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『滅びろ』と囁いた天使は、俺にだけ微笑む 〜世界を滅ぼしかけた天使と、居場所を失った少年の恋と旅〜  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話 優しさは、森の向こうにもある


朝露に濡れた草を踏み分けながら、ハズキは沢沿いの細い道を歩いていた。


昨夜、あれほど深く感じられた森の闇は、朝日が昇るにつれて柔らかな緑へと姿を変えている。木々の間から差し込む光はまだ弱く、足元には長い影が伸びていたが、少なくとも何も見えないまま歩き続ける必要はなくなった。近くを流れる沢の音も、夜には何かが潜んでいるように聞こえたのに、今は不思議と心を落ち着かせてくれる。


隣を歩くリュミエラは、時折足を止めて周囲の景色を眺めていた。


銀白色の長い髪が風に揺れ、白い衣服の裾が朝露を含んだ草に触れる。背中の翼は昨夜と同じように隠されているが、その美しさは少しも損なわれていなかった。むしろ、紫の水晶の中で眠っていた頃よりも、表情が豊かになったことで、彼女が本当に生きているのだと感じられる。


「……綺麗な場所ね」


リュミエラは小さな花の前で足を止めた。


木の根元に咲いているのは、薄紫色の花だった。特別珍しい種類ではなく、村の裏山でもよく見かけるものだが、彼女はしゃがみ込むと、その花びらを傷つけないように顔を近づけた。


「こんなに小さいのに、ちゃんと咲いているのね。周りには大きな木ばかりあるのに、少しだけ差し込む光を見つけて……」


「その花、村の近くにもたくさん咲いてました。父さんが、日陰でも育つ強い花なんだって教えてくれたんです」


「そうなのね。……強い花、か」


リュミエラは花を見つめたまま、少しだけ目を細めた。


その横顔に浮かんだ表情が、懐かしさなのか、それとも別の感情なのか、ハズキにはわからなかった。ただ、彼女が本当に嬉しそうだったので、もう少し眺めていてもいいと思った。


「急がなくても大丈夫ですよ。まだ朝ですし、少しくらいなら……」


「ありがとう。でも、あなたが決めた道を進まなくてはね。町まで、まだずいぶん遠いのでしょう?」


「はい。普通の道を歩いても十日くらいですから、遠回りしている分、もう少しかかるかもしれません」


ハズキは首から下げた袋を服の上から確かめた。


そこには父から受け継いだ四つの指輪が入っている。右手には赤い石の指輪を嵌めたままで、昨夜のように光る様子はない。あのとき何が起きたのか、まだ自分にはわからなかった。


ただ、指輪が光った直後にリュミエラが現れたことは、偶然とは思えなかった。


(父さんは、何か知っていたのかな……)


幼い頃、父は何度も洞窟へ連れていってくれた。


そして、あの場所を見守るようにと言い残した。指輪についても、絶対に他人へ渡してはいけないと念を押していた。


その二つが繋がっているのかもしれない。


けれど、今それを考えたところで答えが出るわけではなかった。


「ハズキ?」


「あ、すみません。少し考えごとをしてました」


「指輪のこと?」


思いがけず言い当てられ、ハズキは驚いた。


リュミエラは彼の右手へ目を向け、それから申し訳なさそうに微笑む。


「さっきから、何度も確かめていたでしょう。大切なものなのね」


「はい。父さんの形見でもあるので……。それに、昨日はこれが光ったんです。リュミエラさんが来てくれた直前に」


「……そう」


彼女は赤い石を見つめた。


ほんのわずかに、その瞳が揺れる。


「何か、わかりますか?」


「いいえ。まだ、はっきりしたことは言えないわ。ただ……不思議な響きがしたの。あなたが助けを求めたとき、長い間閉ざされていた場所に、何かが届いたような……」


そこで言葉を止め、彼女は首を横に振った。


「ごめんなさい。曖昧なことを言って、余計に気にさせてしまったわね」


「いえ。俺もよくわからないので、一緒に考えてもらえるだけで助かります」


ハズキがそう答えると、リュミエラは少し嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。急いで答えを出さなくてもいいのかもしれないわね」


二人は再び歩き始めた。


その後しばらくは、森に生えている植物や、沢の中を泳ぐ小魚の話をしながら進んだ。ハズキが知っていることを説明すると、リュミエラは興味深そうに耳を傾け、ときには彼の知らない古い呼び名を教えてくれた。


ただし、その名前は現在のものとはずいぶん違っていた。


「昔は、この木を『夜明けを待つ枝』と呼んでいたの」


「……すごい名前ですね」


「そうかしら。春になると、朝日が差し込む時間に花が開くから、そう呼ばれていたのよ」


「へえ……。今は普通に白枝の木って呼んでます」


「白枝の木……」


リュミエラはその名前を何度か口の中で繰り返し、やがて小さく笑った。


「ずいぶん簡単になってしまったのね」


「覚えやすくていいと思いますけどね」


「ふふっ。そうかもしれないわ」


穏やかな笑い声が森に溶けていく。


その声を聞いたとき、ハズキはふと、昨夜のことを思い出した。


自分を追い詰めた義母たちへ向けられた、あの冷たい眼差し。


それと今、花の名前を聞いて笑っている彼女が、同じ人物であることが不思議だった。


(……でも、どっちもリュミエラさんなんだよな)


怖いと思わなかったわけではない。


あの力を目の前で見たとき、正直、身体が動かなくなった。


けれど、彼女は自分の言葉で立ち止まってくれた。


そして、一緒に旅をすると約束してくれた。


それが今のハズキにとって、何よりも大切なことだった。


◇ ◇ ◇


太陽が少し高くなった頃、二人は沢の流れが大きく曲がる場所へたどり着いた。


そこには古い木橋が架かっていた。


橋といっても、立派なものではない。丸太を並べ、その上に板を渡しただけの簡単な造りだった。長い年月の間に何度も雨風に晒されたのだろう、板の一部は黒ずみ、中央付近には大きな穴が開いている。


