第7話 刻限
村は、グライフェンから歩いて半日ほど西にあった。
戸数は三十に満たない。麦畑と、細い水路が一本。森から流れてくる水を、村の入口でいったんためる池がある。それだけの、これといって特徴のない村だった。だが、地図の上では違う意味を持っていた。
この村は、すでに一度、痛い目を見ている。半年前、ドレイク家の兵が畑の一部を焼き、井戸の一つを潰した。収穫は落ち、若い男の多くが村を出て稼ぎに行った。残ったのは年寄りと、弓を握れる者だけだった。
「向こうは国境だと思ってねえ」
グライフェンの兵が、地図の上を指でなぞった。
「村の西側の森まで、自分たちの土地だと言い始めてる」
「王国側は」
「当然、村までこっちだ」
「つまり、争点は村そのものだな」
「土地と水だ。あと、細いが街道もある」
クラウスは地図を見た。道と呼ぶには頼りない線だが、南北へ抜けている。これを押さえれば、人も物も通せる。森の奥に急ごしらえで組まれた陣地は、そのための足がかりに過ぎなかった。前日の偵察で、人数もおおよそ分かっている。三十前後。正面から押せば森へ引く。追えば地形の分だけ不利になる。
「目を正面に集める」
キルシュナーが言った。
「クラウスの分隊を使う」
クラウスは地図から顔を上げる。
「どう使いますか」
「ロルフ、アンナ、テオの三人は村側から接触。無理に押す必要はない。敵の注意を引け」
「三人で?」
テオの声が裏返った。
「本隊は村の裏手で控える。三人が保っている間に距離を詰め、必要ならすぐ前へ出る。三人の役目は、押し切ることではなく、目を引いたまま保つことだ」
「本隊のうち六人は、この作戦の間だけクラウスの指揮下に付ける。森からの合流に使え」
「クラウスは森を回って背後を確認しろ。拠点の正確な位置が分かればいい」
「今日、叩くんですか」
「まだ決めていない。今日は、確かな数と場所が欲しい。それが分かれば、次の判断に使える」
ロルフが地図を覗き込む。
「クラウス一人か」
「一人のほうが見つかりにくい」
「こいつ剣は強くねえぞ」
「知っている」
「本人の前で言うか?」
「事実だろ」
「事実ですが」
キルシュナーが眉を寄せた。
「不満か」
「いいえ。確認しただけです」
出発前、アンナが小さな布袋を差し出してきた。中身は止血布と針、糸、薬草の粉。前の人生でも、こういう荷物はいつも一番信用のある人間に預けられた。役に立つかどうかより、失くさないかどうかが基準だった。
「持ってって」
「俺が?」
「村に置いてくつもりだったの。正面で戦う側に持たせるより、森を歩くだけの人に持たせたほうがましでしょ」
「俺も何かあるかもしれない」
「そういうこと言わない」
「分かった」
袋を腰に結ぶ。重さはさほどでもないが、預かったものというのはいつも実際の重さより重く感じる。
【聖暦346年 晩秋/村】
村へ向かう途中、テオがやった。林の切れ目に人影を見つけ、確かめる前に駆けた。
「いた!」
「テオ!」
ロルフの声は届かなかった。
テオは柵を越え、低木の向こうへ消える。直後、悲鳴に近い声が上がった。
追いついたとき、テオは地面に尻餅をついていた。村人が仕掛けたらしい獣用の縄罠に、片足を引っかけている。
「敵じゃねえじゃねえか」
ロルフが息を切らしながら言う。
「人影見えたんすよ!」
「人影見たら走るのやめろ!」
「逃げると思ったんで!」
「お前が先に捕まってどうすんだ!」
アンナがしゃがみ込み、足を見せろと言う。テオはいったん平気だと返し、二度目の「見せて」でようやく折れた。幸い、捻っただけだった。
「歩ける」
「でも走るな」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「二回言うと信用なくなるわね」
テオが肩を落とす。それでも誰も置いていかなかった。ロルフが歩幅をわずかに落とし、アンナも同じ速さで歩く。以前なら、テオは自分だけ遅れることを気にして無理をしたはずだった。今はしていない。それだけでも、前よりよかった。
