第3話 夜明けまで、ここにいて
森の奥に見えた黒い影は、ハズキの記憶にあったとおり、古い炭焼き小屋だった。木々の間に身を寄せるように建つ小さな小屋は、屋根の一部が苔に覆われ、壁の板もところどころ色が変わっている。ずいぶん長く使われていないのだろう、周囲には背丈の低い草が伸び、踏み固められていたはずの道さえ夜露に埋もれていた。
「……あった。よかった、場所を間違えていなかった」
思わず漏れた声に、隣のリュミエラが優しく頷いた。彼女は小屋へ駆け寄ろうとするハズキを止めることなく、ただ一歩前へ出て入り口と屋根を見上げる。背中にしまわれているはずの翼の気配を、なぜかハズキは感じた。目に見えない大きなものが、二人を夜の森からそっと隠しているようだった。
「人の気配はないわ。でも、奥に小さな生き物がいるみたい。先に中を確かめてもいいかしら」
「はい。あの、危なかったら無理しないでくださいね。ずっと使ってない小屋だし、床が抜けるかもしれませんから」
そう言ってから、ハズキは少し恥ずかしくなった。ほんの少し前に義母と三姉妹を一歩も動けなくした彼女へ、自分が小屋の床を心配しているのだ。それでもリュミエラは笑わず、真剣な顔で「床も見るわね」と返事をしてくれた。
古い扉は下の角が湿気で膨らんでいて、引いてもすぐには動かなかった。ハズキが手を貸して横へ少し持ち上げると、木が擦れる鈍い音とともに隙間が開いた。リュミエラは足元を照らす光を細く伸ばし、床の端にいた小さな野鼠を見つけると、驚かさないよう静かに入り口のほうへ誘導した。
「ごめんなさいね。今夜だけ、ここを借りたいの」
彼女が真面目に鼠へ語りかけるので、ハズキは返す言葉に迷った。鼠はもちろん答えず、草の中へ走って消えたが、リュミエラは逃げていく小さな背中を見送ってから、改めて小屋の内部へ目を向けた。その仕草がどこか嬉しそうで、ハズキの口元も自然に緩んだ。
中には土の床と、炭の粉で黒ずんだ小さな炉、薪を載せていたらしい木の棚があるだけだった。壁の隙間から風は入るものの、屋根の大部分は残っていて、中央の床は乾いている。古い炭の匂いに混じって湿った木の匂いが漂い、森の外で暮らす人には居心地が悪いだろうが、今夜のハズキには屋根と壁があるだけで十分だった。
「ここなら、少し休めそうです。父さんと森へ来たとき、炭焼きをしていた人の話を聞いたことがあるんです。確か、その人が使っていた小屋のはずで……」
説明しながら、ハズキは土の床を足で確かめ、乾いた場所へ荷物を下ろした。リュミエラはまだ天井を見ていて、梁の端に裂けた箇所がないかを確認している。互いに別のものを確かめていると気づいたとき、ハズキは不意に、二人で何かをすることに慣れていない自分を意識した。
「上の梁はまだ持ちそうよ。ただ、入り口の近くは雨が降ったら濡れてしまうわね」
「じゃあ、奥の壁から少し離れて寝ましょう。もし屋根から水が落ちても、そこなら大丈夫そうです」
「ええ。あなたのほうが、こういう場所のことをよく知っているのね」
褒められたと気づくまで、少し時間がかかった。父から教わったことと、日々薪を運ぶうちに覚えたことを話しただけだったからだ。屋敷では働けて当然、失敗すれば罰を受けるものだったのに、リュミエラは当たり前の知識を大切なものとして受け取ってくれる。
ハズキは小さく笑いかけ、しかしすぐに自分の身体が震えていることに気づいた。森の冷え込みだけではない。屋敷を出てからずっと歩き続け、ようやく足を止めたことで、張り詰めていたものが一気に緩んだのだろう。指先が上手く動かず、荷物の紐をほどこうとしても何度も滑った。
「……ハズキ?」
「すみません、少し手が……。寒いだけですから、大丈夫です」
そう答えた途端、自分がまた反射的に謝っていることに気づいた。リュミエラもそれを咎めず、彼の手元にしゃがみ、しばらく言葉を選ぶように沈黙した。
「私に、何か手伝えることはある?」
