第1話 最後の一本
桐谷恒一は、雨そのものが嫌いなわけではなかった。
嫌いなのは、雨によって予定が狂うことだった。
午後六時四十二分。
降水確率は二十パーセント。
にもかかわらず、吉祥寺駅前には、空の蛇口を誰かが壊したような雨が降っていた。
「……二十パーセントとは」
恒一は駅の南口で立ち止まり、空を見上げた。
もちろん、降水確率二十パーセントとは、雨が二割の強さで降るという意味ではない。そんなことは分かっている。
分かっているが、納得できるかどうかは別問題だった。
改札を出るまでは、何も問題がなかった。
午後六時三十分、吉祥寺駅到着。
六時三十五分、改札通過。
六時四十七分、自宅到着予定。
帰宅後は洗濯物を取り込み、シャワーを浴び、七時十五分から夕食。八時には明日の仕事の資料を確認し、九時から録画しておいた映画を見る。
完璧とまでは言わないが、無駄のない夜だった。
その予定が、駅の出口からわずか十数歩のところで崩壊した。
傘を持っていなかったのである。
朝の天気予報では、夕方以降も大きな崩れはないと言っていた。実際、家を出たときの空は明るかった。
それでも折り畳み傘を鞄に入れておくべきだった。
そう考えたところで、傘が出現するわけではない。
自宅まで徒歩十二分。
走れば八分。
タクシーなら、待ち時間を考慮するとかえって遅くなる可能性がある。
ビニール傘は六百五十円。
合理的に考えれば、傘を買うべきだった。
恒一は駅前のコンビニへ向かった。
店内は、同じ判断に至った人々で少し混雑していた。
入口付近の床は濡れ、傘立てには他人のものと思われる傘が何本も刺さっている。レジの前では、濡れたスーツ姿の男性がホットコーヒーを注文していた。
恒一はまず飲料棚へ向かった。
ミネラルウォーター、ヨーグルト、サラダチキン。
夕食に必要なものをかごに入れ、ついでに単三電池を手に取る。
昨日、テレビのリモコンが反応しなくなったのを思い出したからだ。
買い物を終え、入口脇の傘売り場へ戻ったときだった。
透明なビニール傘が、一本だけ残っていた。
「よかった」
思わず声が出た。
恒一が傘の柄に手を伸ばす。
その瞬間。
「あっ」
横から伸びてきた別の手が、同じ柄に触れた。
二人の手が、ぴたりと止まった。
恒一は顔を上げた。
白いブラウスに、薄いベージュのカーディガン。
肩までの髪をゆるくまとめた女性が、少し驚いた顔でこちらを見ていた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
片手には買い物かごを持っている。
中にはプリンが二つ、カップスープ、チョコレート、そして単三電池が入っていた。
なぜか電池だけが妙に目についた。
「あ、すみません」
女性が先に手を離した。
「いえ。こちらこそ」
恒一も手を離した。
二人の間で、最後の一本の傘が宙ぶらりんになった。
「どうぞ」
恒一が言う。
「いえいえ、先に取ろうとしたのはそちらですし」
「ほぼ同時だったと思います」
「でも、私、横からでしたから」
「横から取ってはいけないという決まりはありません」
「……そうなんですか?」
「少なくとも、私は知りません」
女性は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「じゃあ、なおさらどうぞ」
「いえ、私は大丈夫です」
「でも、傘を買いに来たんですよね?」
「そうですが」
「私もです」
「でしょうね」
二人は傘を見た。
傘は何も言わなかった。
当然である。
恒一は腕時計に目を落とした。
六時四十六分。
ここで時間を使いすぎるのは、あまり合理的ではない。
「では、あなたがお使いください」
「えっ、いいんですか?」
「はい」
「でも、そちらは?」
「少し待てば雨脚が弱まるかもしれません」
言った直後、店の外で雨が一段と激しくなった。
ばらばらばら、と屋根を叩く音が響く。
女性が窓の向こうを見た。
それから恒一を見た。
