第3話 二度目は偶然
土曜日の午前十一時二十三分。
桐谷恒一は、吉祥寺の書店で一冊の本を手に取り、七分間悩んでいた。
理由は単純だった。
買うべきか、買わざるべきか。
それだけである。
ただし、恒一にとっては、それほど単純な問題でもなかった。
手にしているのは、映画の美術設定をまとめた大型の書籍だった。
価格は四千八百円。
ページ数は三百二十。
内容は申し分ない。
しかし、同じ映画の設定資料集を、すでに一冊持っている。
今回の本は増補改訂版で、未公開のコンセプトアートが四十点追加されていた。
つまり、四千八百円のうち、どれほどが新しい四十点に対する対価なのか。
そこが問題だった。
「……一枚百二十円」
恒一は小さく呟いた。
もちろん、既存の内容にも価値はある。印刷の品質も向上しているし、装丁も美しい。
だが、そうした要素をすべて加味したとしても、購入を即決するほどの理由にはならない。
恒一は本を棚へ戻した。
三秒後、もう一度手に取った。
そのときだった。
「すみません、ちょっといいですか?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、二十歳前後の男性が立っていた。
手にはスマートフォン。
画面には、同じ書籍の表紙が表示されている。
「これ、探してるんですけど、どこにありますかね?」
恒一は自分の手元を見た。
それから、男性の画面を見た。
「これですね」
「あっ!」
男性の顔が明るくなった。
「ありがとうございます! ずっと探してて」
「こちらの棚にありました」
「助かりました!」
男性は本を受け取ろうとして、手を止めた。
「あ、でも、それ買うやつですか?」
「いえ、まだ検討中です」
「じゃあ、先にどうぞ」
「いえ。私は旧版を持っていますから」
「えっ、そうなんですか?」
「はい」
「これ、めちゃくちゃいいですよね。僕、映画見てからずっと欲しくて」
男性は嬉しそうに話し始めた。
好きな場面。
背景美術の細かさ。
劇中では数秒しか映らない街並みに、どれほどの設定が作り込まれているか。
恒一は思わず聞き入った。
話してみると、相手はかなり詳しかった。
そして何より、楽しそうだった。
「この本、絶対買います」
男性はそう言って、書籍を抱えた。
「ありがとうございます!」
「いえ」
男性がレジへ向かっていく。
恒一は空いた棚を見た。
そこには、もう一冊だけ同じ本が残っていた。
「……」
彼はそれを手に取った。
結局、購入した。
理由を聞かれれば、追加資料の価値を再評価したからだと答えるつもりだった。
ただ、正確には。
あれほど楽しそうに話す人間を見ていたら、もう一度読みたくなったのである。
*
同じころ。
カフェ木漏れ日では、佐伯梨花が一枚の紙を見つめていた。
「……うーん」
紙には、来週から提供する限定メニューの案内が印刷されている。
新作プリン。
白石美月が何度も試作を重ね、ようやく完成させた一品だった。
商品名は、まだ決まっていない。
梨花が考えた候補は三つ。
『木漏れ日のなめらかプリン』
『ちょっと大人のカラメルプリン』
『午後のごほうびプリン』
どれも悪くない。
ただ、決め手に欠けた。
「美月ー」
梨花が厨房へ声をかける。
「なにー?」
「プリンの名前、どうする?」
「名前?」
「そう。限定メニューの」
厨房から美月が顔を出した。
エプロンの紐を結び直しながら、紙を覗き込む。
「うーん……」
「どれがいい?」
「全部おいしそう」
「いや、実際おいしいんだけど」
「じゃあ、全部で」
「商品名が三つあるプリンなんて聞いたことないよ」
「日替わりにするとか」
「中身同じなのに?」
「うん」
梨花は美月を見た。
「それ、常連さんが混乱するだけだと思う」
「そっか」
美月はあっさり頷いた。
梨花は苦笑した。
「美月はさ、作るときはあんなに細かいのに、名前は適当だよね」
「味は大事だから」
「名前も大事だよ」
「分かってるよ」
「ほんと?」
「うん。だから考えてる」
美月は真剣な顔になった。
