第24話 退くと決める者
【聖暦347年/グライフェン西方】
射手隊の援護が乱れてから、戦場の形は少しずつ変わり、昼を越えるころにはヴェルト側の三個小隊が同じ線へ戻り始めていた。
ドレイク側はなお人数で上回っていたが、前面へ出たダミアンの周囲だけが深く食い込み、その左右が追いつけない場面が増えていた。
キルシュナーは中央へ寄せた兵を一度に突っ込ませず、ダミアンの正面へ三人、横へ二人という形で少しずつ厚くし、押し返されても次が入れる距離を保たせた。
前なら、その動きへ後方の矢が重なっていた――今は射手隊の射撃が揃わず、一本ずつ飛んでくる矢はあっても、列そのものを動かせないほどの密度には戻っていなかった。
「中央、もう一列寄せます!」
キルシュナーの声が飛び、別小隊の兵が四人ほどダミアン側へ回った――クラウスの分隊は北側を保ったまま、そこから流れてくる敵だけを止めていた。
「こっちも前へ出るか」
ロルフが槍先を下げないまま、中央の様子を横目で確かめながら聞いた。
「今の場所でいい。中央へ寄った相手が戻ってくるなら、ここで受けたほうが楽だ」
「了解」
ロルフは前へ出ず、槍先だけを少し上げた――テオも無名の二人も同じ位置を保ち、リオナは残った矢を急がず使っていた――今度は誰も勝ち急がなかった。
【聖暦347年/グライフェン西方・中央】
ダミアンは相変わらず強かった――正面に三人並べても一人を押し退け、槍の柄で盾を弾き、空いた場所へ足を踏み込んでくる。
ただ、その一歩を進むたびに別の兵が横から入り、槍先を増やしてくるため、朝のように一度崩した場所をそのまま広げられなくなっていた。
ダミアンが一人を倒せば二人が前へ出て、二人を下げれば別の三人が横へ回る――個人の力では勝っていても、周囲の歩幅が合わない。
「退かないな、あいつ」
テオが中央で槍を振るダミアンから目を離さず、息を整えながら言った。
「退く理由がないんだろ」
ロルフが前列の動きを見たまま、特に驚いた様子もなく短く答えた。
「でも押されてます」
「本人はな」
クラウスは二人の会話を聞きながら、中央より少し後ろへ目を向けた。射手隊はまだ弓を射ているが、前へ出る兵との間隔が開き始めている。矢束を運ぶ者も、前線へ近づかなくなっていた。
朝には一つの塊に見えたドレイク側が、前へ出る者と残る者に分かれ始めている――キルシュナーもそれを見たらしく、中央へ伝令を走らせた。
「追い込むのはダミアンの周囲だけです! 左右は広げない!」
兵たちが声を返し、中央の圧だけがさらに強まった――ダミアンは槍を振り回し、前へ出ようとしたが、今度は三本の槍に加えて盾が二枚重なり、足を止められた。
後ろから矢は来なかった。ほんの一瞬、ダミアンの動きが止まる。その一瞬を見て、中央の兵がさらに二歩前へ出たが、キルシュナーは勢いのまま追わせず、前列だけを入れ替えて圧を保つよう声を飛ばした。
朝から戦い続けていた者は、勝っているように見える瞬間ほど無理に進みたがるが、足元の土は滑り、盾を持つ腕もすでに上がりにくくなっている。
アンナは後ろからその様子を見て、まだ前へ戻ろうとした負傷兵を腕で止めた。
「その足で戻る気?」
「まだ立てる」
「立てるのと戦えるのは別だよ。今は後ろ」
兵は何か言いかけたが、アンナの顔を見て諦め、担架を運ぶ側へ回った――前線の人数を増やすより、倒れない人数を残すほうが、今はよほど大事だった。
クラウスの分隊も北側で同じように位置を保ち、敵が下がり始めても一歩以上は追わなかった。
リオナだけが一度、逃げる敵へ弓を向けたが、すぐに狙いを外し、中央のダミアンへ視線を戻した。
「まだあいつ、立ってる」
「立ってるな」
「腹立つ」