村に着く。作戦開始は正午。ロルフたちは村の西から動き、クラウスは北側の林を回る。西側は畑の間を細い道が一本通るだけで、水路の脇を通らなければ村へ入れない。人が並んで通れるのは、せいぜい二人分の幅だった。
「あそこなら、数が多くても一度には来ない」
ロルフが道を見て言った。
「正午から四半刻経っても何もなければ」
ロルフが言った。
「俺らだけで引く」
「頼む」
「間に合わなくても死ぬ気で来るなよ」
「努力する」
「努力じゃなくて来るな」
「命令形だな」
「俺は禁止されてねえ」
別れる。
森の中は、思ったより静かだった。クラウスは剣の柄に手を置き、足音を殺す。一人になると、あの感覚はほとんど役に立たなくなる。比べる相手がいないからだ。
枝が鳴った。振り返る。
首筋に、冷たいものが当たった。
「動いたら刺すよ」
女の声だった。動きを止める。周囲の茂みから三人、すぐに気配だけでもっと増える。全員、軍装ではない。猟師のような格好で、弓を持っていた。
「王国兵?」
「そうだ」
「何しに来た」
「偵察だ」
「素直だね」
「隠しても仕方ない」
「武器」
「腰にある」
「それは見りゃ分かる」
「なら聞く必要はなかったな」
首筋の刃が、少し強くなった。
「面白い人だね」
両手を上げる。剣を取られ、木に背をつけて座らされた。女はクラウスより少し若く、長い髪を後ろでまとめている。弓だけが、使い込まれて色を変えていた。
「村を取る気?」
「ない」
「軍なんてみんなそう言う」
「じゃあ、俺が何と言っても意味はないな」
「そうだね」
「なら、解放してもらえないか」
「なんでそうなるの」
「正午までに、行くところがある」
女が笑った。
「知らないよ」
周囲を見る。五人。少し離れた場所に、さらに気配。村人ではない。だが、ドレイク家の兵でもなさそうだった。
「村を守っているのか」
女の目が細くなる。
「誰に聞いた」
「聞いてない」
「じゃあなんで」
「俺を殺してないからだ」
女は黙った。
「ドレイク家の兵なら、捕まえる理由が薄い。王国軍を嫌っているなら、なおさらだ。でも話を聞いてる」
「よく喋るね」
「急いでる」
太陽の位置を見た。時間が進んでいる。
「正午に、仲間が正面から動く」
「何人」
「三人」
「馬鹿なの?」
「俺もそう思う」
「なら止めなよ」
「もう決まった」
正午を過ぎた。遠くで金属の音がした。始まっている。
「……三人、本当に行ったの」
「ああ」
「捨て駒?」
「違う」
「同じでしょ」
クラウスは、そこで初めて少し強く言った。
「俺が戻る前提だ」
「戻れなかったじゃない」
「そうだな」
「笑えないね」
「だから相談がある。ドレイク家を追い返したいのは、お互い同じだろ」
「だから?」
「協力してもらえないか」
女が吹き出した。
「捕まってる側が言う?」
「立場は良くないな。だが、時間もない」
また音がする。今度は叫び声も混じっていた。
「王国軍が村を取らない保証は?」
「俺にはできない。俺は分隊長だ。村の扱いを決める権限はない」
「じゃあ何も約束できないじゃん」
「一つだけできる。今日、ドレイク家を追い払った後、村の中へ兵を残さない」
「できるの?」
「俺の分隊については」
「たった四人?」
「役に立たない約束だね」
「嘘よりはましだろ」
女は長く黙った。その間にも、また音が届く。
「……村のことは、こっちに任せる?」
「俺の権限の範囲なら」
「逃げた言い方」
「できない約束をするよりいいだろ」
女は舌打ちした。
「縄、外して」
後ろの男が驚く。
「いいのか」
「この人死なせたら、正面の三人も死ぬ」
縄が外れ、剣も返された。
「何分遅れた?」
「半刻」
「まずいな」
「誰のせい」
「半分くらい俺だ」
「残り半分は?」
「そちらです」
「図々しい!」
女が短く笑い、林を走り出す。走る途中で、彼女はクラウスの腰の袋に目を留めた。
「それ何」
「医療品だ」
「へえ」
「触らないでもらえるか」
「なんで」
「預かり物なんだ」
伸びた手が、袋をすくい上げていく。返してほしいと言っても、女は開けようとする手を止めなかった。
「本当に返してくれ」
「必死じゃん」
「アンナに怒られる」
