第2話 その手を取って、夜の向こうへ
白い翼が、ハズキの肩を覆うように広がっていた。
背後には冷たい離れの壁があり、目の前には先ほどまで自分を追い詰めていた家族がいる。それなのに、ついさっきまで身体を締めつけていた恐怖は、目の前に降り立った女性の姿を見つめるうちに、別の何かへと変わり始めていた。紫の水晶の中で、何年も静かに眠っていたはずの彼女が、自分の声を聞いていたと言ったのだ。
「……本当に、あの洞窟の……?」
問いかける声は震えた。女性はそのことを笑わず、少しだけ膝を折って、彼と目の高さを近づける。長い銀白色の髪が肩から流れ、その向こうで黒い翼がゆっくりと揺れた。
「ええ。あなたが小さかった頃から、ずっとあそこにいたわ。あなたが初めて一人で来た日のことも覚えている。森で拾った木の実を三つ並べて、どれが一番きれいか、私に尋ねてくれたでしょう?」
ハズキは息を呑んだ。あまりに昔のことで、本人でさえすっかり忘れていた出来事だった。父と一緒に来られなくなったある日、寂しさをごまかそうと水晶の前に木の実を並べ、答えのない問いを繰り返した記憶が、ぼんやりと蘇る。
「……覚えて、いたんですか」
「忘れられなかったの。何も見えないような長い時間の中で、あなたの声だけは、いつも私のところまで届いたから」
彼女はそう言って微笑んだ。その表情は幼い頃から想像していたものよりずっと柔らかく、ハズキはほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じた。しかし、その安堵を裂くように、鋭い声が上がった。
「何を勝手に話しているの! ハズキ、こちらへ来なさい!」
義母だった。鉄製の扇を握りしめ、彼女は恐怖を怒りで押さえつけるような顔をしている。ルルとユユは一歩ずつ後ずさっていたが、義母だけは村長家の者として命令すれば従うはずだと信じているのか、天使を睨みつけた。
「あなた、いったい何者なの? うちの子に無断で近づいて、何をするつもり?」
その言葉に、ハズキの肩がぴくりと跳ねた。「うちの子」と呼ばれたことは、この一年で数えるほどしかない。しかもそれは、いつも外の人間へ事情を取り繕うときだけだった。
銀髪の女性は、義母へ静かに顔を向けた。ハズキと目を合わせていたときの温かさは薄れ、代わりにひどく澄んだ、底の見えない瞳が彼女を捉える。
「今、あなたはこの子を『うちの子』と呼んだのね」
「そうよ。私はこの家の――」
「それなら、なぜこの子の肩に、新しい傷があるの?」
柔らかな声だった。怒鳴ったわけでも、責め立てたわけでもない。それでも義母は続けようとしていた言葉を失い、ハズキ自身も反射的に痛む肩を押さえた。
「腕にも古い痣がある。手には働き続けた跡があって、着ているものは何度も繕われている。……何より、この子はあなたたちを見ただけで、息をすることさえ苦しそうになるのね」
「そ、それは……躾よ! 恩知らずだから、少し厳しくしているだけで――」
「躾というのは、相手に恐怖を覚えさせて従わせることなのかしら」
問いかけは穏やかなままだった。しかし、庭の空気が徐々に重くなっていく。月明かりの下、黒い翼の羽先から薄い影が地面へ伸び、義母の靴先に触れた。
「ひっ……!」
義母が悲鳴を上げて飛び退いた。同時にルルが鞭を構え、半ば反射的に一歩踏み込む。
「お母様に何をしたのよ! あんた、化け物なんでしょう!」
「ルル姉さん、待っ――」
ハズキの制止より先に、鞭が唸った。狙いは銀髪の女性の顔だったが、鞭先は届かなかった。何もない空間にぶつかったように止まり、そのまま持ち手からするりと抜け落ちると、空中で黒い影に包まれた。
革の鞭は音もなく地面へ落ちた。切られても燃やされてもいないのに、ルルは自分の手を押さえ、信じられないものを見る顔で立ち尽くした。
「あなたの手は、誰かを傷つけるために動くのね」
天使の声音から、先ほどまでの温もりが消えた。
「この子はずっと、あなたたちを怖がっていた。逃げたいと願って、ようやく一歩を踏み出したのに、その最後の道まで塞いだ。……それほどまでに、この子が笑うことを許せないの?」
黒い翼がゆっくりと持ち上がる。庭に落ちた影が幾重にも重なり、屋敷の窓に灯っていた明かりさえ、遠く感じられた。ハズキは思わず女性を見上げた。彼女の顔には怒りがあったが、声は少しも荒れていない。その静けさが、かえって恐ろしかった。