「……荷物から、上着を出してもらってもいいですか。自分でやろうと思ったんですけど、紐が上手くほどけなくて」
「もちろんよ」
彼女は頼まれたものだけを取り出した。薄く擦り切れた上着を広げ、袖のほつれを見て少し眉を寄せたが、何も言わずハズキへ手渡す。彼は受け取って肩へ掛け、ようやく息を長く吐くことができた。
リュミエラは戸口のそばに立ち、森へ視線を向けた。そこには、まだ夜が広がっている。屋敷からは相当歩いたつもりだったが、追手が動けばいずれ近くを通るかもしれないし、村で起きたことが知られれば別の道から人が来るかもしれない。
「少しだけ、外の気配を確かめるわ。ここから遠くへ行くつもりはないし、あなたを一人にしない。見えるところにいるわね」
その言葉を聞いた途端、ハズキは顔を上げた。どうして彼女がわざわざそう告げたのか、考えるまでもなかった。自分が不安そうにしているのを見抜いて、先に説明してくれたのだ。
「……はい。ありがとうございます。気をつけてください」
リュミエラが戸口へ出ると、足元を照らしていた光が小さくなった。ハズキは床へ腰を下ろし、夜の静けさに耳を澄ませる。葉の擦れる音、沢のせせらぎ、遠くで鳴く夜鳥の声。何も怖くないと思うのは難しかったが、それでも扉の外に彼女の姿が見えると、呼吸が少し楽になった。
彼は自分の手首を見た。消えずに残る薄い痣は、これまでの一年が夢ではなかったことを告げている。けれど肩にあった新しい痛みは消えていて、手元には父の残した指輪がある。村から出ることも、痛みを治してもらうことも、つい数時間前までは想像していなかった。
(……本当に、出られたんだ)
思った途端、涙が一粒落ちた。理由を考えようとしても、嬉しいのか怖いのか、自分でもうまく区別できない。ハズキは慌てて袖で目元を拭ったが、胸を震わせる息までは抑えられなかった。
戸口から戻ってきたリュミエラは、すぐには近づかなかった。彼の様子を見て、驚かせない距離へ腰を落とす。その視線には憐れみよりも、目の前の相手がどうしてほしいのかを知ろうとする慎重さがあった。
「……今は、そばにいてもいい?」
ハズキは袖で顔を隠したまま頷いた。リュミエラが隣に座ると、衣服がわずかに擦れる音がした。彼女はそれ以上何かを尋ねず、小屋の外から聞こえる音に耳を澄ませ、ただ一緒に座っていた。
「俺、ずっと……誰かに助けてほしかったんです」
声が勝手にこぼれた。リュミエラは顔を向けたが、話の先を急かさない。ハズキは両手を膝の上で握り、言葉を一つずつ探した。
「でも、助けてって言ったら、もっとひどいことをされると思って……。村の人だって困るし、父さんが亡くなってから、誰に何を頼めばいいのかもわからなかった。だから、俺が我慢すればいいって、そう思うようにしてたんです」
「……長い間、そうしていたのね」
「昨日までは、逃げたら全部終わると思ってました。でも今、こうして休んでるのに、いつ誰かが来るかって考えてしまって……。自分でも、情けないなって」
「情けないことではないわ。怖かった時間が長ければ、怖くなくなったと身体がわかるまでにも、時間がかかるでしょう」
その言葉は、怪我を治したときと同じように静かだった。ハズキは返事をせず、ただ口元を結んだ。こんな場所で涙を見せるのは嫌だったが、彼女がこちらを責めないことに気づくほど、我慢する理由がわからなくなっていく。
「……本当は、父さんが死んだときも、もっと泣きたかった」
その言葉のあとに、長い沈黙が落ちた。リュミエラは何も言わず、膝の上に置いた両手を見つめていた。手を伸ばしかけて、途中で止めたのを、ハズキは横目で見ていた。
「……手を、握ってもいいかしら」
「はい。……お願いします」
差し出された手は、夜気の中でも温かかった。彼女は手の甲を包むようにそっと握り、力を込めすぎないようにしてくれた。ハズキは最初こそ戸惑ったが、やがて握り返し、そのまま父のことや、屋敷で怖かった夜のことを少しずつ話した。
