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剣を持たない救国のサラリーマン ~隊も砦も領地も押し付けられて国まで至る~  作者: とんこつしょうゆ


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第4話 崩れる橋

 先頭の男の足が、板を踏んだ。


 板がわずかに沈む。増水した水が、丸太の下でひときわ大きく音を立てた。


 男は、それでも進んだ。歩みに迷いはなかった。渡り切れると信じている足取りだった。


 二人目が続く。三人目。


 橋の上に、人の列ができ始めていた。


 クラウスは、まだ動かなかった。


 喉の奥が、乾いている。それでも、目だけは動かし続けていた。


 ロルフは、最後の縄に手をかけたまま、微動だにしなかった。テオは、剣の柄から手を離した状態で、追手の後方だけを見ている。


 三人とも、それぞれの持ち場で、それぞれの緊張を抱えていた。誰も、余計な言葉を発さなかった。


 川の水音と、遠くの足音だけが、この場を埋めていた。


 列の後方に、目を移す。


 荷を担いだ一団は、まだ動いていない。街道の中ほどに留まったまま、様子をうかがっているようだった。


(動け)


 声には出さない。念じたところで、動くものではない。


 だが、先頭が渡り始めたのを見て、後方の判断も変わるはずだった。渡れると分かった橋を、使わない理由がなくなる。


 人は、目の前で誰かがやってのけたことを、自分にもできると思い込む。危険を見るより、成功した姿を見るほうを信じやすい。それは、この世界でも変わらないらしかった。


 果たして、荷の一団が動いた。


 二人がかりで抱えた木箱、袋を背負った者。街道から外れ、橋のほうへ進路を変える。


 戻りにくい形に、なっていく。


 クラウスは、その動きを目で追った。人が一度動き出すと、それを止める理由を探すより、そのまま進む理由を探すほうが楽になる。誰にでも起きることだった。


 もう少し。


 まだ早い。


 橋の上には、すでに四人。荷の一団は、まだ橋にかかっていない。


 ロルフの指が、縄の上でわずかに震えていた。抜く力はもう十分にある。あとは、いつ抜くかだけだった。


 テオは、追手の後方から目を離さない。荷の一団が動くたび、その体がわずかに前へ傾いだ。今にも声を上げそうになるのを、何度も飲み込んでいるのが分かった。


 弓を持つ男が、列の中ほどで足を止めた。矢筒に手をかけている。


 射程に入れば、こちらが不利になる。


 だが、それも分かっていたことだ。新しい事実ではない。


 早く落とせば楽になる。その誘惑は、常にそこにあった。ロルフの指も、テオの視線も、早く終わらせたがっている。だが、楽になりたいという理由で判断を変えれば、これまで待った意味そのものが崩れる。


 怖くなったから条件を変えるなら、最初から怖がっていればよかった。


 クラウスは、荷の一団を見続けた。


       ※


 橋の上、五人目が渡り始めた。


 荷の一団が、ようやく橋の袂に達した。


 木箱を担いだ二人が、板に足をかけようとしている。


 その瞬間。


 クラウスは、短く息を吸った。


「――ロルフ」


 声は、大きくなかった。だが、隣にいるロルフには十分だった。


 ロルフが、縄から手を離した。


 いや、離したのではない。最後の力で、引いた。


 鈍い音が、川の音に混じって響いた。


 橋脚が、傾いた。


 最初は、ゆっくりだった。丸太が軋み、板がざわめき、橋全体が斜めに沈んでいく。


 時が、一瞬だけ引き延ばされたように感じられた。


 橋の上にいた者たちが、何が起きたか分からないまま、足元を見た。


 誰かが、声にならない声を上げた。


 次の瞬間、橋は崩れた。


 板が跳ね、丸太が流れに呑まれる。橋の上にいた五人が、悲鳴とともに川へ落ちた。


 水しぶきが、こちらの岸まで届くほど大きく上がった。


 木箱を担いでいた二人は、橋に足をかけたところで止まり、そのまま前へつんのめった。手にしていた木箱が、水面へ落ちる。


 一人は、木箱を手放さなかった。抱えたまま、川へ引きずり込まれていく。もう一人は、とっさに手を離し、崩れる板の端にしがみついた。


 手放された木箱は、岸へ跳ね返り、角が割れて地面へ転がった。中から、布に包まれた何かと、小さな瓶のようなものがこぼれ出た。追手の誰かがそれを拾おうとしゃがみ込み、後ろから来た者につまずかれている。


 あれが何なのか、この距離では分からない。分からないままでよかった。今は、目の前の追手を止めることのほうが先だった。


 袋が一つ、流れに乗って遠ざかっていった。


 流れは速い。落ちた者のうち、川岸へ這い上がれた者は、ほんの数人だった。


 水面には、まだいくつかの影が浮いていた。動いているのか、もう動いていないのか、ここからでは分からない。


 クラウスは、その一つ一つを確かめようとはしなかった。確かめたところで、変えられることは何もない。


       ※


 追手の隊列に、動揺が走った。


 先頭を失い、荷を失い、橋そのものを失った集団は、もう一つの塊ではなくなっていた。


 誰かが叫んでいる。川へ落ちた者を助けようとする者、後ろへ引く者、前へ出ようとして止められる者。木箱の中身を拾おうとする者まで出て、声だけが飛び交い、誰も同じ方を向いていない。


