第9話 見えていた退路
【聖暦346年 晩秋/ドレイク家陣地】
夜明け前に出て、陣地までは半日かかった。森を抜ける道は、偵察のときとは別の場所を選んだ。同じ道を二度使えば、待ち構えられる。
リオナが先導した。弓を背負ったまま、足音を消す歩き方は兵たちより慣れていた。
「ここから見える」
彼女が指した先に、柵の一部が覗いていた。ドレイク家の陣地は、偵察で見たときより大きかった。
「聞いてねえぞ」
ロルフが低く言う。
「俺も今聞いた」
「お前もかよ」
「増えた?」
リオナが木の陰から覗く。
「いや」
クラウスは柵を見た。新しい材木と古い材木が混じり、奥にも天幕がある。
「昨日見えなかった場所があっただけだ。つまり、最初からもっといた」
「最悪じゃん」
「そうだな」
こちらはキルシュナーの小隊とグライフェン側の兵を合わせても十分とは言えない。だが、もう接触している。引けば、追われる。
柵の外に敵の斥候がいた。もう気づいている。声を上げて陣地へ走った。戦いは、段取り通りの攻撃ではなくなった。合図より先に、向こうが動いた。
「左翼を維持しろ!」
伝令が走る。キルシュナーの声は落ち着いていた。想定していなかった展開でも、崩れてはいない。
クラウスの分隊は左。ロルフが盾を構えて前に立ち、預けられた五人が盾を並べてその両脇に並ぶ。テオはロルフの斜め後ろ、アンナはさらに後方。リオナは木々の間を移動している。右手には、同じキルシュナー小隊の別の分隊。中央にはグライフェンの主力がいる。三方向が、それぞれ別の速度で動き始めた。速い場所と遅い場所の差が、隙になる。
左は今のところ動きが遅い。遅いこと自体は問題ではない。保てているなら、それでいい。
「クラウス!」
ロルフが叫ぶ。
「隣の中央側が押されてる!」
見る。境目のあたりで、盾列が大きく凹んでいる。踏みとどまれなかった一人の隙間から、敵兵の槍先がもう覗いていた。指揮の系統が違う部隊がつながる場所は、連携が一拍遅れる。敵はそこを知っていて、集めて押している。こちらから助けに行けば、左が空く。自分たちにも余裕はないが、崩れてはいない。
「テオ」
「はい!」
「二人連れて、境目まで寄ってもらえるか。ロルフの後ろは空けないで」
「分かりました!」
「アンナ、負傷者が来ても、今は前へ出ないでもらえるか」
「分かった」
少しだけ形を変える。隙間に入り込みかけていた敵兵が、テオたちの盾に押し返された。テオと二人はそのまま境目に留まり、剣を構えたまま横目でそちらを見ていた。残りの三人は動かず、線の形をそのまま保っていた。名前を呼ばれれば動くが、呼ばれなければ動かない。それだけでも、今日一日は十分だった。
「本当にこれで大丈夫なんすか」
「今は保ってる」
「今はって言い方、怖いんすけど」
「今しか分からない」
「それもそうか」
「先のことは戦いが終わってから考える」
「気楽っすね」
「気楽じゃない」
「そう見えないんすけど」
「見え方は変えられない」
アンナは負傷者が担がれてくるのを見た。喉の奥で何かを堪えながらも、前へは出なかった。言われたことを守っている。それだけでも、以前とは違った。
「来るぞ!」
ロルフが受ける。槍、盾、剣。両脇の五人も一斉に構えを合わせ、線が崩れずに持ちこたえた。クラウスも剣を抜いた。強くはない。一撃を受け、返す。相手は倒れないが、それでいい。倒すことが自分の役目だとは思っていない。ロルフが仕留める側で、自分は保つ側だ。役目を分ければ、下手な剣でも役に立つ。
ロルフが横から打つと、敵が下がる。もう一人。テオが横から槍を弾き、勢いのまま前へ出そうになる。
「テオ、位置」
「あっ、はい!」
すぐ戻る。以前より早かった。
「左、保ってる!」
