↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
また会えたら、名前を聞こう  作者: Ryosuke
第1章 雨宿りの人
PR
2/10

第2話 予定表にない午後

 桐谷恒一には、仕事をするうえで一つの信条があった。


 問題は、起きる前に対処する。


 起きてしまった問題については、原因を特定し、再発防止策を講じる。


 そして、そもそも問題を起こさない。


 この三つを守っていれば、大抵の仕事は平穏に進む。


 少なくとも、恒一はそう信じていた。


「桐谷さん、ちょっと面白い話があるんですけど」


 午前九時十七分。


 その信条を、わずか十七分で脅かす男が現れた。


 三浦直樹。


 二十九歳。


 恒一が勤めるイベント企画会社の後輩であり、社内でも有数の行動力を持つ男だった。


 人当たりがよく、初対面の相手とも五分で打ち解ける。


 企画力もある。


 交渉も上手い。


 実際、彼が持ち込んだ案件の多くは成功していた。


 ただし、問題が一つあった。


 順番を守らないのである。


「面白い話というのは?」


「来月の商業施設のイベントなんですけど、ちょっと演出を追加できそうなんですよ」


「追加?」


「はい。昨日、出演者の方と話してたら、いいアイデアが出まして」


 恒一は手元の資料から顔を上げた。


「昨日?」


「はい」


「出演者と?」


「はい」


「誰の判断で?」


「僕です」


 直樹は爽やかに答えた。


 恒一は一度、目を閉じた。


「……何を約束した?」


「まだ約束ってほどじゃないですよ」


「そうか」


「ちょっと、ステージの途中で客席に降りてもらおうかなって」


「却下」


「早いですね!」


「客席への導線がない」


「作ればいいじゃないですか」


「避難経路と重なる」


「じゃあ反対側から」


「そちらは音響機材がある」


「機材をずらせば」


「客席数が減る」


「じゃあ、立ち見にして」


「消防上の収容人数を確認してから言ってくれ」


 直樹は腕を組んだ。


「……なるほど」


「なるほど、じゃない」


「桐谷さん、もう全部考えてるんですね」


「企画書に書いてある」


「あっ」


 直樹は机の上の企画書を開いた。


 数秒後。


「ほんとだ」


 恒一は深く息を吐いた。


 直樹は悪い男ではない。


 むしろ、いい男だと思っている。


 人の懐に飛び込むのが上手く、相手の希望を引き出すことにも長けている。


 恒一が慎重すぎて逃してしまいそうな機会を、直樹はあっさりつかんでくる。


 その能力は認めていた。


 認めていたが。


「三浦」


「はい」


「先方には、まだ話していないな?」


「ええ、もちろん」


「本当だな?」


「出演者には、できたら面白いですねって言いましたけど」


「それを話したと言うんだ」


「……ああ、そういう意味では」


 恒一は天井を見た。


 今日はまだ月曜日である。


 週末まで、ずいぶん長そうだった。


     *


 一方、そのころ。


 吉祥寺駅南口から井の頭公園方面へ少し歩いたところにある、小さなカフェ。


 木漏れ日。


 木製の扉に、丸みのある文字で店名が書かれている。


 店内には二十二席。


 窓際に二人掛けのテーブルが三つ。


 奥には四人掛けのテーブルが二つ。


 残りはカウンター席と、小さな丸テーブルだった。


 開店から十二年。


 派手な店ではないが、近所の人たちに長く親しまれている。


 店を切り盛りするのは、オーナーの小野寺真紀を含めて六人。菓子を作る白石美月、接客と店の発信を担う佐伯梨花。そして、定年後に趣味のコーヒーを学び直し、民間のバリスタ資格を取って第二の仕事に選んだ水野宗一郎。子育てが一段落して接客の仕事に戻ってきた主婦パートの田村佳代。アルバイトを掛け持ちしながら週の半分以上をここで働く、二十三歳のフリーター、中村拓海だ。