何もかもを一晩で言葉にできたわけではない。途中で声が途切れれば、リュミエラは待った。説明できない苦しさを無理に言葉へ変えなくてもよいのだと、彼女は口で教えるのではなく、その態度で伝えてくれた。
◇ ◇ ◇
ハズキの呼吸が落ち着いた頃、リュミエラは小屋の外で小さな気配が動いたことに気づいた。獣の匂いが風に混じり、草がゆっくり踏み分けられる音が近づく。少年の手を放す前に、彼女はそっと声をかけた。
「外に、何かいるわ。すぐそばまでは来ていないけれど、一度だけ見てくる。ここで待っていてもらえる?」
ハズキは身体を強張らせたものの、すぐに頷いた。自分だけで何かできるとは思えないが、先ほどの鼠のような小動物なのか、それとももっと大きな獣なのか気になった。彼女が光を消して戸口へ向かうのを見送り、静かに耳を澄ませた。
草の向こうで、低い鼻息が聞こえた。月明かりの差す場所に姿を現したのは、肩の高さがハズキの腰ほどもある、灰色の毛並みをした獣だった。大きな狼に似ているが首回りの毛が厚く、夜の森で餌を探していたらしい。小屋の匂いに気づいたのか、地面へ鼻を近づけている。
「リュミエラさん……!」
思わず声が漏れ、ハズキは自分の口を押さえた。獣は顔を上げたが、リュミエラは振り返らなかった。目の前の相手を見つめ、指先をわずかに動かす。
獣の進む先に、淡い白い光が浮かんだ。強く照らすのではなく、葉の上を滑る蛍のようにゆっくり遠ざかっていく。その光を警戒した獣は足を止め、やがて鼻を鳴らすと、光とは反対側の茂みへ身を翻した。
遠ざかる足音が聞こえなくなるまで待って、リュミエラは小屋へ戻ってきた。ハズキが安堵して息を吐くと、彼女も小さく微笑む。
「追い払えたわ。あの子も、お腹が空いていただけみたい。ここを狩り場にしているのでしょうね」
「襲ってこなくて、よかったです。俺、一瞬……また、何か怖いことになるんじゃないかって」
「私も、あの子を傷つけずに済んでよかったと思う。あなたが、殺さないでと止めてくれたでしょう。あの言葉が、まだここに残っているの」
リュミエラは胸元へ手を当てた。自分に言い聞かせるというより、そこに生まれた新しい感覚を確かめるような仕草だった。ハズキは首を傾げたが、彼女の言葉を否定することはしなかった。
「でも、危ないときには無理をしないでください。俺を守ろうとして、リュミエラさんが怪我をしたら嫌です」
「……私の怪我を、心配してくれるの?」
「しますよ。助けてもらったからってだけじゃありません。一緒に旅をするんですから」
彼女の瞳が揺れた。次の言葉を見つけるまで、わずかに時間がかかる。ハズキが何か変なことを言っただろうかと不安になる頃、リュミエラはゆっくり頷いた。
「ええ。そうね。……一緒に旅をするのだものね」
彼女はその言葉を大切にするように、もう一度小さく繰り返した。
◇ ◇ ◇
小屋には古い木箱が一つ残っていた。中身は空だったが、裏返せば簡単な台になる。ハズキはそこへ荷物を載せ、食べ物をできるだけ地面から離した。外へ漏れる煙が気になったので火は焚かず、寒さをしのぐために棚の奥から乾いた麻布を探してきた。
使われずに残された布は埃をかぶっていたが、大きく破れてはいない。ハズキは何度か振って汚れを払い、上着の上から膝へ掛けた。寝台のない場所で夜を明かすことは初めてではないけれど、誰かと並んで休むのは、父と森へ出かけた幼い頃以来だった。
「リュミエラさんは、眠らなくても平気なんですか?」
「今は、まだ眠くないわ。眠るということがどんな感じだったか、思い出すのにも時間がかかりそう。でも、あなたは休んで。外の気配は、私が見ているから」
ハズキはすぐには横になれなかった。誰かが起きている間に自分だけ眠ると、次に目を開けたとき怒られる。屋敷で身についた習慣が、自由になったはずの身体へしつこく残っていた。