「……これは、渡れないかもしれませんね」


ハズキは橋の手前で足を止めた。


森の奥へ続く古い道だとは聞いていたが、橋がここまで傷んでいるとは思わなかった。向こう岸までの距離はそれほど長くないものの、下を流れる水は見た目以上に速い。


「私が、あなたを抱えて向こうへ渡ることもできるけれど……」


リュミエラが静かに提案した。


ハズキは橋と彼女の顔を交互に見つめた。


「……空を飛ぶんですか?」


「ええ。短い距離なら、今の力でも問題ないと思うわ。ただ、あなたが怖いと感じるなら、別の方法を考えましょう」


その言葉を聞いて、ハズキは少し考え込んだ。


確かに、リュミエラの力を借りれば簡単に向こう岸へ渡れるだろう。けれど、昨夜彼女は、封印から出たばかりで自分の力がどこまで戻っているのかわからないと話していた。


それなら、無理に魔法を使ってもらう必要はない。


「少しだけ、上流を探してもいいですか。こういう沢は、場所によって浅くなっていることがあるので」


「もちろんよ。あなたに考えがあるのね」


「父さんと森へ来たときに教わったんです。流れが速くても、石が多い場所なら渡れることがあるって。ただ、危ない場所もあるから、ちゃんと確かめないと駄目ですけど」


リュミエラは感心したように頷いた。


「あなたのお父様は、本当にたくさんのことを教えてくれたのね」


「……はい」


ハズキは少しだけ微笑んだ。


父との思い出を話すたび、胸の奥に温かいものと寂しさが同時に広がる。もう会えないという事実は変わらないけれど、教えてもらったことはこうして今も自分を助けてくれる。


そのことが、少し嬉しかった。


二人は橋から離れ、沢を遡るように歩いた。


しばらく進むと、大きな石がいくつも並んでいる場所が見つかった。水の流れは速いが、石と石の間隔はそれほど広くない。慎重に足場を選べば、向こう岸へ渡れそうだった。


「ここなら……」


ハズキは近くに落ちていた長い枝を拾った。


先端を水へ入れて深さを確かめ、いくつかの石を軽く叩く。苔がついて滑りそうなものは避け、足を載せても動かない大きな石だけを選んだ。


リュミエラはその様子を黙って見守っていた。


「……よし。たぶん大丈夫です。でも、俺が先に渡って確かめますね」


「一人で?」


「はい。もし途中で危ないと思ったら戻ります。リュミエラさんは、少し待っていてください」


そう告げて最初の石へ足を載せた。


濡れた石は想像以上に冷たく、靴底から伝わる感触に思わず肩へ力が入る。枝を杖代わりにしながら、次の石へ慎重に移った。


そのときだった。


足を載せた石が、ほんのわずかに傾いた。


「うわっ……!」


身体が横へ流れかける。


次の瞬間、腰のあたりを柔らかな光が包んだ。


引っ張られるような感覚とともに身体が安定し、ハズキは慌てて近くの大きな石へ足を移した。


「……だ、大丈夫です!」


声を上げると、岸に立つリュミエラがほっとした顔をしていた。


「ごめんなさい。勝手に支えてしまったわ。でも、転びそうだったから……」


「いえ、助かりました。ありがとうございます」


ハズキは深く息を吐いた。


危険を確かめていたつもりだったのに、まだ見落としていたことがあった。悔しさはあったが、今は無事で済んだことを喜ぶべきだろう。


「……やっぱり、あの石は駄目ですね。もう少し上流に、大きな石があるので、そっちから渡りましょう」


「ええ。慌てずにね」


結局、少し遠回りをすることになった。


けれど、今度は安定した石を選べたおかげで、ハズキは無事に向こう岸へ到着した。リュミエラも彼が渡った場所を確かめてから、水面へ足を踏み出す。


彼女の靴が石に触れる前に、ほんのわずかな光が足元を支えた。


そのまま軽やかに向こう岸へ渡ってくる姿を見て、ハズキは思わず目を丸くした。


「……やっぱり、すごいですね」


「あなたが教えてくれた道よ。私も、その道を使わせてもらっただけ」


リュミエラは当然のように答えた。


けれど、ハズキは少し不思議に思った。


彼女なら橋を使わなくても、川を飛び越えることができるはずだ。


それなのに、わざわざ自分と同じ道を歩いている。


「……リュミエラさん」


「なあに?」


「俺に合わせて、無理してませんか?」


彼女は瞬きをした。


「無理?」


「はい。俺が歩くの遅いから、時間がかかってるし……。リュミエラさんなら、もっと簡単に町まで行けるんじゃないかなって」


そう言うと、彼女は少し驚いたような顔をした。


そして、ゆっくり首を横に振った。


「私はね、ハズキ。急いでどこかへ行きたいわけではないの」


彼女の声は穏やかだった。


「長い間、同じ場所にいたわ。空を見上げることも、風に触れることも、誰かと一緒に歩くこともできなかった。だから今は……こうして一歩ずつ進む時間が、とても大切に思えるの」


ハズキは黙って耳を傾けた。


「それに、あなたと一緒に歩いていると、私の知らないことをたくさん教えてもらえるでしょう? 花の名前も、川を渡る方法も、どんな道が安全なのかも。……私は、そういう時間が好きよ」


