第5話 自分の手で手に入れた、明日の食事
石造りの雨宿り小屋へ夜の冷気が忍び込んできたのは、夕食を終えてからしばらく経った頃だった。
西の空に残っていた赤みはすっかり消え、入り口の向こうには深い藍色の森が広がっている。昼間に見かけた鳥の声も途絶え、代わりに遠い木の葉を叩く細かな音が聞こえ始めた。雨が降っているのだと気づいたハズキは、膝へ掛けていた古い上着を引き寄せ、壁際に置いた荷物をもう一度確かめた。
「……雨、少し強くなってきましたね。屋根が残っているところへ、荷物を動かしたほうがよさそうです」
小屋の奥は比較的乾いていたが、入り口に近い石床には小さな水の筋ができ始めている。ハズキが布袋へ手を伸ばすと、隣に座っていたリュミエラも腰を上げた。彼女は先に荷物を持ち上げるのではなく、天井の割れ目と床へ落ちる雫の位置を確かめ、乾いた場所を指さした。
「石の台の横なら、まだ濡れていないわ。けれど、あそこは足元が少し冷たそうね。荷物を置くところと、あなたが休むところを分けたほうがいいかしら」
「そうですね。台の上に食べ物を載せて、俺たちは壁から少し離れて休みましょう。朝になれば出発するし、今夜だけなら何とかなると思います」
そう言いながら布袋を持ち上げたとき、思っていたよりも軽いことに気づいた。初めて屋敷を抜け出した夜には肩へ食い込むほどに感じられた重さが、今では随分頼りない。着替えや水袋が減ったわけではないのだから、その違いは食料が少なくなっているせいだった。
ハズキは袋を石台へ置き、中身を慎重に並べた。残っている乾いたパンは少しずつ欠けて形が不揃いになり、干し肉も薄いものが数切れしかない。昨日、薬草採りのマレナから分けてもらった干し果物があるのは心強かったが、町までの道のりを考えると、何日も安心して食べ続けられる量ではなかった。
「……やっぱり、足りませんね」
小さく呟くと、リュミエラが隣へしゃがみ込んだ。彼女は食料を見つめたあと、ハズキの顔へ目を向ける。彼が何を心配しているのか、尋ねなくても察しているようだった。
「明日の食事のことを考えていたのね。今日は、マレナさんに分けてもらったものがあったけれど、この先で誰かに会えるとは限らないもの」
「はい。水はリュミエラさんがきれいにしてくれるから助かってますけど、食べ物はそう簡単に増えませんし……。俺、村から出るとき、もう少し持ってこられたらよかったんですけど」
「持てる荷物には限りがあるわ。それに、あんな状況で出てきたのだから、準備できなかったことまで自分のせいにしなくていいと思うの」
彼女の言葉を聞きながら、ハズキは乾いたパンを包み直した。言われてみれば、持ち出せたこと自体が奇跡のようなものだった。あの夜、もしルルたちに見つからずに森へ入れたとしても、十日以上の道のりを一人で生き抜けたのかどうか、今となっては自信がない。
「……町に着く前に、食べ物を手に入れる方法を考えないといけませんね。木の実や食べられる草もあるけど、俺が知っているものばかりじゃないから、間違えて口にするのは怖いです」
「知らないものを、無理に食べないほうがいいわね。昔の私なら少しは見分けられたと思うけれど、この森に生えているものが、覚えている植物と同じとは限らないから」
リュミエラはそう言うと、自分の掌を見つめた。彼女は傷を癒やし、水を浄化し、寒さを和らげる不思議な力を持っている。けれど、その力で何もないところから食事を生み出せるのかと聞く気には、ハズキはなれなかった。封印から目覚めたばかりの彼女へ、これ以上何でもできるはずだと期待するのは違うと思ったからだ。
「俺、明日から少しずつ人の通る場所も探してみます。いきなり村へ入るのは怖いけど、仕事を手伝って食べ物を分けてもらうことなら、できるかもしれないので」
「……仕事を?」
リュミエラの声が、ほんの少し硬くなった。
ハズキが顔を上げると、彼女は何かを言いかけて口を閉じた。怒っているのではない。心配しているのだとわかったが、その理由に思い当たるまでには少し時間がかかった。
「あの、無理に働かせてもらうつもりじゃありません。ちゃんと、自分でできそうなことを探します。……それに、働かないと食べ物を買えないのは、どこでも同じだと思いますから」
「そうね。……ごめんなさい。あなたがまた、誰かに無理なことを命じられる姿を想像してしまったの」
リュミエラは静かに認めた。ハズキは一度驚き、それから自分の指先を見下ろした。家では仕事という言葉を聞くたびに身体が強張っていたのに、今は、自分で仕事を探そうと口にしている。
