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剣を持たない救国のサラリーマン ~隊も砦も領地も押し付けられて国まで至る~  作者: とんこつしょうゆ


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第1話 誰も後ろを見ていない

 のちに「クラウス公」と呼ばれることになる男が、隊も、砦も、領地も、そしてこの国そのものを押し付けられて背負うことになるとは、この時はまだ誰も知らない。


【聖暦346年 晩秋/北部駐屯地へ向かう道】


 北へ向かう街道は、朝から乾いていた。


 クラウスは丘の上でいったん足を止め、背負い袋の紐を締め直した。空気がうまい、とは思わない。ただ、この匂いにももう慣れた。


 半年になる。


 気づいたときには、この体の中にいた。名前も、階級も、腰に提げた剣も、はじめから自分のものではなかった。最初の何日かは、朝に目が覚めるたびに指の関節を数えていた。数えれば元に戻るとでも思っていたのだろう。


 戻らなかった。


 それで、諦めるのではなく、覚えることにした。この土地の言葉の癖、名簿の読み方、給養の受け取り方、上官への報告の通し方。半年かけて、ひととおり覚えた。


 今はもう、朝に指を数えない。


 異動の辞令は三日前に出た。所属を移す、とだけ書かれていた。理由は書かれていない。


 尋ねれば、教えてはくれた。向こうで分隊長が足りていない。順番が回ってきた。それだけだ。


 評価された、という話ではなかった。空いた穴に、動かせる人間を入れただけである。


 剣は使う。抜けば、この体が最低限の振り方だけは知っている。それ以上は知らない。年季の入った兵と打ち合えば、十も数えないうちに負けるだろうし、この歳から急に伸びるとも思えなかった。


