第1話 その声に、初めて応える日
遠い昔、この大地に、一人の天使が舞い降りた。
彼女がどこから来たのか、何を求めていたのか、それを正確に知る者はもういない。ただ、古い記録には、天使が人々の暮らしを愛し、小さな喜びを誰よりも大切にしていたと残されている。畑を耕す老人に手を貸し、病に伏した子供のそばで夜を明かし、祭りの日には誰よりも嬉しそうに笑ったのだという。
彼女が翼を広げれば、傷ついた土地には柔らかな光が降り注いだ。白く大きな翼は人々に希望の象徴として語られ、天使の穏やかな声を聞くだけで心が安らぐと、多くの者が口にした。いつしか彼女の周囲には、種族も生まれも異なる仲間たちが集まっていた。
それは、いつまでも続くはずのない幸福だった。
始まりは、隣り合う領地の水を巡る小さな争いにすぎなかった。互いに譲れない事情があり、どちらの側にも守りたい家族がいたはずなのに、一度流れた血は新たな憎しみを生み、報復が次の報復を呼んだ。やがて争いは国境を越え、複数の国と種族を巻き込む戦争へと姿を変えていった。
燃え落ちた家の前で泣く子供たちを見て、天使は悲しんだ。戦場へ向かう兵士たちに剣を置くよう訴え、それでも届かない言葉に何度も胸を痛めた末、彼女は数人の仲間とともに戦争を止めるために立ち上がった。彼女たちは争う双方から命を狙われながらも負傷者を救い、対立する者たちの間へ入り、ついに休戦の約束を取りつけた。
長い戦いは終わった。少なくとも、その日まで天使はそう信じていた。
戦争終結を祝う式典には、各国の代表者や貴族、軍を率いていた者たちが集められた。広い会場には花が飾られ、平和を称える杯が掲げられ、天使と仲間たちには幾度となく感謝の言葉が贈られた。人々が再び手を取り合えるのだと、天使は久しぶりに心から微笑んだ。
その笑顔を、彼女の隣にいた仲間たちも見ていた。
だからこそ、最初の悲鳴が上がったとき、天使は何が起きたのか理解できなかった。乾いた音が響き、祝福のために並んでいた仲間の一人が崩れ落ちる。続いて別の仲間が胸を押さえ、最後まで彼女を守ろうと前へ出た者の背にも、刃が突き立てられた。
杯が割れ、花が踏みにじられ、白い床へ赤いものが広がっていく。天使は仲間の名を呼んだが、返事はなかった。つい先ほどまで笑っていた者たちは、もう誰一人として立ち上がらなかった。
戦争を終わらせた彼女たちの力を、脅威と考える者がいたのだ。平和が訪れれば、もはや誰も天使に逆らえなくなると恐れた者がいた。そしてその者たちは、礼を述べるふりをしながら、彼女の大切なものを奪った。
「天使を捕らえろ。今なら抵抗できないはずだ」
誰かの命令が会場に響いた。武装した兵士たちが近づき、天使は血に染まった手を見つめたまま動かなかった。治癒の光を呼ぼうとしても、何度試みても、既に途絶えた命は戻らない。
やがて、その背で何かが変わった。
真っ白だった翼の片側が、羽先から静かに黒く染まっていく。まるで悲しみを吸い込むように黒は広がり、やがて右の翼すべてを夜の色へ変えてしまった。それでも彼女の顔には怒りの形相などなく、ただ、壊れてしまいそうなほど穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「……滅びろ……」
誰もが聞き惚れるほど美しい声だった。
その一言が終わるより早く、会場にいた者たちの命は消えた。剣を抜いた兵士も、命令を下した者も、ただ式典に招かれていただけの者も、例外ではなかった。天使は彼らの区別さえできないほど、深い絶望に沈んでいた。
それから始まった破壊は、式典の会場だけでは終わらなかった。村が焼かれ、町が崩れ、彼女を裏切ったことすらない無数の人々が命を落とした。人間への愛を失った天使は、自分がかつて守ろうとした世界そのものを壊し始めたのだ。
誰もが終わりを覚悟したとき、十人の者たちが立ち上がった。人間の知恵、獣に連なる者たちの力、精霊の加護を結集し、互いの違いを乗り越えて天使に挑んだ者たちだった。彼らは数え切れない犠牲を払いながらも、ついに天使を封じることに成功した。
