第10話 弓が一人余ってる
【聖暦346年 晩秋/グライフェン駐屯地】
敵陣地への攻撃から二日後、グライフェンは静かだった。
静かと言っても、負傷者が減ったわけではない。治療所は依然として人で埋まり、街道を戻る荷馬車の音も減っていない。ただ、敵の陣地からの攻撃だけが止まっていた。止まっているだけで、消えたわけではない。クラウスはそれを分かっていたから、静かさを油断とは思わなかった。
アンナは朝から治療所へ借り出されている。ロルフは左肩に布を巻いて寝ていた。テオは無傷なのに、なぜか一番疲れた顔をしている。
「腰が痛いっす」
「どこも切れてねえだろ」
「切れてないから余計痛いんすよ」
「若いんだろ」
「若くても痛いんすよ!」
「それ前も聞いた」
「ロルフこそ怪我人なら寝ててくださいよ」
「寝てるだろ」
「口も寝かせてください」
「それは無理だ」
寝台の軋む音だけが、しばらく続いた。負傷者のいる天幕は、いつもこうだ。体が動かない分、口だけが動く。それも回復の途中にはあるものだった。天幕の布越しに、外の光が薄く差し込んでいた。
窓の外は、いつも通りの朝だった。敵の陣地からの攻撃が止んでから、空気は少し軽い。安心はできないが、今日来るとは誰も思っていない。それだけで、兵たちの肩の力が抜けていた。歩く速さも、声の大きさも、戦いの前とは少しだけ違って見えた。井戸端で誰かが笑う声が、久しぶりに聞こえた気がした。
クラウスは当番板を書き直していた。アンナが不在、ロルフは軽傷。このままではテオに仕事が偏る。
「今日は水を俺がやる」
「え」
「クラウスが?」
「何か問題が」
「いや、分隊長なのに」
「水は持てる」
「剣より得意そうだな」
「否定しない」
「そこ否定しろよ」
「事実だ」
「事実でも黙っとけ」
桶を持って外へ出る。門の近くに、人影があった。リオナだった。壁に寄りかかり、兵士と話している。
「だから別に用があるわけじゃないって」
「なら何しに来た」
「通り道」
「どこへの」
「こっち」
「ここが目的地じゃねえか」
「細かいなあ!」
クラウスが近づく。
「リオナ」
「遅い!」
「何が」
「別に」
通り過ぎようとする。
「待って!」
「はい」
「……水汲み?」
「はい」
「分隊長が?」
「人手が足りない」
リオナは桶を見た。
「四人しかいないんだっけ」
「はい」
「一人治療師、一人怪我」
「ロルフは動ける」
「じゃあ三人半?」
「半分にはしない」
「そういう意味じゃない」
「そうか」
「……弓、いないんだ」
クラウスはリオナを見た。
「いないな」
「不便じゃない?」
「不便なことはある」
「へえ」
「この前とか」
「助かりました」
「でしょ?」
「もっと言っていいよ」
「もっと何を言えばいいんだ」
「助かった、って部分」
「助かった」
「同じこと言うだけじゃん!」
「他に言い方が分からない」
「知ってる、それは」
リオナの口元が少し上がった。
「まあ、私ほどじゃなくても、一人いると違うんじゃない?」
「そう思う」
「だよね」
「グライフェンにも弓兵はいる」
リオナの顔が止まった。
「……いるんだ」
「いる」
「紹介してもらえるかもしれない」
「別に!そこまでして欲しいって話じゃない!」
「そうか」
「ちょっと言っただけ!」
「分かった」
「分かってない顔!」
「どういう顔だ」
「そういう顔!」
クラウスには分からない。リオナが桶を一つ取った。
「持つ」
「大丈夫だ」
「持つって」
「重いぞ」
「クラウスより力ある」
「それは多分ない」
「じゃあ勝負する?」
「水をこぼすから、やめよう」
「つまらない」
「大事なのは水だ」
「私より水が大事なの?」
「今は水を運んでる」
「そういう話じゃない!」
クラウスには、どういう話なのか分からなかった。二人で井戸へ向かう。途中、リオナが何度も何か言おうとしてやめた。
「婆ちゃんは」
クラウスが先に聞いた。
「元気。もう歩いてる。うるさいくらい」
「うるさいのはいいことだ」
「静かなほうが心配だもんね」
「そうだな」
「あんたも静かなタイプだけど」
「口数は少ないと思う」
「不安になるやつ」
リオナが少し笑った。
「あんたのおかげって、婆ちゃんが言ってた」
「アンナのおかげだ」
「持ってきたのはあんたでしょ」
「持っていただけだ」
「それでも、でしょ」
クラウスはそれ以上言わなかった。井戸の水は、澄んでいるようで底が見えない。汲むたびに桶の中で揺れ、光を散らした。冷たさが手のひらから腕まで伝わってくる。二人で桶を満たし、帰り道になる。村の方角を見て、リオナが足を止めた。
「まだ帰らなくていいんですか」
「別に急いでない」
「そうか」
「あんたのとこ、暇なの?」
「暇じゃないが、今日は俺が水汲みなんだ」
「変な分隊長だよね」
「よく言われる」
「よく言われるって返す時点で自覚あるじゃん」
「自覚はある」
「じゃあ直せばいいのに」
「直す必要があるとは思ってない。今まで、これで困ったことがあまりない」
「今はどうなの」
「分からない」
「分かんないんだ」
「そういうところじゃない?」
「どこだ」
「そこも」
「余計分からない」
「もういい、諦めた。本当に何も分かってないんだね」
「はい」