「……俺も怖くないわけじゃないです。でも、ちゃんとできることをして、その分の食べ物をもらえたら……少しだけ、自分で生きていける気がするんです」
リュミエラは彼の返事を聞き、ゆっくりと頷いた。雨音が石の屋根を叩き、隙間から入る風が彼女の長い髪を揺らしている。彼女はそこに少しの間座ったあと、もう一度ハズキへ向き直った。
「あなたがそう望むなら、私は隣で見守るわ。ただ、一人で何もかも背負わないでね。私にもできることがあれば、一緒に考えさせてほしいの」
「……はい。一緒に考えましょう」
二人は朝食に残す分を決め、今夜食べるものと分けた。ハズキは、もう食べ終えたはずなのに腹の奥が少し寂しいことに気づいたが、残りを手に取ることはしなかった。リュミエラはそんな彼を見つめていたものの、無理に食べさせようとはせず、乾いた場所に並んで座り直した。
雨はやがて強まったが、建物の奥へ届くほどではなかった。金色の小さな光が室内を温め、外で濡れた木々が揺れる音を聞きながら、二人は明日進む道をもう一度確かめた。朝になれば、マレナから教えられた古い炭焼き道の続きを歩く。少し先で別の作業道と交わるはずだが、その先は二人ともよく知らない場所だった。
ハズキが眠りにつく前、リュミエラは灯りを弱めながら、そっと問いかけた。
「明日は、あなたが自分で選んだ一日になるのね」
「……大げさですよ。食べ物を探すだけですから」
「ふふ。そうかもしれないわ。でも私は、その一日を一緒に歩いてみたいの」
ハズキは何と答えればよいかわからず、少し照れくさそうに頷いた。誰かと明日の話をして眠れることが、こんなにも不思議で温かなものだとは思わなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、雨は止んでいた。
石造りの小屋を出ると、空には薄い雲が残っているものの、木々の間から明るい日差しが差し込んでいた。土はまだ水を含んでいて、踏み込むたびに靴底へ湿った感触が伝わる。ハズキは小屋を振り返り、昨夜より少し軽くなった荷物を背負い直した。
「雨が止んでよかったです。これなら、今日も歩けそうですね」
「ええ。でも、昨日より滑りやすいところもあるでしょう。足元を確かめながら行きましょうね」
リュミエラはそう言って、彼の靴へ視線を落とした。使い込まれた靴はまだ履ける状態だったが、革の端が少し擦り切れ始めている。彼女は何か手を加えようとして、しかしハズキが靴紐を結び直すのを見て、口を閉じた。
朝食は乾いたパンの小さな欠片と、干し果物を少しずつだった。リュミエラは食べる量を遠慮したが、ハズキが昨夜と同じように「一緒に食べたいです」と言うと、小さな果物を一つ受け取った。その甘さに目を細める表情を見ると、ハズキは自分の分まで嬉しくなってしまう。
「……町に着いたら、本当に焼きたてのパンを探しましょうね。こんな固いのじゃなくて、ふわっとしてるやつを」
「ええ。あの約束は忘れていないわ。あなたが最初にどんなパンを選ぶのか、今から楽しみなの」
「俺は……そうですね。小麦の香りがする、普通の丸いパンがいいかな。村の市場でも、朝だけ並ぶ店があったんです。焼き上がる時間にはもう仕事が始まっていたから、ほとんど買えませんでしたけど」
話しながら歩くうちに、ハズキは自分の声が昨夜より明るくなっていることに気づいた。今日食べるものが十分にあるわけではないし、森を抜けられる保証もない。それでも、町に着いてから買いたいものを考えるくらいは、許される気がした。
道は次第に広くなり、古い切り株の間を抜けて緩やかな下り坂へ続いていた。ところどころに車輪が通ったような細い溝が残り、その間には雑草が生えている。マレナが言っていた炭焼き道は、昔は荷車も通れるほど整えられていたのだろう。
坂の途中で、リュミエラが一度立ち止まった。
「……少し先に、人がいるわ。数人ではなく、一人と、もう一頭……たぶん、馬かしら」
ハズキも耳を澄ませた。雨上がりの森の向こうから、何か硬いものがぶつかる音と、短い苛立った声が聞こえてくる。昨日のマレナとは違い、今度の声は大きな男のものだった。
「くそっ、もう一度だ! ……いや、待て、そっちへ引いたら余計に沈むだろうが!」
次いで、馬のいななきが響いた。
ハズキは反射的に肩を強張らせた。怒鳴り声を聞くと、身体が先に警戒してしまう。リュミエラもそれに気づいたようで、何も言わず彼の隣へ立った。
「……引き返す?」
問いかけは穏やかだった。彼が怖いなら別の道を選んでもいいのだと、答えを待ってくれている。