十人は封印の地を特別な力で隠し、その場所を守り続ける者を一人残した。残る者たちはそれぞれの故郷へ帰り、戦いの真実は幾世代もの時の中で形を変え、やがて伝説となった。
そして今、世界のほとんどは、天使が本当に存在したことさえ忘れている。
◇ ◇ ◇
「……うん。今日も変わりなし、だね」
薄暗い洞窟の奥で、一人の少年が大きな水晶を見上げていた。
少年の名はハズキ。十六歳になったばかりの彼は、肩にかかるほど伸びた髪を後ろで簡単に束ね、使い古した上着の袖を指先まで引き下ろしている。袖口には何度も繕った跡があり、その下の手首には、昨日つけられた青い痣が残っていた。
眼前にある水晶は、彼の背丈をはるかに超える。深い紫色をした結晶は内部からほのかな光を放ち、その中心には一人の少女とも若い女性とも見える、美しい人影が静かに浮かんでいた。絹糸のように長い銀白色の髪、伏せられた睫毛、汚れのない白い衣服、そして背に折り畳まれた二枚の大きな翼。
左の翼は雪のように白く、右の翼は夜を閉じ込めたように黒い。
初めて彼女を見たとき、ハズキはその姿が恐ろしくて、父親の後ろに隠れた。けれど、水晶の中の彼女はどんなに近づいても身じろぎ一つせず、ただ静かに眠り続けていた。何度も通ううちに恐怖は薄れ、今ではここが、村のどこよりも息をしやすい場所になっている。
「今日はね、ちょっと大事な話があるんだ。……その前に、ちゃんと挨拶しないといけないかな。いつも一方的に話してごめんね」
彼は小さく笑って、水晶の前にしゃがみ込んだ。返事がないことはわかっているし、返事を期待したこともほとんどない。それでも口を開けば、胸に詰まっていたものが少しだけ軽くなる気がした。
ハズキが初めてこの場所へ連れてこられたのは、まだ片手で数えられるほど幼かった頃のことだ。
父親は村長だった。村で一番大きな家に住み、多くの者から頭を下げられ、何か問題が起きれば最後に判断を下す立場にあった。ハズキはその父親と、村長の妻ではない女性との間に生まれた子供だった。
母親は出産のすぐ後に亡くなったと聞いている。顔も声も知らず、母親の温もりとして覚えているものは何一つない。父が語ってくれた「お前の母さんは花が好きな人だった」という短い思い出だけが、ハズキにとって母親を想像する手がかりだった。
村長の妻が、彼を嫌う理由そのものを理解できないわけではなかった。父が別の女性を愛し、子供まで生まれたことは、きっと彼女を深く傷つけたのだろう。ただ、それが幼いハズキを傷つけてよい理由になるとは、父も考えていなかった。
父は彼を屋敷に引き取り、誰の子かを隠そうとしなかった。村長の妻やその子供たちから不満を向けられても、食事や衣服を与え、読み書きを教え、時間が許す限り一緒に過ごした。少なくとも父が生きている間、ハズキには、自分の帰る場所があった。
その父に連れられ、森の奥にあるこの洞窟を何度も訪れた。
『ここは、うちの家が代々守ってきた場所なんだ。ほかの人間には、入り口も、中に何があるのかも教えてはいけない』
まだ幼いハズキが「この人はどうして眠っているの」と尋ねると、父はいつも少しだけ考え込んだ。水晶の中の女性を見上げる横顔は、村長として人々に接するときとは違い、どこか悲しそうに見えた。
『詳しいことは、俺にもわからない。昔から守れと言い伝えられている。それだけだ。ただな、ハズキ。ここにいる人を、怖いものとしてだけ見ないでやってほしい』
『どうして? この人、悪い人なの?』
『……昔、たくさんの人が傷ついたらしい。だが、人を傷つけたことと、その人が最初から誰かを傷つけたかったかどうかは、同じじゃない。お前には、まだ難しい話だな』
父はそう言って、ハズキの頭を撫でた。その意味がわからなかった頃は、ただ、この美しい人を一人きりにしておくのがかわいそうに思えた。だから、父が洞窟の状態を確かめている間、ハズキは水晶に向かって今日あった出来事を話し始めたのだ。
