第5話 まさかの分隊
川上の岩場は、渡れると言うには少し心許なかった。
水面から頭を出した石が、流れの中に不規則に並んでいる。雨で水量が増しているせいで、場所によっては石と石の間を濁流が勢いよく抜けていた。
それでも、崩れた橋よりはましだった。
クラウスは一番手前の石へ足を乗せた。
滑る。
靴底を擦りつけ、苔の少ない場所を探す。
「ここなら行けそうだ」
「さっき橋を落とした男の『行けそう』は、あまり信用したくないな」
後ろでロルフが言った。
「なら、俺が先に渡る」
「そういう意味じゃない」
「どういう意味だ」
「もういい」
ロルフが疲れたように手を振る。
テオは、その横で川を覗き込んでいた。
「結構、深くないですか」
「落ちなければ問題ない」
「落ちた場合を聞いてるんです」
「濡れるだけだろ」
「そうでしょうね!」
声が戻ってきていた。
橋のそばでは必要以上に声を上げないよう気をつけていたが、追手が見えなくなったせいで、いつもの調子が戻ったらしい。
それでも、以前のように先へ飛び出そうとはしなかった。
クラウスが石へ移るのを待ち、その足が安定したのを見てから次へ進む。
一度役目を理解すると、驚くほど素直だった。
川の中ほどまで来ると、水音が大きくなった。
クラウスは一つ先の石へ移り、振り返る。
「ロルフ、その石は右側のほうが滑らない」
「分かったよ」
「テオは、ロルフが移ってからのほうがいい」
「はい」
三人が一列になって渡る。
ついさっきまで、追手がそうしていた。
同じ一列でも、意味はまるで違う。
追手は前へ押されていた。
こちらは前が空くまで待っている。
それだけの違いで、誰も転ばない。
最後の石から岸へ上がったところで、ロルフが深く息を吐いた。
「今日はもう、橋も川も見たくないな」
「賛成です」
テオが即座に答えた。
クラウスも同じ気分だったが、口には出さなかった。
対岸の斜面には、踏み荒らされた跡が残っている。
村人たちが通った跡だ。
それを辿ればいい。
※
村人たちに追いついたのは、それからしばらく歩いたあとだった。
森を抜けた先の緩い坂で、一団が休んでいる。
地面へ座り込んでいる者が多かった。荷を枕にして横になっている老人。母親の膝へ頭を乗せた子供。立ったまま水を飲んでいる男。
橋を渡っている間は、一人ずつ前へ進むことだけに集中していた。その緊張が切れたのだろう。
誰も元気ではない。
だが、全員いる。
アンナが真っ先にこちらへ気づいた。
「遅い!」
坂を下りてくる。
ロルフが顔をしかめた。
「川があったんだよ」
「知ってるよ!」
「なら仕方ないだろ」
「仕方なくても遅いものは遅い!」
アンナはロルフの前を通り過ぎ、そのままテオの腕を掴んだ。
「怪我は」
「ないです」
「本当に?」
「ちょっと滑りましたけど」
「どこ」
「転んでないです!」
「ならいい」
次にロルフ。
「手」
「なんでだよ」
「縄を引いたんだろ」
「大したことない」
「見せな」
「擦れただけだって」
「見せな」
ロルフは諦めて手を出した。
掌と指の付け根が赤く擦れている。
アンナは水で汚れを落とし、布を巻いた。
「こんなの、唾つけとけば治る」
「それで治らないから私がいるんだろ」
「治るぞ」
「黙って巻かれな」
ロルフは、今度こそ黙った。
最後にアンナがクラウスを見る。
上から下まで一度眺める。
「怪我は?」
「特にない」
「本当に?」
「ああ」
「川に落ちても?」
「落ちていない」
「なら、まあいい」
アンナはそれだけ言った。
怒っているような顔をしていたが、肩は明らかに緩んでいた。
クラウスも、そこで初めて周囲を数えた。
橋を渡していた村人たち。
欠けてはいない。
途中で座り込んだ老人も、母親と子供もいる。
誰かが大声で喜ぶことはなかった。そんな元気は残っていないのだろう。
ただ、何人かがこちらを見て頭を下げた。
クラウスは軽く頷いた。
それで十分だった。
助けた、と言われても少し違う。橋を渡ったのは村人たち自身だ。橋を落としたのはロルフだ。石を運んだのはテオ。最後まで人数を見ていたのはアンナ。
クラウスがやったのは、それぞれがやることを決めただけだった。
一人では、何もできなかった。
※
休息は長く取れなかった。
崩れた中隊の残存者が集まる場所が、街道の西側に設けられているらしい。ロルフたちは、そこへ向かわなければならない。
アンナが村人の一人から聞いた道順を、地面へ枝で描いている。
「この先で道が二つに分かれる。村の人たちは西へ。その先に兵が集まってるってさ」
「俺たちもそっちだな」
ロルフが言う。
テオも頷いた。
クラウスは地面の線を見る。
自分の道は逆だった。
北。