その言葉に、ハズキの胸が温かくなった。


「……そっか」


「ええ。だから、気にしなくていいわ」


リュミエラは微笑み、それから少しだけ首を傾げた。


「ただし、あなたが疲れているのに我慢して歩くのは駄目よ。私と一緒だからといって、無理をしてほしくはないの」


「……はい。ちゃんと言います」


「約束ね」


「はい、約束です」


二人は再び歩き始めた。


その歩幅は、自然と同じくらいになっていた。


◇ ◇ ◇


昼が近づくにつれ、森の様子が少しずつ変わり始めた。


沢沿いの地面はなだらかになり、木々の間隔も広くなっている。遠くには人が通ったらしい細い道が見え、ところどころに切り株が残されていた。


「……この辺りは、人が来るみたいですね」


ハズキは地面に残る足跡を見つめた。


雨に消えかけているものもあるが、中には比較的新しいものもある。村の人間がここまで来るとは考えにくいものの、絶対に違うと言い切れるわけではなかった。


「少し注意して進みましょう。追っ手かもしれないので……」


「ええ。私も周りを確かめておくわ」


リュミエラが頷いた、そのときだった。


「……あいたたた……。困ったねえ、こんなところで……」


前方から、かすかな声が聞こえた。


ハズキは反射的に足を止めた。


人の声だ。


それも、女性らしい。


「……誰か、いますね」


「ええ。少し先に、一人いるわ」


リュミエラは静かに答えた。


その表情が、ほんのわずかに硬くなったことにハズキは気づいた。


「……どうしますか?」


「あなたは、どうしたい?」


問い返され、ハズキは声のした方向を見つめた。


昨日までの自分なら、知らない人間へ近づくことを避けただろう。


村の人々は、助けてほしいと願っても見て見ぬふりをすることが多かった。誰かに声をかければ、面倒なことに巻き込まれるかもしれない。


それでも、今聞こえた声は本当に困っているようだった。


「……様子だけ、見てみたいです。怪我をしているのかもしれないので」


リュミエラは彼を見つめた。


ほんの短い沈黙のあと、静かに頷いた。


「わかったわ。私も一緒に行く」


二人は慎重に声のする方角へ進んだ。


やがて木々の向こうに、小さな空き地が見えてきた。


そこには、一人の女性が座り込んでいた。


年齢は五十歳前後だろうか。茶色の髪に白いものが混じり、日に焼けた顔には細かな皺が刻まれている。地味な色の服を着て、足元には大きな籠が転がっていた。


籠からは何種類もの草がこぼれている。


どうやら薬草を採集していたらしい。


「……大丈夫ですか?」


ハズキが声をかけると、女性はびくりと肩を震わせた。


すぐに顔を上げ、二人を警戒するように見つめる。


「誰だい、あんたたち。こんな森の奥で、何をしているんだい?」


その声音には、はっきりとした警戒が含まれていた。


ハズキは慌てて両手を身体の前へ出した。


「あ、すみません。驚かせるつもりはなかったんです。向こうから声が聞こえたので、何かあったのかなと思って……」


「……旅人かい?」


「はい。近くの町まで行こうと思ってます」


女性は二人を交互に見た。


特にリュミエラへ視線が向いたとき、少しだけ目を見開いた。


彼女ほど美しい女性を、森で見かけることなど滅多にないのだろう。


「……妙な組み合わせだねえ。まあ、悪いことをしに来たようには見えないけどさ」


女性はそう言って、大きく息を吐いた。


「ちょっと足をひねっちまってね。籠を拾おうとしたんだけど、踏ん張れなくて困ってたところさ」


ハズキは女性の足元へ目を向けた。


右足首が少し腫れている。


近くには湿った土があり、滑ったらしい跡が残っていた。


「……痛そうですね」


「まあね。歳を取ると、ちょっとしたことで身体が言うことを聞かなくなるのさ。昔なら、これくらい何でもなかったんだけどねえ」


女性は苦笑した。


ハズキは少し考え、リュミエラへ目を向けた。


「……手伝ってもいいですか?」


彼女は女性の足元を見つめていた。


そして、ゆっくり頷いた。


「ええ。ただ、まずはこの人に聞いてみましょう。勝手に触れられたら、困るかもしれないから」


「あ……そうですね」


ハズキは女性へ向き直った。


「あの、よかったら手伝わせてください。足を見たり、籠を直したりするくらいならできると思うので」


女性は目を丸くした。


「……あんたたち、急いでるんじゃないのかい?」


「それは……まあ、急いでますけど」


ハズキは少し困ったように笑った。


「でも、困っている人をそのままにしていくのも、気になるので」


女性はしばらく彼を見つめた。


やがて、ふっと表情を緩めた。


「……変わった子だねえ。まあ、助かるよ。あたし一人じゃ、立ち上がるだけでも時間がかかりそうだからね」


ハズキは彼女のそばへしゃがみ込んだ。


足首を触ってもよいか尋ねると、女性は頷いた。腫れている場所を確認したが、無理に動かすことはせず、痛みの程度を聞いてから、まずは休ませたほうがよいと考えた。


村で働いていた頃、薪を運ぶ途中で足をひねったことが何度かあった。そのとき父から、痛めた場所を無理に動かさず、まず腫れや痛みを確かめるよう教わっている。


「……歩くのは、まだ難しそうですね」


「そうだねえ。無理に立とうとすると、ずきっとするんだよ」


女性は顔をしかめた。


リュミエラはその様子を見て、そっと口を開いた。


「……少しだけ、楽にする方法があるかもしれないわ」


ハズキは彼女を見た。


治癒の力を使うつもりなのだろうか。


しかし、リュミエラはすぐに手をかざそうとはしなかった。


「でも、まずは布で支えて、無理に動かさないほうがいいと思うの。あなたは、包帯の代わりになるものを持っている?」


女性は籠の脇に置いていた袋へ目を向けた。


「ああ、古い布ならあるよ。薬草を包むために持ってきたやつだけど、それでもいいかい?」


「はい。清潔なところを使えば、大丈夫だと思います」


ハズキは布を受け取り、女性へ確認しながら足首を支えるように巻いた。


リュミエラはその手元をじっと見つめている。


彼女なら、もっと簡単に痛みを取り除けるのかもしれない。けれど、見知らぬ人間の前で力を見せることがどういう意味を持つのか、まだ二人にはわからなかった。


だからこそ、今は無理をしない。


それが二人の間で自然に選ばれた方法だった。


「……よし。これで少しは支えられると思います。立つのは、もう少し休んでからにしましょう」


「ありがとうよ。ずいぶん手慣れてるねえ」


「いえ、そんな……。俺も何度か怪我をしたことがあるので」


ハズキは照れくさそうに笑った。


女性はそれから、転がっていた籠へ目を向けた。


「悪いけど、あれも拾ってもらえるかい? せっかく集めた薬草なんだ。全部駄目にしちまったら、今日の仕事が台無しになっちゃうからね」


「もちろんです」


ハズキはすぐに立ち上がり、籠の中身を集め始めた。


薬草の種類は詳しくわからなかったが、傷んだものと無事なものを分けることくらいはできる。葉の形や色を見ながら、できるだけ土を落として戻していった。


リュミエラも隣へしゃがみ込む。


「これは、同じ種類かしら?」


「たぶん違うと思います。葉の形が少し違うので……」


ハズキが答えると、女性が嬉しそうに笑った。


「おや、よく気づいたねえ。その二つは似てるけど、使い道が全然違うのさ。こっちの細い葉は煎じて飲むもので、丸い葉のほうは外から使うんだよ」


「へえ……」


ハズキは興味深そうに二つの葉を見比べた。


「薬草って、難しいんですね」


「慣れればそうでもないけどね。似たものを間違えたら困るから、最初はちゃんと覚えないといけないよ」


女性はそう言って、籠の中を確かめた。


大半の薬草は無事だったらしい。


