてるよ」
「やった!」
遥は嬉しそうに靴を脱いだ。
二人は台所へ向かった。
テーブルには、すでに皿が二枚用意されている。
「最初から私の分も作ってたの?」
「うん」
「優しい!」
「その代わり、洗い物お願いね」
「……なるほど」
遥は笑った。
美月も笑った。
やがて、厚いパンケーキが二枚、皿に盛られた。
バターをのせる。
メープルシロップをかける。
美月は満足そうに眺めた。
「完成!」
遥は拍手した。
「素晴らしい!」
二人は向かい合って座った。
そして、同時に一口食べた。
「……おいしい!」
遥が声を上げた。
美月は嬉しそうに笑った。
「でしょ?」
「これ、お店でも出せるんじゃない?」
「いやあ、どうかな」
「なんで?」
「注文が入るたびに焼くの、大変だし」
「そっか」
「それに、今の厨房だと場所がない」
遥は頷いた。
「設備の問題かあ」
「そうなの」
美月はパンケーキを切った。
そして、ふと思い出した。
「そういえば、今度イベントに出るかもしれないんだ」
「イベント?」
「うん。吉祥寺の商業施設で」
「へえ!」
遥は目を輝かせた。
「いいじゃん!」
「まだ決まってないけどね」
「何出すの?」
「焼き菓子かなあ」
「なるほど」
遥は少し考えた。
「……美月のアーモンドタルト、いいと思うけど」
美月は顔を上げた。
「ほんと?」
「うん。この前もらったやつ、かなりよかったよ」
「でも、もうちょっと何か欲しくて」
「何かって?」
「……何か」
遥は笑った。
「それ、学生のころから変わらないね」
「え?」
「美月、納得するまでずっと作るじゃん」
美月は少し照れたように笑った。
「そうかな」
「そうだよ」
遥はパンケーキをもう一口食べた。
「でも、そういうところ、私は好きだよ」
美月は少し驚いた。
そして、笑った。
「……ありがと」
二人はしばらく、パンケーキを食べながら話した。
仕事のこと。
最近の客のこと。
新しい材料のこと。
製菓学校時代の友人のこと。
そして、話題はいつの間にか恋愛へ移った。
「そういえば、美月」
「ん?」
「最近、誰かいい人いないの?」
美月はフォークを止めた。
「……急に何?」
「いや、何となく」
「いないよ」
「本当に?」
「うん」
遥はじっと見た。
「……怪しい」
「何が?」
「今、ちょっと間があった」
「パンケーキを飲み込んでただけ」
「ふーん」
遥はにやりと笑った。
美月は目をそらした。
「……まあ」
「まあ?」
「ちょっと、面白い人には会ったけど」
遥の目が輝いた。
「えっ!」
「声大きい!」
「誰? どこで? 何歳?」
「知らない」
「え?」
「名前も知らない」
遥は固まった。
そして、ゆっくり言った。
「……どういうこと?」
美月は笑った。
「雨の日に、傘を一緒に使った人」
遥は口を開けた。
「……え?」
「それで、何回か偶然会って」
「何回?」
「三回」
遥はフォークを置いた。
「三回!?」
「うん」
「それで名前知らないの!?」
「うん」
遥はしばらく美月を見つめた。
そして、深く息を吐いた。
「……美月」
「何?」
「それ、漫画だったら読者に怒られるやつだよ」
美月は吹き出した。
「何それ!」
「三回会って名前聞かないって、どんな展開よ!」
「だって、聞くタイミングがなくて」
「作るの!」
「どうやって?」
「普通に聞けばいいじゃん!」
美月は笑った。
「それができたら苦労しないよ」
遥は頭を抱えた。
「……もう」
そして、少し考えた。
「でも、気になるんでしょ?」
美月はフォークを置いた。
少しだけ黙った。
「……うん」
遥は笑った。
「そっか」
美月も笑った。
「でも、まだよく分からないんだよね」
「何が?」
「その人のこと」
美月は窓の外を見た。
「ちゃんとしてる人だなって思うし、話してて面白いんだけど」
「うん」
「それだけ」
遥は頷いた。
「それだけで十分じゃない?」
美月は少し考えた。
「……そうかな」
「うん」
遥は笑った。
「また会えたら、今度こそ名前聞けば?」
美月も笑った。
「……そうだね」
*
午後四時三十五分。
恒一は古書店を出た。
紙袋の中には、三冊の本が入っている。
二冊売って、三冊買った。
収支は、当然ながら赤字だった。
「……まあ、想定内か」
恒一は小さく呟いた。
空はまだ明るかった。
少し雲が出てきている。
天気予報では、夕方に一時的な雨の可能性があると言っていた。
降水確率は三十パーセント。
恒一はスマートフォンを確認した。
雨雲レーダー。
西から小さな雨雲が近づいている。
「……微妙だな」