今日の朝から、ずっと向かっていた方向だ。
「クラウスは?」
アンナが聞く。
「北へ行くつもりだ」
「集結地点じゃなく?」
「着任先があってな」
「ああ」
アンナが、思い出したような顔をした。
「そういえば、そうだったね」
「忘れてたんですか」
テオが言う。
「橋が落ちたら、それどころじゃないだろ」
「俺も忘れてました」
「胸を張って言うことじゃないよ」
ロルフが腕を組む。
「で、北ってどこだ」
クラウスは辞令を入れている革袋を軽く叩いた。
「北部の駐屯地だよ」
「そりゃまた、そこそこ歩くな」
「ああ」
「今日中に着くつもりか?」
「できれば」
「その顔で?」
「顔は関係ない」
「いや、疲れてるぞ」
自覚はあった。足も重い。空腹もある。だが、着任そのものを明日へ回す理由にはならない。予定より遅れた説明はできる。連絡もなしに一日遅れる説明は、少し面倒になる。その程度のことは、この半年で覚えた。
「行けるところまでは行くよ」
クラウスは言った。
別れは、それだけで始まった。
妙なものだった。
朝には名前すら知らなかった。その日のうちに一緒に橋を落とし、日が傾く前にはもう別れる。
この先もう一度会うかどうかも分からない。
軍にいれば、珍しくないことなのだろう。
前の人生でも、同じ場所で長く働いた相手より、たった一度の面倒な仕事を一緒に片づけた相手のほうを、妙に長く覚えていることがあった。
クラウスはロルフを見る。
「手、無理はしないほうがいいぞ」
「命令か?」
「違う。あとでアンナに怒られないための提案だ」
「それなら聞いとく」
アンナには、
「村人を頼む」
と言いかけて、少し変えた。
「まあ、村人と一緒なら安心だな」
アンナが眉を上げる。
「それ、褒めてるのかい」
「そのつもりだ」
「ずいぶん分かりにくいね」
「よく言われる」
「最近だろ」
ロルフが横から言った。
「ああ」
最後にテオが一歩前へ出た。
「クラウスさん」
「なんだ」
「また会えますか」
クラウスは答えに少し迷った。
会えるとは言えない。会えないとも言えない。
「軍にいれば、そのうちどこかでな」
「そうですよね」
テオは納得したのか、していないのか分からない顔をした。
ロルフがその肩を軽く叩く。
「じゃあな、クラウス」
「ああ」
「次は、もう少し面倒じゃない場所で会いたいもんだ」
「俺も、まあそう思うよ」
「そこは同意するんだな」
四人はそこで別れた。
感傷的なことは、誰も言わなかった。言うほど長く一緒にいたわけでもない。
ただ、クラウスが北へ歩き出してしばらくしてから一度振り返ると、三人ともまだこちらを見ていた。
手を振ったのはテオだけだった。
クラウスは片手を上げた。
それから、今度こそ一人で歩いた。
※
【聖暦346年 晩秋/北部駐屯地】
北部駐屯地へ着いたころには、陽がかなり傾いていた。
木柵で囲まれた小さな駐屯地だった。大きな砦ではない。監視塔が一つ。兵舎が二棟。厩。物資置き場。奥にいくつかの幕舎が並んでいる。
入口の兵へ辞令を見せると、書面とクラウスの顔を何度か見比べられた。
「今日着任?」
「ああ」
「随分遅かったな」
「途中で少しありました」
「少し?」
「橋が落ちました」
兵はしばらく黙った。
「……そりゃ大変だったな」
「そうですね」
説明するには長い。聞かれなかったので、それ以上は言わなかった。
兵は奥の幕舎を指した。
「小隊長のところへ。異動の話は通ってる」
「助かります」
クラウスは幕舎へ向かった。
中にいたのは、細身の男だった。卓上に書類が積まれている。戦場にいるというより、書類と戦っている顔だった。
クラウスが入口で足を止めると、男は顔を上げた。
「クラウスか」
「はい」
「辞令を」
クラウスは書面を渡す。
男はざっと目を通した。
「私はキルシュナー。この小隊を預かっている」
「クラウスです。本日付で着任しました」
「聞いている」
キルシュナーは辞令を卓へ置いた。
それから、クラウスの泥だらけの靴を見る。
「道中で何かあったか」
「撤退中の部隊に行き合いました」
「それで」
「少し手を貸しました」
「怪我は」
「ありません」
「ならいい」
それ以上は聞かなかった。クラウスにはありがたかった。今説明を始めれば、橋の構造から話すことになる。
キルシュナーは別の紙を一枚取った。
「分隊長としての配置は予定どおりだ。人員は少ない」
「何人でしょう」
「三人」
クラウスは一瞬だけ黙った。
少ない。普通の分隊としては明らかに足りない。だが、足りないものについて今ここで文句を言っても増えない。
「分かりました」
「事情があってな」
キルシュナーは書類へ目を落とした。
「本来の所属が崩れた兵を、今日こちらへ振り分けた」