「……弱まりますかね?」
「現時点では、あまり期待できません」
「ですよね」
女性は困ったように笑った。
恒一も少し困った。
善意で傘を譲ったものの、相手が気兼ねなく受け取れる状況を作れていない。
こういうとき、人はどうするのが正解なのだろう。
仕事なら、関係者の希望を整理して、条件を比較し、落としどころを探せばいい。
しかし、コンビニの入口で傘を一本譲り合っている男女に、そこまでの手順が必要とも思えなかった。
「あの」
女性が口を開いた。
「じゃんけん、します?」
「じゃんけんですか」
「はい。勝った方が買う」
「負けた方は?」
「……濡れますね」
「そうですね」
「それもなんか、嫌ですね」
「ええ」
二人は再び黙った。
恒一は店の外へ目を向けた。
南口の駅前は、雨宿りをする人でいっぱいだった。
歩道を急ぐ人々の傘がぶつかりそうになり、信号待ちの列が軒下まで伸びている。
ふと、一つの考えが浮かんだ。
「ちなみに、お帰りはどちらの方向ですか?」
「えっと、井の頭公園の方です」
「そうですか」
「そちらは?」
「私も南口側です。公園の手前を少し入ったところですが」
「あ、じゃあ途中まで一緒ですね」
「そうですね」
恒一は傘を見た。
六百五十円。
成人二人が使用するには少々小さいが、短距離であれば不可能ではない。
ただし、問題が一つあった。
提案する相手が、初対面の女性だということだ。
恒一は二秒ほど考えた。
「もし抵抗がなければ、途中まで一緒に使うという方法もあります」
「え?」
「同じ方向に帰るのであれば、一本の傘を二人で使用できます」
女性は傘を見た。
それから、恒一を見た。
「……相合い傘ってことですか?」
「まあ、一般的にはそう呼ぶのでしょうが」
「ふふっ」
「何か?」
「いえ。なんか、説明がすごく丁寧だなと思って」
「そうですか」
「はい」
女性はもう一度、外を見た。
雨は相変わらず激しかった。
「じゃあ……途中まで、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
「いえ」
恒一は傘を手に取った。
そこで女性が、少し慌てたように言った。
「あ、でも、お金は半分出します」
「いえ。私が買います」
「それじゃ申し訳ないです」
「傘は私が持ち帰りますから」
「あ、そっか」
「あなたが代金を負担する必要はありません」
「……なんだか、ちゃんとしてますね」
「そうでしょうか」
「はい。すごく」
その言い方が褒め言葉なのか、少しだけ判断に迷った。
ともあれ、話はまとまった。
恒一は傘を持ってレジへ向かった。
女性も後ろに並んだ。
レジ袋を断り、商品を鞄にしまう。
女性はプリンを潰さないよう、買い物袋の上の方へ丁寧に収めていた。
その様子を見て、恒一はふと思った。
プリンが二つ。
一人で食べるのだろうか。
いや、誰かと食べるのかもしれない。
どちらにしても、他人の買い物について考える必要はない。
恒一は視線を戻した。
会計を済ませた女性が、隣へやってきた。
「お待たせしました」
「では、行きましょうか」
「はい」
二人はコンビニを出た。
傘を開くと、雨粒が一斉に透明なビニールを叩いた。
恒一が柄を持ち、女性がその横に入る。
思ったより近い。
いや、一本の傘に二人で入るのだから、当然ではある。
恒一は少しだけ腕を伸ばした。
女性の肩が濡れないよう、傘をそちらへ傾ける。
「……あの」
「はい」
「そちら、濡れてません?」
「少しだけです」
「少しだけじゃない気がします」
「問題ありません」
「でも、肩が」
「大丈夫です」
女性は足を止めた。
「ちょっと待ってください」
「はい?」
彼女は傘の柄に触れ、ぐっと真ん中へ戻した。
「これで半分ずつです」
「しかし、それではあなたの肩が」
「お互い、ちょっとずつ濡れましょう」
そう言って、女性は笑った。
恒一は返す言葉を探した。
