第8話 放っておけば
【聖暦346年 晩秋/グライフェン駐屯地】
村を出たのは夕方だった。
傷を負った村人を残していく。連れて帰れる怪我ではなかった。負傷兵を連れての帰り道は長く、誰も多くを話さなかった。テオだけが時々、後ろを振り返っている。村の灯りが見えなくなるまで、その動きは続いた。クラウスも気づいていたが、何も言わなかった。言葉にした瞬間、テオの中の何かが変わってしまう気がした。
門が見えたころには、日はほとんど落ちていた。
グライフェンへ帰ると、キルシュナーは怒っていた。
「半刻」
「はい」
「遅れたな」
「はい」
「分かってるならなぜ黙ってた」
「聞かれていなかったので」
「次からは聞く前に言え」
「理由は」
「現地の武装住民に捕まりました」
「……何?」
「村を守っていた人たちです」
「それを先に言え」
「聞かれたので答えました」
「そういう意味ではない」
キルシュナーのこめかみが動いた。ロルフは壁際で露骨に視線を逸らし、テオは笑いをこらえている。
「結果は」
「ドレイク家の兵は撤退しました」
「損害」
「こちらは軽傷二。村側に死者一、負傷者数名。村の弓兵たちの被害は確認中です」
「敵は」
「数名を倒しています。ただし大半は撤退」
「拠点は」
「残っています」
「壊せなかったのか」
「壊す予定ではなかったので」
キルシュナーの顔が、そこでいくらか戻った。机に地図を広げる。
「位置は」
クラウスが指す。
「ここです」
「確かか」
「見ました」
村から北西、小高い尾根の裏。森を切り開き、柵を巡らせている。昨日の交戦は、その陣地の外に出ていた兵の一部に過ぎない。つまり、まだ終わっていない。
「人数は」
「森を回った限りでは三十前後です」
「全部見たわけではないだろう」
「見ていません」
「では三十以上とも言えるな」
「言えます」
「言わなかった理由は」
「見たものと見ていないものを混ぜると、判断を誤ると思ったので」
キルシュナーは、しばらくクラウスを見ていた。
「……それは軍の言い方ではないな」
「別の言い方を知りません」
「いや」
首を振る。
「そのままでいい」
午後、小隊の分隊長が集められた。グライフェン側からも二人。狭い部屋に地図と体温がこもり、話が始まる前から空気が重かった。
「増援を待つべきだ」
一人が言った。
「三十以上いる」
「昨日引いたんだろ」
「向こうもこっちの人数を見た。次は村を直接狙うかもしれん」
「それなら村を守ればいい」
「いつまで?畑仕事もできなくなるがな」
「食えなくなるほうが早く死ぬぞ」
「じゃあどうしろってんだ」
誰も答えなかった。増援を待つのが正しいのか、今叩くのが正しいのか。どちらも間違いだとは言い切れない分だけ、決めにくい。
クラウスは地図を見ていた。拠点、村、街道、水源。離れているように描かれているが、実際に歩けば全部近い。敵は一度退いた。だが陣地がある限り、いつでも戻れる。
「クラウス」
キルシュナーが呼ぶ。
「何を見ている」
「距離です」
「何の」
「拠点から村まで」
「見れば分かる」
「はい」
「意見があるなら言え」
少し考える。
「放置すれば、また来ると思います」
「根拠は」
「拠点を捨てていないので。昨日負けたからといって、土地を諦める理由がありません」
グライフェン側の分隊長が頷いた。
「俺も同じだ。あいつら前にも別の村でやってる」
「なら増援を」
「何日だ」
「早くて五日」
「五日あれば村は焼ける」
「それは困る」
「困るだけでは決まらない」
「じゃあどう決まるんだ」
会議の空気が変わった。上から命令されたわけではない。やらなくても、書類上は問題にならないかもしれない。だが現場は知っていた。ここを放置すれば、また同じことをする。
「叩くか」
キルシュナーが言った。誰も、それが命令だとは思わなかった。だが、誰も反対もしなかった。
「敵の全数は不明だ」
「だから今です」
グライフェンの分隊長が言う。
「向こうも昨日の被害を数えてる。補充前ならまだましだ」
「村の武装民は」
「使うのか?」
「使えるかどうか確認する」
キルシュナーの視線が、クラウスへ来た。
「クラウス。あの女と話ができるのは今のところクラウスだけだ」
「話はできます」
「協力させられるか」
「分かりません」
「そこは分かると言え」
「言って断られたら困ります」
誰かが小さく笑った。キルシュナーはため息をつく。
「確認してこい。今日中に」
「分かりました」
会議を出て、天幕へ戻る。三人にも状況を伝えた。
「叩くことになりそうだ」
「そうか」
ロルフは特に驚かなかった。
「まあ、放っときゃまた来るしな。面倒事は先に潰したほうが後が楽だ」
アンナは違う理由だった。
「また誰か怪我するのは分かってる。でも今のうちに叩けるなら、そのほうが怪我人は減る。増援待ってる間に村がやられたら、もっと増えるでしょ」
テオはまた違った。
「俺、リオナさんに借りがあるんで。捕まったの助けてもらったんすよ、この前」
「捕まったのは俺だ」
「俺の分も含めてです、なんか」
よく分からない理屈だったが、三人とも同じ結論に着いていた。叩く。理由は誰一人重なっていない。それでも三人とも、同じ方を向いていた。クラウスは、それを悪いことだとは思わなかった。前の人生でも、揃った理由より揃った方向のほうが、たいてい長く保った。
夕方、村へ使いを出す前に、向こうから来た。リオナだった。門で揉めている。
「だからクラウスを呼んでって言ってるでしょ!」