ルルが後ろへ退こうとした瞬間、足元の影が細い帯のように伸び、彼女の足首へ絡みついた。ユユとララも同じように動けなくなり、義母の手から鉄扇が落ちる。誰一人傷つけられていない。それでも、四人の顔から血の気が引いていくのがわかった。
「やめて……! いや、いやよ、こんなの!」
ユユが泣き声を上げた。ララは何か命令しようとして、言葉が出ないまま唇を震わせている。ついさっきまでハズキの絶望を笑っていたルルでさえ、目の前にいる存在から視線を逸らせず、ただ浅い呼吸を繰り返していた。
女性が右手を上げると、その指先へ暗い光が集まった。地面に落ちた枯れ葉が、風もないのに震え始める。
「その痛みを、少しでも理解できれば――」
「……待って!」
ハズキは気づけば声を張り上げていた。彼女の衣服の裾を掴み、こちらを向いてくれるまで離さなかった。天使の瞳が自分へ戻った瞬間、空気を満たしていた重圧がわずかに緩む。
「お願いです。……殺さないでください」
そう口にした自分に、ハズキ自身が少し驚いた。この人たちを許せるわけではない。痛めつけられた日々を思い出せば、今でも足がすくむし、二度と顔を合わせたくないと思っている。それでも、目の前で誰かが命を奪われるところを見たくなかった。
「……あなたを、あんなふうに傷つけた者たちよ」
「わかってます。でも、俺は……俺のために、あなたに人を殺してほしくないんです」
彼女は黙った。ハズキの手はまだ裾を掴んだままで、指先には力が入りすぎていた。嫌われたかもしれない、と一瞬不安になったが、言い直すことはできなかった。
「俺は、ここから出ていきたいだけです。もう叩かれたくないし、あの人の家にも行きたくない。……でも、誰かが死ぬのを見たいわけじゃ、ないんです」
長い沈黙があった。黒い翼は高く掲げられたまま、月の光を遮っている。
やがて女性は、胸の前に集めていた暗い光を静かに消した。指先から力がほどけるように消えていくと、庭を満たしていた冷たさも少しずつ薄らいだ。
「……そう。あなたは、それを望まないのね」
問いというより、自分に確かめるような声だった。彼女はハズキの手へ目を落とし、掴まれていた裾の上からそっと指先を重ねた。
「ごめんなさい。あなたの声を聞いて、目の前が……昔と同じ色になりかけたわ」
ハズキには、その言葉の意味がわからなかった。けれど、わからないままでも彼女の手が微かに震えていることには気づいた。あれほど強い力を持つ人が、自分の一言で立ち止まってくれたことが、不思議でならなかった。
女性は四人へ向き直った。黒い影はまだ足元に残っているが、もう彼女たちを脅すようには動かない。
「命は奪わないわ。ただし、この子を追わせるわけにもいかない。夜が明けるまで、あなたたちはここから動けない。それだけは受け入れてもらうわ」
「そんな勝手な……! この村では私の息子が村長なのよ!」
義母が喚いた。女性は眉一つ動かさず、短く首を傾げる。
「村長であることと、誰かを傷つけてよいことに、どんな関係があるの?」
誰も答えなかった。
ハズキは落ちていた荷物へ目を向けた。乾いたパンには土がつき、水袋は転がって紐がほどけかけている。拾おうと屈んだところで肩に鋭い痛みが走り、思わず息を詰めた。
「動かないで」
女性はすぐに気づき、彼のそばへ膝をついた。差し出された手が肩へ近づき、ハズキの身体は勝手に強張った。彼女はその反応を見て、触れる寸前で手を止めた。
「……触れても、いいかしら」
そんなことを尋ねられたのは、いつ以来だろう。ハズキは返事に迷い、それから小さく頷いた。
「はい。……お願いします」
白い翼から、羽毛に似た小さな光がこぼれた。彼女の掌が傷んだ肩の上へ重なると、じんわりした温かさが服越しに広がっていく。痛みが和らぎ、痣の下に残っていた鈍い熱が引いていくのを感じて、ハズキは思わず目を見開いた。
「……痛く、ない」
「ほかにも怪我をしているでしょう。全部、今すぐ消してしまいたいけれど……あなたが驚いているから、まずは歩けるようにするわね」
彼女は傷を隠すために袖を引っ張ったり、無理に服を脱がせたりしなかった。肩から手を離すと、ハズキの様子を確かめながら静かに微笑んだ。その気遣いが、治癒の不思議な力以上に彼の胸へ染み込んだ。
「ありがとうございます。……本当に、ありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことじゃないわ。助けてと呼ばれたのに、こんなに遅くなってしまったのだもの」