畑で大きな虫を見つけたこと。父が初めて自分だけに小さな木彫りを作ってくれたこと。転んで膝を擦りむいたけれど、泣かなかったこと。話す内容は、誰かが聞いて喜ぶとも思えない些細なものばかりだった。
それでも父はやめろと言わなかった。
『きっと、退屈しているだろうからな。話し相手ができて、この人も喜んでいるかもしれない』
父は笑った。それが本当ならいいな、と幼いハズキも思った。
けれど、一年前に父は亡くなった。
父の葬儀の日、村長の屋敷には大勢の人が集まった。ハズキは棺のそばで泣くことしかできず、父の妻がどんな顔をしていたのかも、村の人たちが何を話していたのかも覚えていない。葬儀が終わった翌朝、自分の生活がまるで別のものに変わったことだけは、今でも鮮明に覚えていた。
父の妻は、真っ先に彼を屋敷の離れへ移した。食事は家族と別になり、着ていた服のほとんどを取り上げられ、父の書斎へ入ることも禁じられた。現村長となった異母兄はそれを止めず、母親の決めたことだからと、忙しそうに顔を背けた。
その日から、ハズキは家族ではなく、ただ命じられた仕事をこなすための人間になった。
朝はまだ暗いうちに起こされ、庭掃除、薪割り、水汲み、家畜小屋の片づけを任された。仕事を終えれば次の仕事が与えられ、少しでも遅ければ怠け者と罵られた。夜になってやっと離れへ戻っても、誰かの気まぐれで呼び出されるため、安心して眠れる日は少なかった。
それだけなら、まだ耐えられたかもしれない。
長女のルルは、とりわけハズキが怯える顔を好んだ。赤い髪を綺麗に結い、花のように笑いながら、何の前触れもなく鞭を振るう。次女のユユは姉に褒められることが好きで、ルルの思いついた嫌がらせに真っ先に賛成した。三女のララは普段こそ気取った物言いをしていたが、ハズキが言い返せないとわかると、人前でも平気で侮辱した。
村の人々の中には、彼の腕の痣に気づく者もいた。市場で余った野菜をこっそり持たせてくれる老婆もいれば、薪を運ぶときだけ黙って手を貸してくれる青年もいた。けれど、現村長の母親に逆らってまでハズキを守ろうとする者はいなかった。
彼らにも暮らしがあり、家族がいた。村で仕事を失うことや、嫌がらせを受けることを恐れているのだと、ハズキにはわかっていた。だから助けてほしいと言えないまま、誰かと目が合うたびに平気なふりをするようになった。
そんな毎日をどうにか耐えていた彼のもとへ、数日前、突然結婚の話が持ち込まれた。
『喜びなさい、ハズキ。ようやくお前にも、役に立てる機会が来たのよ』
父の妻は、そう言って一枚の書類を差し出した。そこには、隣の地域で暮らす四十六歳の未亡人の名と、ハズキをその家に婿として迎えるという取り決めが記されていた。相手の顔さえ見せてもらえず、本人の意思を尋ねる一文もなかった。
その女性には、よくない噂があった。前の夫を使用人よりもひどく扱い、気に入らないことがあれば暴力を振るっていたという。そしてある日、暴力を受けた夫は、頭を強く打って帰らぬ人になった。
事件として扱われなかったのは、その未亡人と父の妻が古くから親しい間柄だったからだ。以前の村長家が関わって話を揉み消したのだと知ったとき、ハズキは指の先まで冷たくなった。今でも未亡人は何事もなかったかのように暮らし、次の夫となる人間を求めている。
『相手の方が、お前のような若い男を気に入ってくださったのよ。感謝しなさい。逆らうようなら、ここで受けた恩を全部返してもらいますからね』
父の妻は満足そうに笑っていた。ルルたちも同じ部屋にいて、これで厄介者がいなくなると喜んでいた。
ハズキはその夜、父が残した小さな木の椅子に座ったまま、朝まで眠れなかった。婚家で待っているものを考えれば、今の生活が続くほうがまだましなのではないか、とさえ思った。けれど、前の夫がどうなったのかを知っている以上、自分だけが無事で済むと信じられる理由はなかった。
(……逃げよう。このままここにいたら、俺はきっと死ぬ)