「助かったよ。これで今日の仕事が無駄にならずに済みそうだ」


ハズキは籠を持ち上げようとして、持ち手の片方が切れかけていることに気づいた。


「あ……これ、紐が傷んでますね」


「そうなんだよ。何年も使ってるからねえ。そろそろ直さないといけないと思ってたんだけど、つい後回しにしてしまって」


女性は苦笑した。


ハズキは少し考え、荷物から針と糸を取り出した。


「あの、時間がかかってもよければ、ここも直していいですか?」


「……そんなことまでできるのかい?」


「簡単なことなら。服を繕うのと少し違いますけど、紐を結び直して補強するくらいなら……」


女性は何度も瞬きをした。


そして、声を上げて笑った。


「いやあ、驚いた! こんな森の中で、親切な若者に会えるとは思わなかったよ!」


その言葉を聞いたハズキは、思わず手を止めた。


親切。


そんなふうに呼ばれたことが、最後にいつあっただろう。


屋敷では、何をしても当然だった。


掃除が終われば次の仕事を命じられ、服を繕えばもっと丁寧にしろと叱られた。少しでも失敗すれば、役立たずだと罵られた。


だから、こうして誰かに感謝されることが、不思議でならなかった。


「……そんな、大したことじゃないですよ」


慌ててそう答えると、女性は首を横に振った。


「大したことかどうかは、助けてもらったあたしが決めることさ。少なくとも、今のあたしには本当にありがたいことだよ」


ハズキは返事に困り、手元の紐へ視線を落とした。


その様子を、リュミエラが静かに見つめていた。


◇ ◇ ◇


女性の名は、マレナといった。


森の南側にある小さな家で暮らし、近くの村や町へ薬草を売って生計を立てているらしい。若い頃から森を歩き回っているため、周辺の道には詳しいという。


「それで、あんたたちは町へ向かってるんだったね?」


休憩を挟みながら、マレナはハズキへ尋ねた。


「はい。できれば、大きな道を使わずに行きたいんですけど……」


「ふうん。事情があるみたいだねえ」


マレナは彼の服と荷物を見た。


古びた上着、何度も繕われた袖、年齢に見合わないほど疲れた表情。それに、隣には見たこともないほど美しい銀髪の女性がいる。


何か事情があるのだろうということは、容易に想像できた。


けれど、マレナはそれ以上尋ねなかった。


「まあ、人にはいろいろあるからね。言いたくないことまで聞くつもりはないよ」


ハズキは驚いて顔を上げた。


「……いいんですか?」


「何がだい?」


「その……どこから来たのかとか、どうして町へ行くのかとか……」


マレナは少し呆れたように笑った。


「そりゃあ、話してくれるなら聞くけどね。無理に聞き出したって、何かいいことがあるわけじゃないだろう? それに、あたしはあんたたちに助けてもらったんだ。まずはそのお礼を言うのが先さ」


その言葉に、ハズキは何も返せなかった。


知らない人間に、自分の事情を説明しなくてもいい。


ただ、それだけのことが、こんなに安心できるものだとは思わなかった。


マレナは籠から乾燥させた果実の包みを取り出した。


「ほら、これを持っていきな」


「えっ?」


「干した果物だよ。保存がきくし、歩きながら食べられる。見たところ、あんたたち、あんまり食べ物を持ってないだろう?」


ハズキは慌てて首を横に振った。


「い、いえ! そんな、いただけません。俺たち、ただ手伝っただけですし……」


「だから、お礼だって言ってるだろう」


マレナは笑いながら、包みを彼の手へ押しつけた。


「それにね、あたしだってただでもらった親切を、何も返さずに終わらせるのは落ち着かないんだよ。年寄りのわがままだと思って、受け取っておくれ」


ハズキは困ったようにリュミエラを見た。


彼女は二人のやり取りを静かに見つめていたが、やがて優しく微笑んだ。


「……受け取っても、いいのではないかしら。マレナさんが、あなたに渡したいと思っているのだから」


「でも……」


「あなたが助けたいと思って手を貸したように、この人もあなたを助けたいと思っているのかもしれないわ」


その言葉に、マレナは大きく頷いた。


「そうそう! 綺麗なお嬢さん、いいこと言うねえ!」


リュミエラは少し驚いたように瞬きをした。


それから、どこか照れくさそうに微笑む。


「……ありがとう」


「いやいや、本当に綺麗な人だねえ。どこかのお姫様かと思ったよ」


「お、お姫様……?」


リュミエラが本気で戸惑った顔をしたので、ハズキは思わず笑ってしまった。


マレナもつられるように笑う。


森の中に、明るい笑い声が広がった。


しばらくして笑いが落ち着くと、マレナは地面へ小枝を置いた。


「町へ行くなら、もう少し先で沢から離れたほうがいいよ。ずっと水沿いを進むと、途中で崖にぶつかるからね」


「……崖、ですか?」


「ああ。昔はそこにも道があったんだけど、大雨で崩れちまってね。今は通れないんだ」


ハズキは思わず息を呑んだ。


知らずに進んでいたら、引き返すことになっていただろう。


「教えてもらえて助かりました。じゃあ、どこから曲がれば……」


「もう少し先に、大きな二股の木がある。そこの根元に古い石が置いてあるから、すぐにわかるはずさ。その石を目印に南へ曲がると、昔の炭焼き道へ出られるよ」


マレナは地面に簡単な線を描きながら説明した。


「ただし、その道も人があまり通らなくなってるからね。足元には気をつけな。少し進めば、古い雨宿り小屋があるはずだよ」


「雨宿り小屋……」


「石造りの、小さなやつさ。昔は荷運びの人たちが使ってたんだけど、今は滅多に誰も来ない。屋根が全部残ってるかはわからないけど、野宿するよりはましだろうね」


ハズキはその道順を何度も確認した。


町までの距離が縮まったわけではない。


けれど、安全に休める場所の見当がついたことは大きかった。


「本当に、ありがとうございます」


「何度もお礼を言うんじゃないよ。あたしだって助けてもらったんだから、お互いさまさ」


マレナは笑った。


それから、そっとハズキの顔を覗き込む。


「……あんた、まだ若いんだろう?」


「はい。十六歳です」


「十六かい。じゃあ、あたしの孫とあんまり変わらないねえ」


彼女は少しだけ目を細めた。


「大変なこともあるだろうけど、ちゃんと食べて、ちゃんと休むんだよ。若いからって、無理ばっかりしていいわけじゃないんだから」


その言葉に、ハズキは胸が詰まった。


父が亡くなってから、自分の体調を気にかけてくれる人はほとんどいなかった。


熱があっても仕事を休めず、食事を抜かれても文句を言えなかった。


そんな自分に、初めて会ったばかりの人が休めと言ってくれている。


「……はい」


小さく頷いた。


「ちゃんと、休みます」


マレナは満足そうに微笑んだ。


「それでいいんだよ」


◇ ◇ ◇


しばらく休んだあと、マレナは二人に支えられながら立ち上がった。


足首にはまだ痛みが残っているようだったが、近くの枝を杖代わりにすると、ゆっくり歩くことはできた。ハズキは彼女の籠を持ち、家へ戻る道の分岐まで付き添うことにした。


「本当に、そこまでしなくてもいいんだよ?」


「いえ、途中でまた転んだら大変ですから」


ハズキがそう答えると、マレナは困ったように笑った。


「まったく、優しい子だねえ。そんなことしてたら、悪い大人に利用されちまうよ」


その言葉に、ハズキは少しだけ肩を強張らせた。


悪い大人。


まさに、自分はそういう人たちから逃げてきたところだった。


マレナは彼の反応に気づいたのか、すぐに声を柔らかくした。


「……でもね、だからって親切にするのをやめる必要はないんだよ。ただ、相手をよく見て、自分が困るほど無理をしないことさ。誰かを助けるために、自分まで壊れちゃいけないからね」


