第23話 あの指図してる奴
【聖暦347年/グライフェン西方】
中央の列が崩れかけても、ドレイク側の射手隊だけはほとんど乱れず、一定の間隔で弓を上げ、同じような高さへ矢を送り続けていた。
前に出る兵が少し押し込めば射る位置が変わり、ヴェルト側が下がればさらに前へ詰めるため、戦場の形が動いているのに、あの一列だけは別の場所にいるように見えた。
クラウスは北側の持ち場を維持しながら、矢が上がるたびに後方へ視線を向けた――射手の中央付近に、一人だけ弓を持たず、左右へ短く手を振っている男がいた。
他の者が矢をつがえる前にその男が動き、そのあとで弓が揃う――クラウスはしばらく見たあと、隣で矢をつがえていたリオナへ声をかけた。
「リオナ」
「何」
「あの、指図してる奴」
「どれ」
「真ん中より少し右。弓を持ってない」
リオナは前列越しに一度だけ確認し、すぐにしゃがんで矢筒から一本を選び直した。
「遠い」
「無理ならいい」
「誰が無理って言ったの」
言いながら立ち上がり、弓を引いた――前には味方も敵も動いており、普通に射てば誰かの肩へ当たる距離だったが、リオナは一度引いた弦を戻し、二歩だけ左へずれた。
次の瞬間、中央でダミアンが前へ出たため、周囲の兵がそちらへ寄り、ほんの短い時間だけ後方まで視線が通った。
リオナは一度深く息を吸い、前列の兵が互いに押し合う動きを見ながら、弓を少しだけ上へ向けた。
狙っている男は直接こちらを見ておらず、左右の射手へ短い合図を送りながら、前線の動きだけを追っている。
その周囲には射手が何人もいて、誰か一人が位置を変えればすぐに身体が隠れるため、狙える時間は長くなかった。
「今?」
リオナが小さく聞いた。
「俺には分からない。リオナが射てるところでいい」
「そういう返し、ずるいのよ」
口では文句を言いながらも、目は標的から外さなかった――前列の一人が倒れ、その穴を埋めるためドレイク側の兵が横へ動くと、標的の胸元がほんの一瞬だけ開いた。
リオナの弦が鳴った――矢は低く飛び、射手隊の前を横切るように進んだあと、弓を持っていなかった男の胸元へ突き立った。
男はその場で倒れ、周囲の射手が一斉に顔を向けた――二射目は来なかった――代わりに、射手隊の中で誰が次に合図を出すのか分からないような短い間が生まれた。
「当たった」
テオが驚いたように言った。
「見れば分かる」
リオナはそれだけ返し、すぐに次の矢をつがえた。
【聖暦347年/グライフェン西方・中央】
後方の射手隊が止まったのはほんのわずかな時間だったが、前列で戦っていた兵たちには、それまでなかった余白として十分だった。
頭上へ落ちてくる矢を気にせず一歩下がれるだけで、盾を組み直し、槍の穂先を揃えることができた。
キルシュナーも変化に気づき、中央の兵を下げるのではなく、残っていた予備を前へ寄せた。
「クラウス!」
呼ばれ、クラウスは北側をロルフへ任せて数歩だけ中央へ寄った。
「何か見えましたか」
「射手の指図をしていた者が倒れました。今なら、前のダミアンへ人数を寄せても矢が前ほど揃いません」
キルシュナーは後方を一度見ただけで、細かい理由を聞かなかった。
「どれくらい寄せます」
「一個分隊では足りません。中央の二列を少し厚くしたほうがいいと思います」
「分かりました」
返事は短かった――キルシュナーはすぐに近くの伝令を呼び、北側の線を残したまま中央へ兵を寄せるよう他の小隊へ伝えた。
数十人規模の戦いでは、一人の判断だけで全体は動かないが、小隊長同士の声がつながると、押され続けていた線が少しずつ形を戻した。
ダミアンはそれを見ても止まらず、むしろ前へ出て槍を振った――一撃で盾を弾き、二人を下がらせたが、今度は空いた場所へすぐに別の兵が入った。
その兵を押し返したところへ、さらに横から槍が二本伸びた――前までなら、その瞬間に後方から矢が落ちてきていた。
だが来ない――射手隊は再び射ち始めていたものの、左右で上がる時刻がずれ、前線のどこへ集中させるのかも揃っていなかった。
矢の本数そのものは減っていないのに、ヴェルト側が受ける圧だけが明らかに軽くなっていた。
「今すぐ動かせるのは四人!」
中央後方からアンナの声が飛んだ――治療中だった兵のうち、立てる者を見分けていたらしく、支えられながら下がる者と、その場に残す者を迷いなく分けている。
キルシュナーはその声を聞き、動ける四人を後ろへ回して水を取らせ、代わりに別の兵を前へ入れた。
前線の人間が少しずつ入れ替わると、今度はドレイク側の前列に疲れが見え始めた。
【聖暦347年/グライフェン西方・北側】
クラウスが北側へ戻ると、ロルフは槍を構えたまま顔だけを向けた。
「何した」
「リオナが一人倒した」
「聞き方が悪かった。何を変えた」
「中央へ人数を寄せてもらった」
「なるほどな」
ロルフはそれだけ言い、前へ向き直った――北側へ来る敵の数も少し減っており、クラウスの分隊には先ほどまでなかった余裕ができていた。
テオが息を整え、無名の二人も盾の位置を直し、リオナは残りの矢を確かめてから一本ずつ使うようになった。