濡れないために買った傘なのだから、二人とも少しずつ濡れるというのは、目的に対して最適とは言い難い。
ただ、相手がそうしたいと言っている以上、無理に傘を傾け続けるのも違う気がした。
「……分かりました」
「はい」
二人は再び歩き始めた。
吉祥寺駅南口の喧騒が、雨音の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。
濡れた舗道に看板の明かりが映り、車のタイヤが水を跳ねる。
軒先では、若い男性がスマートフォンを掲げて空模様を撮影していた。
自転車を押した女性が、雨を避けながら通り過ぎていく。
傘の下では、しばらく会話がなかった。
気まずい、というほどではない。
ただ、初対面の人間同士が、無理に話題を探す必要もなかった。
恒一は歩く速さを少し落とした。
隣の女性の歩幅が、自分よりわずかに小さかったからだ。
女性はそれに気づいたのか、ちらりとこちらを見た。
「ありがとうございます」
「何がですか?」
「歩くの、合わせてくれて」
「いえ」
「普段、歩くの速い方ですか?」
「そうかもしれません」
「やっぱり」
「分かりますか?」
「なんとなく」
女性は笑った。
恒一も、少しだけ口元を緩めた。
そのとき、信号が赤に変わった。
二人は横断歩道の手前で立ち止まった。
女性が買い物袋を持ち直す。
袋の中で、プリンの容器が小さく揺れた。
「……プリン、大丈夫ですか?」
恒一は思わず尋ねていた。
「え?」
「さっきから、袋が少し傾いているので」
「あっ」
女性は慌てて中を確認した。
「よかった。無事でした」
「それなら何よりです」
「このプリン、今日どうしても食べたかったんです」
「そうなんですか」
「はい。朝から決めてたので」
「朝から?」
「朝からです」
ずいぶん早い段階で決めるものだ。
恒一がそう思っていると、女性が付け加えた。
「一個は今日食べて、もう一個は明日の朝です」
「なるほど」
「……の予定です」
「予定?」
「はい」
女性は真剣な顔で袋を見つめた。
「明日の朝まで残ってるかどうかは、まだ分かりません」
恒一は少しだけ目を瞬いた。
それから、思わず笑ってしまった。
「それは、予定とは言わないのでは」
「ですよね」
女性も笑った。
信号が青になった。
二人は歩き出した。
ほんの数分前まで、傘を譲り合っていた見知らぬ者同士だった。
今も、名前すら知らない。
それなのに、プリンが明日の朝まで残るかどうかという、どうでもいい問題について話している。
恒一は少し不思議な気分になった。
だが、その理由を考えるより先に、女性が足を緩めた。
「あ、私、ここで大丈夫です」
道沿いに、小さなカフェがあった。
木枠の窓から柔らかな明かりが漏れ、入口の脇には鉢植えが並んでいる。
看板には、丸みのある文字で「木漏れ日」と書かれていた。
女性はその入口を指した。
「ちょっと寄るところがあるので」
「そうですか」
「はい。ここまでありがとうございました」
「いえ。こちらこそ」
恒一は店の軒先まで傘を差し出した。
女性が傘の下から抜ける。
入口の屋根に守られた場所へ移動すると、彼女は振り返った。
「助かりました」
「それならよかったです」
「そちらも、帰り道気をつけてくださいね」
「はい」
これで別れだろう。
恒一が軽く会釈して歩き出そうとした、そのときだった。
「あっ、ちょっと待ってください」
女性が買い物袋を探り始めた。
「これ」
差し出されたのは、小さな板チョコレートだった。
値札のついた棚に並んでいた、百七十八円の商品。
「よかったら、どうぞ」
「いえ、そんな」
「傘のお礼です」
「お礼をいただくほどのことではありません」
「でも、私、助かったので」
「それは私も同じです」
「じゃあ……私の気持ちです」
女性は少し困ったように笑った。
恒一はチョコレートを見た。
ここで断り続ければ、また傘売り場でのやり取りを繰り返すことになる。
それは、あまり合理的ではない。
「……では、ありがたく」
「はい」