そう決めてからの一週間、ハズキは少しずつ準備を続けてきた。夜に仕事を終えたあと、誰も見ていない場所へ乾いたパンを隠し、川へ水を汲みに行くついでに森の道を確かめた。必要なものは多かったが、持ち出せるものはあまりにも少なかった。
近くの町まで、歩けば十日ほどかかる。森を抜ける道には獣が出ることもあり、まとまった金もない。無事にたどり着けたとして、仕事を見つけられる保証もなかった。
それでも、村に残るよりは生きられる可能性がある。
「……だからね、俺、今夜ここを出ていくんだ」
洞窟の静けさの中で口にすると、その決意は思っていたよりも頼りなく聞こえた。ハズキは膝の上で両手を握り、冷たい水晶の表面へ目を向けた。中の彼女は今日も変わらず眠っていて、どこか安心したように見える。
「父さんには、この場所を見守れって言われていたんだけど……約束、破ることになるね。ごめんなさい。俺、父さんが大切にしていたものを、ちゃんと守れなかった」
口にした途端、喉が詰まった。
父が最後に元気な声で話してくれた日のことを、ハズキは今でも覚えている。森から戻る道で父は、もう随分背が伸びたなと笑い、いつかこの場所を任せる日が来ると話した。そのときの自分は、いつまでも父と一緒に来られるものだと信じていた。
「……でも、俺も生きていたいんだ。父さんが守ってくれた命だから、こんなところで終わらせたくない」
父が聞いたら、なんと言うだろう。言いつけを破ったことを叱るだろうか。それとも、ここまで一人で耐えた自分の頭を、昔みたいに撫でてくれるだろうか。
答えはもう、確かめようがなかった。
ハズキは立ち上がり、両手を上着の裾で拭ってから、水晶を見上げた。
「そういえば、あなたにちゃんと名前を聞いたこと、一度もなかったね。聞いても答えられないのに、おかしな話だけど……もしまた会えるなら、そのときは名前を教えてほしいな」
幼い頃から見てきた顔だった。彼女が目を開けたら何色の瞳をしているのか、笑えばどんな表情になるのか、時々想像したこともある。けれど、ここに閉じ込められている理由を自分は知らず、彼女を外へ出す方法も知らなかった。
「いつも話を聞いてくれて、ありがとう。俺が一人で泣いていたときも、ここに来れば少しだけ楽になれたんだ。……返事がなくても、あなたがいてくれてよかった」
ハズキは深く頭を下げた。水晶に触れようとして伸ばした手を途中で止め、代わりに、小さく手を振った。
「さようなら。……どうか、ずっと穏やかに眠っていてね」
そして少年は踵を返し、慣れた足取りで洞窟を出ていった。薄い夕日の差す森へ姿が消えるまで、水晶の中の女性は何も言わなかった。
ただ、誰もいなくなった洞窟に、かすかな音が響いた。
硬いものに細い傷が入るような、小さな音だった。紫の水晶の表面に髪の毛ほどの亀裂が走り、その奥で、長い間閉じられていた彼女の指先がほんのわずかに動いた。
◇ ◇ ◇
村へ戻る頃には、空が夕闇に染まり始めていた。
ハズキは裏手の道を選び、人目を避けながら屋敷の離れへ戻った。隣の建物からは食事の支度をする音と笑い声が聞こえる。去年までは同じ屋根の下で食事をしていたのに、その記憶がずっと昔のことのように感じられた。
離れの扉を閉めて、ようやく息を吐く。狭い部屋には古い寝台と小さな棚、机が一つあるだけで、父からもらったものはほとんど残っていなかった。机の上には持ち出すものを並べてあるが、どれも使い古しばかりだ。
乾いたパン、少量の干し肉、水袋、火打ち石、それから針と糸。長い道のりに十分とは言えないし、着替えを増やせば食べ物を入れる余裕がなくなる。ハズキは何度も布袋の紐を緩め、詰めたものを出しては順番を変えた。
「……やっぱり、これ以上は持てないか。森を抜けるだけでも何日かかるかわからないし、途中で水を汲める場所を探さないと」
声に出すことで、考えを落ち着かせる。今夜は皆が寝静まってから出発するつもりだった。村の正門を通れば見張りに見つかるため、畑の端から細い獣道へ入り、北側の森を迂回して町へ続く道に合流する。