恒一は空を見上げた。
傘は持っていない。
ただ、駅まで歩けば十分ほどだ。
雨が降る前に帰れるだろう。
そう判断して歩き出した。
*
午後四時四十二分。
美月は遥を見送ったあと、近所のドラッグストアへ向かっていた。
洗剤が切れていたことを思い出したのだ。
ついでに、キッチンペーパーも買う。
そして、できればアイスも。
美月は空を見上げた。
「……あれ?」
雲が増えていた。
さっきまで晴れていたのに。
風が少し強くなっている。
美月はスマートフォンを取り出した。
天気予報。
降水確率三十パーセント。
「……三十なら大丈夫でしょ」
彼女はそう判断した。
もちろん、傘は持っていない。
*
午後四時五十一分。
最初の一滴が落ちた。
恒一は歩道で足を止めた。
頬に、冷たいものが当たった。
空を見上げる。
灰色の雲。
次の一滴。
そして、三滴目。
「……来たか」
恒一は周囲を見た。
近くに、軒のある建物があった。
小さな雑貨店。
入口の脇には、雨を避けられる場所がある。
恒一はそこへ移動した。
数秒後。
雨が強くなった。
通りを歩いていた人々が、足を速める。
自転車が通り過ぎる。
店先の看板に、雨粒が当たる。
恒一は腕時計を見た。
午後四時五十二分。
駅まで、あと七分ほど。
走れば四分。
ただし、紙袋の中には本が三冊ある。
濡らすわけにはいかない。
恒一は小さく息を吐いた。
「……待つか」
そのときだった。
「……あれ?」
聞き覚えのある声がした。
恒一は顔を上げた。
通りの向こう。
スーパーの袋とドラッグストアの袋を提げた女性が、こちらを見ていた。
白石美月だった。
もちろん、恒一はその名前を知らない。
ただ、顔は分かる。
あの雨の日。
あの猫の日。
そして、先週の日曜日。
三度、偶然会った女性。
彼女は少し驚いた顔をした。
そして、笑った。
「……また会いましたね」
恒一も笑った。
「そうですね」
美月は小走りで軒下へ入った。
「すみません、ちょっと雨宿りさせてください」
「どうぞ。僕の店ではありませんけど」
美月は吹き出した。
「そうでした」
二人は並んで、雨を見た。
しばらく、何も言わなかった。
雨音が、通りを満たしていた。
「……また雨ですね」
美月が言った。
「そうですね」
「最初に会った日も雨でしたよね」
「ええ」
「何か、雨の日によく会いますね」
恒一は少し考えた。
「正確には、四回中二回です」
美月は笑った。
「出た」
「何がですか?」
「そういうところ」
恒一は少し首を傾げた。
「……どういうところでしょう」
「すぐ数字で考えるところです」
恒一は笑った。
「癖ですね」
「でしょうね」
二人は笑った。
雨は、まだ降っている。
美月は袋を持ち直した。
恒一は、その中に洗剤とキッチンペーパーが入っているのを見た。
「お買い物ですか?」
「はい。ちょっと足りないものがあって」
「そうなんですね」
「そちらは?」
「本を買いに行っていました」
「本?」
「ええ」
恒一は紙袋を少し持ち上げた。
美月は目を輝かせた。
「へえ! 何の本ですか?」
「古い映画についての本と、街の写真集です」
「映画、好きなんですか?」
「はい。よく観ます」
「へえ」
美月は少し考えた。
「私、映画館で観るのは好きなんですけど、家だと途中で寝ちゃうんですよね」
恒一は笑った。
「疲れていると、そうなりますね」
「そうなんです。特に夜!」
「夜は眠くなるものですから」
「ですよね!」
美月は嬉しそうに頷いた。
そして、少し考えた。
「……でも、映画って、最後まで観ないと失礼な気がしません?」
恒一は首を傾げた。
「誰に対してですか?」
「作った人?」
「なるほど」
「だから、寝ないように頑張るんですけど」
「はい」
「頑張ると、余計眠くなるんですよね」
恒一は少し笑った。
「それは、なかなか難しい問題ですね」
「そうなんです」
美月は真剣に頷いた。
恒一はその横顔を見た。
この人は、時々不思議なことを真面目に話す。
けれど、聞いていると妙に面白い。
会話の行き先が予測できない。
恒一にとって、それは少し新鮮だった。
*
午後五時三分。
雨は、少し弱くなっていた。
美月は空を見上げた。
「……止みそうですね」
「そうですね」
恒一も空を見た。
雨雲の端が、少し明るくなっている。
あと数分で止むかもしれない。
そう思ったとき、美月が言った。
「そういえば」
「はい」
「この前の猫、どうなったんでしょうね」
恒一は顔を上げた。
六月二十日。
公園の近くで見つけた、小さな子猫。
二人で交番まで運んだ。
