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また会えたら、名前を聞こう  作者: Ryosuke
第1章 雨宿りの人
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4/10

第4話 だいたいできます

 三浦直樹には、仕事をするうえで一つの信条があった。


 面白そうなことは、まずやってみる。


 できるかどうかは、それから考える。


 そして、できなかったら、できる方法を探す。


 この三つを守っていれば、大抵の仕事は面白くなる。


 少なくとも、直樹はそう信じていた。


 桐谷恒一とは、驚くほど正反対の考え方である。


 そして、その二人が同じ会社で働いていることは、周囲の人間にとって、なかなか興味深い見世物だった。


「三浦くん」


「はい!」


「このメール、何?」


 火曜日の午前九時四分。


 恒一はパソコンの画面を指さした。


 直樹が椅子ごと滑るように近づいてくる。


「ああ、昨日の件ですね」


「そう。昨日の件だ」


「いい感じに進んでますよ」


「そうだな。ずいぶんいい感じだ」


「ですよね!」


「俺が知らないところで、出演者が一組増えていることを除けば」


 直樹の笑顔が止まった。


「……あれ?」


「『あれ?』じゃない」


 恒一は画面を読み上げた。


「『追加出演について、快くご承諾いただきありがとうございます。当日は三名編成で伺います』」


「はい」


「当初は二名だった」


「はい」


「一人増えている」


「はい」


「誰が承諾した?」


「……僕、ですかね」


「疑問形で答えるな」


 直樹は腕を組んだ。


「でも桐谷さん、これ、いい話なんですよ」


「聞こう」


「もともと出演予定だったアコースティックデュオに、パーカッションの人が加わるんです。音に厚みが出るし、盛り上がるし、追加料金もなし!」


「なるほど」


「しかも、その人、結構うまいらしくて」


「なるほど」


「これはもう、やるしかないなと」


「なるほど」


 恒一は頷いた。


 直樹の顔が明るくなる。


「じゃあ――」


「確認することが五つ増えた」


「五つ!?」


「ステージの広さ。追加機材。音響回線。搬入時間。出演者の契約条件」


「……ああ」


「それから、演奏内容が変わるなら施設側への説明も必要だ」


「六つですね」


「数えるところはそこじゃない」


 向かいの席から、小さな笑い声が聞こえた。


 恒一が顔を向けると、同僚の女性が慌ててモニターに視線を戻した。


 直樹は少し肩をすくめた。


「すみません。先に相談するべきでした」


「そうだな」


「でも、できると思うんですよ」


「できるかもしれない」


「ですよね!」


「だから確認するんだ」


 恒一は企画書を開いた。


 直樹も慌てて自分の席へ戻り、ノートを持ってきた。


 こういうところは素直なのである。


 恒一は、そこを評価していた。


 できれば、素直さを発揮する機会そのものを減らしてほしかったが。



     *



 吉祥寺駅南口から井の頭公園方面へ歩いて数分。


 カフェ木漏れ日では、開店前から別の問題が起きていた。


「美月」


「はい」


「この写真、どう思う?」


 佐伯梨花がスマートフォンを差し出した。


 画面には、白い皿に盛られたプリンが写っている。


 新作の『午後のごほうびプリン』。


 来週からの限定販売に向けて、店内の案内やSNSに使う写真を撮影しているところだった。


 美月は画面を覗き込んだ。


「おいしそう!」


「でしょ?」


「うん!」


「じゃあ、これにしようかな」


「でも」


 梨花の指が止まった。


「……でも?」


「ちょっと違うかも」


「何が?」


「プリンが」


「プリン?」


「実物は、もうちょっと柔らかそうに見えると思う」


 梨花は画面と皿を見比べた。


「そうかな?」


「うん。写真だと、少し固そう」


「照明かなあ」


「たぶん」


 梨花は撮影用の小さなライトを動かした。


「これなら?」


「うーん」


「こっちは?」


「もうちょっと」


「じゃあ、これ」


「……惜しい」


 梨花はスマートフォンを下ろした。


「美月」


「何?」


「私、今からプリンに謝った方がいい?」


「えっ、なんで?」


「こんなにおいしいプリンを、おいしそうに撮れなくて申し訳ありませんって」


「そんなことないよ!」


 美月は慌てた。


「梨花の写真、すごくいいよ」


「でも惜しいんでしょ?」


「うん」


「そこは否定しないんだ」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、同時に笑った。


 そのとき、厨房の奥から小野寺真紀が顔を出した。


「まだ撮ってるの?」


「はい。もう少しで」


 梨花が答える。


 真紀はテーブルの上を見た。


 白い皿。


 プリン。


 スプーン。


 小さな花瓶。


 背景用の布。


 反射板。


 ライト。


 そして、撮影のために動かされた椅子が三脚代わりに置かれている。


「……ずいぶん本格的ね」


「ちょっと凝っちゃって」


「それはいいけど、開店まであと四十分よ」


「分かってます!」


 梨花は慌てて答えた。


 美月も頷いた。


「すぐ終わります!」