梨花も黙って待った。
十秒。
二十秒。
三十秒。
「……プリン」
「それは知ってる」
「すごくおいしいプリン」
「自分で言う?」
「自信作だし」
「それはいいことだけど」
梨花は笑いながら紙を置いた。
「もうちょっと考えようか」
「うん」
そのとき、店の奥から小野寺真紀が現れた。
「何をそんなに悩んでるの?」
「プリンの名前です」
梨花が答える。
真紀は紙に目を通した。
「私は『午後のごほうびプリン』がいいと思うけど」
「やっぱり?」
「うん。うちのお客様には、そういう分かりやすい名前の方が伝わると思う」
「じゃあ、それにします」
梨花はすぐに頷いた。
美月も嬉しそうに言った。
「いい名前ですね!」
「……美月、さっきまで悩んでたよね?」
「うん。でも決まったから」
梨花は思わず笑った。
真紀も微笑んだ。
「それじゃ、午後の仕込みもよろしくね」
「はい!」
美月は元気よく返事をした。
そのとき、梨花のスマートフォンが震えた。
画面には、メッセージが表示されている。
『今日、昼メシどう?』
送り主は宮本悠真だった。
梨花は画面を見て、少しだけ口元を緩めた。
『仕事中』
すぐに返信が来た。
『じゃあ夜』
『今日は遅い』
『明日』
『明日も仕事』
『働きすぎでは?』
『そっちが暇すぎるの』
数秒後。
『編集者は忙しいんだぞ』
梨花は小さく笑った。
『じゃあ仕事しなよ』
送信。
すぐに既読がついた。
しかし、返信はなかった。
梨花はスマートフォンを伏せた。
美月が不思議そうに覗き込む。
「誰?」
「悠真」
「ああ」
「またご飯行こうって」
「行かないの?」
「今日は仕事」
「そっか」
美月はそれ以上聞かなかった。
梨花も、特に説明しなかった。
ただ、伏せたスマートフォンがもう一度震えたとき、梨花は少しだけ早く画面を確認した。
『じゃあ、また誘う』
たったそれだけのメッセージだった。
梨花は数秒眺めてから、短く返した。
『うん』
*
午後二時四十八分。
吉祥寺の空は、よく晴れていた。
恒一は書店を出たあと、少し遠回りをして帰ることにした。
購入した本は鞄に入っている。
重量はそれなりにあったが、急いで帰る理由もなかった。
休日の午後。
予定表には、午後三時まで自由時間と書いてある。
自由時間を予定表に書くこと自体、少し奇妙だという自覚はあった。
だが、何も決めていない時間というのは、案外落ち着かない。
恒一は井の頭公園方面へ向かった。
土曜日の吉祥寺は人が多い。
買い物袋を持った家族連れ。
犬を連れた夫婦。
ベビーカーを押す若い父親。
路地の角では、外国人観光客が地図を見ながら何か相談していた。
恒一は人の流れを避けながら歩いた。
そのとき。
「……あれ?」
少し先で、聞き覚えのある声がした。
恒一は顔を上げた。
道の脇に、小さな人だかりができている。
その中心にいたのは、一人の女性だった。
白いシャツに、淡い色のスカート。
肩までの髪。
片手には紙袋を持っている。
どこかで見たことがある。
そう思った瞬間、女性がこちらを向いた。
「あっ」
目が合った。
女性の表情が、ぱっと明るくなった。
「あ!」
恒一も足を止めた。
先週の金曜日。
雨。
コンビニ。
最後の一本の傘。
「……あのときの」
「そうです!」
女性が笑った。
「傘の!」
「はい」
二人は少し離れたところで、互いに会釈した。
恒一は周囲を見た。
人だかりの中心には、道路脇に置かれた小さな段ボール箱があった。
箱の中から、か細い鳴き声が聞こえる。
「……猫ですか?」
「はい」
女性は困ったように笑った。
「さっきから、ここにいて」
箱の中には、小さな子猫がいた。
茶色と白のまだら模様。
体は小さく、目は大きい。
段ボールの底には古いタオルが敷かれていた。
子猫は、時折小さく鳴いている。
恒一はしゃがみ込んだ。
「飼い主は?」
「分からないんです」
「箱に入っていたんですか?」
「はい。私が通ったときには、もう」
女性は周囲を見回した。
「どうしたらいいのかなって」
恒一は箱の中を覗いた。