女性はどこか申し訳なさそうに目を伏せた。ハズキは彼女の言葉を否定しかけて、何を言えばいいのかわからなくなった。彼女がこれまで眠っていたのは彼女自身の意思ではないはずだし、何年も一方的に話しかけてきた自分を、助ける義務などなかった。
そのとき、屋敷の正面から複数の足音が近づいてきた。
「何の騒ぎだ! 母上、ルル、どうした!」
現村長のディルクだった。父のあとを継いだ異母兄は、屋敷の使用人を二人と、村の見回り役の男を連れている。騒ぎを聞きつけたのだろう、手に灯りを掲げた彼らは庭へ入ってくるなり足を止めた。
その視線の先には、影に縛られた四人の女たちと、片方が白く片方が黒い翼を持つ女性がいた。
「……なんだ、これは」
ディルクの声が裏返った。村人の男は灯りを落としかけ、慌てて持ち直す。使用人の一人は女性の翼を見た瞬間に膝をつき、もう一人は恐怖のあまり屋敷の壁へ手をついた。
「ディルク! 早くこの女をどうにかしなさい! ハズキが得体の知れない者を連れ込んだのよ!」
義母の叫びを聞き、ディルクはハズキへ顔を向けた。彼の目はまず背負いかけていた布袋へ、次に土のついたパンへ向かい、最後にハズキの傷の残る手首へ止まった。
「……お前、逃げるつもりだったのか」
「はい」
返事は意外なほどはっきり出た。ハズキ自身が驚きながらも、もう嘘をつく必要はないのだと思った。
「結婚の話は受けられません。だから、村を出るつもりでした。ここに残っても、あの家に行っても……俺には、生きていける気がしなかったんです」
ディルクは眉を寄せた。父が亡くなってから、彼とまともに話したことはほとんどない。兄は村の仕事が忙しいと言い、家の中で何が起きても見て見ぬふりをしていた。
「母上は、お前のために話をまとめたんだ。今さら逃げたとなれば、相手の家にも村にも迷惑がかかる」
「……前のご主人が、どうして亡くなったか知っていますか」
ハズキが問うと、ディルクは答えなかった。表情が硬くなっただけで、その沈黙は十分だった。
「知っているんですね。それでも、俺に行けって言うんですか」
「その件は、昔の話だ。俺が決めたことじゃない」
「でも、今の村長は兄さんです」
ディルクの唇が薄く結ばれた。ハズキはそこで言葉を続けるのが怖くなったが、天使が何も口を挟まず隣にいてくれることが、背中を支えてくれた。
「父さんがいたとき、兄さんは俺に、何かあったら相談しろって言ってくれました。俺は……その言葉を信じたかった。だけど、相談しても、いつも忙しいと言われて終わりだった」
灯りを持った見回り役の男が、居心地悪そうに視線を伏せた。離れから聞こえる声に気づいていた村人は少なくなかったのだろう。使用人たちも、否定する言葉を持っていなかった。
ディルクは男たちの反応を見て、低い声を出した。
「……家のことだ。よその者が口を出すな」
「それで、あの子の痛みは消えるのかしら」
初めて天使が口を開いた。ディルクははっとして向き直ったが、彼女は責めるように睨むことさえしなかった。
「私は、この村の決まりを知らないわ。でも、この子が望んでいない場所へ連れていかれることが、正しいことだとは思えない。あなたは、この子が傷ついていることを知っていたの?」
ディルクは答えられなかった。彼女はそれ以上追及せず、ハズキへ顔を戻す。
「どうしたいか、もう一度だけ聞かせて。ここを出たいという気持ちは、今も変わらない?」
すべての視線がハズキへ向いた。初めて、自分の望みを答えるだけでよいと言われた気がした。誰の命令にも従わなくていいのだと理解するまで、少し時間がかかった。
「……出たいです。ここではない場所へ行って、自分で働いて、生きてみたい」
途中で声が震えたけれど、最後まで言えた。天使は静かに頷き、その返事をまるで大切な約束のように受け止めた。
「わかったわ。それなら、私はあなたが歩く道を守る。あなたが行きたくない場所へ、無理に連れていかせたりしない」
彼女の言葉に、義母が再び声を荒らげた。ディルクも何かを言おうとしたが、見回り役の男がそっと袖を引いた。
「村長……あの翼を見てください。俺たちが手を出していい相手じゃありません。それに、ハズキの話が本当なら、今ここで連れ戻すのは……」
「黙れ」
低い一喝に、男は口を閉ざした。けれど先ほどとは違い、ディルクの命令に納得した顔ではなかった。彼は地面へ落ちた干し肉を拾い、土を払ってから、ハズキの荷物のそばにそっと置いた。
それを見て、ハズキは胸の奥が少しだけ痛んだ。今まで何もできなかった人の小さな親切を、嬉しいと思ってしまう自分がいる。一方で、もっと早く誰かに手を差し伸べてほしかったという思いも、消すことはできなかった。