 真紀は二人を見た。


 そして、ふっと笑った。


「二人とも、仕事になると似てるわね」


「え?」


 梨花が振り返る。


「どこがですか?」


「納得するまでやめないところ」


 美月は嬉しそうに笑った。


「仲間だね、梨花!」


「いや、美月ほどじゃないと思う」


「えー」


 真紀は肩をすくめた。


「ほどほどにね」


 そう言って厨房へ戻っていく。


 梨花は改めてプリンを見た。


「……ねえ、美月」


「何?」


「一回、窓際で撮ってみない?」


「あっ、いいかも!」


「自然光の方が柔らかく見えるかもしれないし」


「うん!」


 二人は皿を持って窓際へ移動した。


 午前の光が、ガラス越しにテーブルへ差し込んでいる。


 梨花はスマートフォンを構えた。


 美月は反射板を持つ。


「もうちょっと右」


「こう?」


「そうそう。少し下」


「こう?」


「うん、いい感じ」


 梨花がシャッターを切った。


 画面を確認する。


「……あ」


「どう?」


「これ、いいかも」


 美月が覗き込む。


 プリンの表面に柔らかな光が当たり、カラメルが艶やかに輝いていた。


「……いい!」


「でしょ!」


「すごくおいしそう!」


「やった!」


 二人は小さく手を合わせた。


 その直後。


 美月のお腹が鳴った。


 ぐう。


 梨花が動きを止めた。


 美月も止まった。


 沈黙。


「……今の、私じゃないよ」


 美月が言った。


「まだ何も言ってないけど」


「うん」


「じゃあ、誰?」


「……プリン?」


 梨花は吹き出した。


「プリンがお腹鳴らすわけないでしょ!」


「そうだよね」


 美月も笑った。


 梨花は皿を見た。


「撮影用のこれ、食べる?」


「いいの?」


「もう撮り終わったし」


「やった!」


 美月はスプーンを手に取った。


 しかし、一口食べる直前で止まった。


「……あ」


「何?」


「これ、前に作った試作の方だった」


「えっ」


「今日の完成版、まだ冷蔵庫にある」


 梨花は目を閉じた。


「……美月」


「はい」


「今撮った写真は?」


「前に作った試作」


「来週から売りたいのは?」


「完成版」


「見た目は?」


「……ちょっと違う」


 梨花は天井を見上げた。


 美月は申し訳なさそうに笑った。


「もう一回、撮る?」


 梨花は深く息を吸った。


 そして、ゆっくり吐いた。


「……撮ろうか」


「ごめんね!」


「いいよ。今度こそ完成版でね」


「うん!」


 こうして、木漏れ日の撮影会は延長された。


 開店まで、あと二十五分。



     *



 午後零時五分。


 三浦直樹は、電話口で満面の笑みを浮かべていた。


「はい! ありがとうございます!」


 受話器の向こうから、明るい声が聞こえる。


「それじゃ、当日よろしくお願いします!」


 直樹は電話を切った。


 そして、勢いよく立ち上がった。


「桐谷さん!」


 恒一は顔を上げた。


「何だ?」


「追加出演、正式にOK出ました!」


「そうか」


「施設側も問題なし! 音響も対応可能! 出演者の契約も確認済みです!」


「よかったな」


「いやあ、これで絶対面白くなりますよ!」


 直樹は嬉しそうに笑った。


 恒一も、少しだけ口元を緩めた。


 実際、追加のパーカッションは悪い案ではなかった。


 音楽イベントとしての魅力は増すだろう。


 直樹の発想力と交渉力がなければ、そもそも生まれなかった展開でもある。


「よくやった」


 恒一が言うと、直樹は一瞬、驚いたような顔をした。


「……え?」


「何だ?」


「いや、桐谷さんに褒められると、ちょっとびっくりしますね」


「普段も褒めているだろう」


「そうでしたっけ?」


「……褒めている」


「じゃあ、今日のは特別に受け取っておきます!」


 直樹は笑った。


 恒一は資料に視線を戻した。


 そのとき、直樹が思い出したように言った。


「あ、そうだ」


「何だ?」


「実は、もう一つ面白い話がありまして」


 恒一の手が止まった。


「……三浦」


「はい」


「その話は、もう誰かにしているか?」


「まだです!」


「本当だな?」


「はい!」


 恒一は少し安心した。


「それなら聞こう」


 直樹は椅子を引き寄せた。


「来月のイベントなんですけど、ステージだけじゃなくて、会場全体をもっと楽しくできないかなと思って」


「ほう」


「例えば、地元のお店に出店してもらうとか」


 恒一は顔を上げた。


「飲食?」


「はい。焼き菓子とか、コーヒーとか。小さなマルシェみたいな感じで」


「なるほど」


「来場者がステージを見て、買い物して、ちょっと休んで。またステージに戻ってくる」


 直樹は身振りを交えて説明した。


「ただ見て帰るイベントじゃなくて、そこで過ごす時間自体を楽しんでもらうんです」


 恒一は考えた。


 悪くない。


 むしろ、商業施設のイベントとしては理にかなっている。


 来場者の滞在時間が延びれば、施設側にも利点がある。


 地域の店舗にとっても、新しい客との接点になる。


 ただし。


「食品を扱うなら、施設側の許可条件を確認する必要がある」


「はい」


「電源や給排水の問題もある」


「はい」


「出店者の募集期間は?」