ハズキはゆっくり顔を上げた。


「……自分が、困るほど……」


「そうさ。助けたいと思うことと、何でも引き受けることは違うんだよ」


マレナは当たり前のことのように言った。


けれど、その言葉はハズキにとって、初めて聞く考え方だった。


これまでの彼は、誰かに何かを頼まれれば、断ることなど許されなかった。


疲れていても、怪我をしていても、相手が望むなら従わなければならない。


そうしなければ、罰を受ける。


そんな日々の中で、他人を助けることと自分を犠牲にすることの違いなど、考えたこともなかった。


「……難しいですね」


思わず呟くと、マレナは優しく笑った。


「難しく考えなくていいさ。少しずつ覚えていけばいいんだよ」


隣で聞いていたリュミエラは、何も言わなかった。


ただ、その言葉を忘れないようにするかのように、静かに目を伏せていた。


やがて、森の道が二つに分かれる場所へ着いた。


片方はマレナの家へ続く道で、もう片方は二人が進もうとしている南側の道だった。


「ここまでで十分だよ。本当に助かった。籠も直してもらったし、足も少し楽になったからね」


マレナは籠を受け取り、肩へ掛けた。


ハズキは念のため、足元を確かめる。


「無理しないでくださいね。もし痛みが強くなるようなら、ちゃんと診てもらったほうがいいと思います」


「ああ、わかったよ。家へ帰ったら、今日はもう休むさ」


そう言って、マレナは二人を見比べた。


「……二人とも、いい旅をしなよ」


ハズキは小さく頭を下げた。


「ありがとうございました。マレナさんも、お元気で」


「ええ。またどこかで会えるといいねえ」


マレナは笑顔で手を振った。


そして、杖をつきながらゆっくり森の道を歩いていく。


その姿が木々の向こうへ消えるまで、ハズキは見送っていた。


隣ではリュミエラも、同じ方向を見つめていた。


「……優しい人でしたね」


ハズキが呟く。


リュミエラはすぐには答えなかった。


風が吹き、銀白色の髪が柔らかく揺れる。


「……ええ」


ようやく返ってきた声は、少しだけ不思議そうだった。


「そう、ね。……優しい人だったわ」


ハズキは彼女へ顔を向けた。


リュミエラは自分の掌を見つめていた。


「見知らぬ人に助けられて、疑うこともできたでしょうに……あの人は、あなたの親切を受け取って、感謝して、今度はあなたを助けようとしていたのね」


「はい。道も教えてくれたし、食べ物まで分けてくれました」


「……そうね」


彼女は静かに微笑んだ。


けれど、その笑顔には、何かを思い出すような寂しさが混じっていた。


◇ ◇ ◇


一方、その頃。


ハズキが生まれ育った村では、朝から慌ただしい空気が漂っていた。


村長の屋敷の庭を覆っていた黒い影は、夜明けとともに消えていた。


ようやく身体を動かせるようになった義母と三姉妹は、屋敷へ戻るなり怒りを爆発させた。


「絶対に許さないわ! あの恩知らずが、よくも私たちに恥をかかせてくれたものね!」


義母は鉄製の扇を机へ叩きつけた。


その向かいには、現村長のディルクが座っている。


長女ルルは不機嫌そうに腕を組み、次女ユユは何度も昨夜の出来事を思い出しては顔を歪めていた。三女ララだけは椅子へ深く腰掛け、黙って兄の様子を見つめている。


「兄さん! すぐにハズキを連れ戻してよ! あんな勝手なことして逃げるなんて、絶対に許せない!」


ルルが声を荒らげた。


ディルクはこめかみを押さえ、深く息を吐いた。


「……落ち着け。まずは状況を整理しなければならない」


「何を悠長なこと言ってるのよ! あいつが逃げたせいで、結婚の話が全部駄目になるかもしれないんでしょ!」


「わかっている」


ディルクは低い声で答えた。


しかし、母親も妹たちも納得する様子はない。


「それに、あの女よ!」


義母が鋭い声を上げた。


「どこから現れたのか知らないけれど、得体の知れない力で私たちを動けなくしたのよ! 村長家への反逆と同じじゃない!」


ディルクは返事をしなかった。


昨夜見た白と黒の翼が、脳裏に浮かぶ。


月明かりの下に立っていたあの女性。


圧倒的な存在感。


彼女が本気になれば、自分たちがどうなるのか、想像することさえ恐ろしかった。


「……あの女には、下手に手を出さないほうがいい」


そう口にすると、ルルが勢いよく立ち上がった。


「はあ!? 兄さん、あんな女が怖いの!?」


「怖いかどうかの問題ではない! 我々が何もできなかったことは、お前たち自身が一番よく知っているだろう!」


普段は感情を表へ出さないディルクが声を荒らげたことで、部屋が静まり返った。


ルルは唇を噛み、悔しそうに椅子へ座り直す。


ディルクは一度深呼吸をしてから、机の上に広げた村周辺の地図へ目を向けた。


「……まずは、二人がどこへ向かったのかを確かめる。人を出すが、見つけても手は出させない」


「それで、ハズキはどうするの?」


義母が問いかけた。


「……状況を見て判断する」


「判断ですって? あの子は私たちの家の者でしょう!」


ディルクは顔を上げた。


「母上。ハズキは、もう十六歳です」


「だから何だというの?」


「……昨日、あいつは自分の意思で出ていくと言いました」


義母は目を見開いた。


「まさか、あの子の言い分を認めるつもりなの?」


「そうは言っていません。ただ……」


ディルクは言葉を止めた。


昨夜、ハズキが言ったことを思い出す。


『でも、今の村長は兄さんです』


その一言が、どうしても頭から離れなかった。


父が亡くなってから、自分は何をしていたのだろう。


村の仕事が忙しいことを理由に、家の中で起きていることを母へ任せきりにしていた。


ハズキが傷ついていることは、薄々知っていた。


食事を別にされていることも、離れで暮らしていることも。


それでも、母が決めたことだからと目を逸らしてきた。


(……今さら、何を考えているんだ。あいつはもう出ていったんだぞ)