ハズキは一度目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。相手が何に怒っているのかはまだわからないし、あの声が自分へ向けられたわけでもない。ここで逃げることもできるが、その前に少しだけ確かめたいと思った。
「……遠くから様子を見てみたいです。危ない相手だったら、近づかずに戻りましょう」
「ええ。それなら、あの木の陰まで一緒に行きましょう」
二人は茂みを回り込み、道が広くなった場所を覗いた。
そこには小さな荷車が一台、斜めになって止まっていた。栗色の馬が繋がれ、車体には布を被せた木箱がいくつも積まれている。片方の車輪が道端の柔らかい土へ沈み込んでいて、男が何度か押したのだろう、周りには深い足跡が残っていた。
荷車の横に立つのは、四十歳を少し過ぎたくらいの男だった。日に焼けた顔と分厚い手をした男は、泥だらけの長靴を見下ろしていたが、ほどなく二人の気配へ気づき、顔を上げた。
「……おい。そこにいるのは誰だ?」
声は低く、警戒が混じっていた。ハズキは一瞬言葉に詰まったが、先に逃げ出すことはせず、木の陰から半歩だけ姿を出した。
「すみません。旅の途中で、声が聞こえたので……。荷車が動かなくなったんですか?」
男は彼の古びた服と荷物を見て、次にリュミエラへ視線を移した。銀白色の髪と白い衣服を目にして、あからさまに驚いた顔になる。しかし、彼女が無言で佇んでいるのを見ると、すぐに眉を寄せて荷車を指さした。
「見ての通りだ。昨夜の雨で端の土が緩んでやがった。避けたつもりが、片輪だけ泥に落ちたんだよ。馬に無理をさせたくないし、一人じゃ荷を押さえる手も足りん」
ハズキは車輪の周りを見た。板の車輪そのものが壊れている様子はなく、車軸も傾いたまま折れてはいないようだった。問題は、深く沈み込んだ車輪の下がぬかるんでいて、押すほど土が崩れることなのだろう。
「……車輪の下へ木を入れて、少しずつ持ち上げられませんか。荷車を引くときに、父さんが似たようなことをしていたんです」
口にしてから、ハズキは慌てて男の顔を見た。頼まれてもいないのに意見を言うと、昔なら何を知ったようなことをと叱られた。だが男は不機嫌そうに鼻を鳴らしただけで、彼の言葉を頭から否定しなかった。
「木を噛ませることは考えた。だが、てこの棒を差す位置が悪いと車軸を痛める。荷を片側へ寄せるにしても、手が足りないんだ」
男は途中で言葉を切り、二人を改めて眺めた。助けを求めるべきかどうか迷っているのだと、ハズキにもわかった。
「……あんたら、急ぎの旅か?」
「町へ向かっています。急いではいますけど、少しなら時間はあります」
「そうか。なら、荷を移す間だけ手を貸してくれないか。もちろん、ただでとは言わん。積み荷を傷めずに道へ戻せたら、食料を渡す」
その言葉を聞いた途端、ハズキの心臓が強く鳴った。朝に考えていた仕事の機会が、こんなに早く目の前へ現れるとは思わなかったのだ。
けれど、すぐに返事をすることはできなかった。男の腕は自分よりずっと太いし、荷車には重そうな木箱が積まれている。無理に引き受けて失敗したら、何と言われるだろう。
戸惑いを見抜いたように、リュミエラがそっと口を開いた。
「ハズキ。やってみたいと思うなら、何をするのか先に聞いてもいいのよ。あなたにできないほど重いものを運ぶ必要があるなら、別の方法を考えましょう」
男は少し不思議そうに彼女を見たが、口を挟まなかった。ハズキは荷車へ目を戻し、それからゆっくり男に尋ねた。
「……俺ができそうなのは、木箱を降ろすことと、車輪の下へ板を入れることくらいです。馬を動かすのは慣れていないので、そちらはお願いしてもいいですか」
「ああ、馬は俺が見る。荷の中でも軽いほうを動かしてもらうつもりだ。あんたに車体全部を持ち上げろなんて言わんさ」
「……わかりました。じゃあ、手伝います。でも、無理だと思ったら途中で伝えます。それでもいいですか?」
男は目を瞬いたあと、短く笑った。
「そりゃそうだ。怪我をさせたら俺だって寝覚めが悪い。……名は?」
「ハズキです。こちらは、リュミエラさん。一緒に旅をしています」
「俺はヴァルド。森沿いを回って商いをしている行商人だ。じゃあハズキ、先に荷を確かめよう。壊れやすいものから降ろすぞ」
男はそう名乗ると、荷車の後ろへ回った。ハズキは隣のリュミエラを見た。彼女は不安そうではあったものの、小さく頷いてくれた。
「……決めたのね」
「はい。できるところまで、やってみます」
◇ ◇ ◇
ヴァルドの荷車には、布や塩、乾燥させた食材、簡単な金物が積まれていた。山間の村へ商品を届けた帰り道らしく、大きな木箱のいくつかは空になっている。それでも残った荷は一人で簡単に移せる量ではなく、ハズキはまず箱の重さを確かめてから、持てるものを選んだ。
