第6話 当番表
北部駐屯地の朝は、いつも霧が濃い。
聖アルディ教国に近いこの土地は、夏でも空気が湿っていて、日が高くなるまで木柵の輪郭がぼやけている。クラウスはその白さの中を、桶を持って井戸へ向かうテオの背中越しに眺めていた。
分隊が四人になってから、まだ日が浅い。
それでも、これだけ一緒にいれば、誰が何を持っているかくらいは分かるようになる。ロルフは面倒事を見つけても、誰かが先に動けば口を出さない。アンナは治療道具の管理だけで朝晩の大半を使う。残った仕事を、テオが黙って拾っていた。
朝一番の水汲み。食事の受け取り。装備の確認。夜番の交代。天幕まわりの片づけ。
誰の仕事とも決まっていない細かい用事は、いつも同じ順序で消えていく。決まっていないから、気づいた者がやる。気づく者は、だいたい同じだった。
「テオ、また水か」
ロルフが寝台から半身を起こした。
「別にいいっすよ」
テオは両手に桶を提げたまま、鼻で笑って答える。
「昨日も行ってなかったか」
「行きましたけど」
「一昨日も、だろ」
「だから何すか」
「いや。元気だなと思ってな」
「若いんで」
「若さを水汲みに使うのは、ちっともったいねえな」
「じゃあロルフが行きます?」
「俺は若くない」
「知ってます」
「そこは否定しろよ」
「無理です」
「即答か」
「即答です」
テオはそれだけ言うと、桶を担ぎ直して天幕を出ていった。
クラウスはその足音が遠ざかるのを聞きながら、内心で数えていた。この三日で、テオが誰にも頼まれず自分から動いた回数が七。頼まれてから動いた回数は、二にしかならない。
役に立ちたいという気持ちと、役に立てていないと落ち着かない気持ちは、外からはよく似て見える。だが積もり方が違う。今のところ、それで困ったことはない。困るのは、これが積もりきったときだ。
昼、四人で食事を取っている最中に、クラウスはその話を切り出した。
「当番を決めようと思う」
ロルフがパンを止める。
「何の」
「細かい仕事だ」
「決めるほどあるか?」
「あると思う」
「今まで、それなりに回ってたぞ」
「テオが回しているので」
三人の視線が、一斉にテオへ向いた。
「え」
口いっぱいに芋を詰めていたテオが止まる。
「水、薪、食器、夜番」
クラウスは指を折った。
「今朝は馬具の泥も落としていたな」
「あれは頼まれてないっす。勝手にやっただけで」
「空いてたんで」
「空いていたから、全部やった?」
「全部ってほどじゃないっすよ」
アンナが横から口を挟む。
「昨日、包帯を干すのも手伝ってくれたわよ」
「それはアンナが忙しそうだったから」
テオは少し困った顔をして、それでも早口に返した。
「俺は何でもいいっすよ、別に」
食い気味の返事だった。クラウスは何も言わずに、その顔をしばらく見た。
「……何すか」
「ロルフは何が嫌だ」
いきなり水を向けられたロルフが、眉を上げる。
「やりたいことじゃなくて、嫌なことを聞くのか」
「そっちのほうが早いだろ」
「まあな」
少し考えて、答えが返る。
「朝の水汲みだ」
「理由は?」
「朝だから」
「分かった」
アンナも笑って続けた。
「私は夜番を減らしてほしいわ。夜に怪我人が出ると寝られないから」
「分かった」
クラウスはテオを見る。
「テオは?」
「何でもいいっす」
「分かった」
「え?」
拍子抜けした顔になる。クラウスはそこで一度話を止めた。
「じゃあ、最後にもう一度聞く。本当にどれでもいいのか」
テオが口を閉じる。
「水でも、夜番でも、薪でも、装備の手入れでも。何でもいいか」
「……いいっすよ」
「そうか」
それ以上は追わなかった。パンを食べる。ロルフも食事を再開する。アンナだけが、しばらくテオの顔を見ていた。
少しの静けさのあと、テオが小さく口を開いた。
「……いや」
「何だ」
「装備」
「装備?」
「剣とか槍とか。あれ、俺やりたいっす」
声は小さかった。
「手入れが好きなのか」
「別に好きっていうか」
テオが頭を掻く。
「前にいたとこで少し教わったから。刃を見るくらいなら分かるし、研ぎも、ちょっとなら」
「じゃあ、頼む」
「……いいんすか」
「やりたいと言ったろ」
「いや、でも」
「問題があるか」
「ないっすけど」
「じゃあ決まりだ」
テオは、嬉しそうにすると負けだと決めているような顔をした。そういう年頃なのかもしれない。
その日の夕方、簡単に書いた当番の板が、天幕の柱へ掛かった。水汲み、夜番、薪、装備。完全な割り振りとは言えない。アンナの仕事は怪我人次第で崩れるし、ロルフは早々にテオへ押しつけようとした。
「テオ、明日の水」
「ロルフ」
クラウスが名前を呼ぶ。
「まだ何も言ってねえだろ」
「そうか」
「……くそ」
それでも、少なくとも誰の仕事かは分かるようになった。それで十分だった。
※
翌朝、キルシュナーが分隊の天幕へ来た。手には一枚の書状を持っている。
「大隊本部からの通達だ」
四人が顔を上げる。
「来週、西部国境グライフェンへ移動する」
ロルフの顔から、眠気が音を立てて消えた。
「西?」
「西だ。西方諸侯絡みの小競り合いが増えているとのことだ」
「討伐隊が?」
「討伐隊ではない。軍は魔物だけを相手にしているわけではない」
キルシュナーは淡々と続けた。
「向こうの駐屯戦力を増やす。小隊ごと移る」
「期間は」
クラウスが聞く。
「決まっていない」
「分かりました」