「……俺が寝ている間に、何かあったら起こしてください。それと、朝になったら水を汲んで、町への道を探したいです」
「わかったわ。危険が近づいたら起こすし、朝は一緒に水を確かめましょう。今は、何か仕事をしなければと考えなくていいのよ」
あまりに優しく言われて、ハズキは返事を探せなかった。床へ横になり、荷物を枕代わりにしても、目を閉じるだけで心臓が早くなる。離れで聞いていた足音や、鞭が床を叩く音が、静かな森の音に紛れて蘇る。
リュミエラは隣で膝を抱えていた。背中を壁に預け、戸口へ目を向けたまま、時々ハズキの様子を確かめる。彼女がそこにいるとわかるだけで、閉じた瞼の裏に浮かぶ屋敷の光景が少し遠のいた。
「……おやすみなさい、ハズキ」
「……おやすみなさい、リュミエラさん」
その挨拶を、ハズキは最後にいつ口にしただろう。父が生きていた頃、寝台へ入る前に必ず交わしていた、何でもない言葉だった。誰かが自分の眠りを当たり前に受け止めてくれることが嬉しくて、彼は上着の襟へ顔を埋めた。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。リュミエラは少年の眠る顔を見つめながら、胸の中に浮かんだ感情の名前を探した。安心に似ているが、それだけではない。自分が何かを守れたことへの安堵と、これから先に失うかもしれないものへの恐れが、同じ場所に存在していた。
遠い昔、自分も誰かの眠る姿を見守ったことがあった。暖炉の火が揺れる部屋で、仲間が旅の疲れに負けて眠り、目覚めたら一緒に朝食を作ろうと笑い合った。あの人たちは、どんな声で笑っただろう。思い出そうとすれば、祝宴の床へ倒れた姿が先に浮かんでしまう。
(……私は、また誰かを大切にしてしまったのかしら)
その考えに、リュミエラは自分で戸惑った。ハズキを思う気持ちは、まだ何と呼べばよいのかわからない。けれど、彼が小さかった頃から聞いてきた声を失いたくないと思い、今夜はその身体が傷つくのを見ていられなかった。
仲間を奪われたあの日、自分は憎しみのまま力を振るった。直接裏切った者だけではなく、何も知らなかった人々の命まで奪った。燃える町で泣いていた子供の声を、思い出したくないと思っても、忘れたことはなかった。
(あの子は、私がしてきたことを知らない)
ハズキにすべてを告げたら、今夜のように手を取ってくれるだろうか。答えはわからず、わからないことが怖かった。だからこそ、彼が「ちゃんと考える」と言ったことを、リュミエラは何度も胸の中で繰り返した。
必ず許すとも、何をしても離れないとも言わなかった少年。それでも、助けてもらったことだけは本当だと伝えてくれた。その言葉の誠実さが、長い孤独の中で忘れていたものに触れた気がした。
彼女は自分の掌を見つめた。あの屋敷で、黒い力が指先へ集まった瞬間、何人もの顔が過去と重なって見えた。もしハズキが止めなければ、もう一度、取り返しのつかないことをしていたかもしれない。
「……ありがとう」
眠る少年へ届かないほど小さな声で、リュミエラは呟いた。過去を消すことはできないし、助けを求めた人すべてを救えるとも思っていない。ただ、今夜だけは、目の前の一人が穏やかに眠れるようにしていたかった。
◇ ◇ ◇
深夜を過ぎた頃、ハズキは突然、短い悲鳴とともに目を覚ました。
「……っ、やめ……! ごめんなさい、もうしません……!」
身を起こした彼は、壁へ背中を押しつけ、両腕で頭を庇っていた。目は開いているのに、小屋の中が見えていないかのようで、肩が細かく震えている。リュミエラは咄嗟に伸ばしかけた手を止め、彼の正面ではなく少し横へ移った。
「ハズキ。ここは、森の炭焼き小屋よ。屋敷ではないわ。私の声が聞こえる?」
「……俺、まだ……仕事が……」
「今夜の仕事は、もう終わったの。あなたは村を出て、ここまで歩いてきた。足元に荷物があるでしょう。右手には、お父様からの指輪があるわ」