「そっちの箱は軽い。中は木匙だけだ。こっちは塩だから、持ち上げるなら底から支えろよ。ふたを掴んだら抜けるぞ」
ヴァルドは手際よく指示を出したが、急かすことはなかった。ハズキが一つずつ確認しながら箱を降ろすと、男は荷車の反対側へ重さを移し、車輪の周りへ木片を並べていった。
リュミエラは最初、どこへ立てばよいのかわからない様子だった。何でもない動作に魔法を使うのは目立つと考えたのか、彼女は近くで荷台を押さえ、ハズキが箱を運び終えるたび足場の具合を確かめてくれた。
「……リュミエラさん、そちらの荷は大丈夫ですか?」
「ええ。ただ、少し足元が沈むから、この板を踏まないほうがよさそうね。ハズキ、こちら側を回れる?」
「わかりました。ありがとうございます」
何度かやり取りしているうちに、作業の順番が見えてきた。空の箱を降ろし、残った荷を動かして片側を軽くする。板を車輪の手前へ差し込み、近くの倒木から切り出した太い枝を支点に使って、少しずつ浮かせられる位置を探す。
ハズキは父と荷車を直した昔の記憶を辿りながら、枝の太さと差し込む角度を考えた。力任せに押しても泥へ沈むだけだということは、薪を運ぶ仕事で何度も失敗して覚えていた。今なら、その失敗から学んだことを役立てられるかもしれない。
「……ここに板を二枚重ねて、その下を石で支えたらどうでしょう。上からの重さを少し散らせると思います」
ヴァルドはしゃがみ込み、泥の中へ差し込んだ枝の先を確かめた。ハズキの示した場所と、車輪の外縁を見比べてから、小さく頷く。
「悪くない。だが先に反対側を止める。片輪が動いた拍子に荷車ごと流れたら危ないからな。……あんた、木を扱う仕事でもしていたのか?」
「村で薪を運んだり、倉庫の掃除をしたりしていました。荷車のことは、父さんに少し教わっただけです」
「そうか。なら、余計な力を入れずに済むよう考えろ。重さは若さだけじゃどうにもならん」
叱っているような口調だったが、その言葉には相手を見下す響きがなかった。ハズキは「はい」と答え、丸太を車輪止めに使うため移動させた。途中で腕が痛くなり、いったん地面へ下ろして持ち直したが、ヴァルドは文句を言わなかった。
少し離れたところでは、リュミエラが荷車を繋いだ馬へ話しかけていた。
「……あなたも大変だったのね。少しだけ辛抱してくれるかしら。もうすぐ、また歩けるようになるから」
馬は銀髪の女性を不思議そうに見つめ、鼻先を近づけた。彼女が手を差し出すと、しばらく匂いを確かめてから、落ち着いた様子で首を下げる。ヴァルドはその光景に目を丸くした。
「おいおい、そいつは知らない人間にはあまり懐かないんだぞ。あんた、馬の扱いに慣れているのか?」
「……ずっと昔、動物たちと暮らしていたことがあるの。けれど、この子のことはまだよく知らないから、勝手なことはしないわ」
「妙に気に入られたらしいな。馬が落ち着いていりゃ、こっちも作業がしやすい。助かるよ」
リュミエラは少し意外そうに礼を受け止め、それから小さく笑った。ハズキはその横顔を見て、彼女の表情が昨夜よりも柔らかくなった気がした。
やがて準備が整うと、三人は車輪を引き上げる作業へ移った。ヴァルドが手綱を持って馬を少しずつ前へ進ませ、ハズキは支点の位置を確かめながら長い枝へ力をかける。リュミエラは荷の傾きを見守り、車体が横へ流れそうになると、すぐに声を上げて知らせた。
「……少し右へ傾いているわ。ハズキ、今は押さないほうがいいかもしれない」
「はい、止めます! ヴァルドさん、反対側の木が動いてます!」
「見えた、いったん止めるぞ! ……よし、車輪止めをもう少し深く入れよう。よく気づいたな」
車輪が持ち上がりかけては戻り、泥の中へ何度も板を差し直した。想像していたよりずっと時間がかかり、ハズキの額には汗が滲んだ。それでも、誰も彼を責めなかった。上手くいかなければ理由を確かめ、次の方法を考えるだけだった。
最後にもう一度だけ、長い枝へ慎重に力を込めたときだった。
深く沈み込んでいた車輪の外縁が、ぬかるみの上へ顔を出した。ヴァルドが馬へ短く声をかけ、車体がほんの少し前へ進む。板に車輪が載った瞬間、三人は息を合わせて動きを止め、荷車が完全に安定したことを確かめた。
「……上がった!」
ハズキが思わず声を上げた。泥の中に残った深い跡と、道へ戻った車輪を見比べる。ようやく終わったのだと理解すると、全身から力が抜けそうになった。