子猫は、こちらを見上げていた。
小さな鼻。
細いひげ。
そして、妙に堂々とした目つき。
恒一は少し考えた。
「まず、近くの交番に相談するのがいいと思います」
「あ、やっぱりそうですよね」
「それから、保護が必要な状態なら、動物の保護団体や動物病院に相談する方法もあります」
「なるほど」
「ただ、すぐに動かすより、状況を確認した方が」
「……あの」
「はい」
「この子、さっきから私のこと見てるんです」
恒一は子猫を見た。
子猫は女性を見ていた。
確かに、見ている。
「そうですね」
「なんか、連れて帰ってって言ってる気がして」
「……気のせいかもしれません」
「ですよね」
女性は笑った。
しかし、その顔は少し寂しそうだった。
恒一はもう一度、子猫を見た。
小さな体が、わずかに震えている。
周囲の人々は、心配そうに覗き込んでは通り過ぎていく。
誰も悪くない。
ただ、誰もすぐには動けない。
恒一は腕時計を見た。
午後二時五十三分。
自由時間は、あと七分。
そして、予定表にはない出来事が目の前にあった。
「……少し、手伝いましょうか」
女性が顔を上げた。
「え?」
「交番まで、一緒に行きます」
「でも、用事とか」
「急ぎではありません」
恒一はそう答えた。
女性は一瞬、驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくり笑った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
恒一は箱を持ち上げようとした。
その瞬間。
「にゃっ!」
子猫が小さく鳴いた。
恒一の手が止まった。
女性が吹き出した。
「嫌がられてません?」
「……その可能性はあります」
「ふふっ」
「ただ、箱を持ち上げるだけなので」
「はい」
恒一は慎重に箱を持ち上げた。
子猫は再び鳴いた。
「……にゃあ」
女性が箱を覗き込む。
「大丈夫だよー」
子猫はぴたりと鳴きやんだ。
恒一は女性を見た。
「……懐いていますね」
「そうですかね?」
「少なくとも、私よりは」
女性は笑った。
「じゃあ、私が話しかけてますね」
「お願いします」
二人は並んで歩き始めた。
先週は一本の傘。
今日は一つの段ボール箱。
なぜか、また同じ方向へ歩いている。
恒一はそのことに気づいたが、口には出さなかった。
*
交番では、警察官が丁寧に話を聞いてくれた。
子猫がいた場所。
見つけた時刻。
箱の状態。
周囲に飼い主らしい人物がいなかったこと。
警察官は必要な確認を進め、関係先への連絡について説明した。
恒一と女性は、分かる範囲で状況を伝えた。
警察官は箱の中の子猫を確かめ、関係先への連絡と、その間の保護について手配してくれた。
ひとまず交番で預かってもらえることになり、女性は少し名残惜しそうに箱の中を覗き込んだ。
「元気でね」
子猫は小さく鳴いた。
恒一も、軽く頭を下げた。
交番を出ると、午後の日差しが少し傾き始めていた。
女性は大きく息を吐いた。
「よかった……」
「そうですね」
「どうなるかと思いました」
「無事に対応してもらえてよかったです」
「はい」
女性は恒一を見た。
「また助けてもらっちゃいましたね」
「いえ。今回は私も、たまたま通りかかっただけです」
「でも、手伝ってくれたので」
「それは、あの状況なら誰でも」
「そうかなあ」
女性は少し首を傾げた。
「誰でも、ではない気がします」
恒一は返事に迷った。
女性は笑った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
二人はしばらく、その場に立っていた。
別れるタイミングを探しているような、そんな短い沈黙だった。
先に口を開いたのは女性だった。
「……それにしても」
「はい?」
「また会いましたね」
「そうですね」
「吉祥寺って、広いのに」
「人口密度と生活圏を考えると、同じ地域で暮らしている人が再び顔を合わせる可能性は、それほど低くないかもしれません」
女性は恒一を見た。