「そこなんですよね」


 直樹は少し困ったように笑った。


「今からだと、結構ギリギリで」


「そうだな」


「でも、やってみたいんですよ」


 恒一は企画書を見た。


 イベントまでは、まだ一か月ある。


 不可能ではない。


 ただ、準備不足のまま進めれば、関係者に負担をかける。


「まず、施設側に出店の可否を確認しよう」


「はい!」


「それから、条件を整理する。募集はその後だ」


「了解です!」


「先に店へ声をかけるなよ」


「分かってます!」


 直樹は勢いよく頷いた。


 恒一は念のため、もう一度言った。


「本当に、先に声をかけるなよ」


「大丈夫ですって!」


 直樹は笑った。


「今回はちゃんと順番守ります!」


 恒一は少しだけ安心した。


 その判断が正しかったかどうかは、まだ分からない。



     *



 午後三時二十二分。


 カフェ木漏れ日では、昼の混雑がようやく落ち着いていた。


 梨花はカウンターで、完成した新作プリンの案内を確認していた。


 写真は、無事に撮り直せた。


 美月も満足している。


 真紀の確認も済んだ。


 あとは印刷するだけだった。


「よし」


 梨花は小さく頷いた。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 画面には、宮本悠真の名前が表示されていた。


『今日、仕事終わったら暇?』


 梨花は少し考えた。


『今日は早く終わるかも』


 すぐに返信が来た。


『じゃあ飯行こう』


『どこ?』


『まだ決めてない』


『いつもそれじゃん』


『吉祥寺の帝王に任せろ』


 梨花は思わず笑った。


 悠真は昔から、自分のことを「吉祥寺の帝王」と呼ぶ。


 もちろん、誰も認めていない。


 少なくとも梨花は認めていなかった。


『帝王なら店くらい決めてよ』


 送信。


 数秒後。


『任せろ。最高の店を探す』


 梨花はスマートフォンを伏せた。


 そして、少しだけ笑った。


 美月が厨房から顔を出す。


「梨花、何かいいことあった?」


「え?」


「なんか笑ってた」


「別に」


「そう?」


「うん」


 梨花は平然と答えた。


 美月は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに厨房へ戻った。


 梨花はもう一度、スマートフォンを見た。


 悠真から新しいメッセージが来ていた。


『ラーメンとカレー、どっちがいい?』


 梨花は画面を見つめた。


「……帝王」


 小さく呟く。


『最高の店って、その二択?』


 送信。


 すぐに返信が来た。


『最高だろ?』


 梨花は声を出して笑った。



     *



 午後六時四十分。


 恒一は会社を出た。


 今日は、いつもより少し早い。


 直樹の追加企画についても、必要な確認事項を整理できた。


 大きな問題はない。


 帰宅後は、先日購入した映画の美術設定集を読むつもりだった。


 駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。


 直樹からだった。


『桐谷さん、施設側から返事きました!』


 恒一は立ち止まった。


『飲食出店、条件付きでOKです!』


 続けて、もう一通。


『やっぱり面白くなりそうですね!』


 恒一は少し笑った。


『条件を送ってくれ。明日確認する』


 返信すると、すぐに既読がついた。


『了解です!』


 その三秒後。


『あ、あと一つだけ』


 恒一は嫌な予感がした。


『何だ?』


 数秒後。


『地元のお店って、どこに声かけたらいいですかね?』


 恒一は少し考えた。


 吉祥寺には、個性的な店が多い。


 コーヒー。


 焼き菓子。


 パン。


 軽食。


 地域の店を巻き込むなら、まずは商店会や施設側の紹介先を確認するのが妥当だろう。


『商店会と施設側に相談しよう。候補はその後で絞る』


 送信。


 直樹から、すぐに返信が来た。


『なるほど! ありがとうございます!』


 恒一はスマートフォンをしまった。


 そして、再び歩き始めた。


 そのころ、吉祥寺の小さなカフェでは、一枚の新作プリンの案内が完成していた。


 そのころ、別の場所では、一人の編集者がラーメン店とカレー店のどちらを選ぶか、真剣に悩んでいた。


 そして、また別の場所では、一人のイベントプランナーが、地元の店を巻き込んだ新しい企画に胸を躍らせていた。


 まだ、誰も知らない。


 それぞれの小さな出来事が、やがて思いがけないところでつながっていくことを。


 吉祥寺の街は、今日も何事もなかったように夕暮れを迎えていた。


 そして、三浦直樹は。


 帰りの電車の中で、スマートフォンを開いていた。


 検索欄に入力した言葉は、


『吉祥寺 人気 カフェ 焼き菓子』


「……おっ」


 画面に並んだ店の写真を見て、直樹は目を輝かせた。


「いい店、いっぱいあるじゃん」


 彼は検索結果を保存した。


 まだ、どこにも連絡していない。


 今回は、ちゃんと順番を守るつもりだった。


 ただし。


 面白そうなことを見つけたとき、じっとしていられるかどうか。


 それは、また別の問題だった。



第4話 了


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