ハズキの視線がゆっくり下がった。指に嵌まった赤い石は暗いままだが、その輪郭に触れた途端、彼は少しずつ息を整え始めた。リュミエラは彼が顔を上げるまで待ち、ようやく目が合ったところで小さく微笑んだ。
「……夢、だったんだ」
「ええ。怖い夢を見たのね」
「すみません、起こしてしまって……。俺、いつもは、こんなふうに騒がないんですけど」
謝る声があまりに慣れていて、リュミエラの胸が痛んだ。しかし彼女はその痛みを怒りに変えず、今は少年の話を聞くことだけに集中した。
「私が眠っていなかったのは、さっき話したでしょう。だから起こしたことを気にしなくていいわ。……水を飲む? あなたが持ってきた水袋、ここにあるわよ」
「……はい。少しだけ」
ハズキは水袋を受け取ると、ほんの二口だけ飲んだ。貴重な水だと思うと多くは飲めなかったが、喉の奥が潤うにつれて、自分が今どこにいるのかを少しずつ思い出せた。夢の中ではまた離れの床にいて、義母が扇を振り上げていた。目を開けてもその光景がすぐには消えなかったことが、彼にはたまらなく怖かった。
「……一緒に寝ても、いいですか。あの、近くにいてもらうだけでいいので」
言い終えると、顔が熱くなった。十六歳にもなって、怖い夢を見たから隣にいてほしいと頼むなんて、子供じみているかもしれない。そう思ってうつむくと、リュミエラは優しく首を振った。
「もちろんよ。どこに座れば安心できるか、教えてくれる?」
「……ここで。すぐ横に、いてくれたら」
彼女は言われた場所へ座り、壁に背中を預けた。触れてほしいとは言われていないので、手を伸ばさず、ただ距離を詰める。ハズキは少し迷ったあと、その衣服の端を二本の指でそっと掴んだ。
「……こうしていても、いいですか」
「ええ。大丈夫よ。離してほしくなったら、いつでも言ってね」
リュミエラはそう答え、彼の指を見つめた。昔、眠れない子供のために子守歌を歌ったことがある。けれど、その歌を思い出そうとすると、声を向けていた子供がどんな顔をしていたのか、今は上手く思い出せなかった。
「昔の歌を、歌ってもいいかしら。とても古いから、あなたは知らないと思うけれど」
「……聞いてみたいです」
リュミエラは頷き、声を小さく響かせた。森を眠らせ、夜明けの光を待つ旅人のための歌だった。言葉の一部はハズキの知らない響きだったが、ゆっくりと繰り返される旋律には、不思議と胸を落ち着かせる温もりがあった。
歌が終わる頃、彼の握る指から力が抜け始めた。完全に眠りに落ちる前に、ハズキは小さく「ありがとう」と呟き、今度は怯えることなく目を閉じた。リュミエラは返事を控え、衣服を掴んだ指が自然に離れるまで、同じ場所に座っていた。
窓のない小屋の入り口から、少しだけ白んだ空が見え始める。彼女はその色を眺めながら、封印されていた頃には決して触れられなかった夜明けを、静かに待った。
◇ ◇ ◇
同じ頃、村長の屋敷では、夜明けを前にして誰も落ち着いて眠ることができずにいた。
庭へ出たディルクは、地面に広がる黒い影を見下ろしていた。母と三人の妹たちは依然としてその場から動けないが、命に別状はなく、使用人が運んだ水を飲むこともできた。影から無理に引き離そうとした見回り役は、足先に冷たい抵抗を感じて諦めたという。
「……一晩で消えると、あの女は言ったんだな」
ディルクの問いに、見回り役の男が頷いた。ハズキの荷物を拾って渡した男だった。長年村の見回りを続けてきたトーマは、今も灯りを手に持ったまま、緊張を隠せずにいる。
「はい。声は穏やかでしたが、俺には……どうにも、人とは思えませんでした。あの翼を見た者もほかにいますし、村の外へ出ていったことまで、隠し通すのは難しいでしょう」
「噂にするな。余計なことを言えば、村が混乱する」
「……俺一人が黙っていても、難しいと思います」