「アンナ?」
「治療師だ」
「女?」
一瞬だけ、女がクラウスを見た。
「ふうん」
袋が放って寄越された。受け取る。
「落としたらどうするんだ」
「拾えばいい」
「中身を?」
「細かいね!」
正面では、ロルフたちが押されていた。出てきた敵は七、八人。数だけ見れば三人で保てる相手ではないが、狭い道が味方をした。前に立てるのはロルフ一人、せいぜい二人分。残りは後ろで詰まったまま、順番を待つしかない。三人だけで勝つための戦いではなく、敵の目を引きつけるための戦いだった。それでも、半刻は長い。
「テオ、下がれ!」
「まだ!」
「下がれって!」
「いけます!」
盾に槍が当たり、ロルフが受ける。テオが横から突くが、敵は倒せない。ただ、近づかせない。アンナは剣を抜いていたが、戦うことよりも二人の間の距離を見ていた。
そのとき、後方から足音がまとまって近づいた。キルシュナーの本隊だった。だが、道の幅は変わらない。前へ出られるのは先頭の十人ほどで、残りは後ろに列を作ったまま詰まっている。それでも、盾を並べた十人がロルフたちの後ろから割って入ると、三人だけで保っていた線に、数の重みが加わった。敵の圧力が、初めて緩んだ。
そこへ、後ろから矢が飛んだ。敵兵の盾の縁に刺さり、振り向いた瞬間、もう一本が肩を射た。
「後ろだ!」
森から人影が出る。十人余り。本隊から預けられた六人と、リオナたちの弓が混ざっている。その先頭にクラウスがいた。
「遅え!」
「悪い!」
「後で殴る!」
「それは困る!」
女が笑う。
「仲いいね!」
「どこがだ!」
敵の注意が割れる。正面と、背後の扇に広がった十人余り。矢が右からも左からも飛んでくることに気づいたときには、囲まれかけていた。ドレイク家の兵は強かったが、ここへ残る理由はない。村を取るための陣地で、これ以上兵を減らす意味もなかった。
やがて笛が鳴る。撤退。敵が森の奥へ引いていった。
「追う?」
「やめたほうがいい。向こうの地形だ」
「逃がすの?」
「今日の目的は、村を取らせないことだ」
「甘いね」
「そうかもしれない」
女は矢を下ろした。戦いは終わった。村側の男が一人、ドレイク家側にも数人、死者が出た。負傷者はもっと多く、アンナが走り回る。
そこで、村の奥から叫び声が上がった。
「婆さん!」
女の顔が変わり、駆け出す。小さな家の中に、年老いた女が倒れていた。戦いの最中、屋根から落ちた木材で脚を深く切っている。血が止まらない。
「婆ちゃん!」
女が膝をつく。
「どいて」
アンナが入り、傷を見る。
「布」
クラウスが腰の袋を渡した。アンナが一瞬だけ彼を見る。
「ちゃんと持ってたわね」
「途中で危なかったが」
止血布、糸、針。女は横で黙り、さっきまでの軽さが消えている。
「助かる?」
「今やってる」
「助かるの?」
「静かにして」
アンナが縫う。時間がかかった。
夕方、年老いた女の呼吸は落ち着いた。
「今夜があるから絶対とは言えない。でも、血は止まった」
女はしばらく何も言わず、それからクラウスを見た。
「それ、医療品」
「ああ」
「村に持ってくるつもりだったの?」
「アンナが」
「……そう」
外では、村の男たちが敵の置いていった物資を運んでいる。盾、槍、食料、靴。
「戦利品、もらうよ」
「俺に聞かれても困る」
「ほんと権限ないね」
「分隊長だ」
「偉そうじゃない分隊長」
女は少し笑い、初めて手を差し出した。
「リオナ」
「何が」
「名前」
「クラウスだ」
「知ってる」
「言ったか」
「仲間が呼んでた」
リオナは差し出した手を引っ込めない。クラウスも握った。硬い手だった。弓を長く引いてきた者の手だ。
「借り、一つ」
「村を助けてもらったことか」
「違う」
リオナは家の中を見て、それだけ言った。
「婆ちゃん」
「それはアンナに」
「分かってる。クラウスにも一個」
「なぜ」
「うるさい」
クラウスには、よく分からなかった。分からないまま、太陽が森の向こうへ落ちていくのを見ていた。
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