天使が白い翼を軽く揺らすと、土に落ちていた荷物がふわりと持ち上がった。壊れた紐は柔らかな光に包まれて結び直され、ハズキの足元へ静かに戻される。彼女はその袋を勝手に背負わせることなく、手を差し出して受け取るのを待った。
「重くないかしら。持ちにくいなら、私が持つわ」
「だ、大丈夫です。これくらい、自分で持てますから」
ハズキが慌てて荷物を引き受けると、彼女は不思議そうに瞬きをしたあと、少し嬉しそうに笑った。
「そう。あなたが持ちたいのなら、そうしましょう」
その一言が、また胸に残った。何かを自分で決めるたび、今までは叱責か嘲笑が返ってきた。それなのに彼女は、自分が荷物を持つというつまらない選択さえ、当たり前のこととして受け入れてくれる。
「……行きます」
ハズキはディルクへ向き直った。兄の目を正面から見るのは、いつ以来だろう。
「俺はもう、この家には戻りません。父さんに育ててもらったことは忘れません。でも、それと、ここでずっと暮らさなきゃいけないことは……違うと思うから」
ディルクは唇を動かしたが、最後まで言葉を発しなかった。義母たちの足元には、まだ黒い影が残っている。夜が明ければ解けると天使は告げたが、それまで追手をかけることも難しいだろう。
庭を離れる直前、背後から義母の声が飛んだ。
「覚えておきなさい、ハズキ! お前なんか、外へ出たところで誰も必要としてくれないわ! いずれ泣いて戻ってきたって、この家には二度と入れてやりませんからね!」
足が止まりかけた。何度も聞かされてきた言葉なのに、最後だと思ってもやはり痛かった。
けれど、今度は隣から声がした。
「その言葉を、この子の未来にしてはいけないわ」
天使は義母を見ず、ハズキにだけ聞こえるほどの小さな声で続けた。
「あなたがこれから誰に必要とされるかを、あの人が決めることはできない。……それに、少なくとも私は、あなたがここにいてくれてよかったと思っている」
ハズキは返事をしなかった。声を出したら、抑えていた涙までこぼれてしまいそうだったからだ。
屋敷の門を抜けるまで、天使は彼の歩幅に合わせて隣を歩いた。背後で何か叫ぶ声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
◇ ◇ ◇
村の家々は、もうほとんど明かりを落としていた。
家畜小屋の向こうでは風車がゆっくり回り、夜の畑からは土の匂いが立ち上ってくる。ハズキは見慣れた道を進みながら、何度も隣へ目を向けた。銀白色の髪を揺らす女性が本当にそこにいることを確かめたくて、つい見つめすぎてしまう。
「……気になる?」
「えっ、あ、すみません。ずっと見てしまって」
「謝る必要はないわ。私も、あなたをこんなふうに見られるのが初めてだから」
天使は少し考えるように自分の手を見つめた。指を握り、開き、歩くたびに衣服が揺れるのを確かめている。その仕草には、この世界へ戻ってきたことがまだ信じられないという戸惑いがあった。
「水晶の中では、声は届いても身体を動かせなかったの。あなたの姿が見える日もあったけれど、夢の向こうにいるみたいで……触れようとすると、遠くなってしまった」
「じゃあ、本当にずっと起きてたんですか?」
「眠っていた時間もあったと思うわ。けれど、何もわからないまま過ぎていく時間の中で、あなたが来る日は、いつもはっきりわかった。最初は小さな声だったのに、だんだん低くなって、話すことも変わっていって……ああ、今日も生きているのね、とわかったの」
彼女の微笑みに、ハズキは言葉を失った。父が亡くなってからは、どうしようもない気持ちをただ吐き出すために洞窟へ通っていた。それを聞く者がいるなんて考えてもみなかったし、聞かせてしまったことを申し訳なくさえ思った。
「……嫌じゃなかったんですか。俺、楽しい話なんて、最近はほとんどできなくて」
「どうして嫌なの? 楽しいことばかり話さなくてはいけない決まりなんて、ないでしょう」
あまりにも自然な返事だったので、ハズキは黙り込んだ。父以外の誰かに、そんなふうに言ってもらえたのは初めてかもしれない。
村外れの畑へ出たところで、天使はふと足を止めた。背に広がる白と黒の翼が夜空を彩っていることに気づいたのだろう。眠っている家々へ目を向け、少し困ったように眉を寄せる。
「この姿のままでは、目立ってしまうわね。あなたは人に見つからずに出たいのでしょう?」
「は、はい。でも、翼って……しまえるんですか?」
「少しだけ、待っていて」
