第6話 三度目の正直?
桐谷恒一は、待ち合わせには五分前に到着する。
十分前では早すぎる。
時間ぴったりでは、電車の遅延や信号待ちに対応できない。
五分前。
それが、相手を待たせず、自分も無駄に待たないための、ちょうどいい時間だった。
ただし、待ち合わせの相手が藤堂航平である場合、その計算は少々複雑になる。
『悪い、十分遅れる』
午前十一時五十三分。
約束の七分前に、そんなメッセージが届いた。
恒一は吉祥寺駅南口の改札付近で立ち止まった。
『分かりました。南口で待ってます』
送信。
すると、すぐに返信が来た。
『いや、待たなくていい。先に公園の方行ってて』
『どこで合流します?』
『歩いてれば会うだろ』
恒一は画面を見つめた。
「……それでは待ち合わせにならないんですが」
待ち合わせとは、あらかじめ場所と時刻を決めておく行為である。
それを「歩いていれば会う」で済ませてしまうなら、待ち合わせという概念そのものが揺らぐ。
もっとも、航平とは大学時代からの付き合いだった。
一歳年上の先輩で、学生のころから何かと世話になっている。
こういう人だということも、十分に理解していた。
恒一はスマートフォンをしまい、井の頭公園方面へ歩き始めた。
*
藤堂航平は、写真を撮る仕事をしている。
正確には、写真を撮る仕事だけで生活している。
広告写真。
雑誌の取材。
店舗の撮影。
企業の広報素材。
ときには結婚式。
依頼があれば、ジャンルにこだわらず引き受ける。
本人いわく、写真家というより、写真を使って何とか暮らしている人間らしい。
恒一とは成蹊大学時代に知り合った。
航平が一歳年上だったが、共通の友人を通じて親しくなり、卒業後も時折会っている。
写真の腕は確かだった。
ただし、時間の使い方については、恒一とまったく違う。
恒一が予定を立てて行動する人間なら、航平は予定の途中で面白いものを見つけると、そちらへ歩いていく人間だった。
そして、その日の遅刻にも理由があった。
『駅前で犬がいい顔してた』
追加のメッセージとともに、一枚の写真が送られてきた。
ベンチに座る老人の足元で、小型犬が大きく口を開けている。
あくびをした瞬間らしい。
背後には、通り過ぎる人々が柔らかくぼけて写っていた。
恒一は思わず笑った。
『犬には待ち合わせの予定がありませんからね』
送信。
しばらくして、返信が来た。
『いいこと言うな』
『褒められるようなことは言ってません』
既読。
返事はなかった。
恒一は歩きながら、もう一度写真を見た。
たしかに、いい写真だった。
*
同じ日曜日。
午前十一時五十八分。
白石美月は、自宅の玄関で靴を履きながら悩んでいた。
右手には小さな保冷バッグ。
左手にはスマートフォン。
画面には、佐伯梨花からのメッセージが表示されている。
『今日は休みなんだから、ちゃんと休みなよ』
美月は返信を打った。
『休んでるよ』
『その保冷バッグは何?』
美月は動きを止めた。
「……なんで分かったんだろ」
梨花は時々、妙なところで勘が鋭い。
美月は保冷バッグを見た。
中には、昨日作った焼き菓子が入っている。
新しいアーモンドクリームを使った、小さなタルトだった。
店で出す前に、もう少し違う人の感想を聞いてみたい。
そう考えて、友人に渡すことにしたのである。
休日なのに仕事のことを考えている。
その自覚はあった。
ただ、本人としては遊びの延長でもあった。
『友達にお菓子渡すだけ』
送信。
すぐに返信が来た。
『それを仕事って言うんじゃないの?』
『趣味でもあるから』
『便利な言葉だね、趣味』
美月は笑った。
『じゃあ行ってきます』
『いってらっしゃい。ちゃんとお昼食べるんだよ』
『もちろん!』
美月はスマートフォンをしまった。
玄関の鍵を閉める。
そして、少し考えた。
「……何食べようかな」
今日の予定は、午後一時に友人と会うこと。
それ以外は決めていない。
まずは昼食。
それから、少し買い物でもしよう。
美月は軽い足取りで歩き始めた。
*
午後零時二十六分。
恒一は井の頭公園の池の近くにあるベンチに座っていた。
隣には航平。
約束から二十六分遅れで現れた先輩は、まったく悪びれる様子もなく、缶コーヒーを飲んでいる。
「いやあ、いい天気だな」
「そうですね」
「こういう日は歩くだけで楽しい」
「航平さんの場合、歩く途中で何か見つけると、目的地に着かなくなりますけどね」
「それがいいんだよ」
「待っている側としては、少々困ります」
恒一がそう言うと、航平は声を出して笑った。
