第8話 吉祥寺の帝王
宮本悠真は、自分のことを「吉祥寺の帝王」と呼んでいる。
もちろん、王位を授かった覚えはない。
領土もなければ、家臣もいない。
あるのは、吉祥寺周辺の飲食店についての豊富な知識と、学生時代から通い続けている古本屋のポイントカード、それから自分でも少し持て余しているほどの自信だった。
もっとも、帝王を名乗るにあたって、一つだけ重大な問題があった。
佐伯梨花が、まったく認めてくれないのである。
「帝王、遅刻」
七月一日、水曜日。午後七時八分。
吉祥寺駅北口。
待ち合わせ場所に現れた悠真を見て、梨花は腕時計を指さした。
「八分だぞ」
「八分も、でしょ」
「編集者の八分は誤差だ」
「じゃあ、原稿の締め切りも八分くらい遅れていいんだ?」
「それは駄目だ」
「どうして?」
「編集者が困る」
「自分勝手!」
梨花は笑った。
悠真も笑った。
二人は小学生のころからの付き合いだった。
家が近く、同じ学校に通い、放課後には何度も一緒に遊んだ。
中学、高校と進むうちに、それぞれの友人関係は広がった。
進学先も、仕事も違う。
それでも、こうして時々会う。
昔から知っている相手というのは、不思議なものだった。
しばらく会わなくても、会話を始めるまでに時間がかからない。
「で、今日はどこ?」
梨花が尋ねた。
悠真は得意げに笑った。
「いい店を見つけた」
「前もそう言ってたよね」
「今回は違う」
「前もそう言ってた」
「今回は本当に違う」
「何が?」
悠真は胸を張った。
「カレーでもラーメンでもない」
梨花は立ち止まった。
「……えっ」
「何だよ」
「悠真が?」
「俺が」
「カレーでもラーメンでもない店を?」
「そうだ」
「大丈夫? 具合悪い?」
「心配の仕方がおかしいだろ」
悠真は笑った。
梨花も笑った。
ただ、内心では少し驚いていた。
悠真と食事をするときは、大抵どちらかだったからだ。
ラーメンか、カレー。
たまにハンバーガー。
本人はそれで十分幸せらしい。
梨花も嫌いではないが、今日は少し違うものが食べたい気分だった。
「じゃあ、楽しみにしてる」
「任せろ」
悠真は自信満々に歩き出した。
その背中を見ながら、梨花は思った。
こういうところは、昔から変わらない。
何か面白いことを思いつくと、すぐに顔に出る。
そして、相手を楽しませようとするときほど、少し大げさになる。
梨花は小さく笑って、後を追った。
*
宮本悠真の仕事は、出版社の編集者だった。
担当しているのは、ライトノベルやファンタジー小説を中心とした書籍。
時には漫画の企画にも関わる。
本人は子どものころから物語が好きだった。
剣と魔法。
宇宙船。
異世界。
未来都市。
巨大なロボット。
そういうものに、心から夢中になれる人間だった。
ただし、好きなものを仕事にすると、好きなだけでは済まなくなる。
締め切り。
売上。
宣伝。
印刷。
書店への配本。
作家との打ち合わせ。
そして、時には、書き上がらない原稿を待つこと。
悠真は、そのすべてを引き受ける仕事をしていた。
水曜日の午後三時。
彼は会社の会議室で、担当作家とオンライン打ち合わせをしていた。
「先生、第三章の展開なんですけど」
『はい』
「主人公がここで魔王城に突入するのは、少し早い気がします」
『そうですか?』
「はい。まだ仲間との関係が十分に深まっていないので」
『なるほど』
「ここで一度、旅の途中の小さな事件を入れてもいいかもしれません」
『例えば?』
悠真は少し考えた。
「主人公が、仲間のために何かをする場面ですね」
『戦闘ですか?』
「いえ、戦闘じゃなくてもいいと思います」
『ほう』
「例えば、仲間の一人が大切にしているものを失くして、それを一緒に探すとか」
『地味じゃないですか?』
「地味です」
悠真は即答した。
「でも、そういう場面があると、後の大きな戦いで主人公が仲間を守ろうとする理由に説得力が出ます」
画面の向こうで、作家が考え込んだ。
『……なるほど』
「もちろん、テンポとの兼ね合いはありますけど」
『いや、分かります』
作家は頷いた。
『少し考えてみます』
「お願いします」
打ち合わせを終えた悠真は、椅子にもたれた。
そして、深く息を吐いた。
「……ふう」
編集の仕事は、答えを出す仕事ではない。
作家が持っているものを、どうすれば読者に届けられるか。
それを一緒に考える仕事だった。
もちろん、簡単ではない。
意見が合わないこともある。
修正をお願いしなければならないこともある。