「そういう相手なんだろ」
「その返しも腹立つ」
言いながらも、リオナの呼吸は乱れておらず、以前、我を忘れて林へ飛び込んだときの危うさはもうどこにもなかった。
【聖暦347年/ドレイク側前線・マルティン視点】
マルティンはダミアンの背中より、その左右へ目を向けていた。射手隊の指揮を執っていた男が倒れてから、後方の射撃は揃わない。前列は、援護を待たずに押し込まれ続けている。
人数はまだ残っている――ダミアンも立っている――それでも、ここから続ければ前へ出た者だけが取り残され、退くときにさらに人数を失う形になる。
「ダミアン!」
マルティンが声を張った――槍を振っていた男が振り返る。
「下がるぞ!」
「まだやれる!」
「やれるかどうかじゃない。今退く」
ダミアンは槍を握る手に力を込め、退けという言葉そのものが気に入らないように露骨に顔をしかめた。
「俺が前を割る」
「割った先に誰も続かん。退く」
短い沈黙のあと、ダミアンは槍を一度強く地面へ打ちつけた。
「……分かった」
マルティンはすぐに後方へ合図を送り、射手隊から先に距離を取らせ、前列は交互に下がらせるよう声を飛ばした。
【聖暦347年/グライフェン西方・撤退】
ドレイク側の動きが変わったのは、最初に射手隊が後ろへ下がったことで分かった。弓を持つ兵たちが矢筒をまとめ、前へ射つより距離を取ることを優先し始める。それに合わせて、前列の兵も一人ずつ後ろへ下がり始めた。
「退いてる!」
テオが西へ向きを変え始めた敵兵を見つけ、驚きと安堵が混じった声を上げた。
「見えてる」
ロルフが答え、槍を握り直した――周囲の兵の中には追おうと前へ出る者もいたが、キルシュナーの声がすぐに飛んだ。
「深追いしない! 線を崩さないでください!」
追う気配を見せた兵が出ないか確かめながら、クラウスも北側で並ぶ分隊員へ向き直った。
「ここから先は追わないほうがいい。戻ってくる奴だけ見よう」
「分かった」
テオが息を整えながら頷いた――リオナも弓を下げ、逃げる敵の背中を狙わなかった。
「射てるけど」
「必要ないと思う」
「そう言うと思った」
リオナは矢をつがえず、弦から指を離した――中央ではダミアンが最後まで前を向き、退く味方の後ろを守るように槍を振っていた。
ヴェルト側の兵が距離を詰めると一歩だけ出て追い返し、そのあとで自分も下がるため、誰も簡単には近づけなかった。
強さが消えたわけではない――ただ、もうその強さだけで戦場全体を前へ動かすことはできなかった。
マルティンの声が遠くで続き、ドレイク側の列は乱れながらも西へ下がっていった。朝から戦っていた人数のすべてが戻っているわけではない。倒れた者や動けない者が、戦場の各所に残っていた。
それでも撤退そのものは崩走にならず、ダミアンを含む主力は生きたまま距離を取っていった。
キルシュナーは追撃を出さなかった――追えば、こちらにもまだ勝ち目はあったかもしれない。
だが、朝から何度も崩れかけた三個小隊で、射手隊の残る敵を林の向こうまで追えば、今度は退路の長さそのものが危険になる。
兵たちも完全な勝利を望むより、まず終わったことを確かめるように、その場で息を整えていた。
代わりに各小隊へ持ち場の確認と負傷者の回収を命じ、戦場の中央へ残った兵たちを順に後ろへ下げた。
ロルフは槍を杖のようにして一度だけ肩を回し、テオは自分の腕や脚に血がついていないかを確かめた。
「俺のじゃないです」
「ならあとで洗え」
「はい」
無名の二人も互いの盾を確かめ、裂けた革紐だけをその場で結び直した――リオナは最後の一本を矢筒から抜き、曲がっていないのを見てから元へ戻した。
「一応、残った」
「使わずに済んでよかった」
