第3話 待つ
橋脚の根元で、ロルフが縄を睨んでいた。
太い麻縄が、杭と丸太を結んでいる。すでに二箇所は緩めてある。残るは一箇所だけだった。
濡れた縄は、思ったより硬い。ロルフは指先で幾度も縄目をなぞり、繊維の緩み具合を確かめていた。
「これ、あとどれだけ緩めればいい」
「まだだよ」
「まだって、どれだけだ」
「あと少し。ただ、今切られると困る」
「分かってるよ、それくらい」
ロルフは縄を睨んだまま、動かなかった。
水面が丸太を叩くたび、橋全体がわずかに震えている。その震えを、ロルフは何度も指の腹で確かめていた。抜くべき瞬間の手応えを、体に覚えさせているようだった。
テオが、抜いた石を岸へ運んでいる。両手いっぱいに抱え、何度も往復していた。
「テオ、休んでもいいぞ」
クラウスが声をかけると、テオは首を振った。
「まだ運べます」
「無理はしなくていいからな」
「無理じゃないです。動いてないと、落ち着かないので」
その答えに、クラウスは何も返さなかった。動くことで平静を保っているなら、止める理由はない。
誰もが、それぞれのやり方で、待つ時間をやり過ごそうとしていた。ロルフは縄を睨み、テオは体を動かし、アンナは数を数える。そのどれもが、恐れを紛らわせるための方法だった。
クラウスは、橋の全体を見渡した。
村人の列。橋脚の二人。渡り終えた者を先へ送るアンナ。追手の隊列。すべてが同じ景色の中にあって、進む速さだけがばらばらだった。
速いものと、遅いもの。急いでいいものと、急いではいけないもの。
それを一つずつ仕分けるのが、今の自分の仕事だった。
アンナは、村人の列の最後尾についていた。
「あと五人」
声だけが飛んでくる。数えるのをやめない。
橋の板を、また一人が踏んだ。
「――五分五分だな」
ロルフが、誰に言うでもなくつぶやいた。
「何がだ」
「これがうまくいくかどうかだよ」
「五分五分か」
「あんたの見立てを聞いてるんだが」
クラウスは、追手のほうを見た。
隊列は、もうほとんど整っていた。先頭に立つ者が、こちらを見ている。
「まあ、悪い賭けじゃないさ」
「良い賭けだとは言わないんだな」
「良い賭けなら、そもそも賭けとは呼ばないだろ」
ロルフが、短く笑った。笑ったというより、息を吐いただけかもしれない。
「あんた、こういうのに慣れてるのか」
「別に慣れちゃいないよ」
「なのに、その顔か」
「顔に出したところで、縄が緩むわけじゃないだろ」
ロルフは、それには答えず、また縄へ視線を戻した。
クラウスは、その横顔を見た。
面倒だ面倒だと言いながら、指先は一度も縄から離れていない。口で退くふりをする人間ほど、実際には足場を離れないことがある。ロルフは、そういう質らしかった。
こういう人間を、見誤ってはいけない。口の重さと、腹の据わり方は、別のところにある。前の人生でも、口数の少ない人間ほど、いざという時に踏みとどまった。うるさく騒ぐ側が、先に音を上げることのほうが多かった。
ロルフは、その典型に見えた。
※
村人が、また一人渡った。
「あと四人」
アンナの声に、わずかな掠れが混じり始めていた。ずっと同じ調子で声を出し続けている。喉が保たなくなってきているのだろう。
それでも、数えることをやめない。
クラウスは、その様子を横目で見た。
誰かに数えろと頼んだわけではない。だが、アンナは村人を渡し始めた時から、ずっと数え続けている。渡す速さを決めているのは自分ではないと分かっていながら、それでも数えることだけは自分の役目だと決めているようだった。
人は、何もできない時ほど、何か一つを持ちたがる。
クラウスは、その様子を見ながら、追手を見ていた。
まだ動かない。
整った隊列が、こちらを見ている。様子を見ているのか、何かを待っているのか。
分からない。
分からないことは、脇へ置く。今できるのは、村人の残り数と、追手の距離を、繰り返し測ることだけだった。
前の人生でも、こういう時間があった。
答えを急かされる場所にいた。早く決めるほうが喜ばれた。だが、早く決めることと、早く決めすぎることは、同じではなかった。急いで出した答えが、あとで一番高くつくのを、何度も見てきた。
だから、急かされても、決めていいときと、まだのときの区別だけは崩さなかった。
その区別のつけ方に、格別な理屈があるわけではない。ただ、急いた答えほど、あとで作り直す羽目になる回数が多い。それだけを、体で覚えていた。
今も同じだ。