「悪かったって。コーヒー奢っただろ?」
「コーヒーと時間は、交換できませんよ」
「お前、たまに厳しいよな」
「時間どおりに来ていただければ、何も言いません」
「はいはい。次から気をつけます」
「その言葉、学生のころから聞いてます」
航平はますます楽しそうに笑った。
恒一も、少しだけ口元を緩めた。
「それで、今日は何か用事があったんじゃないですか?」
「ああ、そうだった」
航平は鞄から一冊の冊子を取り出した。
写真展の案内だった。
「来月、グループ展に参加することになってさ」
「へえ」
「知り合いのギャラリーで。小さい展示だけど」
恒一は冊子を受け取った。
表紙には、夜の商店街の写真が使われていた。
閉店後の店先。
濡れた舗道。
遠くに見える自転車の灯り。
人は写っていない。
それなのに、誰かがついさっきまでそこにいたような気配がある。
「いい写真ですね」
恒一が言うと、航平は少し驚いた顔をした。
「お、珍しい」
「何がですか?」
「お前が即答するの」
「そうですか?」
「いつも『構図はいいですけど、もう少し光が』とか言うじゃん」
「そんなこと言いました?」
「言った。三年前」
「よく覚えてますね」
「写真家だからな」
「関係あります?」
「あることにしてくれ」
航平は笑った。
恒一はもう一度、表紙を見た。
「これ、どこで撮ったんですか?」
「中野の商店街。雨上がりの夜」
「人がいませんね」
「閉店後だから」
「でも、人の気配がする」
航平は少し黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「……そうなんだよ」
「何がですか?」
「そこを撮りたかった」
航平は池へ目を向けた。
「人が写ってなくても、人の暮らしって残るだろ」
「そうですね」
「椅子の置き方とか、店先の植木とか、消し忘れた明かりとか」
航平は缶コーヒーを一口飲んだ。
「そういうのが好きなんだよね」
恒一は冊子を閉じた。
航平が写真を撮り続ける理由を、少しだけ理解できた気がした。
「見に行きますよ」
「ほんと?」
「もちろんです」
「じゃあ、初日に来いよ」
「予定を確認してからになりますけど」
「出た、予定」
航平は笑った。
「お前、相変わらずだな」
「航平さんも、昔から変わらないじゃないですか」
二人は顔を見合わせた。
大学を卒業してから、もう十年以上になる。
それでも、こうして会えば、昔と同じように話せる。
恒一は、そのことをありがたいと思っていた。
*
午後零時四十八分。
美月は井の頭公園近くの飲食店で、昼食を終えたところだった。
注文したのは、ラーメン。
全部のせ、大盛り。
それから半チャーハン。
店員が最初に注文を聞き返したとき、美月は少し不思議そうな顔をした。
「はい。全部私のです」
そう答えると、店員は一瞬だけ目を丸くした。
しかし、料理が運ばれてくると、美月は実に幸せそうな顔で食べ始めた。
麺をすすり、スープを飲み、チャーハンを頬張る。
そして、最後まできれいに食べた。
「ごちそうさまでした!」
店を出ると、空はよく晴れていた。
美月は満足そうに伸びをした。
「……幸せ」
食後の満腹感。
休日の午後。
気持ちのいい天気。
これ以上、何を望むことがあるだろう。
美月は保冷バッグを持ち直した。
友人との待ち合わせまでは、あと十二分。
少し急げば間に合う。
そう思って歩き始めたときだった。
「あっ」
足元で、小さな紙袋が倒れた。
すぐ前を歩いていた女性の荷物だった。
中から、文庫本が二冊と、小さな箱が転がり出る。
「すみません!」
女性が慌ててしゃがみ込んだ。
美月も反射的に膝をついた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
美月は転がった箱を拾った。
手のひらに収まるほどの、小さな箱だった。
中身は分からない。
ただ、包装紙が少しだけ破れている。
「あ、これ……」
女性が困ったように声を漏らした。
「プレゼントなんです」
「そうなんですか」
「友達の誕生日で」
美月は箱を見た。
包装紙の端が、少しめくれていた。
中身には問題なさそうだったが、このまま渡すのは気になるかもしれない。
「ちょっと待ってください」
美月は自分の鞄を開けた。
中から、小さなマスキングテープを取り出す。
菓子の箱を仮留めするときに使うため、いつも持ち歩いているものだった。
「これでよければ」
美月は破れた部分を丁寧に留めた。
淡いクリーム色のテープだった。
