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また会えたら、名前を聞こう  作者: Ryosuke
第1章 雨宿りの人
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7/10

第7話 観察者の休日

 藤堂航平は、人を待つのが嫌いではなかった。


 むしろ、好きな方だった。


 待ち合わせ場所には、必ず誰かがいる。


 腕時計を気にする人。


 スマートフォンを見ながら歩き回る人。


 改札から出てくる顔を、一人ずつ確かめる人。


 そして、待っていた相手を見つけた瞬間、表情が変わる人。


 航平は、その一瞬が好きだった。


 ただし、自分が待ち合わせに遅れることについては、もう少し反省する必要がある。


 先日、桐谷恒一に言われた言葉が、まだ耳に残っていた。


『コーヒーと時間は、交換できませんよ』


「……ごもっとも」


 航平は独り言を呟いた。


 六月二十九日、月曜日の午前十時四十分。


 吉祥寺駅北口のロータリー近く。


 今日は誰かと待ち合わせているわけではない。


 仕事も休み。


 ただ、写真を撮りに来ただけだった。


 もっとも、仕事用のカメラを持って歩いている時点で、完全な休日とは言い難い。


 航平は肩に掛けたカメラの位置を直した。


 そして、人の流れを眺めた。


 駅前の街路樹。


 バスを待つ人々。


 買い物袋を持った親子。


 スマートフォンを片手に、友人を探しているらしい若い女性。


 何でもない月曜日の風景だった。


 だが、航平には、それが面白かった。


 同じ場所に立っていても、人によって見ているものは違う。


 急いでいる人には、信号が長く感じられる。


 待ち合わせをしている人には、改札から出てくる顔ばかりが目に入る。


 買い物を楽しみにしている人には、店の看板が目に留まる。


 そして、写真を撮る人間には。


「……あ」


 航平はカメラを構えた。


 歩道の端に置かれた、小さな植木鉢。


 その隣には、店の開店準備をする男性がいた。


 男性は看板を出しながら、足元の鉢を少しだけ動かした。


 通行人が通りやすいように。


 たったそれだけの動作だった。


 航平はシャッターを切った。


 カシャ。


 画面を確認する。


 悪くない。


 だが、もう少しだけ待ちたかった。


 男性が店の中へ戻る。


 植木鉢だけが残る。


 その横を、小さな子どもが通り過ぎた。


 子どもは鉢を見つけ、しゃがみ込んだ。


 花を覗き込む。


 そして、何かを見つけたように笑った。


 航平はカメラを下ろした。


 撮らなかった。


 子どもの顔を勝手に撮るのは気が引けた。


 それに、写真にしなくても、覚えておきたい光景はある。


「……いい朝だな」


 航平は小さく笑った。



     *



 午前十一時二十分。


 航平は吉祥寺の北側にある小さな喫茶店に入った。


 昔ながらの木製の椅子。


 少し暗めの照明。


 壁には古い映画のポスター。


 店内には、静かなジャズが流れている。


 航平は窓際の席に座った。


「ブレンドコーヒーをお願いします」


「かしこまりました」


 店員が去る。


 航平は鞄からノートを取り出した。


 来月の写真展。


 展示する作品は、まだすべて決まっていない。


 テーマは『誰かがいた場所』。


 人そのものではなく、人の暮らしが残した痕跡を撮る。


 閉店後の商店街。


 雨上がりのベンチ。


 使い込まれた階段。


 誰かが忘れた傘。


 そういう写真を並べたいと思っていた。


 ただ、並べ方が難しい。


 写真一枚なら、それぞれに意味がある。


 だが、複数を並べると、意味が変わる。


 似た写真を続ければ単調になる。


 違いすぎる写真を並べれば、まとまりがなくなる。


 航平はノートに線を引いた。


 展示順。


 大きさ。


 照明。


 余白。


 そして、来場者が歩く順番。


「……あいつなら、こういうの得意なんだろうな」


 思い浮かんだのは、恒一だった。


 イベントの企画や運営を仕事にしている男。


 人の動線や時間配分を考えることにかけては、昔から妙に細かかった。


 学生時代、仲間内で旅行へ行ったときのことを思い出す。


 恒一は、集合時間から電車の乗り換え、昼食の場所まで、すべて調べてきた。


 当時、航平は笑った。


『旅行なんだから、そんなに決めなくてもいいだろ』