「射てって言われても、もう射たないけど」
「なら同じだ」
「ほんと調子狂う」
【聖暦347年/グライフェン西方・戦後】
戦いが終わったと分かっても、すぐに静かにはならなかった。負傷者を呼ぶ声、武器を探す音、倒れた者を運ぶため担架を組む声が続く。アンナは、中央の治療場所から戻る暇もなく動き続けていた。
クラウスが分隊の人数を確かめると、ロルフも、テオも、リオナも、無名の二人も立っていた――細かな傷はあっても、自力で歩けない者はいない。
「アンナを迎えに行くか」
ロルフが中央の治療場所へ視線を向け、疲れた肩を一度回してから言った。
「そうしよう」
中央へ向かうと、アンナは血のついた布を捨て、新しい布へ取り替えながら一人の兵の腕を固定していた。
「終わった?」
「ああ。向こうは退いた」
「そう」
アンナは手を止めず、少し離れた戦場を一度だけ見た。
「朝は、こっちが退くと思ったよ」
「ほんとに危なかったんだからね」
「見れば分かる」
「分かるなら、あとでちゃんと休みな」
「クラウスだけじゃない。全員だよ」
「聞いたかい、ロルフ」
「俺まで巻き込むな」
「俺も少し思った」
「少しじゃない顔してたけどね」
「そうか」
「まあ、生きてるならあとで言う」
それだけ言い、アンナは次の負傷者へ向かった――夕方までにドレイク側の姿は西の丘から消え、グライフェン側の兵は戦場から動ける者をすべて戻し終えた。
担架は何度も往復し、歩ける負傷者は互いの肩を貸しながら戻り、武器や盾は持ち主が分からないものまで一か所へ集められた。
キルシュナーは最後まで戦場に残り、三個小隊それぞれの人数を確認してから、ようやくグライフェンへ戻る列へ加わった。
クラウスの分隊には欠けた者がいなかったが、他の小隊には重傷者もおり、勝ったという言葉だけでは片づけられない光景が続いていた。
ロルフもそれを見て、普段なら何か言うところで黙ったまま歩いた。テオは担架を一つ運び終えると、次に誰を手伝えばいいかを聞く。アンナから水袋を運ぶよう言われて、そのまま走った。
リオナは弓を背へ回し、負傷者の荷物を一つ持ったが、自分が手伝っていることを誰かに見せるような言い方はしなかった。
損害は小さくなかった――それでも、朝に崩れかけた三個小隊は、最後には同じ場所に残った。
クラウスは兵舎へ戻る列の中で、前を歩くリオナの矢筒がほとんど空になっているのを見た。
「リオナ」
「何」
「助かった」
リオナは足を止めることなく歩き続けたまま、聞き間違いではないか確かめるように少しだけ顔を横へ向けた。
「分隊員なんだから、当たり前でしょ」
今度は、その言葉を言い直さなかった――門が見えたところで、後ろから角笛が一度だけ鳴った。
追撃ではなく、全隊帰還の合図だった――誰かが歓声を上げることもなく、列はそのまま駐屯地へ入り、負傷者を先に治療所へ通してから、それぞれの持ち場へ戻っていった。
勝敗が決まったあとに残るのは、いつもこういう仕事だった――クラウスは最後に門をくぐり、人数をもう一度だけ目で確かめた。
門の内側では、残っていた兵たちが無言で道を空け、担架と負傷者を先に通したあとで、帰還した者の顔を一人ずつ確かめていた。
歓声より先に人数を数える光景を見て、クラウスは自分の分隊も同じように七人揃っていることを、もう一度だけ確認した。
七人とも誰かに担がれることなく、自分の足でグライフェンの門をくぐり、ようやく戦場を後ろへ置いた。
その夜に数え直せば、失ったものの重さも見えてくるはずだったが、今は帰ってきた者を先に休ませるほうが大事だった。
この大会戦の報告が、大隊本部でどう扱われることになるのか――それを気にする余裕は、まだ誰にもなかった。