ディルクはその考えを振り払うように立ち上がった。


「とにかく、見回り役に指示を出します。母上たちは、今日は休んでいてください」


そう告げて部屋を出る。


その背後では、ルルたちが不満を口にし続けていた。


廊下へ出たディルクは、窓の向こうに広がる村を見つめた。


昨日までと変わらない景色だった。


畑へ向かう農夫たち。


朝の仕事を始める商人たち。


井戸端で話し込む女性たち。


誰もが普段どおりに暮らしている。


しかし、村長家の屋敷で起きた出来事は、すでに一部の使用人や見回り役の間で広まり始めていた。


白と黒の翼を持つ、美しい女性。


人を動けなくする不思議な力。


そして、村長家から逃げ出した少年。


噂が村全体へ広がるまで、そう時間はかからないだろう。


「……厄介なことになったな」


ディルクは小さく呟いた。


ただ、その言葉が指しているのが、村長家の評判なのか、それとも逃げ出した弟の身の安全なのか、彼自身にもはっきりとはわからなかった。


◇ ◇ ◇


村の北側にある見回り小屋では、トーマが二人分の水袋を用意していた。


彼の隣には、若い見回り役のケインが立っている。


ケインはまだ二十代前半で、村の周辺を巡回するようになって三年ほどしか経っていない。昨夜の騒ぎには直接立ち会っていなかったものの、朝になって事情を聞かされ、驚きを隠せずにいた。


「……本当に、翼の生えた女がいたんですか?」


ケインが尋ねる。


トーマは荷物の紐を締めながら、短く頷いた。


「ああ。白い翼と、黒い翼だった。あんなものは、今まで見たことがない」


「魔物……なんですかね」


「わからん。ただ、ハズキを守ろうとしていたことだけは確かだ」


トーマは昨夜の光景を思い出した。


怯える少年。


その前に立つ銀髪の女性。


彼女は圧倒的な力を持ちながら、ハズキが殺さないでほしいと願うと、手を止めたという。


少なくとも、自分たちを無差別に襲う存在ではなかった。


「……ハズキのやつ、随分ひどい目に遭ってたんですね」


ケインがぽつりと呟いた。


「知っていただろう」


「……まあ、少しは」


ケインは気まずそうに視線を落とした。


「でも、村長家のことだったし……。俺たちが口を出せる話じゃないって、みんな言ってたから」


トーマは何も答えなかった。


自分も同じだった。


ハズキが傷だらけで薪を運んでいる姿を、何度も見たことがある。


声をかけようと思ったこともあった。


けれど、そのたびに、村長家の問題へ深入りするのはよくないと考えた。


そうして何もしなかった。


「……なあ、トーマさん」


「何だ」


「もし、ハズキを見つけたら……本当に連れ戻すんですか?」


トーマは手を止めた。


村長から受けた命令は、二人の行き先を確かめること。


無理に連れ戻せとは言われていない。


しかし、見つければ次に何を命じられるのか。


それは、まだわからなかった。


「……まずは、居場所を確かめるだけだ」


トーマはそう答えた。


ケインは納得したような、していないような顔で頷いた。


二人は荷物を背負い、森へ続く道を歩き始める。


けれど、ハズキたちが選んだ沢沿いの迂回路は、村の人間が普段使う道から外れていた。


見つけるまでには、相当な時間がかかるだろう。


◇ ◇ ◇


午後になり、ハズキたちはマレナから教えられた道を進んでいた。


大きな二股の木は、思っていたよりも簡単に見つかった。


幹の途中から左右へ大きく枝が分かれ、その根元には苔に覆われた石が置かれている。何かの目印だったのだろう、石にはかすかな線が刻まれていた。


「……これですね」


ハズキは石を確かめ、マレナの説明を思い出した。


「この石から南へ曲がるんでしたよね」


「ええ。あの人がそう教えてくれたわ」


リュミエラは周囲を見渡した。


南へ続く道は、獣道より少し広い程度だった。古い轍の跡が残っているものの、草に覆われていて、今では荷車が通れる状態ではない。


「……本当に、ここでいいんでしょうか」


ハズキが不安そうに呟く。


リュミエラは少し考え、それから彼へ顔を向けた。


「あなたは、どう思う?」


「……マレナさんの説明とは合ってます。石もあるし、二股の木もある。だから、たぶん間違ってないと思います」


「それなら、少し進んで確かめてみましょう。もし違っていたら、戻ればいいのだから」


その返事に、ハズキは思わず笑った。


「……なんだか、簡単に言いますね」


「そうかしら?」


「はい。でも……そうですよね。間違えたら、戻ればいいんですよね」


彼はもう一度道を見た。


屋敷では、間違えることそのものが許されなかった。


掃除の順番を間違えれば怒鳴られ、食器を置く場所を間違えれば叩かれた。


だから、何かを選ぶときにはいつも、間違えないことばかり考えていた。


けれど、今は違う。


道を選び、進み、違っていたら戻ればいい。


そんな当たり前のことを、ようやく少しずつ理解し始めていた。


「……行きましょう」


ハズキは先に足を踏み出した。


リュミエラはその隣へ並ぶ。


しばらく進むと、道の脇に古い炭の欠片が散らばっている場所があった。


さらに進むと、木々の間に石積みの跡が見えてくる。


「……この道で合ってそうですね」


ハズキはほっと息を吐いた。


「マレナさん、ちゃんと教えてくれたんだ」


その言葉に、リュミエラが小さく頷く。


「……そうね」


彼女は少しだけ考え込んでいた。


その様子に気づき、ハズキは歩調を緩めた。


「リュミエラさん?」


「……あの人のことを、考えていたの」


「マレナさんですか?」


「ええ」


彼女は静かに答えた。


「あなたが助けたから、お礼をしてくれた。道も教えてくれた。……ただ、それだけのことなのに、どうしてか、胸の奥が少し温かいの」


ハズキは彼女を見つめた。


リュミエラは自分の胸元へ手を当てている。


「昔は、こんなことがたくさんあった気がするわ。誰かが困っていたら助けて、助けられた人が今度は別の誰かを助ける。……そういうことが、当たり前にあるのだと思っていた」


その声には、深い寂しさが滲んでいた。


「でも、私は……いつからか、それを忘れてしまったのね」


ハズキは何も言えなかった。


彼女がどうして水晶に封印されていたのか、自分はまだ知らない。


それでも、彼女の心に大きな傷があることだけは、少しずつわかってきた。


「……リュミエラさん」


「なあに?」


「俺も、村にいたときは……人を信じるのが、怖かったです」


リュミエラが足を止めた。


ハズキも立ち止まり、彼女へ顔を向ける。


「父さんが亡くなってから、助けてほしいと思ったことは何度もありました。でも、誰も助けてくれなくて……。だから、もう誰にも期待しないほうがいいんだって、そう思うようになったんです」