 六人がいつも揃うわけではない。朝の仕込み、昼の混雑、夕方の片づけ。店は、それぞれの勤務時間をつなぎ合わせて動いていた。


 六十八歳の宗一郎は、白髪をきれいに撫でつけ、エプロンの紐を結ぶ姿に妙な貫禄があった。


 その水野がカウンターで豆を挽く横を、田村が通りかかった。彼女は昼前から夕方五時までの勤務が多い。


「今日の豆、いい香りですね」


「豆は昨日と同じですよ。田村さんが褒めてくれる日は、私の機嫌がいい日です」


「じゃあ、毎日褒めないと」


 水野は目尻に皺を寄せた。そこへ、開店前の椅子を整えていた中村が顔を出す。


「水野さん、僕の淹れたコーヒーも褒めてくださいよ」


「まずはお湯を注ぐ前に、秤を見ましょうか」


「昨日のこと、まだ覚えてるんですか」


 笑い声の向こうで、厨房の時計が進んでいた。


 午前九時三十二分。


 開店準備中の厨房で、白石美月はプリンを見つめていた。


 正確には、プリンになる予定の液体を見つめていた。


「……違う」


 美月は小さく呟いた。


 ステンレスのボウルの中には、卵と牛乳と砂糖を合わせた液体が入っている。


 見た目に問題はない。


 香りも悪くない。


 ただ、ほんの少しだけ、納得がいかなかった。


「美月、まだやってるの?」


 背後から声がした。


 振り返ると、佐伯梨花が立っていた。


 年齢は二十七歳。


 木漏れ日の接客と販促を担当している。


 すっきりしたショートボブに、控えめなアクセサリー。


 服装はいつも洒落ていて、同じ制服を着ていても、なぜか梨花だけ少し違って見えた。


「昨日もプリン作ってなかった?」


「作ってた」


「一昨日も?」


「作ってた」


「その前も?」


「……作ってたかも」


「もうプリンに住んだら?」


「住めるなら住みたい」


「真顔で言わないで」


 梨花は呆れたように笑った。


 美月は再びボウルに目を落とした。


「あとちょっとなんだよね」


「何が?」


「口に入れたときの感じ」


「おいしいじゃん、今のでも」


「おいしいんだけど」


「じゃあいいじゃん」


「よくないの」


 美月はスプーンを手に取った。


「最初にふわっと甘くて、次に卵の味がきて、最後にちょっとだけ苦いカラメルが残る感じにしたいの」


「十分おいしそうだけど」


「でも今のだと、甘さが先に来すぎる」


「そう?」


「そう」


「私には分かんないなあ」


「分かるようになったら困る」


「なんでよ」


「梨花まで本格的に菓子を作り始めたら、接客と店の発信は誰がやるの」


「……田村さんたちがいても、私の仕事は残るもんね」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 美月は普段、よく笑う。


 少し抜けたところもあるし、思いつきで妙なことを言うこともある。


 だが、菓子作りに関しては別だった。


 計量は正確。


 温度管理も細かい。


 焼き上がりの数分の差を見逃さない。


 そして、一度気になったことは、納得するまで試したがる。


 その姿勢は、店のオーナーもよく知っていた。


「美月」


 厨房の入口から、落ち着いた声がした。


 小野寺真紀だった。


 四十六歳。


 木漏れ日のオーナーである。


 かつては自分でも菓子を作っていた。今も定番の焼き菓子なら手が動くが、凝った新作を任せるのは美月だと決めている。店を守る仕事と、菓子を追いかける仕事。その両方を一人で抱え込まないためだった。