急いているのは、自分ではない。近づいてくる足音のほうだった。
「テオ」
「はい!」
「追手の後ろを見ててもらえるか。荷を運んでる者が、前へ出てくるかどうか」
「見てます!」
「動きがあったら教えてくれ」
「はい!」
声は大きいが、目はちゃんと追手を捉えていた。
テオは、剣を抜きたがっている。だが、剣を抜く役目ではないと分かってからは、剣に触れずにいる。
役目に納得すれば、勝手には動かない。
その素直さが、この若さの美点でもあった。命じられたことの意味さえ通れば、あとは余計なことをしない。
クラウスは、それを気に入っていた。口には出さなかったが。
※
「あと三人」
アンナの声が、また聞こえた。
その直後、ロルフが低く言った。
「クラウス」
「なんだ」
「向こうが、動いた」
クラウスは、追手を見た。
隊列の先頭が、こちらへ向かって歩き出していた。走ってはいない。だが、確実にこちらへ近づいている。
歩幅は、大きくない。急いていない歩き方だった。それが、かえって不気味だった。急いでいる敵なら、隙も生まれる。急いでいない敵は、こちらの動きをまだ読み切れていないだけかもしれなかった。
「まだ待つのか」
「ああ、まだだ」
「村人はあと三人だぞ」
「分かってるよ」
「橋がまだ塞がってる。あんたの言う、渡り切ってから待つって話、あとどれだけだ」
クラウスは答えなかった。
答えを、まだ持っていなかった。
村人が渡り切るまでの時間と、追手がここまで来る時間。二つを、頭の中で並べ続けている。
どちらも、ぴたりとは合わない。
合わないまま、進んでいく。
合わないことを、合わせようとするのは無理だ。合わないまま進んだ先のどこかに、まだ間に合う一点がある。それを探すしかなかった。
※
「あと二人」
声が、掠れきっていた。
最後の二人は、老人だった。互いに支え合いながら、板を一歩ずつ踏んでいる。
遅い。
これまでで、一番遅かった。
増水した川が、丸太を叩き続けている。板が濡れて黒ずみ、足を乗せるたびにわずかに沈む。老人の片方が、板の継ぎ目で足を止めた。
もう片方が、その腕を支える。
二人とも、動かない。
誰も、急げとは言わなかった。急かせば、余計に足がすくむ。それだけは、この四人の誰もが分かっていた。
追手は、もう半分の距離まで詰めていた。
テオの手が、剣の柄にかかっていた。
「テオ」
「はい」
「まだだよ」
「分かってます。でも」
「見張りを頼んでるんだ、悪いけど」
「……はい」
テオの手が、柄から離れた。だが、離れた指先が、小さく震えているのが見えた。
力があっても、それを使う場面を与えられないことがある。テオにとっては、今がそれだった。剣を抜けば楽になれると分かっていて、それをしないでいることのほうが、よほど力を使う。
クラウスは、その震えを見なかったふりをした。今それを指摘しても、震えは止まらない。
ロルフが、最後の縄に手をかけていた。
「これで最後だ。切れば、あとは踏まれるだけで落ちる」
「まだ切るな」
「切ってない。手をかけただけだ」
ロルフの声にも、これまでの軽さはなかった。
クラウスは、老人二人を見た。
橋の中ほどで、一人が足を止めた。
止まるな、とは言わなかった。急かせば、余計に足がすくむ。
「アンナ」
「なんだい」
「あと少しだ、と伝えてもらえるか」
「言ってるよ、ずっと」
「そうか」
アンナの声は掠れていたが、それでも老人へ届いていた。老人が、また一歩を踏み出す。
その一歩を、クラウスは目で追った。急かす言葉より、届く声のほうが、こういう時には役に立つ。アンナの声には、ずっと同じ調子があった。急いてもいなければ、緩んでもいない。だからこそ、老人の足がついていけるのだろう。
声一つにも、向き不向きがある。
※
「渡った」
アンナの声が、初めて数字を離れた。
「両方、渡った」
橋の向こうに、老人二人の姿があった。村人は、これで全員が渡り終えた。
だが、クラウスはまだ合図を出さなかった。
ロルフが、こちらを見た。
「村人は渡り切ったぞ」
「分かってる」
「なら」
「まだなんだ」
ロルフの顔が、初めて険しくなった。
「クラウス」
「まだ、待ちたい」
「正気か」
クラウスは、追手の後方を指した。
「あそこに、荷を担いだ連中がいる。あれが橋へ寄るところまで待ちたいんだ」
「そんなに?」
テオの声が裏返った。
「今すぐ落とせば、村人は巻き込まない。それで十分じゃないんですか」
「十分じゃない」
「なんでですか」