恒一が受け取ると、女性はほっとしたように笑った。
「それじゃ、お気をつけて」
「あなたも」
女性は店の扉を開けた。
小さなベルの音が、雨音に混じって響く。
扉が閉まると、彼女の姿は見えなくなった。
恒一はしばらく、その場に立っていた。
手には百七十八円のチョコレート。
もう片方の手には、六百五十円の傘。
そして、予定より少し遅れた帰宅時刻。
「……さて」
恒一は腕時計を見た。
午後七時二分。
夕食の予定を組み直す必要がある。
それでも、不思議と気分は悪くなかった。
彼は傘を持ち直し、家へ向かって歩き始めた。
*
午後七時十四分。
桐谷恒一は自宅の玄関を開けた。
予定より二十七分遅れ。
普段なら、少し気になる数字だった。
だが今日は、鞄を置いて手を洗い、濡れた肩をタオルで拭くうちに、そのことを忘れていた。
夕食は簡単に済ませた。
洗濯物は、朝のうちに室内へ取り込んであった。
シャワーを浴び、明日の資料に目を通す。
そして午後九時過ぎ。
恒一はパソコンを開いた。
デスクトップには、仕事用のフォルダとは別に、個人的なメモをまとめたフォルダがある。
その中の一つを開いた。
タイトルは「偶然ログ」。
日常で起きた、説明のつかない偶然や、妙に印象に残った出来事を記録するためのものだ。
大げさな目的があるわけではない。
仕事柄、思いがけない出来事が後から何かにつながることもある。だから、気になったことは記録しておく。
ただ、それだけだった。
恒一は新しいページを作成した。
少し考えて、キーボードを打つ。
――偶然ログ001。
日付:六月十二日。
場所:吉祥寺駅南口付近。
概要:突然の降雨により、コンビニで最後の一本の傘を購入。購入時、同じ傘を必要としていた女性と遭遇。
対応:帰宅方向が同じだったため、傘を共同利用。
結果:双方とも大きく濡れることなく移動できた。
恒一はそこで手を止めた。
少し考え、続きを打った。
備考:相手からチョコレートを受け取った。
そこまで書いて、画面を眺める。
記録としては十分だった。
ただ、何かが足りない気がした。
恒一は椅子にもたれ、天井を見上げた。
あの女性は、ずいぶんよく笑う人だった。
傘を譲り合っているときも、歩いているときも、プリンの話をしているときも。
思い返せば、特別な話は何もしていない。
仕事のことも、住んでいる場所の詳しいことも、趣味も知らない。
当然、名前も知らなかった。
「……そういえば」
名前を聞かなかったな。
恒一は、そこで初めて気づいた。
もっとも、初対面の女性と偶然傘を共有しただけなのだから、名前を聞かない方が普通かもしれない。
わざわざ聞く必要もなかった。
恒一はそう結論づけた。
そして、パソコンの画面に視線を戻す。
備考欄の最後に、一行だけ書き加えた。
――相手の氏名、不明。
保存する。
パソコンを閉じようとしたところで、机の端に置いていたチョコレートが目に入った。
恒一は包装を開け、一かけら口に運んだ。
甘かった。
ごく普通の、百七十八円のチョコレートだった。
なのに、妙においしく感じた。
恒一はもう一かけら食べた。
そして、ふと思った。
あの人のプリンは、明日の朝まで残るのだろうか。
少し考えてから、首を振る。
そんなことを考えても、答えは出ない。
それに、今後会うこともないだろう。
吉祥寺には、たくさんの人がいる。
同じ街に住んでいても、一度すれ違った人と再び会うとは限らない。
まして、名前も知らない相手ならなおさらだ。
恒一はチョコレートの残りを引き出しにしまい、映画を再生した。
画面の中では、主人公が誰かを追いかけて走っていた。
恒一は椅子に深く座り直した。
その夜、彼はまだ知らなかった。
今日の出来事が、単なる雨宿りの思い出では終わらないことを。
そして、百七十八円のチョコレートが、彼の予定表には載っていない日々の始まりだったことを。
もっとも。
そのことを知るのは、もう少し先の話である。
第1話 了