 穏やかな物腰と、よく通る声。


 常連客には気さくに接するが、仕事の基準は厳しい。


「今日の仕込み、予定どおり終わりそう?」


「はい。定番の分は終わってます」


「新作は?」


「あと一回だけ試したくて」


「あと一回?」


「はい」


 真紀は美月を見た。


 美月も真紀を見た。


 数秒の沈黙。


「……昨日もそう言ってなかった?」


「昨日の一回と、今日の一回は違います」


「どう違うの?」


「昨日の一回は昨日の一回で、今日の一回は今日の一回です」


 梨花が吹き出した。


 真紀は額に手を当てた。


「分かった。あと一回ね」


「ありがとうございます!」


「ただし、午前の試作は十一時まで。営業中に続けるなら、ほかの仕込みと厨房の予定を確認してからね」


「はい!」


 美月は勢いよく返事をした。


 真紀は厨房を出ていく。


 梨花はその背中を見送りながら、そっと美月に耳打ちした。


「真紀さん、優しいよね」


「うん」


「でも、あと一回で終わる?」


「終わるよ」


「ほんと?」


「……たぶん」


「ほら」


 美月は笑ってごまかした。


 それから、ふと思い出したように言った。


「そういえばさ」


「ん?」


「この前、雨すごかった日あったじゃん」


「ああ、金曜日?」


「そう」


「帰るとき、大変だった?」


「ううん。ちょっと面白いことがあって」


 梨花は興味を示した。


「何?」


「傘が一本しかなくてね」


「うん」


「知らない人と一緒に使った」


 梨花の手が止まった。


「……え?」


「だから、傘」


「いや、傘は分かるけど」


「うん」


「知らない人と?」


「そう」


「男の人?」


「うん」


 梨花はしばらく美月を見つめた。


 それから、ゆっくり口を開いた。


「美月」


「何?」


「それ、もうちょっと詳しく聞いていい?」


「え? なんで?」


「なんでって」


 梨花は椅子を引き寄せた。


「知らない男の人と相合い傘したんでしょ?」


「相合い傘っていうか……」


「うん」


「傘を一緒に使っただけ」


「それを相合い傘って言うんだよ」


「そうなの?」


「そうなの!」


 美月は少し考えた。


「でも、すごくちゃんとした人だったよ」


「ちゃんとした人?」


「うん。なんか、言葉が丁寧で」


「へえ」


「傘を一緒に使うことも、すごく真面目に説明してくれた」


「……どういうこと?」


「『同じ方向に帰るのであれば、一本の傘を二人で使用できます』って」


 美月が真面目な声色で再現すると、梨花は一拍置いて笑い出した。


「何それ!」


「でしょ?」


「相合い傘を業務連絡みたいに言う人、初めて聞いた!」


「私も」


 二人はしばらく笑った。


「それで?」


「それで?」


「その人、どんな人だったの?」


「どんなって……」


 美月は少し考えた。


 背が高めで、落ち着いた雰囲気。


 仕事帰りらしい服装。


 真面目そうで、少し不器用そうな話し方。


 でも、傘を自分の方へ傾けてくれた。


 歩く速さも合わせてくれた。


「……親切な人だったよ」


 美月はそう答えた。


 梨花は少しだけ目を細めた。


「ふうん」


「何?」


「別に」


「何その顔」


「いや、珍しいなと思って」


「何が?」


「美月が、知らない人の話をそんなふうにするの」


「そんなふう?」


「うん」


 美月は首を傾げた。


 自分では、特別な話をしたつもりはなかった。


 ただ、あの日の出来事を思い出しただけだ。


「……あっ」


 美月が声を上げた。


「何?」


「名前、聞いてないや」


 梨花は目を丸くした。


「今さら?」


「うん」


「普通、聞かない?」


「普通は聞くの?」


「いや、知らない人なら聞かないかもしれないけど……」


 梨花は言いかけて、やめた。


 美月は何事もなかったようにボウルへ向き直る。


「まあ、もう会わないだろうしね」


「そうだね」


 梨花は頷いた。


 ただし、少しだけ笑いを含んだ声だった。


「でも、面白い人だったんだ?」


「うん。ちょっとね」


 美月はそう言って、プリンの試作に戻った。


 梨花はその横顔を眺めた。


 それから、小さく笑ってホールへ戻っていった。


     *


 午後一時二十八分。


 恒一は、社内の小会議室で直樹と向かい合っていた。


 テーブルの上には、修正されたイベント企画書が置かれている。


「で、どうですか?」


 直樹が身を乗り出した。


「客席に降りる演出は取りやめ。代わりに、ステージ前方のスペースを使う」


「はい」


「観客との距離は近くなるが、動線は確保できる」


「はい」