 弓を持つ男が、こちらへ矢を向けた。だが、狙いは定まらなかった。足場が悪く、仲間が視界を塞いでいる。一射も放たれないまま、男は矢を下ろした。


 射手一人の判断より、周りの混乱のほうが勝っていた。


 その様子を見て、クラウスは初めて肩の力を抜いた。この距離まで来て弓が放たれなかったのなら、もう本気で追ってくる形は作れない。


 あの隊列は、もう追ってこられない。


 全員を沈めたわけではない。橋を渡らなかった者は、まだ半分以上残っている。だが、川を渡る手段を失った以上、追撃という一つの動きは、ここで途切れた。


 それで十分だった。


「――終わったのか」


 テオが、掠れた声で言った。


 剣は、まだ鞘に収まったままだった。その手が、微かに震えている。抜かずに済んだことに、まだ実感が追いついていないようだった。


「ああ、終わった」


 クラウスは、そう答えた。


 言ってから、対岸を見た。


 そして、気づいた。


 橋は、落ちた。


 こちら側に残っているのは、クラウス、ロルフ、テオの三人。


 対岸には、アンナと、村人たちがいる。


 渡る場所は、もう、どこにもなかった。


 テオの顔から、血の気が引いた。


「……俺たち、渡れないんじゃ」


「渡れないな」


「え」


「橋を落としたら、そうなるな」


 ロルフが、抜けた杭を手にしたまま、こちらを見た。


「そこまで考えてなかったのか」


「考えてはいた」


「じゃあ、何とかなるんだろうな」


「川沿いを、少し上ってみるか」


 クラウスは、上流を指した。


「橋がなくても、渡れる場所くらいどこかにあるだろ。追手も同じ条件になったわけだし、荷もない俺たちのほうが、まだ動きやすいはずだ」


 ロルフは、しばらく黙っていた。杭を握っていた手を、ようやく開いている。


「……面倒だな」


「そうだな」


「本当に否定しないんだな、あんた」


「事実は事実だからな」


「せめて、少しは渋ってくれ。そのほうが調子が狂わない」


「調子が狂うと困るのか」


「困るな」


 クラウスは、それには答えなかった。答えたところで、ロルフの調子が戻るわけではない。


 対岸から、声が飛んできた。


「クラウス!」


 見ると、アンナが両手を腰に当てて、こちらを見ていた。川の音に紛れて、言葉の端々しか聞こえない。


「死ぬんじゃないって、言ったはずだよ!」


 クラウスは、少し考えてから、声を張った。


「努力している!」


「足りないよ、それじゃ!」


 ロルフが吹き出した。テオまで、つられたように笑っている。


 さっきまで震えていたのが、嘘のようだった。


 クラウスは笑わなかった。ただ、肩の力が、少しだけ抜けた。


 誰かに笑われることが、こんなに悪くないとは思わなかった。前の人生では、こういう場面で笑われれば、たいてい評価を下げられた。ここでは違うらしい。


       ※


 三人は、川沿いを上り始めた。


 道らしい道はない。草を踏み、石を避け、濡れた土を登る。


 テオが何度か足を滑らせ、そのたび自分で立て直した。以前のように、誰かに助けを求めることはなかった。


 追手の声は、まだ聞こえていた。怒鳴り声、誰かを呼ぶ声、荷を拾えという声。だが、揃ってはいなかった。誰の声に従うべきか、向こうも決めかねているようだった。


 クラウスは、何度か後ろを確かめた。


 追ってくる者はいない。


 しばらく歩いたところで、追手の姿そのものが、木立の向こうへ見えなくなった。


 テオが、大きく息を吐いた。


「……助かった」


 今度は、叫ばなかった。


「まだだ」


「え、まだ何か」


「村人たちと合流するまでが、まだ残っている」


「あ」


 テオは、頭を抱えた。安堵していたぶん、その反動も大きいらしかった。


 クラウスは、それだけ言ってから、付け加えた。


「それに、俺はまだ着任していない」


 ロルフが、足を止めた。


「……忘れてたのか、それ」


「忘れてはいない」


「俺は忘れてた」


「俺もです」


 テオが、正直に言った。


 ロルフが、額を押さえた。


「こんなことしてる場合じゃなかったんじゃないか、そもそも」


「もうしちまったからな」


「そういう問題か」


「戻せないものを、今さら考えても仕方ないだろ」


「便利だな、その考え方」


「別に便利じゃないさ。楽にはならない」


「じゃあ何のためにあるんだ、その考え方は」


「楽にはならないが、間違えにくくはなる」


 ロルフは、それ以上は突っ込まなかった。


 クラウスは、歩みを止めなかった。


 腰の剣は、鞘に入ったままだった。今日、一度も抜かなかった。今後も、そう何度も抜くことにはならないだろうと思った。


 だから勝った、とは思わない。追手はまだ生きているし、こちらも危なかった。橋は失ったし、村人がこの先どこまで無事に逃げられるかも分からない。


 ただ、さっきまで追われていた者たちが、今は追われていない。


 それだけは、確かだった。


 クラウスには、それで十分だった。


 川上に、渡れそうな岩場が見えてきた。その先には、村人たちが向かった道へ戻れそうな斜面もある。


 もう少しだった。今日の道のりは、まだ終わっていない。


 クラウスは、少しだけ歩調を上げた。


 この道の先に、まだ見ぬ四人の部下と、まだ見ぬ持ち場が待っている。今日一日で、何かが分かったわけではない。ただ、隣を歩く三人のことだけは、少し分かった気がした。


 新しい配属先は、まだその先にあった。


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