「今日ですか」
「ついさっきだ。集結地点から名簿だけ先に来た」
クラウスは少しだけ眉を動かした。
今日。崩れた部隊。嫌なほど身近な言葉だった。
「三人とも、同じ中隊の残存ですか」
「そうだ。使える者から欠員へ回している。こちらもちょうど分隊員が足りなかった」
「空いているところへ、動かせる人員を入れたわけですね」
クラウスが言うと、キルシュナーは意外そうに眉を上げた。
「そういう言い方もできるな」
「まあ、事実ですから」
キルシュナーは、少しの間クラウスを見てから、小さく息を吐いた。
「淡々と言う男だな」
「そういう質のようです」
それだけなら珍しい話ではない。崩れた部隊の人員を、欠けた場所へ振り分ける。軍として当然の処理だった。
言いながら、クラウスはふと思い出していた。
半年前、自分がここへ回された理由も、これと同じ言葉で片付けられていた。空いた穴に、動かせる人間を入れただけ。あのときは自分がその人間だった。今日は、自分がその穴を持つ側だった。
同じ構造の、両側に立ったことになる。
キルシュナーは入口へ顔を向けた。
「ちょうど来たようだな」
幕の外から足音がした。
複数。
一人は重い。一人は軽い。一人は足音そのものがあまりしない。
クラウスは、なぜかそれを知っている気がした。
幕が開く。
最初に入ってきた男を見て、クラウスの思考が一拍だけ止まった。
日に焼けた顔。古びた革鎧。右手には新しい布が巻かれている。
ロルフだった。
その後ろからアンナ。さらにテオ。
三人とも、入口で止まった。
沈黙した。
クラウスも何も言わなかった。朝から数え続けてきたものの中で、これだけは数に入れていなかった。
「……まじか」
ロルフが言った。
テオが目を見開く。
「クラウスさん!」
アンナだけは、しばらくクラウスを見ていた。それから額へ手を当てた。
「今日一日で、まだ続きがあるのかい」
キルシュナーが三人を見た。
「知り合いか」
クラウスは少し考えた。
「今日、会いました」
「今日?」
「はい」
「どこで」
「橋の近くです」
ロルフが吹き出した。
「橋の近く、で済ませるのかよ」
キルシュナーは意味が分からない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「まあいい。話が早いなら助かる」
書類を一枚、クラウスへ差し出す。
「本日から、この三人がクラウス分隊だ」
クラウスは紙を見る。
ロルフ。アンナ。テオ。
確かに三人の名前が書いてある。
間違いではない。偶然でもない。
人員の足りない分隊。所属を失った三人。空いている場所へ人を入れただけだ。
その構造には、もう気づいていた。だからこそ、疑う必要のない巡り合わせでもあった。誰かが意図してこの組み合わせを作ったのなら裏を探るべきだが、これはただの事務手続きの結果でしかない。
クラウスは書類を置いた。
三人を見る。
橋の前では、互いに何者なのかも知らなかった。それでも役割は作れた。
今度は、最初から名前が分かっている。
「改めて、クラウスだ」
ロルフが眉を上げる。
「また名乗るのか」
「今度は分隊長としてだ」
「そこは律儀なんだな」
「必要だからな」
アンナが笑った。テオは妙に姿勢を正した。
クラウスは三人へ向き直る。
「これからよろしく頼む。ロルフ、アンナ、テオ」
一瞬だけ間があった。
ロルフが肩をすくめる。
「……まあ、よろしく頼むよ、分隊長」
「私は最初から面倒を見る側だと思ってるからね」
アンナが言う。
「俺、頑張ります!」
テオの声が幕舎に響いた。
キルシュナーが顔をしかめた。
「少し声を落としてくれると助かる」
「あ、はい!」
今度は少し小さい。
ロルフが笑った。アンナも笑った。
クラウスは、三人を順に見た。
口ほど怠けない男。数を数え続ける女。役目の意味が分かれば、勝手に走らない若い兵。
朝には誰も知らなかった。夕方には、全員の動き方を少し知っていた。
そして今、その三人が自分の部下になった。
良い分隊なのかどうかは、まだ分からない。人数も足りない。実績もない。互いのことだって、ほとんど知らない。
それでもクラウスには、一つだけ分かっていた。
この三人なら、誰にも命じられなくても、置いていかれた人間のそばに残る。
それは、剣の腕より先に覚えておく価値があった。
クラウスは腰の剣に触れなかった。今日一日、一度も抜かなかった剣だった。
代わりに、目の前の三人の名前をもう一度覚え直した。
ロルフ。アンナ。テオ。
こうして、四人だけの分隊ができた。
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