第5話 甘いものには理由がある
白石美月には、どうしても許せないことが三つあった。
一つ目は、焼き菓子を密閉せずに放置すること。
二つ目は、オーブンの予熱が終わる前に生地を入れること。
そして三つ目は。
「美月、これ、すごくおいしい!」
「……梨花」
「ん?」
「まだ食べないで」
「え?」
「それ、完成してない」
佐伯梨花の手が止まった。
スプーンの先には、ひと口分のクリームが乗っている。
すでに半分ほど口に入っていた。
「……おいしいけど?」
「おいしいかどうかじゃないの」
「えっ」
「まだ、完成してないの」
美月は真剣だった。
梨花はスプーンをくわえたまま、目を瞬いた。
木曜日、午前九時二十六分。
カフェ木漏れ日の厨房では、開店前の仕込みが進んでいた。
美月が作っていたのは、新しい焼き菓子に添える、アーモンド風味のクリームだった。
バター、砂糖、細かく挽いたローストアーモンド、少量の生クリーム。
材料は珍しくない。
ただ、配合と混ぜ方によって、仕上がりは大きく変わる。
美月は試作のたびに細かな記録を残していた。
今日で四回目。
今度こそ、狙った口当たりに近づいていた。
そこへ梨花が現れたのである。
「だって、美月が味見していいって」
「それは、最後に」
「最後って言った?」
「……言ってないかも」
「でしょ?」
「でも、今はまだ途中なの」
梨花はスプーンを置いた。
「分かった。じゃあ完成するまで待つ」
「うん」
「あと何分?」
「二十分くらい」
「長っ」
「冷やして状態を確かめる時間もあるから、短い方だよ」
「私、接客担当だからさ」
「うん」
「食べる方は得意だけど、作る方の二十分がどれくらい大事なのか分かんない」
美月は少し考えた。
「じゃあ、梨花が接客してるときに、お客さんが会計前の商品を勝手に袋に入れたら?」
「困る」
「でしょ?」
「うん」
「そういう感じ」
梨花は腕を組んだ。
「……ちょっと違わない?」
「違う?」
「違うと思う」
二人は顔を見合わせた。
先に笑ったのは美月だった。
「まあ、あとで食べて」
「もちろん。そのために来たんだから」
「仕事は?」
「ちゃんとしてます」
梨花は胸を張った。
そのとき、厨房の入口から声がした。
「二人とも、楽しそうね」
小野寺真紀だった。
片手には納品書。
もう片方には、コーヒーカップ。
「真紀さん、おはようございます」
「おはよう。美月、新作は順調?」
「はい。あと少しです」
「その『あと少し』は、今日中に終わる?」
梨花が吹き出した。
「真紀さん!」
美月が抗議する。
「ちゃんと終わります!」
「それならいいけど」
真紀は笑った。
そして、作業台の端に置かれた試作記録へ目を落とした。
「ずいぶん細かく書いてるのね」
「はい。今回は食感が大事なので」
ノートには、材料の分量だけでなく、室温や混ぜる時間まで記されていた。
真紀は数ページめくった。
「……前回と砂糖が二グラム違うの?」
「はい」
「二グラムで変わる?」
「変わります」
美月は即答した。
真紀は少しだけ口元を緩めた。
「そう。じゃあ、楽しみにしてる」
「はい!」
真紀が厨房を出ていく。
梨花はその背中を見送りながら、そっと美月に言った。
「真紀さん、嬉しそうだったね」
「そう?」
「うん。美月がちゃんと考えて作ってるの、分かってるんだよ」
美月はノートを見た。
「……だといいな」
「だと思うよ」
梨花はそう言って、ホールへ戻っていった。
美月は少しだけ笑った。
それから、再びボウルに向き直った。
ここから先は、誰にも邪魔されたくない時間だった。
*
午前十一時四十八分。
木漏れ日の店内には、焼きたての菓子の香りが漂っていた。
開店して間もない時間帯。
窓際では年配の夫婦がコーヒーを飲み、奥のテーブルでは学生らしい二人組がノートを広げている。
カウンター席には、常連の女性が一人。
木漏れ日の昼は、いつもゆっくり始まる。
ただし、ゆっくりしているのは客席だけだった。
「梨花、三番テーブルの追加注文お願い」
「はーい」
「あと、窓際のお客様、お水が少なくなってるから」
「了解」
昼のホールには、田村佳代も入っていた。常連客の注文を受け、空いた皿を手際よく下げる。真紀と梨花は、その動きを見ながら追加注文と会計を分担していた。
厨房では、美月が注文されたデザートを仕上げている。
新作の『午後のごほうびプリン』は、来週からの限定販売。
その案内が、レジ横に置かれていた。