 すると、恒一は真顔で答えた。


『決めておけば、迷う時間を減らせますから』


 そして、少し考えて付け加えた。


『その分、現地でゆっくりできます』


 なるほど、と航平は思った。


 実際、その旅行では誰も迷わなかった。


 ただし、途中で航平が古い橋を見つけ、写真を撮り始めたため、昼食の予定が二十分遅れた。


 恒一は怒らなかった。


 ただ、時計を見て言った。


『航平さん、あと五分でお願いします』


 その五分後。


『航平さん、時間です』


 さらに三分後。


『……航平さん』


 最後の呼び方だけ、妙に低い声だった。


 航平は思い出し笑いをした。


「……懐かしいな」


 コーヒーが運ばれてきた。


 航平は礼を言い、カップを手に取った。


 そして、ふと考えた。


 あの男は、昔から変わらない。


 いや。


 正確には、変わったところもある。


 以前より、少しだけ笑うまでに時間がかかるようになった。


 航平はコーヒーを飲んだ。


 苦味が、ゆっくり広がった。



     *



 午後零時四十五分。


 カフェ木漏れ日では、新作プリンの販売が始まっていた。


 今日からの限定販売。


 初日から、思った以上に注文が入っていた。


「美月、プリン二つ追加!」


「はい!」


「三番テーブル、コーヒーとセットで!」


「了解!」


 厨房では、美月が忙しく動いていた。


 冷蔵庫からプリンを取り出し、皿へ移す。


 カラメルを確認する。


 飾りを添える。


 見た目を整える。


 その一つひとつに、手を抜かない。


 ホールでは田村佳代が注文を受け、梨花は配膳の合間に客の反応を見ていた。


 最初の一口。


 表情が変わる瞬間。


 誰かに感想を伝える声。


 そういうものが、自然と耳に入ってくる。


「これ、おいしいね」


「うん。甘すぎない」


「カラメルがちょっと苦くていいね」


 梨花は心の中で小さく拳を握った。


 厨房へ戻ると、美月が顔を上げた。


「どう?」


「好評!」


「ほんと?」


「うん。カラメルがいいって」


「やった!」


 美月は嬉しそうに笑った。


 その顔を見て、梨花も笑った。


「でも、まだ油断しないでね」


「うん!」


「午後の分、足りる?」


「……たぶん」


 梨花の笑顔が止まった。


「たぶん?」


「うん」


「美月」


「はい」


「何個ある?」


 美月は冷蔵庫を開けた。


 数える。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 五つ。


「……五個」


 梨花は目を閉じた。


「午後、まだ長いよ」


「うん」


「追加できる?」


「今からだと、冷やす時間が……」


 梨花は天井を見上げた。


「……真紀さんに相談しよう」


 美月は申し訳なさそうに頷いた。


 そのとき、真紀が厨房へ入ってきた。


「どうしたの?」


 梨花が事情を説明すると、真紀は少し考えた。


「それなら、今日は売り切れでいいわ」


「えっ」


 美月が顔を上げた。


「でも、せっかく来てくれたお客様が」


「だからこそよ」


 真紀は穏やかに言った。


「無理に数を増やして、仕上がりが不安定になる方が困るでしょう?」


 美月は少し黙った。


 それから、頷いた。


「……はい」


「今日は初日なんだから、反応が分かっただけでも十分」


 真紀は微笑んだ。


「明日から、少し数を増やしましょう」


「はい!」


 美月は元気よく答えた。


 梨花もほっと息を吐いた。


 そして、レジ横の案内に小さな札を置いた。


『本日分、残りわずか』


 その文字を見た美月は、少しだけ胸がいっぱいになった。


 自分が作ったものを、誰かが選んでくれる。


 それは、何度経験しても嬉しいことだった。



     *



 午後二時十六分。


 航平は喫茶店を出て、再び吉祥寺の街を歩いていた。


 写真展のことを考えながら、商店街を抜ける。


 途中、古本屋を見つけて立ち寄った。


 写真集の棚を眺める。


 古い映画のパンフレットを手に取る。


 店主と少し話す。


 気づけば、三十分が過ぎていた。


「……いかん」


 航平は腕時計を見た。


 今日は撮影の仕事を入れていないから、急ぐ必要はない。


 それでも、時間は確実に過ぎていく。


 恒一なら、こういうとき何と言うだろう。


『航平さん、予定は立てた方がいいですよ』


 そんな声が聞こえた気がした。


