第11話 写真には写らないもの
藤堂航平は、写真を撮るのが好きだった。
正確には、写真を撮る前の時間が好きだった。
ファインダーを覗き、構図を決め、シャッターを押す。
写真家の仕事といえば、そういうものを想像する人が多い。
もちろん、間違ってはいない。
だが、航平にとって一番面白いのは、その少し前だった。
例えば、信号待ちをしている親子。
子どもが何かを話し、母親が笑う。
その瞬間を撮るのではなく、子どもが何を話すのか分からないまま、母親が笑うのを待っている時間。
あるいは、商店街の店主。
開店前、シャッターを上げる。
店先を掃く。
看板を出す。
最後に、少し離れて店を眺める。
その一連の動作の中で、どこにその人らしさが表れるのかを考える時間。
航平は、そういうものが好きだった。
だから、写真家という仕事を選んだ。
ただし。
「……写真家って、もっと優雅な仕事だと思ってたんだけどな」
七月六日、月曜日。
午前九時十七分。
航平は自宅の床に座り込み、百枚以上の写真を並べていた。
吉祥寺駅から少し離れた、小さなマンションの一室。
六畳の仕事部屋には、パソコン、カメラ、レンズ、プリンター、そして大量の写真がある。
壁には、過去に撮った写真が数枚。
机の上には、冷めたコーヒー。
床には、写真。
写真。
写真。
「……終わらん」
来週から始まるグループ写真展。
タイトルは『誰かがいた場所』。
航平を含む四人の写真家が、それぞれの視点で「人の気配」を表現する企画だった。
航平の担当は、日常の風景。
人が写っていなくても、そこに誰かがいたことが分かる写真。
飲みかけのコーヒー。
使い込まれた椅子。
夕方の商店街。
閉店後の店先。
そうした写真を集めていた。
問題は、候補が多すぎることだった。
最初は二十枚に絞る予定だった。
ところが、選び始めると三十枚になった。
さらに、別の写真も気になり始めた。
現在、床には百二十七枚。
展示できるのは、十二枚。
「……十倍以上あるじゃねえか」
航平は頭を抱えた。
そして、スマートフォンを取り出した。
桐谷恒一とのメッセージ画面を開く。
『恒一、今週末の件だけど』
送信。
数分後。
『はい。土曜日の午後なら空いています』
『十二枚選ぶの手伝ってくれ』
『以前、展示の並びを見るだけとおっしゃっていませんでしたか?』
『状況が変わった』
『何枚あるんですか?』
『百二十七』
しばらく返信がなかった。
航平は少し不安になった。
そして、一分後。
『航平さん、それは選定作業から始める必要がありますね』
『そうなんだよ』
『事前に候補を三十枚程度まで絞っていただけますか?』
『鬼』
『十二枚に絞るための作業ですから』
『合理主義者め』
『褒め言葉として受け取ります』
航平は笑った。
「……相変わらずだな」
そして、床に並んだ写真を見た。
百二十七枚。
十二枚。
その差は、百十五枚。
「……さて」
航平は一枚を手に取った。
そこには、夕暮れの吉祥寺の路地が写っていた。
小さな居酒屋。
暖簾。
店先の灯り。
先日、酒処夕凪で撮らせてもらった写真だった。
店主は、少し無口な男性。
店先の暖簾を撮ってもいいか尋ねると、静かに頷いてくれた。
そのとき、カウンターには一人の女性客がいた。
落ち着いた雰囲気の女性だった。
店主と短い会話を交わし、ゆっくり酒を飲んでいた。
航平は、その光景を思い出した。
写真には、女性は写っていない。
ただ、暖簾の奥に、店の明かりが見える。
「……いいな」
航平はその写真を、残す方の山に置いた。
*
午前十時四十八分。
カフェ木漏れ日では、白石美月がプリンの仕込みをしていた。
卵を割る。
砂糖を量る。
牛乳を温める。
作業は、いつもと同じだった。
ただ、今日は少しだけ気分が違った。
「……ふふ」
美月は小さく笑った。
隣で作業していた佐伯梨花が顔を上げた。
「……何?」
「何が?」
「今、笑ったでしょ」
「笑ってないよ」
「笑ってたよ」
「気のせいじゃない?」
梨花は手を止めた。
「……美月」
「はい」
「土曜日の人?」
美月は卵を割り終え、手を洗ってから顔を上げた。
「……何で分かるの」
「分かるよ」
梨花は呆れたように笑った。
「四回目なんでしょ?」
「うん」