「さっきの、もう一人いないのか」
クラウスが聞くと、リオナは少しだけ嫌そうな顔をした。
「同じ役が二人いたら、最初から二人で指図してるでしょ」
「それもそうか」
「何その返事」
「納得しただけだ」
「調子狂う」
短いやり取りのあと、リオナはまた前を向いた――中央ではダミアンが依然として目立っていた。
槍を受ける兵は一人では足りず、二人、三人と重ねても押される場面がある。それでも、押された場所へ次の人間を入れられるようになったことで、さっきまでのような連鎖的な崩れは起きなくなっていた。
キルシュナーは中央に集めた兵を一度に突っ込ませず、ダミアンの周囲だけを厚くし、隣の敵には必要以上に追わないよう伝えていた。
クラウスの位置から見ても、その形なら無理に勝ちにいかず、相手の前進だけを止められる。
ドレイク側の射手隊は新しい指揮役を立てようとしていたが、誰かが声を出すたびに周囲の者が違う方向を向き、射撃の間隔は最後まで戻らなかった。
リオナはその混乱を見ながら、今度は射手そのものではなく、前列へ矢束を運ぶ兵を狙った。
一本目で足を止め、二本目を近くの地面へ落とすと、矢束を抱えた兵は前へ進むのを諦めて後ろへ戻った。
「上手いな」
テオが言うと、リオナは前を向いたまま答えた。
「今さら?」
「いや、知ってたけど」
「なら黙ってて」
声には余裕が戻っていた――射手隊の動きが乱れたことで、戦場の音そのものも少し変わっていた。
それまで一定の間隔で聞こえていた弦の連続音が途切れ、代わりに前列同士の槍がぶつかる音や、兵たちの短い声がはっきり届くようになった。
矢が止まったわけではないため油断はできないが、どこへ落ちるか分からない一斉射ではなくなっただけで、兵たちは盾の向きを前へ戻せる。
北側の隣にいた別小隊の兵も、さっきまで頭上を気にして縮こまっていたのが、今は前の敵へ槍先を揃えていた。
クラウスはその変化を見てから、キルシュナーのいる中央へもう一度伝令を走らせた。
「北側はまだ持っています。こちらから二人までなら中央へ回せると隊長へ伝えてもらえるか」
「分かりました!」
伝令が走り、少しして戻ると、キルシュナーからは二人とも残すよう返事が来た。
「中央は足りています。北が崩れるほうが困る、と」
「分かった」
クラウスは短く答え、ロルフへそのまま伝えた。
「らしい判断だな」
「そうだな」
「お前も似たようなこと言うけどな」
「そうか?」
「自覚ないならいい」
ロルフは肩をすくめ、前へ戻った――そのころ中央では、アンナが一人の兵の腕を固定しながら、別の負傷者へ自分で歩けるかを確認していた。
「立てる?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、今立ってみな」
兵が歯を食いしばって立つと、アンナは足取りを一度見ただけで後ろへ下げる側へ回した。
「その人は歩ける。次、肩の人をこっちへ」
治療そのものより、誰を今すぐ動かせるかを決め続けることで、中央の後ろに負傷者が溜まらないようにしていた。
キルシュナーもその判断を前提に兵を入れ替え、動ける者を列へ戻すのではなく、槍や水を運ぶ役へ回して前線の負担を減らしていった。
誰か一人が戦況を変えたわけではない――ただ、リオナの一本で射手隊の動きが乱れたあと、それぞれが動ける余地を取り戻し、その余地を使って少しずつ線を直していた。
昼を過ぎるころ、戦場の中央は完全には戻っていないものの、ヴェルト側が一方的に下がる状態ではなくなった。
今度はドレイク側の前列が押し返される場面も増え、ダミアンの周囲だけが前へ出すぎた形になることがあった。
そのたびにマルティンらしい指揮声が遠くで響き、周囲の兵がダミアンへ追いつくよう動いていた。
クラウスはそれを見ながら、剣を握った手の力を少しだけ抜いた――まだ勝ってはいない――ダミアンも立っている。
それでも、さっきまで後ろへしか動かなかった味方の列が、今は同じ場所へ戻り始めていた。
遠くでダミアンが槍を振り上げ、もう一度前へ出た――さっきまでなら、その動きだけで周囲の兵が半歩下がり、空いた場所へさらに矢が落ちていた。
だが今度は誰も先に下がらず、中央へ寄せられた兵たちが互いの間隔を詰め、槍先を同じ高さへ揃えた。
ダミアンはそれを見て笑ったように見え、構わず踏み込んできた――一本目の槍を弾き、二本目を押し込み、それでも三本目が残る――後ろから矢の援護は来なかった。
今度は、その前に三本の槍が並んだ――北側でも敵の踏み込みが鈍り、ロルフが初めて槍先を一歩だけ前へ出した。
「ようやくこっちの番か」
「追いすぎないほうがいい」
「分かってるよ。言うと思った」
それでもロルフの声には、朝から初めて少しだけ余裕が戻っていた――戦場全体が、ようやく一方向だけではなくなっていた――まだ決着ではない。それでも、押され続ける戦いではなくなった。
朝から一度も前へ出られなかった兵たちが、ようやく自分たちの足で半歩を取り戻していた。