包装紙の色にも、よく合っている。
「……あ、すごい」
女性が顔を明るくした。
「全然目立たない!」
「よかったです」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いえいえ」
美月は笑った。
女性は何度も礼を言って、歩いていった。
美月は時計を見た。
午後零時五十五分。
「……あ」
あと五分。
待ち合わせ場所までは、徒歩七分。
少し急がなくては。
美月は小走りになった。
*
午後一時三分。
恒一と航平は、公園を出て駅の方へ向かっていた。
「で、最近どうなの?」
航平が唐突に尋ねた。
「何がですか?」
「仕事」
「忙しいですね」
「それは知ってる」
「じゃあ、何が聞きたいんです?」
「いや、仕事以外」
恒一は少し考えた。
「……特に変わりありませんよ」
「そうか」
航平はあっさり頷いた。
その反応が意外で、恒一は横顔を見た。
「何だよ」
「いえ。もう少し何か聞かれるかと思いました」
「何を?」
「……さあ」
航平は笑った。
「聞かれたくないことを、わざわざ聞く趣味はないよ」
恒一は少し黙った。
航平とは長い付き合いだった。
だから、過去のことも知っている。
かつて結婚を考えていた相手がいたこと。
その関係が終わったこと。
それから、恒一が以前より少しだけ、私生活の予定を細かく立てるようになったことも。
ただ、航平はそのことを軽々しく話題にしなかった。
恒一は、それをありがたいと思っていた。
「……まあ、元気にやってますよ」
そう答えると、航平は笑った。
「ならいい」
二人は並んで歩いた。
日曜日の吉祥寺は、人が多い。
買い物袋を持った人々が行き交い、店先には行列ができている。
恒一は人の流れを避けながら歩いていた。
そのときだった。
「……あっ!」
少し先から、聞き覚えのある声がした。
恒一は顔を上げた。
人混みの向こう。
小さな保冷バッグを持った女性が、こちらを見ていた。
肩までの髪。
明るい表情。
そして、どこか見覚えのある笑顔。
「あ」
恒一も足を止めた。
女性が少し驚いたように目を丸くした。
「……また!」
恒一は思わず笑った。
「そうですね」
二週間前の雨。
先週の子猫。
そして、今日。
三度目だった。
航平が二人を交互に見た。
「知り合い?」
恒一は一瞬、返事に迷った。
知り合い。
そう呼んでいいのだろうか。
名前も知らない。
仕事も知らない。
ただ、二度ほど偶然会って、少し話をしただけだ。
「……以前、何度かお会いしたことがあるんです」
恒一が答えると、女性も笑った。
「はい。偶然、何度か」
航平は面白そうに眉を上げた。
「へえ」
それ以上は聞かなかった。
女性は少し息を弾ませていた。
「お急ぎですか?」
恒一が尋ねる。
「あ、はい。ちょっと待ち合わせで」
「そうですか」
「すみません、せっかく会ったのに」
「いえ。お気になさらず」
女性は笑った。
「それにしても、よく会いますね」
「そうですね」
恒一は少し考えた。
「生活圏が近いのかもしれませんね」
「なるほど」
女性は頷いた。
そして、少しだけ首を傾げた。
「でも、三回って、結構すごくないですか?」
「……確かに」
恒一は腕時計を見た。
それから、女性を見た。
「偶然としては、少し珍しいかもしれません」
女性は嬉しそうに笑った。
「ですよね!」
その笑顔を見て、恒一もつられて笑った。
航平は横で黙っていた。
ただ、二人の様子を静かに眺めていた。
「あっ、もう行かなきゃ」
女性が時計を見た。
「それじゃ!」
「はい。お気をつけて」
「ありがとうございます!」
女性は軽く手を振った。
そして、人混みの向こうへ小走りで消えていった。
恒一はその背中を見送った。
航平が、隣で缶コーヒーを飲み干した。
「……ふうん」
「どうかしました?」
「いや、別に」
「何か気になることでも?」
「面白いなと思って」
恒一は眉をひそめた。
「何がですか?」
「お前が」
「……私ですか?」
「うん」
航平は笑った。
「さっき、笑ってたから」
「笑うことくらいありますよ」
「あるけどさ」
航平は空き缶を持ち直した。
「なんか、自然だった」
恒一は返事に困った。
そんなことを言われても、どう答えればいいのか分からない。
航平はそれ以上追及しなかった。
「で、あの人は?」
「……何がです?」
「名前」
恒一は少し黙った。
「知りません」
「へえ」
「偶然お会いしただけなので」
「三回?」
「三回です」
航平は小さく笑った。
「なるほどね」
「何がなるほどなんですか」