ヴァルドは大きく息を吐き、肩を回したあと、荷車の車軸を念入りに確かめた。車輪を手で回し、歪みや異音がないことを確認してから、満足そうに頷く。
「よし、壊れてはいない。これなら積み直して走らせられる。……助かったぞ、二人とも。もう少し遅けりゃ、今日の商いは諦めるところだった」
ハズキは嬉しくなって返事をしようとしたが、その前に腕の奥へ鈍い痛みが走った。思った以上に力を使っていたらしく、指先にも疲れが残っている。彼がそっと腕を揉むと、リュミエラがすぐに気づいた。
「ハズキ、痛いの?」
「……少しだけ。でも、怪我じゃないです。久しぶりに重いものを動かしたから、腕が疲れただけだと思います」
彼女は本当にそうなのかと確かめるように顔を覗き込んだ。ハズキは自分で指を開いたり握ったりして、動かせることを見せる。
「もし無理そうなら、もう箱は運ばないようにします。……ちゃんと言いますから」
リュミエラは一瞬驚き、それから目を細めた。今の返事が昨夜の約束に繋がっていると、彼女にもわかったのだろう。
「ええ。そうしてね。私も、あなたの言葉を信じるわ」
積み荷を戻す最後の作業は、ヴァルドが中心になって行った。ハズキは軽い箱だけを運び、リュミエラは中身が倒れないよう押さえる。全てを積み終えた頃には、森の上の太陽が随分高くなっていた。
◇ ◇ ◇
ヴァルドは荷車の隅から、布に包まれた携帯食を取り出した。
硬く焼き締めた丸いパンが三つと、塩を振って乾燥させた豆の小さな包みだった。旅人向けに仕入れた商品らしく、どれも保存がきくよう丁寧に包まれている。ヴァルドはそれらをハズキの前へ並べ、自分の腰へ下げた革袋から小さな銅貨を一枚取り出した。
「こいつが約束の礼だ。長い時間付き合わせたし、二人で手伝ってくれたからな。パンと豆、それから銅貨一枚。どうだ?」
ハズキは差し出されたものを見つめた。食べ物が欲しくて手伝ったのは自分なのに、いざ本当に受け取るとなると、急に手を伸ばしにくくなった。屋敷にいた頃、仕事を終えて何かを求めれば、恩知らずだと罵られた記憶が蘇ってくる。
「……こんなに、もらっていいんですか?」
ヴァルドは眉を上げた。
「足りないってんなら話し合うが、受け取りすぎだって顔をされても困るぞ。俺は約束した。あんたらは手伝った。それで終わりだろうが」
「……はい。でも、俺……」
言葉が続かなかった。何を説明すればよいのか、本人にもわからない。働けば働くだけ次の仕事が増え、何ももらえなくても文句を言うなと教えられてきた。その記憶と目の前の出来事が、うまく繋がらなかった。
ヴァルドはしばらく彼を見つめたあと、銅貨を食料の横へ置いた。
「商売じゃ、礼は気分だけで決まるもんじゃねえんだ。荷車を直すために町から人を呼べば、それだけ時間も金もかかる。二人のおかげで、その手間が省けた。俺にとっては十分な働きだったんだよ」
リュミエラが、ハズキの隣で小さく頷いた。彼女は食料にも銅貨にも手を伸ばさず、ただハズキが自分で受け取るのを待っていた。
「……受け取っていいと思うわ。今度はあなたが、誰かのために働いて、その分を返してもらったのだから」
ハズキはようやく顔を上げ、差し出された包みを両手で受け取った。乾いたパンは少し重く、掌には固い感触が伝わる。それがどうしようもなく嬉しくて、彼は思わず深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に、助かります」
「何度も頭を下げなくていい。今度は自分たちの旅を進めな。長いこと立ち止まらせて悪かったな」
ヴァルドはそう言いながら、馬の背を軽く叩いた。少し間を置いて、二人の進もうとしている道へ目を向ける。
「この先、もう半日ほど進むと、古い石の道標がある。そこから道が二つに分かれるが、町へ向かうなら東側だ。西は伐採場の集落に繋がっていて、俺はそっちへ行く」
「東側ですね。……教えてくれて、ありがとうございます」
「ああ。ただ、あの辺りは雨が降ると水が溜まりやすい。今日のうちに通るなら、石の並んでいるところを選べよ。道の端は見た目より柔らかい」
彼の言葉には、商いの道を何度も通ってきた者ならではの確かさがあった。ハズキは頭の中で進む方向を確かめ、忘れないように声に出して繰り返した。
「……石の道標から東へ。道の端は避ける。わかりました」
「それと、町まではまだ何日もかかる。慌てて歩いて靴を駄目にするなよ。旅人が足を痛めりゃ、食料を余計に使う羽目になるからな」
少しぶっきらぼうな忠告だった。けれど、ハズキは素直に頷いた。マレナが話していたこととも重なる。急いで進もうとするあまり、自分の身体を壊してしまえば意味がないのだ。