「ねえ、これ来週からなの?」
常連の女性が案内を指さした。
梨花は笑顔で答える。
「はい。来週の月曜日からです」
「おいしそうねえ」
「美月が何度も試作した自信作なんです」
「あら、そうなの」
女性は写真を覗き込んだ。
「じゃあ、来週また来なくちゃ」
「ぜひ!」
梨花は嬉しそうに笑った。
その会話が聞こえたのか、厨房の奥で美月が小さく拳を握っていた。
真紀はそれを見て、微笑んだ。
こういう小さな反応が、作り手にとっては何よりの励みになる。
だが、その一方で。
真紀の手元には、一枚の請求書があった。
乳製品の仕入れ価格が、また上がっていた。
先月より、わずかに高い。
しかし、そのわずかな差が、積み重なると大きい。
真紀は数字を確認し、静かに息を吐いた。
客に出す商品の質は落としたくない。
かといって、値上げばかりするわけにもいかない。
十二年間続けてきた店だった。
長く続けることと、同じやり方を続けることは、必ずしも同じではない。
真紀は請求書を裏返した。
今は、目の前の客を大切にする時間だった。
*
午後一時十七分。
吉祥寺駅から少し離れたオフィスで、桐谷恒一は一通のメールを読み返していた。
差出人は、来月のイベントを開催する商業施設の担当者だった。
内容は、飲食出店についての条件確認。
施設側は、地元店舗の参加に前向きだった。
ただし、条件がある。
調理行為の制限。
衛生管理。
電源使用。
搬入時間。
販売スペース。
恒一は項目を整理し、資料へ転記していた。
「桐谷さん!」
背後から声がした。
三浦直樹だった。
恒一は振り返らずに答えた。
「まだ何も決まってないぞ」
「えっ」
「出店者の募集は、条件整理が終わってからだ」
「いや、今日は違いますって!」
直樹は笑った。
「ちゃんと仕事の話です」
「いつも仕事の話だろう」
「そうでした」
直樹は椅子を引き寄せた。
「地元のお店の候補、ちょっと調べてみたんです」
「候補を調べるのは構わない」
「ですよね!」
「連絡は?」
「してません!」
「本当だな?」
「はい!」
恒一はようやく顔を上げた。
「じゃあ、見せてくれ」
直樹はタブレットを差し出した。
画面には、吉祥寺周辺の店舗がいくつも並んでいた。
コーヒースタンド。
ベーカリー。
焼き菓子専門店。
小さなカフェ。
「結構あるんですよね」
「そうだな」
「どこも雰囲気よさそうで」
「出店経験があるかどうかも確認したいな」
「ですよね」
直樹は画面をスクロールした。
「ここなんか、どうです?」
恒一は画面を覗いた。
そこには、小さな焼き菓子店の写真が表示されていた。
木製の棚。
並べられたフィナンシェ。
ガラスケースの中のタルト。
「雰囲気はいいな」
「でしょ?」
「ただ、店の規模からすると、イベント出店に対応できるかは分からない」
「なるほど」
「まずは条件を整理してからだ」
「はい」
直樹は頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「桐谷さんって、ほんと慎重ですよね」
「仕事だからな」
「でも、僕はそういうところ、助かってますよ」
恒一は顔を上げた。
「……そうか?」
「はい。僕だけだったら、たぶんもう十軒くらい電話してます」
「それは困る」
「ですよね!」
直樹は楽しそうに笑った。
恒一も、少しだけ笑った。
性格は正反対。
仕事の進め方も違う。
それでも、互いに足りないところを補っている。
恒一は、そういう関係も悪くないと思っていた。
*
午後三時三十五分。
午前中の試作をいったん切り上げ、昼の注文と仕込みを済ませた美月は、ようやくクリームの最終調整に戻っていた。
木漏れ日の昼の混雑が落ち着いたころ、美月は厨房の片隅で、完成したクリームを味見していた。
スプーンを口に運ぶ。
ゆっくり味わう。
目を閉じる。
「……うん」
今度は、納得できた。
アーモンドの香りが立ち、甘さは控えめ。
口当たりは軽く、後味がしつこくない。
焼き菓子と合わせれば、ちょうどいいはずだった。
「梨花ー!」
美月が呼ぶ。
「なにー?」
「できたよ!」
数秒後、梨花が厨房へ現れた。
「やっと?」
「やっと!」
「今度こそ?」
「今度こそ!」
梨花はスプーンを受け取った。
一口。
そして、目を見開いた。
「……あ」
「どう?」
「おいしい」
「でしょ!」
「さっきのより、軽い」
「そう!」
「でも、ちゃんと甘い」
「そうなの!」
美月は嬉しそうに頷いた。