 それで困ったことは、今のところない。


 強くなければできない仕事は、はじめから回ってこなかったからだ。


       ※


 街道の先に人影が見えたのは、丘を二つ越えたあたりだった。


 こちらへ向かって来る。それも、ひとかたまりではない。


 二人。五人。十人。


 肩に同じ色の布を巻いた兵たちが、まとまりもなく西へ流れてくる。


 撤退だ。


 しかも、あまり良くない撤退だった。


 クラウスは道の脇へ寄って、道を譲った。


 通り過ぎていく顔を、順に見る。


 傷を負っている者は、思ったより少なかった。血で汚れているのは数えるほどで、それも多くは他人の血に見えた。


 打ち合って押し負けたのではない、と思った。


 押し負けた兵は、悔しがるか、怯えるか、どちらかの顔をする。この隊列の顔は、そのどちらでもなかった。


 分かっていない顔だった。何が起きたのかを、まだ誰も説明できていない。


「道を空けろ!」


 前方で誰かが怒鳴った。


 荷車が一台、街道を斜めに塞いでいる。車輪が溝へ落ちたらしい。後ろから来た兵が避け、別の兵がぶつかり、転んだ。


「北側へ回れ!」


「もう先へ行った!」


「負傷者はどうする!」


「後方へ回せ!」


 声だけが飛び交っている。


 クラウスは、怒鳴っている男たちではなく、その周囲を見た。


 兵は走っている。逃げているわけではない。少なくとも本人たちは、撤退しているつもりだ。


 だが、隊伍がない。三人か四人ずつの塊が、互いを追い越しながら坂を下っていく。旗は二本見えた。一つは遠く、もう一つは木立の向こうへ消えたところだった。


 本隊はすでに、かなり先へ行っている。後方だけが取り残されていた。


 妙な感覚があった。


 この半年のあいだに、何度か覚えのあるものだった。


 見た目では、まだ動いている。声も出ているし、足も動いている。なのに、一つの集団としてはもう保っていない。


 整った形だけが残って、中身のほうが先に抜けている。


 そういう瞬間が、クラウスには妙にはっきりと分かった。


 誰も、後ろを振り返らなかった。


 躓いた者に、隣の者が手を出さない。気づいていないのではなく、余裕がない。


 崩れる直前は、たいてい静かだ。


 クラウスは、通り過ぎていく人数を口を動かさずに数えた。一列ずつ、途切れたところで区切って足していく。


 六十を過ぎたあたりで、隊列が終わった。


 中隊なら、少なくともその倍はいるはずだった。


「――減りすぎだな」


 声には出さなかった。


 最後尾が行ってしまったあと、クラウスはしばらく街道に立っていた。


 追う者がいるなら、その姿がそろそろ見えていい頃だった。


 見えなかった。


 それが、いちばん嫌な兆候だった。


       ※


【聖暦346年 晩秋/橋】


 街道を外れたのは、勘としか言いようがない。


 撤退する隊が街道を通るなら、街道を通れない者は脇へ流れる。荷車、老人、子供。速く歩けない者たち。


 果たして、雑木林を抜けた先の窪地に、それはいた。


 村人だった。


 荷を抱えた女、手を引かれた子供、背負われた老人。三十を少し越えるだろうか。誰もが黙って歩いている。泣いている子はいない。泣く体力がないのだろう。


 その一団が、細い板橋を一人ずつ渡っていた。


 増水した川だ。ふだんなら浅い流れも、雨のせいで濁って膨らんでいる。渡れるのは、この橋だけだった。板の幅は、人ひとりがようやく通れるほどしかない。


 そして、その手前に兵が三人いた。


「まだ半分かよ」


 道端の石に腰を下ろした男が言った。古びた革鎧の、日に焼けた古参兵だ。剣を地面へ立てかけ、欠伸までしている。


「文句を言う暇があるなら、その婆さんの荷を持ちな」


 女が怒鳴り返した。袖をまくり、老人の腕を取って橋へ送っている。治療師らしい。


「持ったら最後まで持たされるだろ」


「そのための腕だろうが」


「俺の腕は剣を振るためについてるんだがな」


「さっきから一度も振ってないじゃないか」


「だから疲れてない。いいことだ」


 男はそう言いながら立ち上がり、老人の背負い袋を受け取った。面倒そうな顔のまま、橋を渡り終えるところまで付き添っている。


 口ほど怠けてはいないらしい。


 その横を、若い兵が走り回っていた。


「次の人、こちらです! 急いで!」


「走らなくていいよ」


「でも急がないと!」


「そこで転ばれたら、余計に遅くなる!」


「分かってます!」


 言った直後、若い兵はぬかるみに足を取られた。両腕を回して、どうにか踏みとどまる。


 治療師が頭を抱えた。


 クラウスは、少し離れたところで足を止めていた。


 兵の流れは、もうほとんど途切れている。本隊から見れば、この三人も落伍者だろう。


 だが三人とも、自分から残っている。


 命じられていたなら、こうはならない。命令でここにいる人間は、遅れる集団を憎むようになるものだ。


 この三人は、憎んでいなかった。


 荷を持つ男。子供の手を引く女。役に立とうとして余計に走り回る若い兵。


 誰にも数えられていない場所に、三人だけ残っている。


 クラウスは細道を下りた。


       ※


 三人が、こちらを見た。


 最初に口を開いたのは、革鎧の男だった。


「まだ兵が残ってたのか」


「ああ」


 それだけ言って、クラウスは橋の手前に立った。


 肩の布は同じ色だ。それで足りる。ここで身分を明かしたところで、渡る速さは一人ぶんも変わらない。


「で、まだ何人残ってる?」


「二十三」


 治療師が即座に答えた。


 数えている、とクラウスは思った。


 この場で、数えているのはこの女だけだ。


「歩けない人、いる?」


「一人。足を痛めた爺さんがいたけど、もう向こうへ渡した。あとは歩ける」


「子供は何人くらいいる?」


「六人。いちばん小さい子は母親が抱いてるよ」


 クラウスは橋を見た。


 一人が渡り終えるのに、十を数えるほど。老人ならその倍はかかる。二十三人を渡し切るまで、順調にいっても四半刻。実際にはもっとかかるだろう。板を踏み外す者が一人出れば、そこで止まる。