「名前は?」
「……聞いてない」
「知ってる」
二人は笑った。
梨花は少し考えた。
「でも、四回も偶然会うって、なかなかないよね」
「そうだよね」
「どんな人なの?」
「……うーん」
美月は少し考えた。
「ちゃんとしてる人」
「それは聞いた」
「優しい人」
「それも聞いた」
「あと、ちょっと変な人」
梨花は目を細めた。
「……美月がそれ言う?」
「何それ!」
二人は笑った。
美月は卵液を混ぜ始めた。
「でもね」
「うん?」
「話してると、面白いんだよね」
梨花は頷いた。
「へえ」
「私が変なこと言っても、ちゃんと聞いてくれるし」
「……変なこと言ってる自覚はあるんだ」
「あるよ!」
美月は胸を張った。
梨花は笑った。
「じゃあ、次は名前聞きなよ」
「うん」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶん!?」
美月は笑った。
そのとき、厨房の入口から声がした。
「二人とも、ちょっといいかしら」
小野寺真紀だった。
手には、一枚の紙。
「イベントの件なんだけど」
梨花と美月は顔を上げた。
「はい!」
美月が元気よく答えた。
真紀は微笑んだ。
「先方から、打ち合わせの日程について連絡があったわ」
「本当ですか?」
「ええ。今週の木曜日、午後三時から」
梨花は頷いた。
「分かりました」
「私と梨花で話を聞いてくるつもりだけど、美月も参加できそう?」
美月は少し考えた。
「行きたいです。でも、その日はタルトの試作とプリンの仕込みが重なります。厨房を空けても大丈夫か、勤務表を見てからでもいいですか」
「もちろん。田村さんは昼のホール、水野さんはコーヒー担当で、中村くんは別の仕事のシフトもあるものね。無理に三人で出る必要はないわ。私と梨花で話を聞いて、美月にはあとで詳しく伝える形でもいいから」
「分かりました。木曜日は仕込みを進めておきます。試作品の写真も用意しますね」
美月は嬉しそうに笑った。
梨花はその横顔を見た。
新しいことが始まる。
そんな期待が、少しずつ店の中に広がっていた。
*
午前十一時三十二分。
宮本悠真は、出版社の会議室で頭を抱えていた。
「……だから、違うんですよ」
向かいに座る若い作家が、不安そうに顔を上げた。
「何がですか?」
「主人公が強すぎるんです」
「えっ」
「いや、強いのはいいんです。そこは作品の魅力なので」
悠真は原稿を指さした。
「でも、何でも一人で解決しちゃうと、他のキャラクターが必要なくなるんですよ」
作家は黙った。
悠真は続けた。
「例えば、ここ」
原稿の一ページを開く。
「主人公が敵を倒して、仲間を救って、街まで復興させてますよね」
「はい」
「全部やってる」
「……はい」
「じゃあ、仲間は何してるんですか?」
作家は少し考えた。
「……応援?」
悠真は天井を見た。
「……応援かあ」
少し間が空いた。
そして、悠真は笑った。
「いや、応援も大事ですよ。でも、仲間にも役割を持たせましょう」
「役割、ですか」
「そうです」
悠真は原稿にメモを書き込んだ。
「誰かが何かをして、その結果、別の誰かが動く。そうすると、物語に広がりが出るんです」
作家は頷いた。
「なるほど」
「主人公が全部解決するより、ずっと面白くなりますよ」
悠真は笑った。
そして、ふと思った。
自分の人生はどうだろう。
梨花。
幼なじみ。
ずっと近くにいる。
何度も食事に行った。
何度も相談に乗った。
それなのに、肝心なことは何も言っていない。
物語の登場人物には、行動しろと言える。
だが、自分は。
「……先生」
「はい?」
「……いや、何でもないです」
悠真は首を振った。
作家は不思議そうな顔をした。
悠真は原稿を閉じた。
「じゃあ、次の改稿で、この辺りを少し考えてみましょう」
「はい!」
作家は元気よく答えた。
悠真は笑った。
そして、心の中で呟いた。
……人のこと言えねえな。
*
午後零時十五分。
恒一は会社の会議室で、イベントの進行表を確認していた。
隣には、三浦直樹。
直樹は今日も元気だった。
「桐谷さん!」
「どうした?」
「木漏れ日さん、打ち合わせの日程が決まりました!」
「そうか」
「木曜日の午後三時です!」