梨花はもう一口食べた。
「これ、焼き菓子と合わせたら絶対いいね」
「うん!」
「これ、どうやって出すの?」
「どうやって?」
「焼き菓子に添えるんでしょ。最初から塗るのか、小さな器で別に出すのかで、見せ方が変わるよ」
美月は少し考えた。
「別添えがいいかな。まず焼き菓子だけ食べてもらって、途中でクリームを合わせてほしい」
「なるほど。じゃあ、お客様にもそう伝えられるね」
「でも、つけすぎると甘くなっちゃうから、量は決めたい」
「それは真紀さんとも相談しよう。手間と値段も変わるし」
「うん。お願い」
梨花はスマートフォンのメモを開いた。
「まずは、一皿に何グラム添えるか教えて。写真も、その量で撮りたいから」
「分かった。今から量ってみる」
美月は嬉しそうに頷いた。
梨花は、クリームの香りや口当たりについても美月に尋ねた。
説明を聞きながら、客席でどう伝えれば魅力が届くかを考えていた。
美月は真剣な顔で説明を始めた。
その姿を見ながら、梨花は思った。
美月は、普段は少し抜けている。
でも、菓子作りの話になると、まるで別人のようになる。
細かな違いを見逃さず、納得するまで考える。
その真剣さが、梨花は好きだった。
だからこそ、自分もできることをしたいと思う。
美月が作ったものを、ちゃんとお客さんに届ける。
そのために、名前を考え、写真を撮り、言葉を選ぶ。
それが、梨花の仕事だった。
*
午後五時五十二分。
木漏れ日の営業が落ち着き始めたころ、真紀はレジ横に置かれた新作プリンの案内を見ていた。
写真はきれいに撮れている。
商品名も分かりやすい。
価格は、まだ仮のままだった。
真紀はペンを手に取った。
原材料費。
人件費。
仕込み時間。
販売数の見込み。
そして、客が納得できる価格。
数字を並べるだけなら簡単だった。
難しいのは、その数字の向こうにいる人たちのことだった。
美月が何度も試作を重ねたこと。
梨花が写真を撮り直したこと。
常連客が「来週また来る」と言ってくれたこと。
それらを、ただの原価計算だけで片づけたくはなかった。
真紀はしばらく考えた。
そして、価格欄に数字を書き込んだ。
それを見た梨花が、少し驚いた。
「真紀さん、これでいいんですか?」
「うん」
「もう少し高くしても、売れると思いますけど」
「そうかもしれないね」
「じゃあ……」
真紀は微笑んだ。
「まずは、食べてもらいたいの」
梨花は少し考えた。
そして、頷いた。
「……分かりました」
真紀は案内を整えた。
来週の月曜日。
新しいプリンが、木漏れ日のメニューに加わる。
それは、店にとっては小さな出来事だった。
けれど、美月にとっては、大切な一歩だった。
*
午後七時二十分。
恒一は自宅へ向かう途中、駅前のスーパーに立ち寄っていた。
買うものは決まっている。
牛乳。
卵。
食パン。
それから、夕食用の野菜。
恒一は買い物かごを持ち、必要なものを順番に入れていった。
無駄な動きはない。
予定どおり。
そのはずだった。
だが、菓子売り場の前で足が止まった。
棚には、いくつものチョコレートが並んでいる。
ミルク。
ビター。
ナッツ入り。
期間限定。
恒一は、その中の一つを見つけた。
百七十八円。
あの日、雨の中で出会った女性からもらったものと同じチョコレートだった。
「……」
恒一は少し考えた。
そして、一つ手に取った。
かごに入れる。
それだけのことだった。
特別な意味はない。
単に、以前食べておいしかったからだ。
そういう商品を、もう一度買うのは自然な行動である。
恒一は自分にそう説明した。
そして、レジへ向かった。
そのころ、木漏れ日の厨房では、美月が新しい焼き菓子の試作記録を閉じていた。
明日は、少しだけ配合を変えてみよう。
そんなことを考えながら、エプロンを外す。
梨花はホールの片づけをしていた。
真紀は売上表を確認していた。
それぞれの一日が、静かに終わろうとしていた。
恒一は、まだ知らない。
あの雨の日に出会った女性が、毎日こうして菓子を作っていることを。
美月も、まだ知らない。
あの傘の男性が、今日、同じチョコレートを買ったことを。
ただ一つ、確かなことがあった。
誰かが作ったものを、誰かが好きになる。
誰かが選んだものを、別の誰かが覚えている。
そういう小さな出来事が、街のあちこちで起きている。
そして、その一つひとつが、いつか思いがけない形でつながっていく。
吉祥寺の夜は、今日も静かに更けていった。
第5話 了