彼は少しだけ視線を落とした。


「でも、村を出る前にも、こっそり食べ物を分けてくれた人はいました。薪を運ぶときに手伝ってくれた人も……。全部が嫌な人だったわけじゃ、ないんですよね」


リュミエラは黙って聞いていた。


「それに、今日のマレナさんみたいな人もいるってわかったから……」


ハズキは少し考え、それから小さく笑った。


「……俺、まだ人が怖いけど、もう少しだけ信じてみたいです」


その言葉を聞いた瞬間、リュミエラの瞳が揺れた。


彼女は何かを言おうとして、しかし言葉を見つけられなかったようだった。


長い沈黙のあと、ようやく静かに口を開く。


「……あなたは、強いのね」


ハズキは驚いて顔を上げた。


「えっ? 俺が、ですか?」


「ええ」


リュミエラは優しく微笑んだ。


「傷つけられて、怖い思いをして……それでも、もう一度誰かを信じたいと思えるのだもの」


ハズキは慌てて首を横に振った。


「そ、そんなことないです! 俺、昨日だって泣いてばかりだったし、一人じゃ何もできなくて……」


「泣くことと、弱いことは違うと思うわ」


彼女は静かに言った。


「怖いと思いながらも進もうとすることは、とても勇気のいることよ。……少なくとも、今の私には、あなたのように考えることは難しいもの」


ハズキはその言葉の意味を考えた。


目の前の女性は、圧倒的な力を持っている。


自分を傷つけた人間を、簡単に動けなくすることができる。


空を飛び、傷を癒やし、水を浄化することさえできる。


それなのに、誰かを信じることは難しいと言う。


(……強いって、力があることだけじゃないのかな)


ハズキはそう思った。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「……じゃあ、一緒に練習しましょうか」