トーマの返事に、ディルクは苛立ったように息を吐いた。自分が村長になってから一年、こんな事態は初めてだった。母がハズキへ厳しいことをしているのは知っていたが、いずれ結婚させて家を出すのだから、今さら大きな問題にする必要はないと考えていた。
だが、あの銀髪の女が言ったことを、無視することもできない。
『村長であることと、誰かを傷つけてよいことに、どんな関係があるの?』
たった一言だった。けれど、周りにいた使用人たちの視線を思い出すと、ディルクは胸の奥が落ち着かなかった。自分が何も知らなかったと言ったところで、それを信じる者が何人いるだろう。
「夜が明けたら、人を出す」
「追いかけるんですか」
「母上が黙っていないだろう。相手の家にも話をつけなければならん。……だが、あの女に手を出せという命令はしない。二人がどちらへ向かったのか、確かめるだけだ」
トーマは頷かなかった。彼は庭の影へ目を向け、しばらく考えたあと、慎重に口を開いた。
「村長。ハズキは、逃げる前から町への道を知ろうとしていたようです。……あの子が戻りたくないと言ったことも、俺は聞きました。探すなら、見つけて何をするつもりなのか、先に決めておいたほうがいいと思います」
ディルクは睨み返しかけ、言葉を止めた。そういえば、ハズキが父の葬儀で泣いていたとき、自分は最後に何を言っただろう。困ったら相談しろと約束したことは覚えている。けれど、それを守った記憶はどこにもなかった。
「……明けてから、考える」
短い返事を残し、彼は屋敷へ戻った。トーマは遠ざかる背中を見送りながら、黒い影の縁に朝の光が差し込むのを待った。
◇ ◇ ◇
ハズキが次に目を開けたとき、小屋の入り口は薄い金色に染まっていた。
森の鳥が枝の上で鳴き、夜の湿った空気に朝の新しい匂いが混じっている。彼は一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなり、慌てて身体を起こした。けれどすぐ横に座るリュミエラの姿を見つけ、昨夜の出来事がゆっくりと胸へ戻ってきた。
「……おはようございます」
「おはよう、ハズキ。よく眠れたかしら」
彼女は窓辺に差す光を見つめるような、穏やかな顔をしていた。ハズキの衣服はまだ肩へ掛かったままで、荷物も昨日と同じ場所にある。誰かが入ってきた形跡はなく、屋敷で聞いていた足音も、罵る声も聞こえなかった。
「……はい。途中で起こしてしまったけど、そのあと、また眠れました。歌、ありがとうございました」
「こちらこそ、聞いてくれてありがとう。あの歌を覚えていたことが、自分でも少し嬉しかったの」
リュミエラはそう言って笑った。よく見れば、彼女の目元にはほんのわずかに疲れがあるようにも見えた。昨夜はずっと起きていたのだから当然なのかもしれないと考え、ハズキは思わず尋ねた。
「リュミエラさんも、少し休みませんか。俺が起きてる間なら、見張りくらいはできます」
「ありがとう。でも、もう少し先で休むことにするわ。今はまだ、身体の感覚を確かめているところだから」
「……無理はしないでくださいね」
「ええ。あなたもね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。それからハズキは立ち上がり、入口の外へ顔を出した。木々の間から差し込む朝日は柔らかく、昨日までは同じ空の下にあった屋敷が、今はずっと遠くのものに思えた。
これから何をすればいいのかを、彼は頭の中で並べた。まず水を確保すること。次に食べ物の残りを数えること。そして、太陽が高くなる前に歩き始め、村の人間がよく使う道を避けながら町へ向かうことだった。
「少し、沢を見てきます。昨日話した通り、水を汲んで……できれば沸かしたいんですが」
「一緒に行くわ。昨夜、近くに獣がいたもの」
「そうですね。じゃあ、お願いします」
二人で沢へ行くと、朝日に照らされた水が石の間を流れていた。ハズキは水の匂いと上流の様子を確かめたあと、持ってきた水袋を脇へ置いた。昨夜から残っている水はほんの少ししかない。
