第2話 落とすもの
人影は、まだ動き出さない。
こちらの三人を認めて、様子を見ているのだろう。数を数えているのかもしれない。だとしたら、向こうも同じことを考えている。
クラウスは、剣の柄に手をかけかけて、やめた。
抜いたところで、何も変わらない。それは分かっている。分かっているのに、手が勝手に動きかけたのは、この体がまだ半年しか自分のものになっていないからかもしれなかった。
半年経っても、こういう瞬間の癖までは直らない。窮地に立つと、まず動ける手を探してしまう。前の人生でも、そうだった。
村人は、あと九人。
橋の板を踏む音が、一定の間隔で続いている。老人が一人、渡っている最中だった。急かせば足を滑らせる。急かさなければ、間に合わない。
そのどちらでもない答えを、探さなければならなかった。
急かせないものは急かせない、と割り切ることにした。変えられないものを数えるのはやめて、変えられるものだけを数え直す。それが、こういう場面での唯一のやり方だった。
クラウスは橋を見た。
板が一枚。丸太を組んだ橋脚が二本。両岸を繋いでいるだけの、何の変哲もない橋だ。
これまで、それは「渡すもの」でしかなかった。村人を、向こう岸へ送るための道具。
見方を変えた。
これは、断てるものでもある。
橋脚の根元を見た。二本とも、片方の岸に寄って組まれている。上流側の一本は、水面からさほど高くない。増水した流れが、すでに半分近くまで這い上がっていた。
あと少し削れれば、自重で持たない。
誰かが仕掛けなくても、川がやってくれるかもしれない。だが、それでは間に合わない。
いつ崩れるか分からないものに、村人の命を預けるわけにはいかなかった。分からないものは数に入れない。今使えるのは、確実に落とせる手だけだ。
手を貸してやる必要がある。
クラウスは、村人の列に目を戻した。
あと九人。
渡り終わるまでの時間は、変えられない。老人がいて、子供がいる。急がせれば足を滑らせる者が出る。急がせないほうが、結局は速い。
だから、村人の速さはそのままでいい。
変えられるのは、その後だ。
村人が渡り切ったあと、すぐに橋を落とせば、確かに追手は渡れなくなる。だが、それだけだ。追手はそこで足止めを食らい、迂回路を探し、また来る。
今日はしのげても、明日はしのげない。
橋を落とすタイミングを、村人が渡り切った瞬間ではなく、もう少しだけ先に置けたらどうなるか。
追手の先頭が、橋に乗った瞬間。
そこで落とせば、追手は渡れなくなるだけでなく、先頭にいた者ごと道連れにできる。荷を担いでいる者がいれば、それも一緒に沈む。
早すぎれば、村人ごと道連れにする。
遅すぎれば、追手が渡り切ってから落とすことになり、意味がなくなる。
その狭い間合いを見極める必要があった。
前の人生でも、似たようなことを何度かやった。物を言うのが早すぎれば聞く耳を持たれず、遅すぎれば決まったあとの後出しにしかならない。効くタイミングは、いつも一瞬しかなかった。
あのときは、言葉一つのことだった。今は、人の生き死にがかかっている。
それでも、見極め方の芯は同じだった。相手が動く前を狙うのではない。相手が動くと決めて、戻りにくくなったところを狙う。
「――待たせるつもりか」
古参兵が言った。
剣の柄に手をかけたまま、追手の方角から目を離さない。
「あんたの考えは知らんが、村人を先に行かせるなら、こっちも下がったほうがいい」
「もう少し待ちたい」
「もう少しって、どれくらいだ」
クラウスは答えなかった。今はまだ、言葉にできる形をしていない。
※
橋脚の根元を、もう一度見た。
石を積んで補強してある。だが、上流側の一本は、その石組みが半分ほど水に浸かっている。長年の増水で、根元の土がすでに緩んでいるのだろう。
斧はいらない。
あの石を数個抜いて、支えを外すだけでいい。増水した流れが、あとは勝手にやる。
仕掛けるための時間は、そう長くかからない。だが、仕掛けたあとに落とす瞬間まで、誰かが橋の袂で待つ必要がある。
その役目に向くのは、誰か。
力のある者。慌てない者。そして、いざというときに一瞬で判断できる者。
クラウスは、三人を見た。
治療師の女は、まだ橋を渡している。老人の背を支え、次の者へ声をかけている。手を止める気配がない。この女に橋脚を任せれば、渡している村人の面倒を見る者がいなくなる。
若い兵は、剣の柄を握ったまま、追手のほうを睨んでいた。今にも飛び出しそうな体勢だった。力はあるだろうが、一人では判断を誤る。誰かと組ませる必要がある。
古参兵だけが、こちらの様子をうかがっていた。面倒だと言いながら、腰は据わっている。この男が、いちばん向いている。
決めた。
「一つ、頼みたいことがあるんだが」
「あん?」
古参兵が振り向いた。
「あの橋脚、上流側のほうを見てもらえるか」
「橋脚が、どうした」
「石組みが緩んでてな。抜けそうな石が、いくつかあると思う」
古参兵は、しばらく橋を見ていた。それから、ゆっくりと目を細めた。
「――まさか」
「落とすつもりだ」
「村人がまだ渡ってるんだぞ」
「今じゃない。渡り切ってからだ」
「渡り切ったら、あとは俺たちも渡って逃げるだけだろうが」
「その前に、もう一回渡らせるつもりだ」
クラウスは、追手の方角を見た。人影は、まだ動いていない。