ヴァルドが荷車へ乗り込む前、ふとリュミエラへ目を向けた。
「それにしても、あんたは随分変わった旅姿だな。森の中じゃ白い服は汚れるだろう。よほど大切なものなのか?」
リュミエラは自分の衣服を見下ろした。たしかに、泥が跳ねればひどく目立つだろう。何より今の彼女の姿は、街道を行き交う旅人たちの中では珍しいものだった。
「……昔から着ていたものなの。けれど、この世界の旅には向かないのかもしれないわね」
「そりゃそうだ。町へ着いたら、まずは目立たない色の外套でも探すんだな。山の天気は変わりやすいし、白い服じゃ汚れも目立つ」
ヴァルドはそう言うと、少しだけ笑った。
「まあ、あんたらが何者だろうと、荷車を助けてくれたことは変わらん。気をつけて行けよ」
リュミエラは彼の背へ静かに頭を下げた。
「……ありがとう、ヴァルドさん。あなたも、どうか無事に」
馬車は軋む音を立てながら動き始めた。轍の残る道を西へ進み、やがて木々の間へ姿を消していく。ハズキは手の中にある食料と銅貨をもう一度確かめ、しばらくその場から動けなかった。
◇ ◇ ◇
ヴァルドは荷車の上で手綱を握りながら、今しがた別れた二人のことを思い返していた。
最初に見つけたときは、面倒な旅人に声をかけられたと思った。痩せた少年と、森に似合わないほど綺麗な銀髪の女。どちらも盗人には見えなかったが、道端で荷車を止めているときに近づいてくる相手を、簡単に信用するほど長く商人を続けてきたわけではない。
けれど、あの少年は無理に荷へ触れようとせず、できることとできないことを先に確かめた。途中で腕が痛くなれば隠さずに伝え、荷を傷めそうなときには作業を止めた。その慎重さは、多少仕事に慣れている者のものだった。
(……あの若さで、どうしてあんなに遠慮するんだか)
約束した報酬を差し出したときの顔が、妙に心へ残っている。仕事をしたのだから受け取ればいい。それだけのことが、あの少年には難しいようだった。
そして、銀髪の女。
彼女はほとんど何も語らなかったが、少年が痛そうにするたび、まるで自分のことのように表情を曇らせた。一方で勝手に手出しすることはなく、少年が何かを決めようとすると、静かにその答えを待っていた。
(……身内には見えなかったが、互いに大事にはしてるらしいな)
ヴァルドは口元を少し緩め、前を向いた。世の中にはいろいろな旅人がいる。あの二人にも事情があるのだろうが、根掘り葉掘り聞く必要はない。
馬が安定した足取りで歩いているのを確かめると、彼はようやく朝からの苛立ちを忘れた。今日の商いにはまだ間に合う。それなら、あの二人へ渡したパンと銅貨は十分安いものだった。
◇ ◇ ◇
一方、村からの追跡を命じられたトーマとケインは、古い街道沿いの分岐に差しかかっていた。
昨夜の雨は、この辺りにも降っていた。道に残っていた足跡のいくつかは崩れ、荷車の轍へ水が溜まっている。二人は村から町へ続く主な道を中心に探してきたが、ハズキらしい少年と銀髪の女性を見たという確かな話は、まだ得られていなかった。
「……どうします、トーマさん。ここから先も大きな道を追いますか?」
ケインは地図を開き、分岐の先を指さした。片方は人がよく通る街道で、もう片方は古い荷運び道へ続いている。後者は今ではほとんど使われず、二人が普段の巡回で通ることも少ない。
「ハズキが一人なら、町までの道を探して街道へ出たかもしれん。だが、あの女が一緒なら……俺たちの考える通りに動くとは限らんな」
「翼の人、ですか。あの力で遠くへ飛んでいたら、足跡を探しても無駄ですよね」
「そうだな。だからといって、空ばかり見ているわけにもいかん。まずは、村を出た者が通りそうな道を一つずつ確かめるしかない」
トーマは話しながら、地図を畳んだ。昨夜の光景を忘れたわけではない。あれほど怯えていたハズキが、自分の意思で屋敷を出たいと言ったのだ。その声を聞いてなお村長の命令だからと追うことが、正しいのかどうか、彼にはまだ答えが出なかった。
「……トーマさん。もし見つけても、俺、無理に連れ戻すのは嫌です」
ケインの声は小さかった。しかし、ごまかすような笑いはなかった。
「ハズキが困ってたのを、俺たちは知ってたじゃないですか。あのとき何もしなかったのに、逃げたら今度は捕まえに行くって……それじゃ、あいつに何を言えばいいんですか」
トーマはしばらく答えなかった。年若い見回り役が言いにくいことを口にしたのだとわかった。自分も同じ疑問を抱いている以上、簡単に叱ることはできない。
「……村長から言われたのは居場所を確かめることだけだ。少なくとも、手荒なことをしろという命令は受けていない。その約束は守る」