あれから、どうなったのかは知らない。
「気になりますね」
「ですよね」
「ただ、交番では必要な対応をしてくださるとおっしゃっていましたから」
「うん」
「無事に保護されているといいですね」
美月は頷いた。
「……そうですね」
少しだけ、沈黙が落ちた。
雨音が静かになる。
美月は袋を見た。
恒一は時計を見た。
午後五時五分。
そろそろ帰れる。
そう思った。
そして、ふと気づいた。
このまま別れれば、また名前を知らないままだ。
四回目。
さすがに、そろそろ聞いてもいいのではないか。
恒一は少し考えた。
不自然ではない。
むしろ、自然だ。
何度も会っているのだから。
ただ。
なぜか、少し迷った。
名前を聞くこと自体は難しくない。
初対面の取引先なら、普通に名刺を交換する。
店で何かを尋ねるときも、必要なら名乗る。
けれど、この人とは、そういう関係ではない。
偶然会って。
少し話して。
また別れる。
それだけの関係だった。
名前を聞いたら、何かが変わるのだろうか。
恒一は、自分でもよく分からなかった。
「……あの」
恒一が口を開いた。
美月が顔を向けた。
「はい?」
そのとき。
「あっ!」
美月が突然、声を上げた。
恒一は驚いた。
「どうしました?」
「アイス!」
「……アイス?」
「買ったんです!」
美月はドラッグストアの袋を見た。
「やばい、溶ける!」
恒一は一瞬、言葉を失った。
そして、笑った。
「それは急いだ方がいいですね」
「ですよね!」
美月は慌てて袋を持ち直した。
雨は、ほとんど止んでいた。
「すみません、私、行きます!」
「はい。お気をつけて」
美月は一歩踏み出した。
そして、振り返った。
「あの!」
「はい?」
美月は少し笑った。
「……また会えますかね?」
恒一は、すぐには答えなかった。
少し考えた。
四回。
偶然。
雨。
公園。
街角。
確率を計算することはできる。
ただ、その答えが何かの役に立つとは思えなかった。
恒一は微笑んだ。
「……どうでしょう」
美月は笑った。
「そこは、会えますって言ってくださいよ」
「根拠がありませんから」
「もう!」
二人は笑った。
恒一は少し考えた。
そして、続けた。
「でも」
「はい?」
「また会えたら、嬉しいですね」
美月は一瞬、黙った。
そして、少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
雨上がりの風が吹いた。
美月は笑った。
「じゃあ、また!」
「はい。また」
彼女は小走りで去っていった。
袋の中のアイスを守るために。
恒一はその背中を見送った。
そして、少し笑った。
「……アイスか」
名前を聞く機会は、また逃した。
ただ、不思議と残念ではなかった。
むしろ、少し楽しかった。
*
午後五時二十七分。
美月は自宅の冷凍庫を開けた。
アイスを入れる。
少し柔らかくなっていた。
「……危なかった」
美月は安心した。
そして、買い物袋を片づけた。
洗剤。
キッチンペーパー。
卵。
牛乳。
バター。
今日の買い物は、なかなか充実していた。
ただ、それ以上に。
美月は、さっきの会話を思い出していた。
『また会えたら、嬉しいですね』
あの人は、そう言った。
少し考えてから。
いつものように、落ち着いた声で。
美月は冷蔵庫の扉を閉めた。
「……ふふ」
自然と笑みがこぼれた。
そして、スマートフォンを取り出した。
梨花とのメッセージ画面を開く。
『また会った!』
送信。
すぐに返信が来た。
『えっ!?』
『四回目!』
『ちょっと待って』
『何?』
『名前は!?』
美月は画面を見つめた。
少し考えた。
そして、返信した。
『……聞いてない』
数秒後。
『なんでよーーーー!』
美月は声を出して笑った。
*
午後六時十分。
恒一は自宅の机に座っていた。
古書店で買った本を並べる。
三冊。
どれも、しばらく楽しめそうだった。
その横に、スマートフォンを置く。
恒一は少し考えた。
そして、メモアプリを開いた。
『偶然ログ004』
日付。
場所。
天候。
遭遇時刻。
会話の内容。
そこまで入力して、手を止めた。
四回目。
最初の出会いから、三週間ほど。
名前は知らない。
仕事も知らない。
住んでいる場所も知らない。
分かっていることは、少しだけ増えた。
甘いものが好きらしい。
猫を放っておけない。
よく笑う。
映画を観ると眠くなる。
そして、アイスが溶けることには非常に敏感だ。
恒一は画面を見つめた。
それから、一行付け加えた。
『再会を希望する発言あり』
少し考えた。
削除した。
「……いや」