「敵の先頭が橋に乗った瞬間、そこで落とすつもりだ」
しばらく、誰も口を利かなかった。
川の音だけが、やけに大きく聞こえた。
クラウスは、追手の後方に目をやった。
武器を持つ者たちの後ろに、何かを担いだ数人がいる。袋か、木箱か。距離があって判然としないが、隊列の速さを乱しているのはその一団だった。
あれが橋へ近づくところまで待てれば、なお良い。だが、それはまだ言葉にしなかった。今言っても、確かめようがない。
「――正気か」
古参兵が言った。声に、これまでの面倒くさそうな響きはなかった。
「敵がどれだけいるか分かってんのか。橋の上で待って、目の前まで来させて、それから落とすってのは、こっちが逃げ遅れる賭けでもあるんだぞ」
「分かってるよ」
「分かってて言ってんのか」
「賭けだ。だが、今すぐ落とすよりは分がいい」
古参兵は、しばらく黙っていた。
視線が、橋と、クラウスと、村人の列のあいだを何度か行き来した。値踏みしているのは、もう男の腕でも歳でもなく、この提案そのものだった。
やがて、短く息を吐いた。
「……名前くらいは、聞いといたほうがよさそうだな。こんな話をする男の」
クラウスは、その言葉を待っていたわけではなかった。だが、ちょうどいい頃合いだとは思った。
名乗る理由が、今できた。
これから頼むことに、名前がないままでは通らない。
「クラウスだ。よろしく頼む」
右手を差し出す。
古参兵は、その手をしばらく見てから、握った。硬い、使い込まれた手だった。
「ロルフだ」
「ロルフ」
クラウスは、その名を一度、口の中で繰り返した。
「アンナだよ」
いつの間にか、治療師の女がこちらを向いていた。老人はもう渡し終えたのだろう。
「橋を落とす話、聞こえてたよ」
「別に聞かれて困る話じゃない」
「困りはしないけど、正気とは思わないね」
それでも、拒む口調ではなかった。
「あんたが決めたなら、渡し方はこっちで工夫する。渡る速さはそっちが決めることじゃないだろう」
「そうだな、その通りだ」
「話が早いね」
アンナは、そう言って、また村人のほうへ向き直った。
背を向けたまま、続けた。
「一つだけ、言っとくよ」
「なんだ」
「あんた、さっきから一度も、自分が怖いとは言わないね」
クラウスは、少し考えた。
「怖くないわけじゃない」
「じゃあ、なんで言わない」
「言ったところで、渡る速さは変わらないだろ」
アンナは、それには答えなかった。ただ、肩の力が少し抜けたように見えた。
「テオです!」
若い兵が、剣の柄から手を離さないまま名乗った。
「クラウスだ。よろしく頼む、テオ」
「はい! ……あの、俺は何をすれば」
「敵が来る前に、一つ聞いておきたいんだが」
「なんですか!」
「あの橋脚の石、いくつ抜けば落ちるか、見た目で分かったりするか?」
テオは、橋を見た。しばらく黙って、それから首を振った。
「分かりません……」
「なら、見ながらでいい。ロルフと一緒にやってもらえるか」
「はい!」
声だけは大きい。だが、返事のあと、テオは一度深く息を吸った。少し落ち着いたように見えた。
クラウスは、それを見て、もう一つだけ付け加えた。
「石を抜くのは、ロルフが指図する。テオは、抜いた石をどければいい」
「それだけですか」
「ああ、それだけでいい」
テオは、少し不満そうな顔をした。もっと大きな役目を期待していたのかもしれない。
「石をどける役目がなかったら、ロルフは石を抜けないだろ。手が塞がる」
テオの顔つきが変わった。
「――分かりました」
今度は、迷いのない声だった。
クラウスは、もう一度、全員を見た。
ロルフとテオは橋脚へ。アンナは、残った村人を渡し終えるまで、その場に留まる。自分は、追手の動きを見ながら、落とす瞬間を計る。
誰も、何をすべきか迷わない形にはできた。
あとは、時間との勝負だった。
「一つ、言っておく」
クラウスは言った。
「俺が合図したら、すぐ落としてもらいたい。早すぎたと思っても、遅すぎたと思っても、その時にはもう決まっている」
「随分と、はっきり言うんだな」
ロルフが言った。
「迷ってる暇はないからな」
「……まあ、それもそうか」
ロルフは、剣を鞘に収めて、橋脚のほうへ歩き出しかけた。
それから、思い出したように振り返った。
「一つ聞いていいか」
「なんだ」
「あんた、これから着任する隊があるんだろう。今日のこれは、その隊とは関係ない話だ。断ってもよかったんだぞ」
クラウスは、その問いに、少し考えてから答えた。
「関係はあるさ」
「どういう関係だ」
「今日ここで九人を見捨てる男が、明日どこかで別の九人を見捨てない理由がない」
ロルフは、しばらく黙っていた。
それから、短く笑った。笑ったというより、鼻を鳴らしただけかもしれない。
「面倒な理屈だな」
「そうか」
「否定はしない」
ロルフは、今度こそ橋脚のほうへ歩き出した。
「おい、テオ。来い」
「はい!」
二人が、水際へ下りていく。
クラウスは、追手のほうを見た。
人影は、まだ動いていない。
だが、先頭の一人が、腕を上げるのが見えた。
合図だ。
後ろの者たちが、動き始めていた。
まだ、こちらへ向かってはこない。隊列を整えているだけだ。
だが、整い終われば来る。
村人は、あと五人。
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