「いや。吉祥寺って、面白い街だなと思って」
恒一は航平を見た。
航平は空を見上げていた。
その顔には、何かを面白がっているような笑みが浮かんでいた。
恒一は小さく息を吐いた。
「……航平さんって、何でも面白がりますよね」
「写真家だからな」
「それ、関係あります?」
「あることにしてくれ」
二人は笑った。
*
午後四時二十一分。
美月は友人との用事を終え、吉祥寺駅へ向かっていた。
保冷バッグは空になっている。
渡したタルトは、好評だった。
特に、クリームの軽さを褒めてもらえたのが嬉しかった。
美月は満足そうに歩いていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
梨花からだった。
『ちゃんとお昼食べた?』
美月は返信した。
『食べたよ!』
『何?』
『ラーメン』
『また?』
『全部のせ大盛り』
数秒後。
『……それだけ?』
美月は少し考えた。
『半チャーハンも』
しばらく返信がなかった。
やがて。
『美月、元気だね』
美月は笑った。
『元気だよ!』
送信。
それから、ふと思い出した。
『そういえば、今日また傘の人に会った』
すぐに既読がついた。
『えっ!?』
続けて。
『また!?』
『うん』
『今度は何があったの!?』
美月は少し考えた。
今日は、特に何もなかった。
雨も降っていない。
子猫もいない。
ただ、歩いていたら会っただけだ。
『普通に道で会った』
送信。
梨花から返信が来た。
『それが一番すごくない?』
美月は画面を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
『そうかも』
送信。
しばらくして、梨花から新しいメッセージが来た。
『で、名前は?』
美月は足を止めた。
「……あ」
また聞かなかった。
今度こそ、聞いてもよかったのかもしれない。
でも、急いでいたし。
向こうも友人と一緒だったし。
それに、何となく。
名前を聞くタイミングを逃してしまった。
『聞いてない』
送信。
すぐに返信が来た。
『三回目なのに!?』
美月は笑った。
『うん』
『もう次会ったら聞きなよ』
美月は少し考えた。
次。
また会うことがあるのだろうか。
吉祥寺は広い。
同じ街に住んでいても、会わない人とはずっと会わない。
でも、あの人とは三回も会った。
不思議だった。
『また会ったらね』
そう返信した。
*
午後九時十四分。
恒一は自宅のパソコンを開いていた。
画面には、いつものフォルダ。
偶然ログ。
新しいページを作成する。
――偶然ログ003。
日付:六月二十八日。
場所:吉祥寺・井の頭公園周辺。
概要:過去二回遭遇した女性と再会。
状況:友人と歩行中、相手と偶然遭遇。短時間の会話。
結果:双方とも予定があったため、その場で別れた。
恒一はそこで手を止めた。
備考欄。
何を書くべきか。
少し考えた。
そして、文字を打った。
――三度目の遭遇。偶然としては、やや珍しい。
保存。
恒一は椅子にもたれた。
今日の出来事を思い返す。
あの女性は、相変わらずよく笑っていた。
少し急いでいたようだった。
手には、小さな保冷バッグを持っていた。
誰かと待ち合わせをしていたらしい。
それだけだった。
名前は、やはり知らない。
ただ。
恒一は少し考えた。
次に会ったら、名前くらい聞いてもいいかもしれない。
そう思った。
そして、すぐに首を振った。
次に会うとは限らない。
三回続いたからといって、四回目がある保証はない。
確率は、過去の結果だけで決まるものではない。
恒一はパソコンを閉じた。
机の引き出しを開ける。
中には、先日買った百七十八円のチョコレートがあった。
恒一は一かけら口に運んだ。
甘かった。
そして、ふと思った。
あの人は、待ち合わせに間に合ったのだろうか。
少し考えてから、笑った。
「……何を考えてるんだか」
部屋の明かりを落とす。
窓の外では、吉祥寺の夜が静かに更けていた。
そのころ、美月は自宅のソファで、明日の仕込みのことを考えていた。
新作プリンの販売開始。
焼き菓子の試作。
材料の確認。
やることは、いくつもある。
それでも、眠る前に少しだけ、今日の出来事を思い出した。
三度目。
あの人、また会うかな。
そう思って、少し笑った。
そして、冷蔵庫を開けた。
「……プリン、あった」
今日も、予定どおりにはいかない夜だった。
ただし、それを困ったことだと思っている人間は、少なくともこの部屋にはいなかった。
第6話 了