その道なら多少遠回りにはなるが、追手が出てもすぐには足取りを見つけられないかもしれない。もっとも、家の者たちが自分一人のために追手を出すとは思いたくなかった。婿に出す話がなくなって困るのは相手の女性だけで、義母にとっては厄介者がいなくなるのだから。
(……そんなに甘い人たちじゃない、よな)
自分で考えておきながら、胸の奥が冷えた。逃亡が露見すれば、また鞭が飛んでくるだろう。けれど、何もせずに婚家へ向かうよりは、どこかで一度だけでも自分の意思を通したかった。
最後に部屋を見回したとき、ふと床板の継ぎ目が目に入った。
「あ……そうだ。あれを忘れるところだった」
ハズキは寝台の脇に膝をつき、少し浮いた床板の端へ指をかけた。隠し収納は父が亡くなる少し前、一緒に作ったものだ。板を静かに持ち上げると、薄く積もった埃の下から、小さな木箱が姿を現した。
父が生前、彼に託したものだった。
『これは、うちの家に代々受け継がれてきた大切なものだ。何に使うのか、俺にもすべてはわからない。だが、必ずお前が持っていてくれ。誰かに見せびらかしたり、求められたからと渡したりしてはいけない』
ハズキがまだ幼かったとき、父は少し困った顔でそう言った。あの頃は立派な宝石でも入っているのかと期待したが、箱の中にあったのは、装飾の少ない五つの指輪だけだった。
今、改めて蓋を開けても、その数は変わらない。
赤、青、緑、金、銀。色の異なる小さな石が、それぞれ同じような形の台座に埋め込まれている。金や銀で作られた高価な指輪には見えず、村の露店に並んでいたとしても、特別なものだと気づく人はいないだろう。
「父さん、本当にこれを誰にも渡しちゃ駄目って言ってたんだよな。……大事なものなのはわかるけど、何に使うんだろう」
彼は赤い石のついた指輪をつまみ上げた。灯りにかざしてみると、透明な石の奥に細い線が幾重にも重なっていて、まるで小さな炎が閉じ込められているように見える。父の手には何度か嵌まっていたものだから、懐かしさもあった。
ハズキはお守りのつもりで、その指輪を右手の指に通した。少し大きいかと思ったが、指の根元まで動かすと不思議なほどぴたりと収まった。石は一度だけ淡く光ったように見えたものの、角度のせいだろうと彼は考えた。
残りの四つは小さな紐付きの袋へ入れ、服の内側で首から下げる。木箱だけは床下へ戻して隠し収納を閉じ、最後に布袋を背負った。荷物の重さに肩が沈んだが、これなら走ることもできそうだった。
「……大丈夫。森に入るまで、誰にも見つからなければ」
自分に言い聞かせるように呟き、扉の隙間から外を覗いた。屋敷の明かりは遠く、離れの周りには人影がない。夕食の時間帯を狙って動けば、誰にも気づかれずに敷地の端まで行けるかもしれない。
予定より少し早い。しかし、食事が終われば今夜も何かを命じられる可能性があった。ハズキは迷った末、これ以上待たないことにした。
扉を閉め、慎重に庭へ足を踏み出す。踏み慣れた土の感触、遠くから聞こえる笑い声、屋敷を囲む木々の匂い。ここで過ごした十六年が背中にまとわりつくような気がして、ハズキは一度だけ振り返った。
小さな離れの窓は暗かった。父が生きていた頃、自分を呼びに来てくれた姿がそこに重なり、胸の奥がきゅっと痛んだ。
(父さん。俺、行くよ。どこかでちゃんと働いて、自分で食べていけるようになるから)
心の中で告げ、ハズキは前を向いた。
「どこ行くの?」
不意に声がした。
背筋を冷たいものが走り、ハズキは足を止めた。低く垂れた木の枝の陰から、人影がゆっくりと姿を現す。夕闇の中でも鮮やかに見える赤い髪と、楽しげに細められた瞳を見た瞬間、彼の喉はひくりと震えた。
長女のルルだった。
いつも身につけている綺麗な服を着て、花でも見つけたかのように無邪気な笑みを浮かべている。けれど、その右手には細い革の鞭が握られていた。ハズキが一歩後ずさると、ルルはそれを見逃さず、ゆっくり首を傾げた。
「ねえ、ハズキ。今日は私と遊ぶ約束だったでしょう? それなのに、そんな大きな荷物を持って、何も言わずに行っちゃうつもりだったの?」
「……ルル姉さん。俺、少し外に用事があって……」