「出演者側の希望も、ある程度は満たせる」


「はい!」


 直樹の顔が明るくなった。


「じゃあ、いけますね!」


「まだだ」


「えっ」


「施設管理者と音響担当の確認が必要だ」


「ああ、そうでした」


「そうでした、じゃない」


 恒一は企画書を閉じた。


「三浦」


「はい」


「お前の発想は悪くない」


「ありがとうございます!」


「ただ、思いついたことをすぐ口にすると、相手は実現できるものだと思う」


「……はい」


「その期待を裏切ると、信用を失う」


 直樹は少しだけ表情を改めた。


「分かってます」


「本当に?」


「分かってます。今回は、ちょっと先走りました」


 恒一は直樹を見た。


 こういうとき、直樹は言い訳をしない。


 勢いで余計なことを言うが、指摘されれば素直に認める。


 それも、恒一がこの後輩を嫌いになれない理由の一つだった。


「次からは、話を進める前に相談してくれ」


「はい」


「頼むぞ」


「はい!」


 直樹は勢いよく立ち上がった。


「じゃあ、早速確認してきます!」


「待て」


「はい?」


「誰に、何を確認するつもりだ?」


「えっと……施設管理者と音響担当です」


「その前に、確認項目を整理する」


「ああ!」


 直樹は再び椅子に座った。


 恒一はペンを手に取る。


「まず、ステージ前方の使用可能範囲」


「はい」


「次に、客席との距離」


「はい」


「それから――」


 恒一が項目を読み上げるたび、直樹は熱心にメモを取った。


 その様子を見ながら、恒一は思った。


 この男は、あと五年もすれば自分より大きな仕事をするかもしれない。


 ただし、その前に。


 自分の胃がもつかどうかは、別の問題だった。


     *


 午後三時四十六分。


 午前中に一度手を止めた美月は、定番商品の仕込みと昼の注文を片づけてから、試作に戻っていた。空いた作業台を使うことは真紀にも伝えてある。


 木漏れ日の厨房では、美月が小さく拳を握っていた。


「……できた」


 目の前には、白い皿に盛られたプリンがあった。


 表面はなめらかで、スプーンを入れると、わずかに揺れる。


 カラメルの色も、狙いどおり。


 美月は一口食べた。


 そして、目を閉じた。


 甘さが広がる。


 次に、卵の香り。


 最後に、カラメルのほろ苦さが舌に残った。


「……うん」


 美月は満足そうに頷いた。


「これだ」


 その声を聞いて、梨花が厨房を覗いた。


「できた?」


「できた!」


「ほんとに?」


「ほんとに!」


「じゃあ、味見させて」


「もちろん」


 美月は小さな皿を差し出した。


 梨花はスプーンで一口すくい、口に運ぶ。


「……あ」


「どう?」


「おいしい」


「でしょ!」


「前のより、ちょっと軽い?」


「そう! そこ!」


 美月は嬉しそうに身を乗り出した。


「最初の甘さを少し抑えて、卵の風味がちゃんと出るようにしたの」


「へえ」


「カラメルも、苦みをほんの少しだけ強くして」


「うん」


「でも苦すぎると、最後に嫌な感じが残るから」


「なるほどね」


 梨花はもう一口食べた。


「これ、出したら人気出そう」


「ほんと?」


「うん。私、好き」


 美月は満面の笑みを浮かべた。


 そのとき、真紀が厨房へ入ってきた。


「何がそんなに嬉しいの?」


「真紀さん!」


 美月は皿を差し出した。


「できました!」


 真紀はプリンを見た。


 それから、美月を見た。


「……午前中で終わると思っていたけど、ずいぶん粘ったのね」


 美月の笑顔が止まった。


「えっと」


「午後の仕込みは?」


「終わってます。作業台も、ほかの注文の邪魔にならないようにしました」


「それならいいけど」


「……予定より試作に時間を使ったのは、すみません」


「次は、試作に何時間かけるかも最初に決めておきましょう」


 真紀は呆れたように息を吐いた。


 梨花は横で笑いをこらえている。


「とりあえず、味を見せて」


「はい!」


 真紀はスプーンを受け取った。


 一口。


 少し考える。


 もう一口。


 美月は息を止めていた。


 真紀はゆっくり頷いた。


「……いいじゃない」


「!」


「前よりずっといい」


「ありがとうございます!」


「ただし」


 美月の背筋が伸びた。


「次からは、時間の見積もりも仕事のうちよ」


「はい!」


「本当に?」


「はい!」


 真紀は笑った。


「じゃあ、来週の限定メニューで試してみましょうか」


「えっ、いいんですか?」


「お客様の反応を見たいからね」


「やった!」


 美月は思わず両手を上げた。


 梨花も笑顔になる。


「じゃあ、POP作らなきゃね」