だが、物語がよくなった瞬間の喜びは、何度経験しても変わらなかった。
悠真はパソコンを閉じた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
梨花からだった。
『今日、予定どおりで大丈夫?』
悠真はすぐに返信した。
『もちろん』
数秒後。
『仕事、終わりそう?』
『終わらせる』
『無理しないでね』
悠真は画面を見つめた。
たった一言だった。
それでも、少しだけ嬉しかった。
『大丈夫。帝王だから』
送信。
すぐに返信が来た。
『帝王って便利だね』
悠真は笑った。
「……ほんとにな」
*
午後七時二十二分。
二人が入ったのは、吉祥寺の北側にある小さなビストロだった。
店内には十数席ほどのテーブル。
壁には黒板のメニュー。
照明は柔らかく、窓際には小さな花が飾られている。
梨花は店内を見回した。
「……へえ」
悠真は得意げに笑った。
「どうだ」
「いい感じじゃん」
「だろ?」
「悠真、こういう店も知ってるんだ」
「失礼だな」
「だって、いつもラーメンじゃん」
「ラーメンも立派な料理だ」
「それはそうだけど」
梨花は笑った。
二人は窓際の席に座った。
メニューを開く。
前菜。
魚料理。
肉料理。
パスタ。
デザート。
どれもおいしそうだった。
「何にする?」
悠真が尋ねた。
「うーん……」
梨花はメニューを眺めた。
「前菜の盛り合わせ、よさそう」
「いいな」
「あと、魚料理」
「俺は肉かな」
「じゃあ、両方頼んで分けようよ」
「そうするか」
注文を終えると、二人は水を飲みながら話し始めた。
仕事のこと。
最近見た映画。
学生時代の友人のこと。
近所にできた新しい店。
話題は尽きなかった。
「そういえば、梨花」
「ん?」
「最近、仕事どう?」
「忙しいよ」
「新しいメニュー始めたんだっけ」
「そう。プリン」
「プリン?」
「うん。うちのパティシエが、すっごく頑張って作ったの」
梨花は嬉しそうに話し始めた。
何度も試作したこと。
写真を撮り直したこと。
初日に完売したこと。
常連客が喜んでくれたこと。
悠真は黙って聞いていた。
梨花は、仕事の話をするとき、少し早口になる。
特に、自分が関わったものが誰かに喜ばれた話をするときは、目が輝く。
悠真は、その表情が好きだった。
「……でね、最後のお客さんが、また食べたいって言ってくれたんだ」
「へえ。よかったじゃん」
「うん!」
梨花は笑った。
悠真も笑った。
ただ、少しだけ考えた。
梨花は昔から、人のことを自分のことのように喜ぶ。
小学生のころもそうだった。
誰かが賞を取れば、自分のことのように喜んだ。
友達が落ち込んでいれば、放っておけなかった。
その優しさは、今も変わっていない。
悠真はグラスを持ち上げた。
「……梨花らしいな」
「何が?」
「いや、何でもない」
「何それ」
梨花は笑った。
悠真も笑った。
言葉にしなかったことは、いくつもあった。
*
午後八時十一分。
料理が運ばれてきた。
前菜の盛り合わせ。
魚のソテー。
牛肉の赤ワイン煮込み。
どれも丁寧に作られていた。
「おいしい!」
梨花が目を輝かせた。
「だろ?」
「うん。これ、いいね」
「帝王の実力を見たか」
「はいはい」
梨花は笑いながら、悠真が取り分けてくれた魚を一口食べた。
悠真はその様子を見て、少し安心した。
実は、この店を選ぶまでに、かなり時間がかかっていた。
ネットの口コミを調べた。
メニューを確認した。
写真を見た。
営業時間を調べた。
そして、予約までした。
普段の悠真なら、ここまでしない。
行きたい店があれば、ふらりと入る。
混んでいれば、別の店へ行く。
それで十分だった。
ただ、今日は違った。
梨花に喜んでほしかった。
それだけだった。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「今日、どうしたの?」
悠真の手が止まった。
「……何が?」
「いや、なんか珍しいなって」
「何が?」
「ちゃんと予約してるし」
「予約くらいするだろ」
「普段しないじゃん」
「……まあ」
梨花は笑った。
「でも、ありがとね」
悠真は顔を上げた。
「何が?」
「いい店、探してくれて」
梨花は素直に笑った。
「嬉しい」
悠真は一瞬、言葉を失った。
そして、慌てて水を飲んだ。
「……そりゃよかった」
梨花は気づかなかった。
ただ、楽しそうに料理を食べていた。
悠真はグラスを置いた。
心臓が、少しだけうるさかった。