リュミエラが瞬きをした。


「練習?」


「はい。俺もまだ怖いですし、リュミエラさんも難しいって言うなら……。少しずつでいいから、一緒に覚えていけばいいんじゃないかなって」


言い終えてから、ハズキは少し恥ずかしくなった。


何年も生きているらしい彼女へ、十六歳の自分が何を偉そうに言っているのだろう。


「……すみません。変なこと言いましたね」


慌てて取り消そうとしたとき、リュミエラが首を横に振った。


「いいえ」


その声は、驚くほど柔らかかった。


「……とても、素敵な考えだと思うわ」


彼女は微笑んだ。


「一緒に……そうね。一緒に、少しずつ覚えていきましょう」


ハズキも笑った。


森の中で交わされた小さな約束だった。


けれど、その言葉は、二人にとって確かな意味を持っていた。


◇ ◇ ◇


夕方が近づく頃、空に薄い雲が広がり始めた。


昼間は暖かかった森も、日が傾くにつれて少しずつ冷えてくる。湿った風が木々の間を抜け、遠くで鳥の群れが鳴いていた。


「……そろそろ、休める場所を探したほうがよさそうですね」


ハズキは空を見上げた。


今夜も森の中で過ごすことになるだろう。


昨日の炭焼き小屋のような場所が見つかればいいが、マレナが教えてくれた雨宿り小屋がまだ残っている保証はない。


「もう少し進めば、石造りの小屋があるはずなんですけど……」


「ええ。近くに、人が使っていたような建物の気配があるわ」


リュミエラは森の奥へ視線を向けた。


「たぶん、あちらね」


彼女が示した方向へ進むと、やがて木々の間に灰色の壁が見えてきた。


「……あった!」


ハズキは思わず声を上げた。


そこには、小さな石造りの建物があった。


屋根の一部は崩れていたが、壁はしっかり残っている。入り口には扉がなく、内部は薄暗いものの、奥の一角なら雨風を避けられそうだった。


「よかった……。本当にありましたね」


「ええ。マレナさんの言ったとおりね」


二人は中を確かめた。


床には砂埃が積もっていたが、大きな破損はない。奥には石で作られた低い台があり、昔は荷物を置いていたのかもしれない。


ハズキは荷物を下ろし、使えそうな場所を探し始めた。


「ここなら、昨日よりも風を避けられそうです。床も石だから、湿気はありますけど……」


「少しだけ、温かくしてもいいかしら」


「え?」


リュミエラは小屋の中央へ手をかざした。


すると、淡い金色の光が広がり、冷えていた空気が少しずつ和らいでいく。


炎は見えない。


けれど、まるで小さな暖炉があるかのように、優しい温もりが室内へ満ちた。


「……すごい」


ハズキは思わず呟いた。


リュミエラは少しだけ照れくさそうに微笑んだ。


「昔、寒い夜に使っていた力なの。……このくらいなら、今でも問題なくできそうだわ」


「ありがとうございます。これなら、今夜は寒くならずに済みますね」


「ええ。でも、ずっと続けると疲れるかもしれないから、眠る頃には弱めるわね」


「はい。無理しないでください」


ハズキは荷物を整理し始めた。


マレナからもらった干し果物の包みを取り出し、残っているパンと干し肉を並べる。


食べ物はまだ十分とは言えなかった。


それでも、昨日より少しだけ選べるものが増えている。


「……今日の夕食は、これですね」


ハズキは少し笑った。


リュミエラも隣へ腰を下ろす。


「私も、手伝えることはある?」


「じゃあ、この干し果物を半分に分けてもらっていいですか? 明日の分も残しておきたいので」


「ええ。任せて」


リュミエラは真剣な顔で包みを開いた。


その表情があまりにも一生懸命だったので、ハズキは思わず笑ってしまった。


「……どうかした?」


「いえ、すみません。なんだか、リュミエラさんが普通に夕食の準備をしてるのが、不思議で」


「……そうかしら」


「はい。水晶の中にいたときは、まさか一緒にご飯を食べるなんて思ってなかったので」


リュミエラは少しだけ目を細めた。


「……私もよ」


そして、優しく微笑む。


「あなたとこうして食事をする日が来るなんて、思ってもいなかったわ」


二人は顔を見合わせた。


それから、同時に小さく笑った。


食事は決して豪華なものではなかった。


硬いパンと干し肉。


少量の干し果物。


それだけだった。


けれど、誰かに急かされることも、食べ物を取り上げられることもない。


お互いに今日あった出来事を話しながら、ゆっくりと食事をする。


ハズキにとって、それは久しぶりに味わう穏やかな時間だった。


◇ ◇ ◇


食事を終えたあと、二人は小屋の入り口から夕暮れの森を眺めていた。


遠くの空は橙色に染まり、木々の影が長く伸びている。風が葉を揺らし、鳥たちが寝床へ戻る声が聞こえた。


リュミエラは静かにその景色を見つめていた。


ハズキは隣へ腰を下ろし、しばらく何も言わずに過ごした。


「……今日、楽しかったです」


ふと、そんな言葉が口からこぼれた。


リュミエラが顔を向ける。


「楽しかった?」


「はい。川を渡るのは少し怖かったけど、マレナさんにも会えたし……。道も教えてもらえたし、こうして休める場所も見つかったので」


ハズキは少し照れくさそうに笑った。


「……俺、こんなふうに一日を振り返って、楽しかったって思うの、久しぶりかもしれません」


リュミエラは黙って聞いていた。


彼の言葉を、ひとつひとつ大切に受け止めるように。


「昨日までは、明日が来るのが怖かったんです。また仕事を命じられるんじゃないかとか、また叩かれるんじゃないかとか……。だから、朝になるのが嫌で」


ハズキは膝の上で両手を組んだ。


「でも、今日は違いました。明日はどんな場所へ行くのかなって、少しだけ楽しみなんです」


その言葉に、リュミエラの表情が柔らかくなった。


「……それは、とても素敵なことね」


「はい」


ハズキは頷いた。


「リュミエラさんのおかげです」


彼女はゆっくり首を横に振った。


「私だけの力ではないわ。あなたが勇気を出して歩き始めたから、今日という日があったのよ」


ハズキは少し考え、それから笑った。


「……じゃあ、二人のおかげですね」


リュミエラは目を見開いた。


そして、嬉しそうに微笑んだ。


「……ええ。そうね」


その声は、夕暮れの風よりも優しかった。


しばらくして、リュミエラがぽつりと呟いた。


「……私も、今日という日を忘れないと思うわ」


ハズキは彼女を見た。


「どうしてですか?」


リュミエラは少し考えた。


遠くの空へ目を向け、沈みゆく太陽を見つめる。


「……人と話したから」


静かな声だった。


「あなた以外の人と、ちゃんと話したのは……本当に、久しぶりだったの」


ハズキは黙って耳を傾けた。


「正直に言うと、最初は少し怖かったわ。見知らぬ人間に近づいて、また何か嫌なことが起きるのではないかと思った。……あの人が困っているとわかっていても、すぐには助けようと思えなかったの」


彼女は自分の掌を見つめた。


「昔の私は、きっと迷わなかった。誰かが困っていたら、助けたいと思っていたはずなのに……」


その声が、わずかに震えた。


ハズキは何も言わなかった。


リュミエラは続ける。


「……けれど、あなたは迷いながらも、あの人へ声をかけた。そして、あの人はあなたにお礼を言って、道を教えてくれた」


彼女はゆっくり顔を上げた。


「そんな当たり前のことが、今の私には……とても眩しく見えたの」


ハズキは少し考えた。


そして、静かに口を開く。


「……俺も、最初は怖かったです」


リュミエラが顔を向ける。


「知らない人に話しかけるのは、今でも苦手です。でも、困っているみたいだったから……。何もしないで通り過ぎたら、あとでずっと気になると思ったんです」


彼は少しだけ笑った。


「それに、リュミエラさんが一緒にいてくれたので、少し勇気が出ました」


その言葉に、彼女は瞬きをした。


「……私が?」


「はい。一人だったら、たぶんもっと迷ってました」


リュミエラは黙り込んだ。


自分は何もしていないと思っていた。


ただ、ハズキの隣にいただけ。


彼が決めたことに頷き、必要なときに少し手を貸しただけだった。


けれど、それが彼にとって勇気になっていたという。


(……私は、誰かの力になれているのね)


胸の奥に、柔らかな感情が広がった。


それは、遠い昔に感じたことのある温もりだった。


誰かが笑ってくれたとき。


助けた人から感謝されたとき。


仲間と一緒に、明日の話をしていたとき。


確かに、こんな感情を抱いていた。


それなのに、自分はいつから忘れてしまったのだろう。


リュミエラはそっと目を閉じた。


脳裏に浮かんだのは、遠い昔の記憶だった。


花に囲まれた小さな村。


焼きたてのパンの香り。


仲間たちの笑い声。


そして、血に染まった式典の床。


何もかもが、一瞬で失われた日。


(……私は、許されないことをした)


世界を憎み、破壊し、数え切れない命を奪った。


その罪は、どれほど時間が経とうとも消えることはない。


ハズキが今日見せてくれた優しさも、マレナが差し出してくれた親切も、自分の過去をなかったことにはしてくれない。


けれど。


(……それでも、今日のことを嬉しいと思ってしまうのね)


リュミエラは目を開けた。


隣ではハズキが、夕暮れの空を見上げていた。


その横顔はまだ幼さを残していて、昨日まで苦しんでいたとは思えないほど穏やかだった。


彼は、自分がどんな存在なのかを知らない。


かつて世界を滅ぼしかけた天使だということも、無関係な人々の命まで奪ったことも。


それでも、今は隣にいてくれる。


その事実が、何よりも大切だった。


「……ハズキ」


「はい?」


少年が振り向いた。


リュミエラは少しだけ迷い、それから優しく微笑んだ。


「……明日も、一緒に歩いてくれる?」


ハズキは一瞬きょとんとした。


そして、当たり前のことを聞かれたように笑った。


「もちろんですよ。だって、町まで一緒に行くって約束したじゃないですか」


「……そうね」


「それに、町に着いたら一緒に朝市へ行くんでしょう? 焼きたてのパンも買わないと」


その言葉に、リュミエラは目を細めた。


「ええ。覚えているわ」


彼女はゆっくり頷いた。


「……楽しみにしているの」


ハズキも嬉しそうに笑った。


「俺もです」


二人はもう一度、夕暮れの空を見上げた。


世界はまだ広い。


町までは遠く、旅がどうなるのかもわからない。


村では、すでに追手が動き始めている。


そして、リュミエラの封印が解かれたことを、この世界はまだ知らない。


それでも今、この小さな石造りの小屋には、穏やかな時間が流れていた。


世界を憎んだ天使は、まだ世界を愛してはいない。


けれど、今日出会った一人の女性の優しさを、忘れたくないと思った。


そして、隣にいる少年が明日も笑ってくれることを、心から願った。


その小さな願いが、やがて何を変えていくのか。


今はまだ、誰も知らなかった。


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