 航平は笑った。


「……そうかもな」


 古本屋を出ると、空が少し曇っていた。


 朝は晴れていたのに、午後になって雲が増えてきた。


 航平は空を見上げた。


 雨が降るかもしれない。


 ただし、傘は持っていない。


 持ってくればよかったか。


 そう思った瞬間、先日の恒一の話を思い出した。


 あの女性。


 三回も偶然会ったという、名前も知らない相手。


 航平は小さく笑った。


「……あいつら、どうなるんだろうな」


 もちろん、本人たちがどう考えているかは分からない。


 恋愛になるとは限らない。


 ただ、恒一があんなふうに自然に笑う相手がいるというのは、少し嬉しかった。


 航平はカメラを持ち直した。


 そして、南口方面へ歩き始めた。



     *



 午後三時五十八分。


 木漏れ日では、新作プリンが完売した。


 最後の一つを注文したのは、近所に住む年配の男性だった。


 常連客で、いつもブラックコーヒーを飲む。


 甘いものを注文することは、ほとんどない。


 梨花は少し驚いた。


「今日はプリンも召し上がるんですね」


 男性は照れくさそうに笑った。


「いや、みんな頼んでるからさ」


「ありがとうございます」


「どんなものか、食べてみようと思って」


 梨花は笑顔で厨房へ戻った。


「美月、最後の一つ!」


「はい!」


 美月は丁寧に皿へ盛りつけた。


 いつも以上に慎重だった。


 最後の一つ。


 それだけで、少し特別な気がした。


 梨花が運ぶ。


 男性はスプーンを手に取った。


 一口。


 ゆっくり味わう。


 そして、少し驚いたように眉を上げた。


「……へえ」


 梨花は少し緊張した。


「いかがですか?」


 男性はもう一口食べた。


「うまいね」


 梨花は笑った。


「ありがとうございます」


「甘いもの、あんまり食べないんだけど」


 男性は皿を見た。


「これは、また食べたいな」


 梨花は嬉しくなった。


 厨房へ戻ると、美月に報告した。


「最後のお客様、また食べたいって!」


 美月は一瞬、動きを止めた。


「……ほんと?」


「うん!」


 美月は少し俯いた。


 そして、小さく笑った。


「……よかった」


 その声は、いつもの元気な声より、少しだけ静かだった。


 梨花は何も言わず、隣に立った。


 美月はしばらくして顔を上げた。


「明日、もっと作ろう」


「うん」


「でも、ちゃんとおいしく作る」


「もちろん」


 二人は笑った。



     *



 午後五時二十七分。


 航平は井の頭公園のベンチに座っていた。


 カメラの画面には、今日撮った写真が並んでいる。


 街路樹。


 店先。


 古い看板。


 雨上がりではないのに、少し湿ったような午後の光。


 どれも悪くなかった。


 ただ、決定的な一枚はなかった。


 航平は画面を閉じた。


 そして、池を見た。


 水面には、雲が映っていた。


 風が吹くたびに、形が崩れる。


 また戻る。


 その繰り返しだった。


 航平はふと、大学時代のことを思い出した。


 好きだった女性がいた。


 同じサークルの、一つ年下の女性。


 よく笑う人だった。


 写真を撮る航平の隣で、いつも楽しそうに話していた。


 何度も一緒に出かけた。


 何度も食事をした。


 何度も、二人きりで帰った。


 けれど、最後まで気持ちを伝えなかった。


 理由はいくつもあった。


 今の関係が壊れるのが怖かった。


 相手がどう思っているか分からなかった。


 卒業後の生活が見えなかった。


 そうやって、いくつもの理由を並べているうちに、時間が過ぎた。


 彼女は別の男性と付き合い始めた。


 そして、数年後に結婚した。


 航平は結婚式の写真を撮った。


 頼まれたからだ。


 仕事として。


 友人として。


 彼女は、幸せそうに笑っていた。


 その笑顔を見て、航平も笑った。


 後悔がなかったと言えば、嘘になる。


 ただ、今さらどうにかしたいとは思わなかった。


 彼女が幸せなら、それでいい。


 そう思えるようになるまでには、少し時間がかかった。


 航平はカメラを持ち上げた。


 池の向こうに、若い男女が並んで歩いていた。


 女性が何かを話す。


 男性が笑う。


 女性も笑う。


 航平はカメラを構えた。


 そして、すぐに下ろした。


 撮らなかった。


 その瞬間は、二人だけのものだった。