「見れば分かる!」
そのとき、矢が飛んだ。敵兵の兜の隙間へ入り、倒れる。次は木の陰、盾の外へ出た腕に一本。
「……うまいな」
ロルフが言った先に、リオナがいた。笑っている。
「誰に言ってるの!」
「聞こえてんじゃねえか!」
三本、四本。距離を変えても当てる。敵は弓兵を嫌って散り、その分こちらの正面が軽くなった。
「いける!」
リオナが前へ出た。一人だけ、動きが違う。周囲が保とうとしている線から、リオナだけが外へ出ている。
「リオナ」
声は届かない。距離が開きすぎている。周囲の喧騒に消される。さらに前。敵兵が退く。リオナが追う。
「リオナ!」
「あと一人!」
「もういい!」
弓を引く。倒す。
「ほら!」
振り向いたその瞬間だった。彼女の後ろ、森の奥から二人。横からもう一人。リオナ自身は気づいていない。敵が逃げているように見えるが、そこだけ均衡が違う。他の場所では、敵が退くとき必ず誰かが踏みとどまり、仲間を援護する形で下がる。そこだけ違った。退く敵が、退きながら横へ広がっている。両側から回り込む形になっている。片側はまだ、囲みが薄い。偶然ではない。誰かが指示している。
退路が消えようとしていた。
「ロルフ」
「何だ!」
「ここを十息だけ頼む」
「何すんだ!」
「リオナを戻す」
「ほっとけ!」
「それは困る」
「好きにしろ!」
クラウスが走る。速くはない。若い兵ならもっと速い。だが距離は短い。
「リオナ!」
「何!」
「俺のほうへ寄ってもらえるか!」
「今いいとこなの!」
敵兵が出る。リオナの顔が変わった。
「え」
さらに後ろ、戻る道にも一人。
「うそ」
クラウスが叫ぶ。
「こっちだ!」
「分かった!」
二人でそちらへ走る。矢が飛び、リオナが一人を止める。クラウスが剣を受ける。重い。一撃で腕が痺れた。返しても浅い。敵がもう一度来る。リオナの矢が脇へ刺さる。
「クラウス!」
「助かる!」
「下がって!」
「はい!」
二人で戻る。敵は追わない。左翼の線へ戻れば、追う側が不利になる。
「危な……」
リオナが息を切らしている。
「だから前へ出ないほうが」
「今言わないで!」
「悪い」
「謝らないで!」
「じゃあ黙る」
「それも嫌!」
戻った瞬間、中央で笛が鳴った。敵の撤退を知らせる音だった。ドレイク家側が引き始める。こちらも追撃しない。敵を倒しきるための戦いではなく、陣地を維持できないと判断させればいい。敵は荷物の一部を捨て、森の西へ下がった。
隣の中央側も持ち直していた。テオたちが境目に加わった分だけ、完全に崩れる前に踏みとどまった。誰かが大声で指示を出したわけではない。小さな調整が、いくつも重なっただけだった。
戦いは終わった。勝ったと言い切るには、こちらにも負傷者が多い。別の分隊では死者も出た。陣地も完全には壊していない。だが、敵は去った。村へすぐ戻る力は失った。それで十分だった。
森はまだ揺れていた。矢が刺さった木、蹴り倒された茂み、誰かの血で色を変えた土。静かになってからのほうが、戦いの跡はよく見える。前の人生でも、そうだった。終わったあとの後始末が、始まる前の準備より長くかかることが、たいてい多かった。風が抜けるたびに、葉の裏の水滴が音を立てて落ちた。
テオが座り込んでいた。
「疲れたっす……」
「よく保った」
「保っただけっすよ。俺、誰も倒せなかった」
テオは自分の剣を見た。刃には血がついていない。それが不甲斐ないことのように見えるらしかった。
「境目へ飛び込んで、線を保った。それで十分だ」
「そうっすか」
「そうだ」
「なんか、地味っすね」
「地味なことしか俺はできない」
「それは知ってます」
「知ってるならなんで訊くの」
「訊いたわけじゃない」
「屁理屈」