「その返事も、なんかむかつく」
リオナは呆れたように息を吐いたが、隣を歩く速度は変えなかった。
「ねえ」
「はい」
「軍って、勝手に入れるの?」
「勝手には無理だろ」
「じゃなくて」
「志願か」
リオナが足を止めた。
「誰が!」
「一般論だ」
「……一般論ね」
「村の人でも?」
「適性や身元確認はあると思う」
「弓が上手ければ?」
「有利だろうな」
また歩く。
「誰か志願したい人が?」
「知らない!知らないけど!例えば!」
「はい」
「例えば、すごく弓が上手くて、森も分かって、ちょっと口が悪いけど役に立つ人がいたとして」
「かなり具体的だな」
「例えばって言ってるでしょ!そういう人、欲しい?」
クラウスは考えた。当番表を思い出す。水汲み、夜番、薪、装備。四人で分けても、足りない仕事がある。弓が使える者が増えれば、見張りも猟も変わる。迷うことではなかった。
「欲しいと思う」
リオナが黙る。少しだけ、歩く速度が遅くなった。
「……そう」
「ただ」
「何」
「命令を聞けるかは大事だ。勝手に前へ出ると困る」
「あの戦いのこと根に持ってる!?」
「持ってない」
「絶対持ってる!」
「死にかけたから確認は必要だ」
「死んでない!」
「だから言える」
「むかつく!」
「むかつかせるつもりはない」
「じゃあなんでそうなるの!」
「本当のことを言うと、そうなることが多い」
「それ、直したほうがいいと思う」
「直し方が分からない」
「教えてあげようか」
「頼む」
リオナが口を開いて、そのまま止まった。
「……いや、いい」
「なぜだ」
「今言うことじゃない気がする」
「今でなければ、いつだ」
「知らない!もういい!」
駐屯地へ戻る。ロルフが入口から見ていた。
「何だ。増えたのか」
「何が」
「水汲み」
「手伝ってもらった」
リオナが桶を置く。
「じゃあ帰る」
「ありがとう」
その一言だけで、リオナの足がわずかに止まった。
「……それだけ?」
「何かあるか」
「ない!」
去っていく。ロルフが見送った。
「クラウス」
「はい」
「お前、分かってないのか」
「何を」
「いや」
ロルフは寝台へ戻る。
「そのままでいいや」
「何だ」
「教えるの面倒くせえ」
テオまで笑っていた。クラウスだけが分からなかった。
午後、キルシュナーがクラウスを呼んだ。
「敵陣地の様子は」
「変化はないと聞いています」
「静かすぎるとは思わないか」
「思います」
「理由は」
「立て直しているか、増援を待っているか。どちらかだと思います」
「両方かもしれん」
「そうかもしれません」
キルシュナーは地図を見ながら、しばらく黙っていた。
「次に来るときは、前より大きくなる」
「たぶん」
「備えておけ。お前の分隊も、休めるうちに休ませておけ」
「そうします」
「テオはどうだ」
「元気です。剣の腕もそれなりに上がっています。腰が痛いと言っていますが」
「若いのに」
「そう言うと、若くても痛いと返ってきます」
「よく分かってるな」
「毎回言われるので、覚えてしまいました」
それだけで終わった話だったが、クラウスはその言葉を持ち帰った。次はもっと大きい。今の静かさは、そのための時間だった。天幕を出るとき、日は思ったより高くなっていた。
夜、当番板の前で、テオが水汲みの欄を見ていた。
「今日はクラウスがやってくれたから、俺の分減りましたね」
「一日だけだ」
「でも助かりました」
「明日はまたテオだ」
「はい」
素直な返事だった。以前のような、無理をしている早さではない。ロルフが横で寝返りを打った。
「クラウス」
「はい」
「リオナ、また来るぞ」
「そう思うか」
「絶対来る」
「なぜ分かるんだ」
「分かるんだよ、そういうのは」
クラウスには分からなかった。それ以上は聞かなかった。
アンナが治療所から戻ったのは、日が落ちてからだった。
「今日も忙しかったわ」
「お疲れ」
「リオナが水汲み手伝ってくれたって聞いたけど」
「はい」
「何か話した?」
「弓兵の話をした」
「それだけ?」
「それだけだ」
アンナはしばらくクラウスを見て、それから小さく笑った。
「クラウスらしいわね」
「どういう意味だ」
「そのままの意味よ」
「良い意味か」
「悪い意味だったら教えてくれるのか」
「言うわけないでしょ」
「じゃあ聞かない」
「たぶん」
「たぶんか」
「さあ」
「分からない、では困る」
「困らなくていいの、こういうのは」
アンナはそう言って、自分の寝床へ向かった。クラウスにはやはり分からなかった。
布団に入る前、今日のことを少し考えた。弓が一人いれば、当番は楽になる。それは間違いない。だが、リオナが何を思って水汲みまで手伝ったのか。なぜ最後まで言い切らなかったのか。天幕の外で、誰かの寝返る音がした。考えても、答えは出なかった。
答えが出ないまま、眠りについた。窓の外で、風が柵を鳴らしていた。当番板には、まだ弓の欄がない。板の木目は、北の駐屯地に置いてきたものより少し粗く、新しい分だけ白かった。誰かがそこに書く日が来るのか、来ないのか、それも今は分からない。いつか、その欄が増えるかもしれない、とだけ思った。
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