「お願い!」


「写真も撮ろうか」


「うん!」


 真紀は二人を見ながら、小さく頷いた。


 こういう瞬間があるから、店を続けていけるのだと思う。


 毎日が順調なわけではない。


 仕入れ値は上がる。


 設備も古くなる。


 売上が読めない日もある。


 それでも、誰かが何かを作り、それを誰かが喜んでくれる。


 その積み重ねが、この店の十二年だった。


「じゃあ、美月」


「はい!」


「試作のプリン、残りはどうするの?」


 美月は一瞬、動きを止めた。


 冷蔵庫には、試作ごとに作って冷やしておいたプリンがいくつも並んでいた。


 梨花がそちらを見た。


「……結構あるね」


「うん」


「何個?」


「えっと……」


 美月は数え始めた。


 一、二、三、四。


 五、六、七。


「……十二個」


「十二個!?」


 梨花が声を上げた。


 真紀は額に手を当てた。


「美月」


「はい」


「試作は、必要な量だけ作りましょう」


「はい……」


「食材も、ただじゃないんだから」


「はい……」


 美月はしゅんとした。


 しかし、その数秒後。


「でも、食べ物を無駄にはできないですよね」


 顔を上げた。


 梨花が嫌な予感を覚えた。


「……美月?」


「私、責任持って食べます」


「いや、十二個は無理でしょ」


「大丈夫」


「何が大丈夫なの」


「昨日のプリンも、ちゃんと食べたし」


「昨日も!?」


 真紀は思わず笑ってしまった。


「もう。保存状態を確認して、食べられる分はスタッフで分けましょう。試作は次から少量ずつね」


「はーい」


 美月は少し残念そうに返事をした。


 梨花はその横顔を見て、呆れたように笑った。


「ほんと、プリン好きだよね」


「うん」


「どれくらい?」


 美月は少し考えた。


「……毎日食べても飽きないくらい?」


「それ、もう証明されてると思う」


 二人は笑った。


 窓の外では、午後の日差しが通りを照らしていた。


 雨はもう降っていない。


     *


 午後七時十一分。


 恒一は吉祥寺駅南口を出た。


 今日は雨が降っていなかった。


 予定どおりの時刻。


 予定どおりの帰宅経路。


 何も問題はない。


 そう思いながら歩いていると、鞄の中でスマートフォンが震えた。


 直樹からのメッセージだった。


『桐谷さん! 施設側、前向きです!』


 続けて、もう一通。


『音響さんもいけそうです!』


 さらに、もう一通。


『やっぱり面白くなりそうですね!』


 恒一は立ち止まり、返信を打った。


『正式な確認が取れるまでは、確定ではない』


 すぐに既読がついた。


『もちろんです!』


 その三秒後。


『でも、だいたいできます!』


 恒一はスマートフォンを見つめた。


「……だいたい、か」


 ため息をつきながらも、少しだけ笑った。


 そして、再び歩き出す。


 しばらく進むと、見覚えのある通りに出た。


 先週の金曜日、雨の中を歩いた道だった。


 恒一は何気なく周囲を見渡した。


 あの日は雨が激しく、街の様子をゆっくり見る余裕もなかった。


 今日は、店の看板も、通りを行き交う人々の顔も、よく見える。


 ふと、木枠の窓が目に入った。


 小さなカフェ。


 入口には鉢植え。


 あの日、女性が入っていった店だった。


 恒一は足を止めた。


 店の中には、数人の客がいる。


 窓際の席では、若い女性がノートパソコンを開いていた。


 カウンターの奥では、白髪の店員がコーヒー器具を片づけていた。


 ただ、それだけだった。


 恒一は店の看板を見た。


「……木漏れ日」


 小さく呟く。


 いい名前だと思った。


 それ以上の感想はなかった。


 恒一は再び歩き出した。


 そのころ、店の奥の厨房では、美月が翌日の仕込みをしていた。


 梨花はレジで常連客と話している。


 真紀は発注書を確認していた。


 誰も、店の前を通り過ぎた男に気づかなかった。


 もちろん、恒一も知らなかった。


 あの雨の日に傘を分け合った女性が、ほんの数メートル先にいたことを。


 同じ街で暮らしていても、人は簡単には出会わない。


 同じ道を歩いていても、同じ店の前を通っていても。


 ほんの少し、時間がずれるだけで。


 互いの存在に気づかないまま、すれ違ってしまう。


 それは、特別なことではなかった。


 むしろ、よくあることだった。


 ただ。


 その小さなすれ違いが、いつか何かにつながることもある。


 この街では、まだ誰も知らないところで、いくつもの物語が静かに動き始めていた。


第2話 了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。