「用事? こんな時間に? ふうん、じゃあ教えて。何をするために、干し肉まで持っているのかな?」
ルルの視線が、肩にかかった布袋へ落ちた。ハズキはとっさに紐を握りしめたが、その動きがかえって答えになってしまったと気づいた。彼女の口元がさらに楽しそうに緩む。
「あははっ! その顔、本当にわかりやすいね。安心していいよ、最初から知っていたから。ハズキ、あんた、この村から逃げるつもりなんでしょう?」
ハズキは何も言えなかった。頭の中で、準備をしていた日の光景が次々に浮かぶ。パンを隠したとき、森へ向かう道を確かめたとき、夜中に荷物をまとめていたとき。見られていないはずだったのに、どうして。
「一週間前からずっと見てたんだよ。あんたがこそこそ動くたび、ユユとララが報告してくれてね。すぐ止めたってよかったけど、そんなことしたら面白くないじゃない?」
ルルは鞭の持ち手を指先で弄びながら、心底楽しげに話していた。ハズキがここまで逃げられると信じて準備してきたことさえ、彼女にとっては退屈しのぎの見世物だったのだ。
「……お願いです。見逃して、ください。もうこの家には戻りません。あなたたちに迷惑もかけませんから」
ハズキは震える声を絞り出した。自分の自由を乞うために、今まで何度も酷い扱いをしてきた相手へ頭を下げている。その情けなさに唇を噛んだが、今は誇りよりも生き延びることのほうが大切だった。
しかし、ルルは目を丸くしたあと、おかしそうに笑い出した。
「迷惑? あんたって、本当に何もわかってないのね。私たちが困るのは、あんたがいなくなることじゃないの。あんたが勝手に幸せになれると思ってることが、気に入らないのよ」
その声に応じるように、右側の茂みが揺れた。
「さすがお姉ちゃん! ほらね、私が言った通り、ちゃんと荷物まで持ってる。あれだけ準備させたんだから、今頃は森を歩いてるつもりだったんじゃない?」
次女のユユが笑いながら姿を現した。続いて左側から三女のララが歩み出る。ララは薄い布で口元を隠していたが、その瞳は少しも笑いを隠そうとしていなかった。
「こんなに簡単に見つかるなんて、呆れてしまいますわ。村を出たあと、どうやって暮らすつもりだったのかしら。お父様に甘やかされて育った人って、やっぱり考えが浅いのね」
「……どうして、そこまで」
思わずこぼれた言葉に、ララは不愉快そうに眉を寄せた。ユユはそれを見てすぐに声を上げ、ルルの隣へ回り込んで退路を塞ぐ。
「どうしてって、こっちが聞きたいくらいだよ。あんた、今までうちで食べさせてもらったこと、もう忘れたの? お母様がせっかく結婚先を見つけてくださったんだから、お礼を言うのが普通でしょ」
彼女たちの後ろには、村外れへ続く道がある。そちらへ走れば逃げられるかもしれないと、ハズキはほんの一瞬考えた。けれど、三人は互いの位置を確かめながら動いていて、彼が一歩踏み出すたび、その行く手を塞ぐように距離を詰めてきた。
離れへ戻る道だけは空いているように見えた。しかし、そこに戻ったところで、扉に鍵をかけられたら終わりだ。ハズキが迷っている間に、背後からゆっくりと足音が近づいてきた。
「お前という子は、どこまで私の顔に泥を塗れば気が済むのかしら」
聞き慣れた、冷たい声だった。
振り返った先には、父の妻が立っていた。背筋を伸ばした姿は堂々としており、飾りの施された鉄製の扇を手にしている。普段から人前では品のよい微笑みを浮かべる女性だが、ハズキを見るときだけ、その目には露骨な嫌悪が宿った。
「お義母様……」
「その呼び方をやめなさい。何度言わせればわかるの? 私は、お前の母親になった覚えなど一度もありません」
鋭い言葉が胸に刺さった。ハズキは反射的に頭を下げかけ、そこで必死にこらえた。頭を下げても叩かれるときは叩かれるし、謝れば謝るほど相手が機嫌をよくすることも、嫌というほど知っていた。
「……結婚だけは、できません。お願いします。ほかの仕事なら、何でもしますから」
「ほかの仕事ですって? お前に選ぶ権利があるとでも思っているの?」