小屋へ戻って炉を見たが、使えそうな鍋はなかった。炭の粉に埋もれた古い鉄の輪や、割れた容器の破片だけが残っている。ハズキが困った顔をすると、リュミエラは沢から汲んだ水を掌に少し載せ、静かに目を閉じた。
「……昨日は、確かめもしないまま安全だとは言いたくなかったの。今なら少し、できることがわかるわ」
「魔法で、水をきれいにできるんですか?」
「ええ。昔は人が暮らす村でもしていたことなの。ただ、封印から出てすぐは力の具合がわからなかったから、慎重にしたかったのよ」
彼女の手に淡い光が灯り、水面の上へ小さな輪が広がった。ハズキには何が変わったのかわからなかったが、リュミエラは一度止めて、今度は周囲の水へ同じことを繰り返した。確かめながら少しずつ量を増やしているのが、動きから伝わってくる。
「この水なら、飲めるように整えられたわ。あなたの水袋へ移してもいい?」
「はい。助かります。でも、疲れたりしませんか」
「このくらいなら、大丈夫。もし負担を感じたら、すぐに言うわ」
水袋が満ちるにつれて、ハズキは安堵した。残っていた食べ物は多くないが、水があるだけでも歩ける距離は変わる。彼は何度も礼を言いそうになり、代わりに、次は自分ができることを探そうと考えた。
小屋へ戻ると、ハズキは干し肉を小さく分け、二人分の朝食を用意した。リュミエラは必要ないと遠慮しかけたが、彼が「一緒に食べたいです」と言うと、少し嬉しそうに受け取った。固いパンを小さく齧りながら、彼女は昨夜と同じように、懐かしい味がすると微笑んだ。
「町へ着いたら、焼きたてのパンを買いたいですね。村の市場で売ってたのは高くて、俺にはなかなか買えなかったんです」
「焼きたてのパン……。いいわね。あなたが食べたいものを、選べるといいわ」
「はい。それに、仕事も探さないと。俺、畑仕事と薪割りくらいしかまともにできないと思ってたけど、掃除や料理の下ごしらえも少しはできるし……何か役に立つことがあればいいな」
話しながら、ハズキは昨日までの自分と違うことを言っているのに気づいた。働かなければ叩かれるから仕事をするのではなく、食べたいものを買うために仕事を探す。たったそれだけの違いが、今は途方もなく大きく思えた。
「あなたは、できることをたくさん持っているのね」
「そ、そんな。家では、できて当然って言われてましたから」
「できて当然のことでも、あなたが頑張って覚えた事実は変わらないわ。……私はこの世界の今の暮らしを、ほとんど知らない。だから、あなたに教えてもらいたいことがたくさんあるの」
ハズキは思わず彼女を見た。昨日までは自分が守られるばかりだと思っていたのに、彼女は自分の知識を必要としてくれている。何が役に立つのかわからないまま、胸に小さな嬉しさが広がった。
「……俺でよければ、何でも聞いてください。知らないこともいっぱいありますけど、一緒に考えることはできますから」
「ええ。それが、とても心強いわ」
リュミエラが微笑むと、朝の光が銀白色の髪を透かした。ハズキは一瞬だけ見惚れ、慌てて食事へ目を戻す。水晶の中で眠る彼女を綺麗だと思ったことは何度もあったが、笑顔を向けられると、まだどうしていいかわからなかった。
◇ ◇ ◇
荷物をまとめ終えた頃、村の方角から遠くに鳥が飛び立つのが見えた。
リュミエラは足を止め、風の流れへ耳を傾けた。すぐ近くに人の気配はない。それでも、昨日の村で夜が明ければ何かが動き出すだろうという予感は、彼女にもあった。
「……あの村から、追ってくる人がいるかもしれないわ」
「やっぱり、そう思いますか」
「ええ。でも、今ここに誰かがいるわけではないの。慌てずに進みましょう。あなたが知っている道のこと、もう一度教えてくれる?」