*
午後八時四十六分。
食事を終えた二人は、店を出た。
夜の吉祥寺は、昼とは違う顔を見せていた。
店の明かり。
行き交う人々。
遠くから聞こえる笑い声。
少し涼しい風。
梨花は満足そうに息を吐いた。
「おいしかったね」
「だろ?」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
二人は並んで歩いた。
駅へ向かう道。
昔から何度も歩いた道だった。
小学生のころ。
中学生のころ。
高校生のころ。
そして、大人になってからも。
同じ道を歩いている。
ただ、少しずつ変わっているものもある。
昔は、何でも話せた。
好きな漫画。
嫌いな先生。
将来の夢。
くだらない冗談。
でも、今は。
言えないことが、少しだけ増えた。
「……ねえ、悠真」
梨花が口を開いた。
「ん?」
「今日、ほんとにどうしたの?」
悠真は笑った。
「だから、何が?」
「なんか、いつもと違う」
「そうか?」
「うん」
梨花は少し考えた。
「……もしかして」
悠真の心臓が跳ねた。
「……何だよ」
「何か、いいことあった?」
悠真は一瞬、拍子抜けした。
「……ああ」
「えっ、あるの?」
「いや」
「どっち?」
悠真は笑った。
「まあ、あったと言えばあった」
「何?」
「今日の飯がうまかった」
梨花は呆れたように笑った。
「それ、今の話じゃん」
「いいことだろ」
「まあ、そうだけど」
二人は笑った。
駅が近づいてくる。
悠真は、少しだけ歩く速度を落とした。
梨花も、それに合わせた。
言いたいことはあった。
ずっと前から。
でも、今さらどう言えばいいのか分からなかった。
幼なじみ。
友達。
家族みたいな存在。
そういう言葉は便利だった。
便利すぎて、そこから先へ進む理由を見つけにくくなる。
悠真は夜空を見上げた。
星は、ほとんど見えなかった。
*
午後九時二分。
吉祥寺駅の改札前。
「じゃあ、またね」
梨花が言った。
「ああ」
「次はラーメンでもいいよ」
悠真は笑った。
「ほんとか?」
「うん。今日のお礼」
「じゃあ、うまい店探しとく」
「帝王、頼んだよ」
「任せろ」
梨花は笑った。
そして、改札へ向かった。
悠真はその背中を見送った。
人混みの中に消えるまで。
それから、スマートフォンを取り出した。
画面には、今日の店の予約履歴が残っていた。
悠真は小さく息を吐いた。
「……何やってんだろ、俺」
自分でも分からなかった。
ただ、今日の梨花は楽しそうだった。
それだけで、少し満足している自分がいた。
悠真はスマートフォンをしまった。
そして、駅の外へ歩き出した。
吉祥寺の帝王。
自称。
飲食店には詳しい。
漫画にも詳しい。
物語の展開を考えることも得意だ。
けれど。
自分の恋愛の進め方だけは、まるで分からなかった。
*
午後十時十五分。
梨花は自宅のソファに座っていた。
スマートフォンを開く。
悠真とのメッセージ画面。
『今日はありがと。楽しかった!』
送信。
すぐに返信が来た。
『こちらこそ。また行こう』
梨花は少し笑った。
そして、画面を閉じた。
今日の悠真は、少しだけ違った。
店を予約してくれていた。
料理を取り分けてくれた。
帰り道も、いつもよりゆっくり歩いていた。
気のせいかもしれない。
でも、少し嬉しかった。
梨花はクッションを抱えた。
「……何だろうね」
小さく呟いた。
答えは、まだ出なかった。
そのころ、悠真は自宅の机で、担当作家の原稿を読んでいた。
第三章。
主人公が仲間と旅をする場面。
先ほど届いた改稿版は、以前よりずっとよくなっていた。
何でもない会話。
小さな事件。
互いを気遣う行動。
それらが積み重なり、登場人物たちの関係が自然に深まっている。
悠真は満足そうに頷いた。
そして、ふと考えた。
物語の登場人物には、いくらでも助言できる。
焦らずに関係を描きましょう。
小さな出来事を積み重ねましょう。
気持ちを言葉にするタイミングが大事です。
そんなことを、仕事では何度も言っている。
なのに、自分のことになると。
「……難しいなあ」
悠真は椅子にもたれた。
机の上には、今日の店でもらった小さなショップカードが置かれていた。
裏には、次回使える割引の案内。
悠真はそれを手に取った。
そして、少しだけ笑った。
「……また誘うか」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
吉祥寺の夜は、静かに更けていった。
第8話 了