 航平は小さく息を吐いた。


「……いいな」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。



     *



 午後七時十二分。


 航平は吉祥寺駅南口の近くを歩いていた。


 夕食をどうするか考えている。


 ラーメン。


 定食。


 カレー。


 どれも悪くない。


 ただ、今日は少しだけ、静かな店に入りたい気分だった。


 そんなことを考えていると、路地の先に小さな店の灯りが見えた。


 暖簾。


 木製の引き戸。


 控えめな看板。


『酒処 夕凪』


 航平は足を止めた。


「……いい店だな」


 外観だけで、そう思った。


 派手な装飾はない。


 看板も小さい。


 だが、店先はきれいに整えられている。


 暖簾の端が、風に揺れていた。


 航平はカメラを取り出した。


 そして、少し考えた。


 店の写真を撮るなら、ひと言断った方がいい。


 そう思い、引き戸に手をかけた。


 からり。


 中には、八席ほどのカウンターがあった。


 奥では、四十代くらいの男性が料理をしている。


 客は、二人。


 静かな店だった。


「いらっしゃいませ」


 男性が顔を上げた。


 落ち着いた声だった。


「一人なんですが、大丈夫ですか?」


「もちろんです。どうぞ」


 航平はカウンターの端に座った。


 男性が水を出してくれる。


「お飲み物は?」


「じゃあ、ビールを」


「かしこまりました」


 航平は店内を見回した。


 木のカウンター。


 磨かれたグラス。


 壁に掛けられた小さな時計。


 派手さはない。


 ただ、手入れが行き届いている。


 航平は思った。


 こういう店には、店主の人柄が出る。


 ビールが運ばれてきた。


「ありがとうございます」


 航平は一口飲んだ。


 そして、店主に尋ねた。


「すみません。外の暖簾がすごくいい雰囲気だったので、あとで写真を撮らせてもらってもいいですか?」


 男性は少し驚いた顔をした。


「写真ですか?」


「はい。趣味みたいなものなんですが」


「どうぞ。そんなに立派な店じゃありませんけど」


「いえ、すごくいい感じです」


 男性は小さく笑った。


「ありがとうございます」


 航平はメニューを開いた。


 料理は、どれもおいしそうだった。


 刺身。


 煮物。


 焼き魚。


 季節の小鉢。


「おすすめ、ありますか?」


「今日は鯖がいいですよ」


「じゃあ、それを」


「ありがとうございます」


 男性は静かに調理を始めた。


 航平は、その手元を眺めた。


 無駄のない動き。


 丁寧な包丁さばき。


 必要以上に話しかけない距離感。


 居心地のいい店だった。


 航平はビールを飲みながら、ふと思った。


 また来たい。


 そう思える店に出会うことは、案外少ない。


 そのとき、店の引き戸が開いた。


 からり。


「こんばんは」


 女性の声がした。


 航平は何気なく顔を上げた。


 入ってきたのは、四十代半ばくらいの女性だった。


 落ち着いた服装。


 少し疲れたような表情。


 それでも、店に入った瞬間、肩の力が抜けたように見えた。


「いらっしゃいませ」


 店主の声が、少しだけ柔らかくなった。


「いつもの席、空いてますよ」


「ありがとうございます」


 女性は微笑んだ。


 そして、カウンターの奥へ座った。


 航平は、その様子を見ていた。


 店主が水を出す。


 女性は小さく礼を言う。


 それだけだった。


 特別な会話はない。


 けれど、二人の間には、長く積み重ねられた時間のようなものがあった。


 航平はカメラに手を伸ばしかけた。


 そして、やめた。


 こういう瞬間は、撮らない方がいい。


 写真にしてしまうと、かえって失われるものがある。


 航平はグラスを持ち上げた。


 店主が鯖を皿に盛りつける。


 女性は、静かにメニューを開いた。


 吉祥寺の夜は、ゆっくりと深まっていく。


 そして、航平はまだ知らなかった。


 この小さな店が、これから何度も自分の足を向ける場所になることを。


 また、カウンターの奥に座った女性が、別の場所で誰かの大切な居場所を守っている人だということも。


 ただ、その夜の鯖は、とてもおいしかった。


 それだけは、確かなことだった。



第7話 了


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