これは、さすがに違う。
恒一はスマートフォンを伏せた。
椅子にもたれる。
窓の外には、雨上がりの空が広がっていた。
雲の切れ間から、夕日が差している。
恒一は小さく笑った。
また会えたら、嬉しい。
自分で口にした言葉だった。
それは、予定表に書き込めないものだった。
*
午後七時四十五分。
カフェ木漏れ日では、閉店後の片づけが進んでいた。
梨花はスマートフォンを見つめていた。
美月からのメッセージ。
『四回目!』
その下には、名前を聞き忘れたという報告。
梨花は深く息を吐いた。
「……もう」
厨房から、真紀が顔を出した。
「どうしたの?」
「いえ、ちょっと」
「何かあった?」
梨花は笑った。
「友達が、なかなか前に進まなくて」
真紀は少し首を傾げた。
「恋愛?」
梨花は驚いた。
「……分かります?」
「何となく」
真紀は笑った。
梨花も笑った。
「まあ、そんな感じです」
「そう」
真紀は少し考えた。
「でも、急がなくてもいいんじゃない?」
梨花は顔を上げた。
「え?」
「人との関係って、急いだからうまくいくものでもないでしょう」
梨花は少し黙った。
そして、笑った。
「……そうですね」
真紀は頷いた。
「それに、何度も会えるなら、次の機会もあるかもしれないし」
「……ですね」
梨花はスマートフォンを見た。
そして、美月に返信した。
『まあ、次こそ聞きなよ』
少し考えて、もう一通。
『でも、楽しそうでよかったね』
送信。
すぐに返事が来た。
『うん!』
梨花は笑った。
そして、スマートフォンをしまった。
そのとき、真紀が言った。
「そういえば、イベントの件だけど」
「はい」
「来週、先方と一度話してみましょうか」
梨花は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。条件を確認してから、正式に決めたいと思うの」
「分かりました!」
梨花は嬉しそうに頷いた。
真紀は微笑んだ。
「美月にも伝えておいてくれる?」
「はい!」
梨花は再びスマートフォンを取り出した。
そして、美月にメッセージを送った。
『そういえば、イベントの件、来週打ち合わせするって!』
返信はすぐに来た。
『やった!』
その下に、もう一通。
『頑張ろうね!』
梨花は笑った。
『うん!』
*
午後九時二十分。
酒処夕凪。
カウンターの奥で、黒田修司が小さな鍋を火にかけていた。
店内には、静かな音楽が流れている。
客は二人。
そのうち一人は、小野寺真紀だった。
真紀はグラスを持ち上げた。
「……今日も暑かったですね」
「そうですね」
修司は頷いた。
「雨も降りましたし」
「ええ」
真紀は笑った。
「でも、少し涼しくなりましたね」
「そうですね」
修司は鍋の火を弱めた。
そして、真紀の前に小鉢を置いた。
「よかったら、どうぞ」
「何ですか?」
「夏野菜の揚げ浸しです」
真紀は目を輝かせた。
「おいしそう」
「ありがとうございます」
真紀は一口食べた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……おいしい」
修司は小さく笑った。
「よかったです」
真紀は箸を置いた。
少し考えた。
そして、言った。
「……来週、ちょっと新しいことを始めるかもしれないんです」
修司は顔を上げた。
「そうなんですか」
「ええ」
真紀は笑った。
「まだ、決まってないんですけど」
「楽しみですね」
「……そうですね」
真紀はグラスを持ち上げた。
修司はそれ以上、何も聞かなかった。
真紀も、急いで説明しなかった。
静かな時間が流れた。
店の外では、雨上がりの風が暖簾を揺らしていた。
*
その夜。
吉祥寺の街には、いくつもの明かりが灯っていた。
カフェの明かり。
居酒屋の明かり。
マンションの窓。
駅のホーム。
それぞれの場所で、それぞれの一日が終わろうとしている。
恒一は、新しく買った本を開いた。
美月は、冷凍庫からアイスを取り出した。
梨花は、悠真との次の食事の予定を考えていた。
航平は、来週の展示に向けて写真を並べ直していた。
真紀は、夕凪で静かに酒を飲んでいた。
修司は、最後の客に料理を出していた。
そして直樹は、イベントの企画書を修正していた。
まだ、誰も知らない。
これから何が起こるのか。
誰と出会い、誰とすれ違い、誰の人生に関わっていくのか。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
七月は、まだ始まったばかりだった。
第1章 雨宿りの人 完