彼女が目を閉じると、翼の輪郭が淡い光にほどけ始めた。白い羽と黒い羽がそれぞれ細かな粒になり、ゆっくりと背へ吸い込まれていく。すべてが消えたあとには、銀髪の美しい女性が一人、普通の人間と変わらぬ姿で立っていた。
「……すごい」
「昔はよく、こうして人々の間を歩いたの。翼があると、子供たちが追いかけてきてしまうから」
懐かしむような声だった。ハズキはその横顔に、先ほど庭で見た冷たい表情とはまったく違うものを感じた。彼女がかつてどんな場所で暮らし、どんな人たちと笑っていたのか、いつか聞いてみたいと思った。
けれど、今は先を急がなければならない。
「この先の小道から森に入ります。町へ向かう道までは少し遠回りになるけど、見つかりにくいんです」
「あなたが調べておいた道なのね」
「はい。一週間くらい前から、少しずつ。……でも夜の森を最後まで歩いたことはないので、途中で迷うかもしれません」
そう答えると、天使はすぐに先頭へ出ようとはしなかった。ハズキの顔を確かめ、迷ったように言葉を選ぶ。
「道はあなたが決めて。私は、危ないものが近づかないか見ているわ。……それでいいかしら」
ハズキは何度か瞬きをした。相手がどれほどの力を持つのかわからないが、少なくとも自分よりずっと多くのことができるのだろう。それなのに彼女は、行き先を勝手に決めることさえしなかった。
「……はい。お願いします」
二人は細い獣道へ入った。夜露を含んだ草が足首へ触れ、木々の隙間から月光がまだらに差し込んでいる。ハズキは足元を確かめながら歩き、天使は少し後ろで周囲の気配を探っていた。
しばらくして、ハズキの足が小さな根に引っかかった。転びかけた身体を、天使の手がそっと支える。
「大丈夫?」
「はい……ありがとうございます。暗いと、いつもの森でも全然違って見えますね」
「そうね。暗いところを歩くのは怖いもの。光を出すこともできるけれど、追いかけてくる人がいたら目印になってしまうかしら」
ハズキはその心配に思わず頷いた。強い魔法を使えるからといって、何も考えずに明るく照らせばいいわけではない。そのことを一緒に考えてくれるのが、嬉しかった。
やがて天使は手を胸の前へかざし、ごく小さな光を生んだ。蛍ほどの淡い光が二人の足元だけを照らし、木々の外へは漏れない。彼女はハズキの反応を見て、眩しくないかと尋ねた。
「これなら歩きやすいです。……本当に、何でもできるんですね」
「何でも、ではないわ」
返ってきた声が思いがけず寂しそうで、ハズキは隣を見た。天使は前を向いていたが、その目は今の森とは別の何かを映しているようだった。
「できなかったことのほうが、私にはたくさんあるの。力があれば守れると思っていたものを、私は……」
言葉はそこで途切れた。ハズキは続きを尋ねなかった。誰にだって、すぐには話したくないことがある。自分だって、父のことを考えるだけで何も言えなくなる日があった。
ただ、彼女が一人で抱え込んでいるように見えたことが、気にかかった。
「……話したくなったら、聞きます」
天使がゆっくり振り向いた。
「俺、何か役に立つことはできないかもしれません。でも、洞窟ではずっと俺が話してばかりだったから。今度は、あなたの話も聞いてみたいです」
天使は目を見開いたまま、しばらく何も言わなかった。足元の光が一度だけ揺れ、すぐに元の大きさへ戻る。やがて彼女は目を伏せ、ほんの小さな声で礼を言った。
「……ありがとう、ハズキ」
自分の名前を呼ばれたことが、なぜだか胸に残った。これまで彼女へ一方的に名前を名乗っていたのだから、知っていて当然だ。それでも、返事のないはずの相手から呼ばれると、長い間閉じていた扉が開いたような気がした。
◇ ◇ ◇
夜半を過ぎた頃、二人は小さな沢のそばで足を止めた。
村から随分離れたはずだったが、ハズキには正確な距離がわからない。森の奥へ進むほど道は細くなり、何度も木の根を跨がなければならなかった。肩の痛みは治まっていても、一日中働いた身体には疲れが残っていて、膝が重くなっていた。
「少し、休んでもいいですか」
「もちろんよ。もっと早く聞けばよかったわ。あなた、ずっと疲れていたのに」
天使はすぐに立ち止まり、沢から離れた乾いた地面へ案内した。近くには大きな木があり、根元の平らな場所なら腰を下ろせそうだった。彼女が手をかざすと、湿った落ち葉だけが柔らかな風に押され、地面が少し乾いた。
ハズキは驚きつつも礼を言い、背負っていた袋を下ろした。干し肉の包みを取り出し、残っていたパンのうち土のついていない部分を選ぶ。水袋にはまだ水があったが、十日分を考えると、とても足りない。