「今落としても、向こうは橋を失うだけで済む。荷まで失わせられれば、次の手を打つのに時間がかかるだろ。今日しのいでも、明日また来られたんじゃ意味がない」
テオは、それ以上は言わなかった。納得したのか、言葉を飲み込んだだけなのか、クラウスには分からなかった。
ロルフは何も言わない。ただ、杭を握る指に力がこもっていた。爪の先が白くなっている。
「無理そうなら、そう言ってくれていい」
「無理でも言いたくないね」
「なんでだ」
「言ったら、代わりにあんたが抜きそうだからだ」
クラウスはロルフを見た。ロルフもこちらを見る。
「杭抜きが、剣より得意に見えるか」
「杭抜きに得意も下手もあるかよ」
テオが、ほんの一瞬だけ笑った。すぐに消えた。
追手が、速度を上げたからだった。
※
橋の向こうで、アンナが老人二人を促し、道の先へ下がらせている。それを見届けてから、こちらへ戻ってきた。
「村人はもう坂の上だ。私は?」
クラウスは、少し考えた。
アンナには、もう渡す村人がいない。役目が空いている。空いた人間をそのままにしておけば、勝手に何かを始めるだろう。それはそれで悪くない。だが、今はもっと必要な役目があった。
「向こう岸へ戻ってもらえるか」
アンナが眉を上げた。
「一人で?」
「橋を落としたあと、向こうに怪我人が出るかもしれない。診られる者が、向こうにいてほしい」
「こっちにも出るだろう」
「こっちにも出る。だが、アンナがこっちに残れば、落としたあとは渡れなくなる」
アンナは、しばらく黙っていた。
橋を落とせば、こちらと向こうは分かたれる。村人の側に、手当てをする者がいなくなる。
「……なるほどね」
「頼めるか」
「分かった」
アンナは、もう一度橋へ足を向けた。
途中で、一度だけ振り返った。
「死ぬんじゃないよ」
クラウスは、返事に詰まった。約束できないことを、口先だけで請け合いたくはなかった。
「努力する」
「そこは、はいって言うところだろう」
アンナは呆れた顔をして、橋を渡っていった。
ロルフが小さく笑った。
「ほんと、妙な男だな」
「よく言われる」
「誰にだ」
「最近」
ロルフは、もう一度笑った。今度は、少しだけ長かった。
それも、すぐに消えた。
アンナが向こう岸へ着いた。こちらに残るのは、クラウスとロルフとテオの三人だけになった。
誰も動かない、動けない、数十を数えるほどの間があった。
その間に、クラウスは追手の隊列を見ていた。
整いすぎている。前に見た撤退の隊列とは逆だった。あちらは崩れて、こちらは今まさに固まろうとしている。だが、まだ完全ではない。荷を運ぶ数人が、まだ列の後ろに残っていた。
先頭が動けば、後ろもつられて動く。だが、まだ全員が動く決心をしたわけではない。その差が、今はまだ残っていた。
「――弓」
テオが、掠れた声で言った。
クラウスは目を凝らした。
列の中ほどに、短弓を提げた者が一人。
嫌なものが増えた。射程に入れば、こちらが一方的に不利になる。早く落とす理由が、また一つ増えた。
だが、それも最初から分かっていたことの延長でしかない。新しい事実ではなかった。
怖くなったから条件を変えるなら、最初に考えた意味がない。
早く決めることと、早く決めすぎることは違う。それは知っている。知っていることと、できることは、別だった。
クラウスは、掌に滲む汗に気づいた。
孤独なのは、自分だけではなかった。
ロルフは杭を握る指の白さで、テオは剣に触れない我慢で、それぞれの持ち場のぶんだけ、それぞれに孤独だった。誰かが代わってやれる孤独ではない。
もう少し。
追手の先頭が、橋の手前で足を止めた。
距離を測っているのか、あるいは何かを警戒しているのか。
止まった時間は、長くはなかった。
先頭の男が、一度だけ後ろを振り返った。後続の兵に、何かを確かめるような仕草だった。
それから、前を向いた。
足が、橋のほうへ動いた。
そのまま、板の端へ踏み出そうとしている。
「――来る」
ロルフが、縄にかけた手に力を込めた。指の関節が、白くなっている。
テオの視線が、追手の後方から先頭へ動いた。声を出しかけて、飲み込んだ。
誰も、何も言わなかった。言葉より先に、体のほうが結論を待っていた。
クラウスは、先頭の男の足元を見ていた。
板に、まだ触れていない。
あと一歩。
その一歩のために、これまでの全ての時間があった。
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