そして、ゆっくり瞬きをした。
「……そうなんですか?」
「正確な数値は出せませんが」
「ふふっ」
「何か?」
「いえ」
女性は笑いをこらえるように口元を押さえた。
「やっぱり、面白い人ですね」
「……そうでしょうか」
「はい」
恒一は少し困った。
面白いことを言ったつもりはなかったからだ。
女性は紙袋を持ち直した。
「じゃあ、私、そろそろ行きますね」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「いえ」
二人は軽く会釈した。
女性が歩き出す。
数歩進んだところで、ふと振り返った。
「あっ」
「はい?」
「この前のチョコレート、おいしかったですか?」
恒一は少し驚いた。
「……はい。おいしかったです」
「よかった」
女性は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また」
そう言って、今度こそ歩いていった。
恒一はその背中を見送った。
しばらくしてから、ふと思った。
また。
何気ない別れの挨拶だった。
深い意味などないだろう。
それでも、先週の金曜日とは少しだけ違う響きがした。
*
午後九時三十二分。
恒一は自宅のパソコンを開いていた。
画面には、例のフォルダが表示されている。
偶然ログ。
恒一は新しいページを作った。
――偶然ログ002。
日付:六月二十日。
場所:吉祥寺・井の頭公園周辺。
概要:先週、傘を共同利用した女性と再会。
状況:段ボール箱に入った子猫を発見。女性とともに交番へ相談。
結果:関係先への連絡につながった。
恒一はそこで手を止めた。
備考欄に、何を書くべきか。
しばらく考える。
そして、ゆっくりと文字を打った。
――再会は偶然と思われる。
保存。
パソコンを閉じる。
恒一は椅子にもたれた。
今日の出来事を思い返す。
子猫。
段ボール箱。
交番。
そして、あの女性の笑顔。
名前は、やはり知らない。
仕事も、詳しいことは何も知らない。
ただ、雨の日に見知らぬ相手と傘を分け合い、今日は小さな猫を放っておけなかった人だ。
それだけだった。
恒一は少し笑った。
「……変な偶然だな」
そう呟いて、部屋の明かりを落とした。
*
同じころ。
美月は自宅のソファに座り、スマートフォンを眺めていた。
画面には、梨花とのメッセージが表示されている。
『今日、またあの人に会った』
送信。
数秒後。
『えっ!?』
すぐに返信が来た。
『傘の人!?』
『そう』
『どこで!?』
『公園の近く』
『何してたの!?』
『猫を助けた』
しばらく、既読がついたまま返信がなかった。
美月は首を傾げた。
やがて、画面が震えた。
『情報が少なすぎる』
美月は笑った。
『ちゃんと説明するね』
そう打ってから、少し考えた。
何から説明しよう。
子猫がいたこと。
交番へ行ったこと。
あの人がまた手伝ってくれたこと。
そして、別れ際に少し笑ったこと。
美月は指を動かした。
『今日も、親切だったよ』
送信。
すぐに返信が来た。
『それは分かったから!』
美月は声を出して笑った。
そして、スマートフォンを胸の上に置いた。
天井を見上げる。
先週は雨。
今日は猫。
偶然というのは、変なところで続くものらしい。
美月は目を閉じた。
あの人、何て名前なんだろう。
そんなことを、ほんの少しだけ考えた。
けれど、すぐに別のことを思い出した。
次の撮影日には、木漏れ日の新作プリンを撮る予定だった。
きれいに仕上げなくては。
美月は勢いよく起き上がり、冷蔵庫を開けた。
中には、昨日持ち帰った試作のプリンが一つ残っていた。
「あった」
嬉しそうに取り出す。
スプーンを用意する。
そして、ふと手を止めた。
「……あ」
明日の朝に食べようと思っていたのだった。
美月はプリンを見つめた。
三秒。
五秒。
十秒。
「……まあ、いっか」
蓋を開けた。
今日の偶然も、明日の予定も。
プリンの前では、少しだけ優先順位が変わる。
それが白石美月という女性だった。
第3話 了