「不満か」
「いいえ」
書状を丁寧に折り、キルシュナーは踵を返した。
「準備をしておけ」
「はい」
足音が遠ざかったあと、しばらく沈黙があった。ロルフが寝台へ倒れ込む。
「……北から西かよ」
「嫌か」
「ここに慣れた」
「まだ着任して日が浅いだろ」
「だからだ。慣れた瞬間に動かされるのが、一番だるい」
クラウスは壁際に貼られた大陸の写しを見た。北部駐屯地は聖アルディ教国に近く、行き来する商人も兵も限られている。ここで手に入る話は、教国方面のことばかりだった。
西方諸侯については、地図の上に線が引かれているだけで、実感のある話はほとんど入ってこない。誰の家がどう動いているか、村がどう脅かされているか。そういう具体的なことは、行った先でなければ分からない。
北にいるうちに西の事情を知ろうとするのは、聞こえない声に耳を澄ますのと同じだった。分からないことを、分からないままにしておくのも、一つの判断だった。
テオは少し違う受け止め方をしていた。
「国境っすよね」
「そうみたいだな」
「人とやるんすか」
「必要なら」
「俺、初めてっす」
「俺もだ」
テオが目を丸くする。
「クラウスも?」
「そうだが」
「平気なんすか」
「まだ何も起きていない」
「……そういうとこだよなあ」
何がそうなのかは、クラウスには分からなかった。
※
【聖暦346年 晩秋/街道】
六日後、小隊は西へ向かった。
乾いた街道は北部より歩きやすく、雪解けの泥の代わりに、荷車の轍が深くなっていた。歩けば歩くほど、木立の種類が変わっていく。針葉樹の匂いが薄れ、代わりに乾いた土の匂いが強くなった。
テオは最初の半日だけ元気だった。
「思ったより近いっすね」
「まだ半日だぞ」
ロルフが言う。
「分かってますって」
翌日には、その口ぶりが変わった。
「遠いっすね」
「まだ二日目だぞ」
「分かってますって」
三日目には、口の中身も変わった。
「もう無理っす」
「まだ半分だ」
「足、痛え……」
「若いんじゃなかったのか」
「若くても痛いもんは痛いっすよ」
「じゃあ俺が痛いのは当然だな」
「ロルフ、昨日から荷物軽くない?」
アンナが横から言った。
「気のせいだ」
「テオの袋、増えてるわよ」
「若いからな」
「返してやってくれ」
クラウスが言った。
「誰に」
「テオに」
「本人が持つって」
「言ってないっすよ!」
「今言った」
「違う!」
【聖暦346年 晩秋/グライフェン駐屯地】
そんな遣り取りをしながら、一週間弱でグライフェンへ着いた。
砦というほど大きくはない。石壁に囲まれた駐屯地に、外側から寄り添うように家々が並んでいる。だが、着いてすぐに妙な感じがした。
兵が少ないわけではない。門にも壁にも見張りはいる。装備も壊れていない。それなのに、誰も余計な話をしない。歩く速度が少し遅く、座れる場所があればすぐに腰を下ろす。交代を告げる鐘が鳴っても、立ち上がるまでに一拍ある。
食堂の列も静かだった。北部駐屯地なら、誰かが冗談を言い、誰かが舌打ちをして、それだけで音が生まれていた。ここにはそれがない。会話は必要な分だけで、笑い声は一度も聞かなかった。
表向きは駐屯地として回っている。だが、人数は保っていても、余裕までは保っていない。その差は、こちらから見ても分かるくらいはっきりしていた。
「……長かったみたいですね」
アンナが小さく言う。
「何がだ」
「ここにいる人たち。ずっとこんな感じなんじゃない?」
クラウスは答えなかった。
着任の手続きが終わる前に、門の外が騒がしくなった。村人が三人、そのうち一人は肩で息をしている。
「兵隊さん!」
声が裏返っていた。門番が止める。
「どうした」
「西の林だ。あそこに人がいる」
「誰だ」
「知らん。けど村の者じゃない。十人どころじゃない。木を切って、柵を立ててる」
駐屯兵の顔が変わった。
「諸侯の兵か」
「分からん」
「旗は」
「出してない」
キルシュナーが呼ばれ、村人の話を聞きながら地図を広げる。クラウスたちも少し離れて立っていた。
「前線の陣地の可能性がある」
駐屯地側の兵が言った。基地というより、柵と天幕を並べただけの、間に合わせの構えを指しているらしかった。
「確認が必要だ」
キルシュナーが地図を畳む。
「明朝、偵察を出す」
その視線が、クラウスたちへ向いた。
「クラウスの分隊も同行する」
「はい」
ロルフが小さく息を吐いた。
「着いた早々かよ」
「そうだな」
「休む間もねえな」
「休む間があれば、村の人はもっと早く来てただろうな」
「……そりゃそうか」
テオは、村人の顔を見ていた。肩で息をしていた男は、まだ息が整っていない。怖かったから、それだけ急いで来たのだろう。
「行くんすね」
「たぶん」
「明日の朝、決まるだろうな」
「俺、何すればいいっすか」
「まだ決まってない」
「じゃあ今は?」
「今は休んでてくれ」
テオが少し不満そうな顔をした。休めと言われても、休めない性格らしい。クラウスはそれ以上言わず、休むかどうかは本人が決めることだと思っておいた。
西へ来て、最初の仕事が決まった。
当番表を書いた板は、北部の天幕に置いてきたままだった。次に張るのは、ここになる。水汲み、夜番、薪、装備。板に書く欄は、これからもう少し増えるかもしれない。
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