「分かった。施設側には共有した?」
「はい!」
「必要な資料は?」
「準備してます!」
恒一は頷いた。
「いいね。じゃあ、当日は店舗側の希望をよく聞こう」
「はい!」
直樹は嬉しそうに笑った。
「それで、桐谷さん」
「何だ?」
「当日、一緒に来てもらえますか?」
恒一は顔を上げた。
「俺も?」
「はい!」
「直樹が担当だろ?」
「そうなんですけど、初回の打ち合わせなので」
恒一は少し考えた。
「……なるほど」
直樹は真剣な顔をした。
「僕、今回はちゃんとやりたいんです」
「うん」
「地元のお店と一緒に何かやるって、すごく面白いと思うんですよ」
「そうだな」
「だから、最初の打ち合わせで失敗したくなくて」
恒一は直樹を見た。
以前なら、勢いだけで話を進めようとしていただろう。
だが、今回は違う。
必要な条件を確認し、相手の事情を考え、慎重に進めようとしている。
恒一は少し笑った。
「分かった。一緒に行こう」
直樹の顔が明るくなった。
「本当ですか!」
「ああ。ただし、説明するのは直樹だぞ」
「はい!」
「俺は必要なところで補足する」
「分かりました!」
直樹は大きく頷いた。
そして、少し考えた。
「……桐谷さん」
「何だ?」
「やっぱり、頼りになりますね」
恒一は笑った。
「そう思ってくれるなら、当日までに資料を仕上げておいてくれ」
「……はい!」
直樹は元気よく答えた。
恒一は進行表に目を戻した。
木曜日、午後三時。
カフェ木漏れ日。
予定表に、新しい項目が追加された。
*
午後二時四十分。
橘遥は、洋菓子店の厨房でチョコレートの飾りを作っていた。
薄く伸ばしたチョコレートを、細い道具で丁寧に形作る。
小さな花。
葉。
曲線。
作業は繊細だった。
少し力を入れすぎれば、すぐに割れてしまう。
遥は息を整えた。
そして、最後の一枚を仕上げた。
「……よし」
隣のスタッフが覗き込んだ。
「きれいですね」
「ありがとう」
「橘さんって、こういう細かい作業、本当に得意ですよね」
遥は笑った。
「好きなんだよね」
「普段の服装からは想像できないですけど」
「どういう意味?」
「いや、褒めてます!」
遥は笑った。
「怪しいなあ」
そのとき、店長が厨房に入ってきた。
「橘さん、ちょっといい?」
「はい」
「来週の新作ケーキの件なんだけど」
遥は手を止めた。
「はい」
「試作、もう一回お願いできる?」
「分かりました」
遥は頷いた。
そして、メモを取った。
仕事中の彼女は、普段の派手な服装からは想像できないほど落ち着いていた。
必要なことを確認し、丁寧に作業する。
曖昧なまま進めることはしない。
美月とは、少し違う。
美月は感覚を大切にする。
遥は、計算と再現性を大切にする。
だからこそ、二人は長く友人でいられるのかもしれなかった。
遥は作業台に戻った。
そして、ふと思い出した。
土曜日、公園で会った男性。
店によく来る客。
落ち着いた雰囲気で、いつも丁寧に話す人。
あの人も、何となく計算が得意そうだった。
「……ふふ」
遥は小さく笑った。
そして、再びチョコレートに向き合った。
*
午後四時五十五分。
航平は、ようやく写真を三十枚まで絞っていた。
「……終わった」
床に座り込む。
背中が痛い。
首も痛い。
コーヒーは、すっかり冷めている。
航平はスマートフォンを取り出した。
恒一にメッセージを送る。
『三十枚まで絞ったぞ』
返信はすぐに来た。
『お疲れさまです』
『褒めろ』
『よく頑張りましたね』
『棒読みだろ』
『文章なので分かりません』
航平は笑った。
そして、床に並んだ写真を見た。
三十枚。
その中には、酒処夕凪の写真も残っている。
航平は一枚を手に取った。
暖簾。
店先の灯り。
夕暮れの路地。
人は写っていない。
だが、確かに誰かがいた場所だった。
「……これ、いいな」
航平は写真を眺めた。
そして、ふと思った。
写真に写っていないものは、何だろう。
店の中にいた人。
交わされた会話。
その日の出来事。
撮った瞬間には分からなかったこと。
写真は、すべてを記録できるわけではない。
むしろ、写らないものの方が多い。
航平は少し笑った。
「……だから面白いんだよな」
そして、写真を机の上に置いた。
*
午後六時三十分。