「知られているとは思っていなかった」
「みんな知ってますよ、それくらいのことは」
テオはまだ納得していない顔をしていたが、それ以上は言わなかった。剣を鞘に収める手つきだけが、いつもより落ち着いていた。
アンナは負傷者を回っていた。自分の分隊ではない兵にも布を当てている。
「うち以外の分も見るのか」
「見えたら見るでしょ」
「手が足りなくならないか」
「足りなくなったら誰か呼ぶ」
ロルフは剣の血を拭っていた。
「危なかったな」
「そうだな」
「リオナの奴、次も同じことやるぞ」
「たぶん」
「止められるか」
「分からない」
「分からないって言うだけ楽だな」
「楽じゃない」
預けられた五人は、撤収と同時にそれぞれの分隊へ戻っていった。名前を呼んで送り出すと、何人かが少し驚いた顔をした。
撤収の途中、キルシュナーがクラウスを呼んだ。
「隣の中央側を助けたのはお前の指示か」
「テオと、借りた二人に動いてもらいました」
「もう一つある。リオナを戻した場面」
「見ていましたか」
「見えたところだけだ」
少し考えてから答える。
「あれは、指示ではありません」
「何だ」
「戻ってもらえるかと聞きました」
キルシュナーは少し黙った。
「同じことだろう」
「違います。聞くのと、命じるのは違います」
「聞けば、断られる可能性がありました」
「断られたら?」
「困ります」
キルシュナーは短く息を吐いた。
「困る、で済ませるつもりか」
「他に言い方が分かりません」
「……お前は変わったやつだな」
「よく言われます」
キルシュナーはそれ以上聞かず、報告書の一行に、クラウスの分隊の名を残した。
夕方、リオナは一人で弓の弦を直していた。クラウスが横を通る。
「怪我は?」
「ない」
「よかった」
「クラウスは」
「腕が痛い」
「見せて」
「アンナに見てもらった」
「……そ」
そこで会話が終わると思った。
「ねえ」
「はい」
「いつ気づいたの。囲まれるの」
クラウスは考えた。
「囲まれるとは分からなかった。リオナだけ、全体から外れていた」
「何それ」
「説明しにくい」
「勘?」
「多分」
「私、全然気づかなかった」
「前を見ていた、それだけだ」
「弓なら私のほうが上」
「そうだな」
「森も私のほうが知ってる」
「そうだな」
「戦いも、たぶん」
「そうだと思う」
「なのに助けられた」
「そうなる」
「……なのに」
リオナが弦を引く。指が止まる。
「敵わないなあ」
「誰に」
リオナが顔を上げた。
「……何でもない!」
「そうか」
「ほんっと鈍い!」
何が鈍いのか分からなかった。リオナは弓を抱えて、そのまま横を向いた。顔が少し赤い。夕日にしては、色が濃い気がした。
「明日も来るのか」
「分かんない」
「分からないのか」
「気分次第」
「気分で来られると、こちらの人数の当てが立たない」
「そういう計算するんだ」
「必要だ」
「私、数字じゃないんだけど」
「じゃあ来ない!」
「それも困る」
「どっちなの!」
「来てほしい」
リオナが黙った。しばらくして、小さく言った。
「……素直に言うんじゃん」
「本当のことだ」
「そういうとこだよ、ほんと」
彼女は弓を担ぎ直し、村へ戻る道を歩き始めた。途中で一度、こちらを振り返る。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わずに歩いていった。クラウスには分からなかった。分からないまま、その背中を見送った。歩き方が、いつもより少し早い気がした。理由は分からなかったが、悪い早さではないと思った。夜が来る前の、まだ薄い赤さの残る空だった。
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