 次に、来た方角を振り返った。


 兵がもう来ない。


 それが、いちばん悪かった。本隊の最後尾が、とうに通り過ぎたということだ。


「追手、見えたか?」


「見ました!」


 若い兵が答えた。


「どのへんだった?」


「ええと……たくさんです!」


「いや、数じゃなくていいんだ。場所が知りたい」


「あっ。森の曲がり角です。向こうの坂を下りてきてました」


 クラウスは街道へ戻り、坂の上を見た。


 二百歩ほどか。そこからこの橋まで、走れば大した時間はかからない。


 誰が襲っているのかは、まだ聞いていない。盗賊にしては規模が大きすぎるし、他国の兵なら旗があるはずだが、それを見た者は一人もいなかった。


 分からないことは、いったん脇へ置いた。分からないものを数に入れると、必ず多く見積もる。


 今、確かなことだけを並べる。


 本隊は先。追手は後ろ。渡り口は一つ。村人は遅い。


 兵は三人。自分を入れて四人。そのうち一人は、打ち合えば十も数えないうちに負ける。


 クラウスは、窪地の全体をもう一度見た。


 畑。石垣。壊れた荷車。橋。街道。森。


 使えるものは、少ない。


 権限もない。命じる立場ですらない。まだ着任すらしていないのだから、ここにいること自体が筋から外れている。


 剣を抜いて前へ出たところで、止められるのは一人か二人だ。追手が十人なら無理だし、二十人なら話にもならない。


 橋を落とすか。


 まだ村人が残っている。無理だ。


 別の渡り口へ回すか。


 老人と子供がいる。無理だ。


 川を歩いて渡らせるか。


 水量が多い。無理だ。


 どれも、途中まで考えて潰れた。


       ※


 村人が、渡っていく。


 十七。十五。十二。


 数字は減っている。


 だが、減るほどに嫌な感じが強くなっていた。


 誰も止まってはいない。治療師は手際よく人を送っているし、若い兵も向こう岸で村人を先へ促している。古参兵は荷を担いで往復している。


 見た目だけなら、街道の隊列よりよほど整っていた。


 だからこそ、分かる。


 保たない。


 何か一つ起きれば、崩れる。


 村人は疲れている。治療師の呼吸も上がっている。若い兵は興奮していて、自分の疲れに気づいていない。古参兵にはまだ余裕があるが、それは一人ぶんの余裕でしかない。


 そして、剣を抜いたときにいちばん頼りにならないのが自分だということも、クラウスには分かっていた。


 それ自体は、どうということもなかった。


 上に詰められ、下に気を遣い、言い方ひとつで自分の立場が消し飛ぶ。そういう場所に、前の人生で長くいた。


 役に立たない人間が、どういう順序で腐っていくかも、何人ぶんも見てきた。


 腐るのは、役に立てないからではない。


 役に立てないまま、数に入れられなくなったときだ。


「――待った」


 古参兵の声だった。


 街道のほうを見ている。


「どうした」


「いや」


 男は目を細めた。


「気のせいならいいんだが」


 クラウスも視線を追った。


 林の際、道が緩く曲がったところに、動くものがあった。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 木立の隙間から、人影が続けて現れる。


 軍装は揃っていない。革鎧、布の上着、槍、剣。旗はない。


 距離があって、顔までは見えなかった。


 クラウスは数えた。


 見えているだけで十を超える。木立の陰にはまだいるだろう。


 こちらは三人。自分を入れて四人。そのうち一人は、打ち合えば十も数えないうちに負ける。


 橋を見た。


 村人は、あと九人。


 列は、もう一本の線になっている。


 前にも後ろにも、逃げ場がない。


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