義母は鉄扇を開き、涼しげに顔を仰いだ。その仕草だけ見れば、夜風を楽しむ上品な女性だった。しかし、次の瞬間には扇を閉じ、鋭い音を立てて掌へ打ちつけた。
「育ててもらった恩を忘れて逃げ出そうとするなんて、やはりあの女の子だわ。父親が亡くなった途端、今度は家の決まりにまで逆らう。お前のおかげで、私はどれだけ恥をかかされたと思っているのかしら」
ハズキは顔を上げた。父を裏切った女として母親を憎む気持ちがあるのだろうと、昔は考えていた。けれど、亡くなった母親を持ち出してまで自分を傷つけようとする言葉に、どうしても胸の痛みを抑えられなかった。
「……母さんは、俺を産んですぐ亡くなりました。俺のことを嫌うのは構いません。でも、母さんのことまで……」
言い終える前に、乾いた音が夜の庭に響いた。
鉄扇がハズキの肩へ振り下ろされていた。身体が横へよろめき、布袋の紐がずれて、詰めていたパンが地面へ転がる。痛みに顔を歪めた彼を見て、ルルは弾むような声を上げた。
「まあ、言い返した! ハズキが言い返すなんて珍しいね。お母様、今の聞いた? 少しは懲らしめないと、調子に乗っちゃうかも」
「そうね。婚家で失礼をしないよう、今のうちに身の程を教えておかなければ」
義母は当然のことのように答えた。ユユは転がったパンを拾い上げ、土を払うふりをして指で押し潰した。ララは離れの扉へ目を向け、誰かに知らせる必要もないとでもいうように、肩をすくめている。
ハズキは逃げようと身を翻した。しかし、ルルの鞭が地面を叩いて足元を遮り、反対側からユユが腕を掴む。振りほどこうとしても、痛む肩に力が入らず、布袋だけが背中から滑り落ちた。
「やめて……ください。俺、ただ、ここから……」
「ここから、何? まさか本当に、自分には別の人生があると思ってたの?」
ルルの声が耳元で弾んだ。赤い髪が揺れ、彼女は今まで見せたことがないほど満足そうな顔をしていた。
「その顔が見たかったんだよ。逃げられるって信じて、ちょっとだけ希望を持って、それを全部なくした顔。ほら、もっとよく見せてよ」
ハズキの背が離れの壁にぶつかった。右にも左にも逃げ道はなく、前には三人の少女、少し離れたところに義母がいる。いつもなら誰かが屋敷から出てくる時間なのに、今夜に限って足音も聞こえなかった。
いや、きっと最初から、誰も来ないようにしてあるのだ。
(……終わった)
胸の中で、何かが音を立てて崩れた。十日歩かなければたどり着けない町も、そこで見つけるつもりだった仕事も、いつか自分の金で買いたかった温かい食事も、すべてが遠のいていく。たった一度、自分の人生を自分で選びたかっただけなのに、その願いさえ許されないのだと思った。
父が生きていた頃の笑い声が脳裏をよぎった。夕方の森で交わした言葉、洞窟へ続く道、紫の水晶の中で静かに眠るあの人の顔。あの場所へ最後の挨拶をしに行けただけでもよかったのかもしれないと考えた途端、涙が頬を伝った。
(まだ、死にたくない)
願いは、あまりにも単純だった。誰かを困らせたいわけではないし、奪い返したい財産があるわけでもない。朝、怯えずに目を覚まし、好きなときに食事をして、間違えたら怒鳴られるのではなく、もう一度やり直せる場所へ行きたかった。
それさえ、贅沢な望みなのだろうか。
「……誰か」
気づけば、声が漏れていた。ルルが何か言ったようだったが、耳には入らない。義母の鉄扇が再び持ち上がる気配の中、ハズキは両手を胸の前で握りしめた。
「……誰か、助けてください……」
声は小さく、かすれていた。屋敷の中まで届くとは思えず、届いたところで助けてくれる人がいるとも思えなかった。それでも、ハズキはもう一度だけ、誰かに生きたいと伝えたかった。
そのとき、右手の指輪が熱を帯びた。
熱さに驚いて目を落とすと、赤い石の奥で小さな光が脈打っていた。握りしめた手の隙間から赤い光が漏れ、首から下げた袋の中でも、何かが微かに震える。何が起きているのかわからず、ハズキは息を呑んだ。
「……何よ、それ」