木漏れ日では、閉店後の片づけが進んでいた。
真紀は事務スペースで、イベントの資料を確認していた。
木曜日、午後三時。
打ち合わせ。
まだ出店を決めたわけではない。
条件を確認し、店として対応できるか考える。
それだけのことだ。
ただ、真紀は少し楽しみにしていた。
十二年前、この店を開いたとき。
最初は、毎日が手探りだった。
客が来ない日もあった。
仕込みが余る日もあった。
材料費の計算が合わず、夜遅くまで帳簿を見つめたこともある。
それでも、少しずつ客が増えた。
常連ができた。
スタッフが増えた。
そして、今がある。
真紀は店内を見回した。
木のテーブル。
窓際の植物。
カウンター。
厨房。
どれも、大切なものだった。
だが、いつまでも同じままではいられない。
設備は古くなる。
客の好みも変わる。
街も変わる。
真紀は資料を閉じた。
「……やってみようかしら」
小さく呟いた。
そのとき、梨花が顔を出した。
「店長、そろそろ帰りますね」
「ええ。お疲れさま」
「お疲れさまでした!」
梨花は笑った。
真紀も笑った。
そして、ふと思った。
この店を続けていくために、必要なことは何だろう。
守ること。
変えること。
その両方なのかもしれない。
*
午後八時二十分。
酒処夕凪。
黒田修司は、カウンターの奥で魚を焼いていた。
店内には、二人の客。
静かな時間が流れている。
そこへ、暖簾が揺れた。
「こんばんは」
真紀だった。
修司は顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
真紀はいつもの席に座った。
「今日は少し早いですね」
「ええ。仕事が早く終わったので」
「そうですか」
修司は水を出した。
真紀は微笑んだ。
「ありがとうございます」
修司は小さく頷いた。
そして、焼き魚を皿に盛った。
真紀はメニューを開いた。
「今日は何がおすすめですか?」
「鯵がいいですよ」
「じゃあ、それを」
「かしこまりました」
修司は頷いた。
そして、調理を始めた。
真紀はカウンターに肘をつかず、静かに待った。
その横顔は、どこか穏やかだった。
しばらくして、真紀が言った。
「……今週、ちょっと打ち合わせがあるんです」
修司は顔を上げた。
「そうなんですか」
「ええ。新しいイベントの話で」
「楽しみですね」
「そうですね」
真紀は笑った。
「まだ決まってないんですけど」
「でも、少し嬉しそうですね」
真紀は驚いた。
「……分かります?」
修司は小さく笑った。
「何となく」
真紀は少し照れたように笑った。
「……そうかもしれません」
修司はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、静かに魚を焼いた。
真紀は、その様子を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
*
午後九時四十分。
恒一は自宅で、明日の予定を確認していた。
午前中は社内会議。
午後はイベントの資料作成。
夕方に取引先との打ち合わせ。
予定は、ほぼ埋まっている。
木曜日には、木漏れ日の打ち合わせがある。
直樹の企画が、少しずつ形になってきた。
恒一はスマートフォンを置いた。
そして、机の上の本を開いた。
土曜日に買った、古い吉祥寺の写真集。
ページをめくる。
昔の商店街。
井の頭公園。
駅前。
見慣れた街の、知らない姿。
恒一は写真を眺めた。
そのとき、ふと土曜日のことを思い出した。
雨宿り。
名前も知らない女性。
アイス。
『また会えたら、嬉しいですね』
自分で言った言葉。
恒一は少し笑った。
そして、本を閉じた。
木曜日の打ち合わせ。
カフェ木漏れ日。
そこに、あの女性がいるとは思っていない。
そもそも、彼女が何をしている人なのかも知らない。
ただ、同じ街に暮らしている。
それだけだった。
恒一は立ち上がった。
明日も仕事だ。
そろそろ寝よう。
そう思って、部屋の明かりを消した。
机の上には、木曜日の予定が書かれた手帳が残っていた。
午後三時。
カフェ木漏れ日。
直樹とともに訪問。
その予定が、どんな一日になるのか。
恒一は、まだ知らなかった。
第2章 第11話了