「……はい」
「だが、見つけてからどうするかは、俺たちだけでは決められん。村へ戻って報告することまで含めて、考えておかなくてはな」
ケインは唇を結び、遠くの街道へ視線を向けた。探している少年が今どこにいるのか、二人にはわからない。彼が生きていて、ひどい目に遭っていないことを願うしかなかった。
やがて二人は、もう少し街道を進んでから引き返すことに決めた。薄く残る足跡を一つずつ確かめながら歩いていくが、その道はハズキたちが使っている炭焼き道とは離れていた。
◇ ◇ ◇
ハズキたちは、ヴァルドの荷車が見えなくなってからしばらく、道の脇にある平らな石へ腰を下ろしていた。
作業で使った腕は少し重く、靴にも泥がついている。それでも身体を休めながら受け取った包みを開くと、固焼きのパンから小麦の香りがした。昨夜食べたものより新しいのだろう、表面にはまだ薄い香ばしさが残っている。
「……三つもある」
ハズキは改めて数え、思わず笑ってしまった。屋敷にいた頃、自分が働いて得たものをこうして数える日が来るとは思わなかった。しかも食料だけではなく、小さな銅貨まで手の中にある。
「リュミエラさん、見てください。これ、俺が……いえ、二人で働いてもらったものなんですよね」
「ええ。あなたが仕事を引き受けて、私も一緒に手伝った。その結果、あの人が約束したものを渡してくれたのね」
リュミエラは嬉しそうに答えたが、ハズキの表情を見て、そっと首を傾げた。彼は笑っているのに、どこか泣きそうにも見える。何かを言うべきか迷った末、彼女はただ隣へ座り直した。
「……俺、今まで何をしても褒められることがほとんどなくて。食事をもらうのも、住む場所を借りるのも、全部恩だって言われてました。働いて当然だって、ずっとそう思ってたんです」
言葉にしてから、ハズキは自分の掌へ落ちた銅貨を見つめた。小さく、少し擦り減った硬貨だった。裕福な人にとっては大した価値もないだろう。けれど、今の彼にとっては、生まれて初めて自分の意思で引き受けた仕事の対価だった。
「……だから、嬉しいです。誰かに命令されるんじゃなくて、自分でやるって決めて、ちゃんと終わって……こうして受け取れたのが」
リュミエラは少し目を伏せた。先ほどまで荷を運んでいた少年の姿を思い出す。重い箱を前に自分の力を確かめ、できないことはできないと言い、危ないときには足を止めた。誰かに怒られないようにではなく、自分が選んだことを最後までやり遂げようとしていた。
「……私も、嬉しいわ。あなたが自分で選んだことを、こうして喜べるのが」
「……ありがとうございます。でも、リュミエラさんも手伝ってくれたから、これは二人の報酬です」
ハズキはパンを一つ手に取り、半分に割った。切れ目からこぼれた小さな欠片まで拾い、二人で分けられるように包みの上へ並べる。リュミエラが自分の分を遠慮しかけたので、彼は少しだけ眉を上げてみせた。
「……一緒に働いたんですから、一緒に食べましょう。俺だけもらったら、なんだかおかしいです」
「ふふ。そうね。……それじゃあ、いただくわ」
二人は並んでパンを口へ運んだ。焼きたてではないけれど、香ばしい小麦の味がした。少し硬くても、今朝まで食べていた古いパンとは違う。ハズキはゆっくり噛みしめながら、町へ着いたらもっと温かなパンを買おうと、改めて思った。
「……そういえば、ヴァルドさんに外套のことを言われましたね」
食事の途中で、ハズキはリュミエラの白い衣服へ目を向けた。森を歩いてきたのに、彼女の服は不思議なほど形を保っている。それでも旅人としては目立つし、町へ着いたら周囲から注目されてしまうだろう。
「確かに、今の服は少し目立つかもしれません。町に行ったら、上から羽織れるものを探してみましょうか。……今の銅貨だけじゃ、買えないかもしれませんけど」
「そうね。私は目立つことをあまり気にしていなかったけれど、あなたと旅を続けるなら、考えておいたほうがよさそうだわ」
彼女は少し考えたあと、自分の衣服の袖口を見つめた。古い世界にいた頃の服装と、今の人々の暮らしが違うのは当然なのだろう。だがハズキは、その白い衣服を無理に変えさせたくないとも思っていた。
「……嫌だったら、無理に変えなくてもいいです。リュミエラさんが大切にしてるものかもしれないし」
「ありがとう。でも、守りたいからこそ変えられるものもあると思うの。……あなたが安心して歩けるなら、上から何か羽織るくらいはしてみたいわ」
リュミエラはそこで言葉を切り、ハズキへ目を向けた。