「この沢の水、飲めるかな……。村では下流で汲んでたけど、ここは来たことがなくて」
「少し確かめさせてね」
天使は沢の流れに指先を近づけ、目を閉じた。淡い光が水面を走り、石の間を流れて消えていく。彼女は少し首を傾げてから、ここより上流の水を汲んで、念のため煮沸するほうがよいと話した。
「すぐに安全な水へ変えることもできるけれど、今の私は、自分の力がどこまで戻っているか確かめている途中なの。あなたに飲ませるものだから、確かめないまま大丈夫とは言いたくないわ」
そう言って、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。ハズキは首を横に振り、近くの石へ座った。
「十分です。沢があるってわかっただけでも安心しました。……それより、あなたは疲れてないんですか?」
「身体は平気よ。でも、世界の匂いがこんなにたくさんあることを、忘れかけていたみたい」
天使は頭上の枝を見上げた。葉を揺らす風、沢のせせらぎ、湿った土の匂い。どれもハズキには昔から当たり前にあるものだったが、彼女はひとつひとつを確かめるように見つめていた。
「封印の中には、季節がなかったの。あなたが暑いって言えば夏なのねと思ったし、寒いって言えば冬なのだとわかった。でも、自分の肌で風を感じるのは……本当に、久しぶり」
彼女が手を伸ばすと、一枚の葉が掌へ落ちた。何の変哲もない小さな葉を、天使は宝物でも手にしたように見つめている。その横顔を見ていると、ハズキは洞窟で彼女を一人にしていた時間の長さを、少しだけ想像できた気がした。
「……ずっと、一人だったんですね」
「ええ。でも途中からは、あなたがいたわ」
返事があまりに早くて、ハズキは戸惑った。天使はそこで初めて、自分の言葉が少し大げさに聞こえたかもしれないと気づいたように、頬へ指を添えた。
「ごめんなさい。あなたを重荷にしたいわけではないの。ただ、声を聞けることが嬉しかったの。今日はこんなことがあった、明日はこうしたいって、あなたが話してくれるたびに、世界にはまだ朝が来るんだと思えたから」
ハズキは膝の上でパンを半分に割った。食事を始めるつもりだったのに、その言葉が胸に広がって、なかなか口へ運べない。誰にも必要とされないと義母から言われたばかりだったから、なおさらだった。
「……俺、ずっと迷惑をかけてると思ってました。返事がないのをいいことに、嫌なことばっかり話してたから」
「迷惑だなんて、一度も思わなかったわ。話せなかったことが、何度も悔しかったけれど」
彼女はそっと膝を抱え、木の根元に腰を下ろした。座る仕草はどこか不慣れで、衣服の裾を整えてから、ハズキと少し距離を空けて落ち着く。
「あなたのお父様が亡くなった日のことも、聞いたわ。あのときは……本当に、何もできなかった。あなたが泣いているのに、呼びかけることさえできなかったの」
父の話題に、ハズキの喉が締まった。洞窟で泣いた日のことは、思い出したくても思い出せないほど苦しかった。あの日、自分は何を言っただろう。どうして父を助けてくれなかったのかと、水晶に向かって無茶なことを言った気がする。
「……俺、ひどいことを言いましたよね。あなたに、父さんを返してって」
「ええ。聞いたわ」
天使は否定しなかった。ただ、ハズキの目をまっすぐ見つめ、ゆっくりと言葉を続ける。
「大切な人を失ったとき、どこへ悲しみを向ければいいのかわからなくなることがある。私は、その苦しさを……知っているつもりよ。だから、あなたが私に怒ったことを、謝る必要はないわ」
その声には、長い年月では消えなかった悲しみが滲んでいた。ハズキは、洞窟に封印される以前の彼女が何を経験したのかを知らない。父も詳しくは話さなかったし、村の誰かから天使について聞いたこともなかった。
「……いつか、教えてくれますか。あなたがどうして、あの水晶の中にいたのか」
天使は目を伏せた。沢の音が、二人の間の沈黙を満たす。
「……いつか、必ず。けれど今は、まだうまく話せる自信がないの。私がしたことを知れば、あなたはきっと驚く。……それでも、隠したままにはしたくないわ」
ハズキはすぐに返事をしなかった。彼女が何か重いものを抱えていることだけは、もう十分に伝わっていた。簡単に「何があっても大丈夫です」と約束するのは、知らない過去を軽く扱うことになるような気がした。
「わかりました。話せるようになったら、聞きます。……そのとき、俺もちゃんと考えます」