「軍人に呼び捨ては」
「名前で呼ばなきゃ何て呼ぶのよ!」
「分隊長だ」
「じゃあクラウス分隊長!」
クラウスが出る。
「どうした」
「遅い」
「今来た」
「見れば分かる」
「そうだな」
「婆ちゃん起きた」
「ああ。それはよかった」
「……それだけ?」
「他に何か」
リオナが口を開き、閉じた。
「まあいい。あいつらの陣地、叩くんでしょ」
「なぜ知ってるんだ」
「叩かないの?」
「まだ決まって」
「叩く顔してる」
「顔で分かるのか」
「分かる」
「すごいな」
「馬鹿にしてる?」
「いや」
本当にそう思っていなかった。リオナは腰の弓を叩いた。
「混ぜて」
「何に」
「戦い」
「危ないぞ」
「知ってる」
「村にいたほうが」
「恩返し」
「アンナなら中にいる」
「違うって!クラウスにも借りがあるって言ったでしょ!」
「そうだったな」
「だから返す」
「急がなくても」
「借りたままなの嫌なの」
そこだけは、よく分かった。前の人生でも、借りを長く抱えたままにできない性分の人間を何人か見てきた。案外、そのほうが後で救われることが多かった。
「じゃあキルシュナーに話す」
「クラウスが決められないの?」
「俺には権限がない」
「ほんっと偉くないね!」
「分隊長だ」
リオナはそれでも帰らなかった。門の脇に座り込み、弓の弦を確かめている。
「待つのか」
「返事もらうまで」
「今夜には出ないと思う」
「知ってる」
「では」
「待つの好きじゃないけど、待たないよりましでしょ」
その理屈は、少しだけクラウスにも分かった。
しばらくして、キルシュナーからの答えが伝わった。村の武装民は補助として参加を許可する。ただし正面には出さない。リオナに伝えると、彼女は肩をすくめた。
「補助ね」
「不満か」
「別に。使ってもらえるならいい。それより、弓、何本欲しい?」
「俺に聞かれても分からない」
「そういうとこ!」
その夜、キルシュナーが全体への方針を告げた。陣地への攻撃。参加するのはグライフェンの小隊二つとキルシュナーの小隊。三隊とも定数には遠く、合わせても四十人に届くかどうかだった。敵の三十数人と、大差はない。村の武装民は補助として使う。正面からは押さない。接触した部隊が持ち場を保ち、締めていく。
「クラウスの分隊はどうする」
グライフェンの分隊長が聞いた。
「先の偵察で地形を知っている。前へ出す」
「一人しか森を回っていませんが」
「他の三人は、守るほうはできても、攻め込む側の経験がありません」
「それは聞いた。経験は今夜までに増やせないが、人数なら増やせる。他の分隊から五人、この作戦の間だけクラウスの指揮下に付ける」
「分かりました」
それ以上、異論は出なかった。五人が誰になるかは翌朝まで分からなかったが、少なくとも数の上では、分隊は四人ではなくなる。
翌朝、出撃準備が始まった。柵を破る道具、縄、水、止血布、矢。アンナは薬草の袋を三つに分けていた。
約束の五人は、夜明け前に天幕へ現れた。他の分隊から回された兵で、名前も顔もまだ知らない。クラウスが一人ずつ名を聞いていくと、五人とも意外そうな顔をした。今日だけの指揮官が、まず名前を覚えようとするとは思っていなかったらしい。
「多いな」
「今回は村に置いてく分がないから。その代わり、こっちで使う分は増やした」
「頼りにしてる」
「頼りにするなら、無茶しないでよ」
「なるべく」
「なるべくって言うのが一番怖い」
「無茶はしない予定だ」
「予定って言うところが怖いのよね」
ロルフが横で聞いていた。
「予定通りに行ったことあんのか、こいつ」
「ないわね」
「じゃあ予定って言葉、要らねえだろ」
「言わないと落ち着かない」
「本人のためか」
「そうだ」
「正直だな」
「そう言われることは、これまでも多かった」
「隠しても分かると思うけどな」
「隠す気もねえだろ」
「もう少し隠せ」
「無理だ」
ロルフが呆れたように笑い、アンナも薬草を数えながら小さく笑っている。テオだけは剣の刃を睨んでいた。こちらを見ていない。何度も刃を確かめる指の動きだけが、いつもより硬かった。
「研ぎすぎだ」
ロルフが言った。
「昨日ちょっと欠けたんすよ」
「剣より腕を休ませろ」
「平気っす」
「それ言うやつは平気じゃねえ」
テオが口を閉じる。クラウスは少し笑いそうになった。前なら、こういう台詞は自分が言っていた。今日はロルフが先に言った。それでいい。人は少しずつ、誰かの分まで見るようになる。
門の外で、リオナが待っていた。
「遅い」
「集合刻限の前だが」
「私が早かったの」
「じゃあ俺たちは遅くない」
「そういうとこ嫌い」
「悪い」
「謝られるともっとむかつく!」
ロルフが横を通る。
「元気なの連れてきたな」
「俺が連れてきたわけでは」
「自分で来た!」
「ほらな」
隊列が動き出す。クラウスは最後にもう一度、地図を思い出した。陣地、村、街道、水源。偵察で見た数は三十前後。見えていなかった分は分からない。柵の裏に何人残っているか、武器の質がどれほどか、増援が来る可能性があるか。全部、確認せずに動く。
分からないものは、分からないままで動くしかない。それでも、放っておくよりはいい。放っておけば、また同じことが起きる。次の戦いが、もう始まろうとしていた。
朝日はまだ完全には昇っていない。柵の外は薄い灰色で、足音だけが先に動き出していた。
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