最初に気づいたのはルルだった。彼女は鞭を握る手を止め、ハズキの右手を見つめた。ユユもララも視線を下げ、義母は不審そうに眉を寄せる。
「隠していた物があるのね。見せなさい、ハズキ。それもあの人からもらった物でしょう?」
義母が一歩踏み出した。その声が届くより先に、地面がかすかに震えた。
◇ ◇ ◇
森の奥深く、誰もいない洞窟で、紫色の水晶に新たな亀裂が走った。
長い年月を重ねてなお揺らぐことのなかった結晶が、今は静かな音を立てて軋んでいる。水晶の表面を幾本もの細い光が伝い、その内側に閉じ込められた白と黒の翼が、ゆっくりと広がろうとしていた。
誰にも届かないはずの場所に、小さな声が響いていた。
幼い日の、たどたどしい声。父親にもらった木彫りを嬉しそうに自慢する声。失敗して叱られたときの、泣きそうな声。父を失った日に、どうして眠ったままなのかと問いかけてきた声。
そして、今日、最後に告げられた別れの言葉。
『いつも話を聞いてくれて、ありがとう』
長い眠りの底へ、ひとつ残らず届いていた。
動くことはできなかった。言葉を返すことも、伸ばされた小さな手へ触れることもできなかった。けれど、いつからだっただろう。かつて世界のすべてを憎んだ心が、あの声の訪れを待つようになっていたのは。
今、その声が助けを求めている。
白い睫毛が震えた。
閉ざされていた瞼の奥で、忘れられていた光が揺れる。紫の水晶へ新たな亀裂が広がり、洞窟を覆っていた静寂が、細かな破砕音によって破られた。
少女の唇が、かすかに動いた。
「……ハズキ……」
それは、封印されてから初めて紡がれた、誰かの名前だった。
◇ ◇ ◇
村長の屋敷の庭を、夜風が吹き抜けた。
先ほどまで騒いでいたルルたちは、言葉を失っていた。地面が揺れたのは一瞬で、周囲の建物が崩れるような様子はない。それなのに、誰もが何か大きなものが近づいてくるような、説明のできない寒気を覚えていた。
ハズキも異変の理由はわからなかった。ただ、右手の指輪から伝わる熱は、少しも痛くない。むしろ冷えきっていた指先へ、懐かしい温もりが戻ってくるようだった。
どこかで、羽ばたく音がした。
鳥にしてはあまりに大きく、風にしてはあまりに柔らかい音だった。ハズキが顔を上げた瞬間、庭へ差し込んでいた薄い月明かりが、ふっと遮られた。
白と黒。
二色の大きな翼が、夜空に広がっていた。
屋敷の屋根より高いところに、一人の女性が浮かんでいる。長い銀白色の髪が風に揺れ、彼女が纏う白い衣服は月光を受けて淡く輝いていた。幼い頃から幾度となく見つめた、紫の水晶の中の美しい人。その人が今、確かに目を開けて、ハズキを見下ろしている。
義母が息を呑んだ。ルルの手から鞭が滑り落ち、ユユが小さく悲鳴を上げる。誰も彼女の正体を知らないはずなのに、そこにいるだけで逆らってはいけない相手なのだと理解してしまったようだった。
天使は彼女たちを見ていなかった。
ただ、傷だらけの少年を見つめていた。長い間動かなかった唇が静かに開き、何度も聞かせてくれたあの声へ、ようやく返事をするように微笑む。
「……聞こえていたわ」
その声は、ハズキが想像していたよりもずっと優しかった。
「あなたが、毎日話してくれたこと。嬉しかったことも、悲しかったことも……今日、さようならと言ってくれたことも。全部、聞こえていたの」
ハズキは返事を忘れた。ただ、夢ではないかと確かめるように彼女を見上げることしかできなかった。
天使は空からゆっくりと降りてきた。彼と義母たちの間へ降り立つと、白い翼を少年の側へ、黒い翼を追い詰めていた者たちの側へ広げる。舞い上がった風はハズキの頬を撫でたが、その身体を少しも傷つけなかった。
「あなたは、ずっと私に話しかけてくれた。名前も知らない、返事もしない私に……何年も」
柔らかな声音のまま、天使は一度だけ目を伏せた。そして、もう一度ハズキを見ると、泣きそうなほど優しい笑みを浮かべた。
「だから今度は、私があなたの声に応える番ね」
黒い翼が、静かに揺れた。
かつて世界を滅ぼしかけた天使は、今、一人の少年を守るために目覚めた。