ハズキはしゃがみ込み、乾いた地面へ小枝で線を描いた。村から町へ向かう大きな道と、そこへ出るための森の細道。昔、薪を運んだときに使った沢沿いの迂回路も思い出し、どこまで確かな記憶かを一つずつ説明した。
「このまま真っ直ぐ行くと、昼過ぎには村の人も使う道へ出ると思います。でも、追われるなら、少し南へ回ったほうがいいかもしれません。遠回りになるけど、沢を辿れば道を見失いにくいです」
「そうね。あなたは十日かかると言っていたから、急ぐほど身体がもたなくなるわ。道を外れすぎず、人の往来も避けられるところを選びましょう」
「……俺、全部リュミエラさんに任せればいいのかなって、少し思ってました。すごい魔法で、すぐ町まで行けるのかもしれないって」
打ち明けると、彼女は困ったように微笑んだ。責める顔ではなかった。
「空を飛ぶことはできるわ。でも、封印から出たばかりの力で、あなたを抱えて長く飛び続けるのは怖いの。途中で何か起きたら、あなたを危険に晒すことになる。……それに、あなたが自分の足で歩いて行きたいなら、その気持ちも大事にしたいわ」
「……ありがとうございます。俺も、少しずつ確かめながら進みたいです」
ハズキは地面の線を手で消し、小枝を脇へ置いた。まだ知らない世界へ向かうのだから、失敗することもあるだろう。それでも、自分の考えを口にして、誰かと相談して決めるということが、こんなに落ち着くものだとは知らなかった。
小屋を出る前に、彼は一度だけ振り返った。黒ずんだ炉、隙間のある壁、夜の間に何度も見上げた梁。立派な場所ではなかったが、ここは昨夜、自分が初めて安心して眠れた場所になった。
「……ありがとう。今夜、ここに泊まれてよかった」
小屋へ向かって呟くと、リュミエラが不思議そうに顔を向けた。
「小屋に、お礼を言ったの?」
「はい。変ですか?」
「いいえ。……少し、懐かしくなっただけ。昔、私の知っていた人たちも、旅を終えるたびに泊まった場所へお礼を言っていたの」
その言葉のあと、リュミエラはしばらく小屋を見つめていた。目元に浮かんだものが懐かしさなのか悲しみなのか、ハズキにはわからなかった。ただ、彼女にも戻れない場所があるのだと、初めて実感した。
「……行きましょうか、リュミエラさん」
「ええ。行きましょう、ハズキ」
朝の森へ、二人の足音が重なった。沢沿いの道はまだ冷たく、湿った草が服の裾を濡らす。それでも夜の闇の中を歩いていたときより、木々の向こうに何があるのかを確かめやすかった。
ハズキが先を歩き、リュミエラはその隣で周囲を見守る。ときには足元の石を教え、ときには見つけた花の名前を尋ねる。知らない花を見つけたとき、彼女は立ち止まりたそうにしたが、ハズキが今は進もうと伝えると、素直に頷いて歩き出した。
少し進んでから、ハズキは自分でも驚くほど自然に口を開いた。
「……町に着いたら、まず何をしたいですか?」
「そうね。あなたが安心して休める場所を見つけたいわ。それから……できることなら、あなたと一緒に朝の市場を歩いてみたい」
「市場、ですか?」
「ええ。野菜の匂いがして、人が今日の献立を考えていて、パンを焼く匂いがする場所。……昔、そんな朝が好きだったの」
ハズキは少し考えて、それから笑った。十日先の町がどんなところか、自分はまだ知らない。けれど、もし朝の市場があるなら、きっと彼女と一緒に歩いてみたいと思った。
「じゃあ、町に着いたら、一緒に探しましょう。焼きたてのパンを売ってる店も」
リュミエラは目を細め、嬉しそうに頷いた。
「……ええ。約束ね」
世界を憎んだ天使は、まだ人々を信じ直したわけではない。少年も、明日からの暮らしに何の不安もなくなったわけではなかった。それでも二人は、誰かに決められた道ではなく、自分たちで選んだ道を、同じ朝の光の中で歩き始めていた。
その行き先にどんな出会いが待っているのか、二人はまだ知らない。ただ、次に訪れる朝を、ほんの少しだけ楽しみにしている。それは彼らにとって、決して小さな変化ではなかった。