天使が驚いたように目を上げた。
「ちゃんと、考える?」
「はい。知らないことを、なんでも平気って言うのは違うと思うので。でも、今、助けてくれたことは、本当ですから」
彼女はしばらく彼を見つめた。やがて、その瞳にかすかな光が宿る。何かを信じてみたいと思ったときにだけ浮かぶような、頼りないけれど確かな光だった。
「……そうね。それで、いいのだと思うわ」
ハズキはパンを口へ運んだ。硬く、少し乾いていて、味はほとんどしない。それでも追い立てられることなく食べる食事は、久しぶりだった。
天使にも半分を差し出してみると、彼女は目を丸くした。
「私に?」
「はい。食べられるかわからないけど、もしよかったら。……あ、でも、たくさんないので、本当に少ししか渡せなくて」
「いいえ。ありがとう」
彼女は両手で小さなパンを受け取った。指先で確かめ、そっと口へ運ぶと、驚いたように瞬きをする。しばらく噛みしめてから、ふっと笑みがこぼれた。
「……懐かしい味がするわ」
「昔もパンを食べてたんですか?」
「ええ。私が暮らしていた村では、焼きたてのパンの匂いで朝になったとわかったの。とても上手に焼く人がいてね。……あの頃は、それがずっと続くと思っていた」
遠い記憶へ沈みかけた表情を見て、ハズキはゆっくりと自分のパンを食べた。続きを促す必要はない。今はただ、同じ場所で食事をして、同じ風の音を聞いていればいい気がした。
少し経ってから、ハズキはふと大事なことを思い出した。
「そういえば……まだ、名前を聞いてませんでした」
天使が彼へ顔を向けた。
「洞窟で最後に話したとき、また会えたら名前を教えてほしいって言ったんです。……本当に会えるなんて、思ってなかったけど」
彼女は少し驚き、それから静かに笑った。けれど、すぐには答えなかった。遠い昔の呼び名を、心の奥から取り出そうとしているようだった。
「……リュミエラ」
小さな声が、沢の音に重なった。
「私の名前は、リュミエラ。昔、そう呼ばれていたわ。長い間、誰かに名を呼んでもらうことなんてなかったから……少し、不思議な気分ね」
「リュミエラ……さん」
ハズキが呼ぶと、彼女は息を止めたように動きを止めた。次の瞬間、頬を緩ませて微笑む。その笑顔は庭で見せてくれたものより少し幼く、胸の奥から喜びがこぼれたように見えた。
「ええ。もう一度、呼んでくれる?」
「えっ? ……リュミエラさん」
「ありがとう。あなたの声で聞く私の名前、とても温かいわ」
あまりにも嬉しそうに言われ、ハズキは返事に困って視線を落とした。目の前の人は、あれほど恐ろしい力で義母たちを動けなくした存在なのに、今は自分の名前を呼ばれただけで喜んでいる。その不思議な落差に、戸惑いながらも笑いそうになった。
リュミエラはそれに気づいたのか、少し首を傾げた。
「どうかした?」
「いえ……ずっと水晶の中では、静かで、綺麗で……。こうして話せるようになったら、何を話していいかわからなくなると思ってたんです。でも、普通に話せるんですね」
「普通に話せる、というのは……嬉しいことなのかしら」
「はい。俺は、嬉しいです」
その返事を聞いたリュミエラは、もう一度柔らかく笑った。ハズキはつられて少し笑い、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
◇ ◇ ◇
休憩を終える頃、夜の森はさらに冷え込んできた。
ハズキは水袋を片づけ、立ち上がろうとして小さくふらついた。リュミエラがすぐに手を伸ばしたが、今回は彼が自分で体勢を立て直すまで待ってくれた。
「今夜は、このまま歩き続けないといけないかしら」
「追っ手が来るかもしれないから……できれば、もう少し離れたいです」
「村にいた人たちを縛った影は、朝になれば消えるわ。それまで誰かが追おうとしても、私が気配に気づけると思う。でも、あなたがどこまで歩けるかのほうが大事ね」
彼女は空を見上げ、木の間から覗く星を確かめた。ハズキもつられて顔を上げる。村では毎晩同じ星を眺めていたはずなのに、ここから見る空は少し広く見えた。
「……あと少しだけ歩いて、休める場所を探しましょう。俺、この先に古い炭焼き小屋があるって聞いたことがあるんです。使われていないなら、雨風くらいは避けられるかもしれません」
「ええ。じゃあ、そこまで行きましょう」
歩き出す直前、リュミエラがハズキの右手へ視線を落とした。赤い石の指輪は、先ほどの光が嘘のように静かになっている。
「……その指輪、あなたのお父様から?」