「ただ、ひとつだけお願いしてもいいかしら。もし私が何かをしようとして、あなたが心配になったら……遠慮せず言ってほしいの。あなたが私に無理をしてほしくないと思うように、私もあなたの気持ちを知りたいわ」
ハズキはパンを持ったまま少し考えた。今日の仕事を引き受けるとき、彼女は心配していたはずだ。それでも止めることなく、自分で決めるのを待っていてくれた。反対に、自分も彼女へ心配をかけたくないあまり、できることまで隠そうとしていたのかもしれない。
「……わかりました。俺も、ちゃんと言うようにします。リュミエラさんにも、何かあったら教えてほしいです」
「ええ。約束ね」
彼女はそう答え、最後の小さなパンの欠片を口へ運んだ。二人とも顔を見合わせて笑い、残りの食料を改めて包み直した。今夜と明日をどう過ごすか、少しだけ余裕を持って考えられるようになったのが嬉しかった。
◇ ◇ ◇
午後、二人は再び炭焼き道を歩き始めた。
雨の名残でぬかるむ場所を避けながら進むと、しばらくして道端へ小さな石の柱が現れた。上のほうが欠けているものの、古い文字らしい刻み目が残っている。ハズキはしゃがみ込み、指で土を払ってみたが、読み取れるのは方角を示す矢印だけだった。
「……これがヴァルドさんの言っていた道標かもしれませんね。東側の道は、あっちかな」
「ええ。向こうは少しだけ、人が通った跡が新しいわ。馬車が通るには狭いけれど、歩くなら問題なさそうね」
リュミエラは周囲を見渡し、ハズキが確認を終えるのを待った。彼が荷物の紐を整え、東へ向かう道へ足を踏み出そうとしたとき、ふと彼女は石柱の横へ目を向けた。そこには、長い年月で磨り減った不明瞭な彫り込みがあった。
「……どうかしましたか?」
「いいえ。古いものを見ると、つい足を止めてしまうの。昔はこういう道標にも、作った人の願いが込められていたものだから」
ハズキも改めて石を見つめた。何が書いてあったのかはわからない。けれど、誰かが遠い昔に道を示すため置いたものが、今も旅人の役に立っているのだと思うと、少し不思議だった。
「……この石を置いた人も、誰かが迷わないようにって思ったのかもしれませんね」
「ええ。そうかもしれないわね」
リュミエラは小さく微笑み、少年の隣へ並んだ。彼女が何かを思い出したのかどうか、ハズキにはわからなかった。無理に尋ねなくても、話せる日が来たら教えてくれるだろうと、今はそう思っていた。
東へ向かう道は緩やかに下り、木々の向こうには遠い山並みが見え始めていた。町はまだ何日も先だ。村の追手が今どこを探しているのかも、あの洞窟の水晶がどうなったのかも、二人は知らない。
それでも、ハズキの荷物には今朝までなかった食べ物が入っている。掌には初めて自分で働いて得た銅貨があり、隣には、同じパンを分け合ってくれた人がいる。明日のことを考えるには、今はそれだけでも十分だった。
「……リュミエラさん。町に着いて、仕事が見つかったら、最初のお給料でパンを買いたいです」
「焼きたてのパンね。……ふふ、覚えているわ」
「はい。今度は今日みたいな硬いのじゃなくて、温かいのを二つ買います。一つは俺の分で、もう一つはリュミエラさんの分です」
彼女は少し驚いたように彼を見つめたあと、嬉しそうに目を細めた。長い間、誰かと明日の食事を約束することなどなかった。何を食べたいか、どこへ行きたいか、そんなささやかな話に胸が温かくなる自分が、まだ少し不思議だった。
「……それなら私は、パンに合うものを探してみたいわ。昔、よく食べた甘い果実の煮物があるの。今もどこかで作られているかしら」
「甘い果実の煮物、ですか。……何だか美味しそうですね。町で見つからなかったら、作り方を教えてください。俺も少しなら料理ができますから」
「ええ。覚えているところから、一緒に作ってみましょう」
そうして二人は、まだ見ぬ町の食事について話しながら歩いていった。銀白色の髪が午後の風に揺れ、その隣で少年は何度か笑った。木々の間から差し込む光が道を照らし、二人の足元に長い影を落としている。
かつて世界を憎み、すべてを壊そうとした天使は、まだ自分の過去を語る勇気を持てずにいた。今日出会った行商人の親切が、過去の罪を軽くするわけでもない。それでも、誰かと力を合わせ、働いた対価を受け取り、明日の食事を楽しみにするという当たり前の日々が、今の彼女には大切なものに思えた。
そしてハズキもまた、誰かの命令を待つのではなく、自分でできることを探し、自分で引き受けるという小さな一歩を踏み出していた。いつかその歩みがもっと確かなものになるのか、今はまだわからない。
ただ、二人で働いて手に入れたパンの味だけは、きっと忘れないだろう。