「はい。五つあって、これはそのうちの一つです。代々受け継がれてきたものだから、誰にも渡しちゃいけないって言われました」
残りの四つを入れた袋へ、ハズキは服の上から手を当てた。リュミエラはそれを聞いて小さく頷いたが、指輪の正体について説明しようとはしなかった。
「何か、知ってるんですか?」
「……確かなことは言えないわ。封印が解ける直前、あなたの声と一緒に不思議な響きを感じたの。でも、その指輪が何なのかは、私にもまだわからない」
「そっか……。父さんも、詳しいことは知らないって言ってました」
「大切にしていたのね。あなたにも、渡したかったのでしょう」
ハズキは指輪を見下ろした。赤い石はただ月光を映しているだけだったが、父の手にあった頃より少しだけ温かく感じられた。持って出てきてよかったと、心から思った。
森の奥へ、二人の足音が続いていく。道は相変わらず狭く、先の町まで何日かかるのかもわからない。仕事を見つけられる保証もなければ、村から追ってくる者がいないとも言い切れない。
それでもハズキは、もう一度隣の人を見た。
「……リュミエラさん」
「なあに?」
「今日、助けてくれて、本当にありがとうございました。俺、一人だったら、きっと……」
言葉が途切れた。あの庭で見た四人の笑顔が蘇り、足が重くなる。けれど、リュミエラは急かさず、彼の次の言葉を待っていてくれた。
「……まだ怖いです。明日になって、全部夢だったらどうしようって思うくらい。でも、ここまで来られたのは、リュミエラさんがいてくれたからです」
彼女はしばらく黙ってから、ハズキのほうへ手を差し出した。掌を上へ向けたまま、彼がどうするかを待っている。
「夢ではないわ。あなたは自分でここまで歩いてきたの。そのことを、忘れないでほしい」
「……はい」
「それにね、私もあなたに助けられたのよ。あの場所で、もう一度取り返しのつかないことをするところだった。あなたが止めてくれなかったら、私は……」
リュミエラは言葉を探すように夜空へ目を上げた。その横顔には、村の人々を容易に動けなくした者とは思えない、迷いと後悔があった。
「……ありがとう、ハズキ。私を呼んでくれて。そして、止めてくれて」
ハズキは差し出された手を見つめた。白く細い指だった。あの手が何をしてきたのか、まだ知らない。けれど今夜、その手は自分の痛む肩を癒し、落とした荷物を返し、進む道を自分で選ばせてくれた。
彼はゆっくりと、その手を取った。
「……俺のほうこそ。これからも、よろしくお願いします」
リュミエラの指が、驚くほどそっと握り返した。壊れやすいものに触れるような、不器用な手つきだった。
「ええ。こちらこそ、よろしくね」
二人はしばらく手を繋いだまま、木々の間を歩いた。足元の小さな光が揺れ、夜露に濡れた草を淡く照らしている。ハズキはやがて歩きやすいよう手を離したが、リュミエラは少しも不満を見せず、彼の隣へ並び直した。
その背にはもう翼がない。けれど、ハズキには彼女が何者なのか忘れようがなかった。白と黒の翼を持ち、誰も逆らえないほどの力を秘め、それでも名前を呼ばれると嬉しそうに笑う人。
自分はこの人のことを、まだ何も知らないのだろう。
その事実は少し怖かった。けれど、知りたいとも思った。
木々の向こうに、屋根のような黒い影が見え始めた。古い炭焼き小屋だろうかとハズキが目を細めると、リュミエラも歩みを緩めた。今夜はまだ、そこが本当に安全な場所なのか確かめなければならない。
「……あれかな。近くで見てみましょう」
「ええ。私が先に危険がないか確かめるわ。そのあとで、あなたも一緒に見てくれる?」
「はい。俺も手伝います」
そう答えた自分の声が、少しだけ明るかった。
そのことに気づいたハズキは、誰にも見えないように小さく笑った。屋敷を出る前、もう未来はないと思っていた。けれど今、明日どんな場所で目を覚ますのだろうと考えている。
その隣では、長い封印から目覚めた天使が、初めて共に歩く夜の森を静かに見つめていた。
まだ彼女は、この世界を愛してなどいない。かつて抱いた憎しみも、取り返しのつかない過去も、胸の奥に残ったままだった。それでも目の前を歩く少年が明日の朝を迎えられるようにと願ったとき、彼女は自分の心に、ずっと忘れていた小さな温もりが戻っていることを感じた。
世界を救いたいと願うには、まだ遠い。
けれど、一人の少年の明日を守りたいという気持ちだけは、疑いようがなかった。
こうして、居場所を失った少年と、世界を憎んだ天使の旅が始まった。




