第21話 名前を呼ばれる
【聖暦347年/ドレイク家前線陣地・ダミアン視点】
ダミアンは槍の石突きを地面へ打ちつけ、目の前に並べられた荷箱と矢束を見ながら、これだけ揃っているなら今すぐ出ればいいと三度目の同じ言葉を口にした。
「まだ早い」
カスパルは短く返し、机の上に置いた地図から顔を上げなかった。
「狼煙台を取り返されたままだぞ」
「だからこそだ。取り返された直後に同じ形で殴り返せば、向こうが待っている場所へ入ることになる」
「待ってても、殴れば崩れる」
「崩すために、今回はお前だけを出すんじゃない」
カスパルが指した先には、前へ出る槍兵とは別に、後方へ置く射手の位置が書き込まれていた。
ダミアンは不満そうに鼻を鳴らしたが、前回の狼煙台で撤退させられたことを忘れたわけではなく、槍を肩へ戻して口を閉じた。
「今度こそ、逃がさない」
「勝手に決めるな。こちらが勝つ形を作ってから動け」
カスパルの声は低く、ダミアンもそれ以上は言わなかった。
【聖暦347年/グライフェン駐屯地】
冬の間は雪に閉ざされていた西の街道も、雪解けとともに人と荷車の行き来を取り戻していた。
グライフェンへ戻ってきた哨戒兵が、普段より早い足で門をくぐったころから、駐屯地の中には言葉にしにくいざわつきが広がっていた。
西側の街道で荷車の数が増え、森沿いには見慣れない焚き火の跡があり、さらに夜のうちに馬の通った痕跡まで見つかったという話が、別々の方向から重なっていた。
どれか一つなら珍しくもないが、重なる時期が近すぎることだけが、クラウスには気になった。
キルシュナーは報告を受けるたびに紙へ短く書き込み、昼を過ぎるころには小隊長室の机が地図と伝令紙で埋まっていた。
「西の哨戒は戻りましたか」
「先ほど戻りました。街道沿いに新しい轍が増えています」
「兵かどうかは」
「分かりません。ただ、商隊にしては同じ幅の轍が多すぎます」
クラウスがそう答えると、キルシュナーは小さく頷き、大隊本部へ出していた増援要請の返書を机から取った。
「断られました」
「理由は」
「東の迷宮で溢れが出ています。南の駐屯地も、村落の避難と街道封鎖に兵を取られているそうです」
聖暦が変わってから、井戸の水位や獣の動きがおかしいという話は増えており、各地で魔物災害への対応が始まっていること自体は聞いていた。
それでも国境の動きが強まる時期と重なれば、必要な場所へ人を回せないという単純な問題が、急に現実の形を持ってくる。
「こちらで持つしかありませんか」
「今のところは」
キルシュナーはそれ以上、愚痴も不満も言わず、返書を折って机の端へ置いた。
その日の夕方、グライフェンにいる三個小隊へ待機がかかり、夜明け前に動けるよう装備と糧食をまとめることになった。
待機がかかると、駐屯地の中は騒がしくなるはずなのに、今回は逆に声が減り、普段なら冗談を飛ばす兵まで黙って革紐や靴底を確かめていた。
倉庫から配られた干し肉と固いパンは一人分ずつ布へ包まれ、矢束は三個小隊で偏りが出ないように数え直され、余分な荷物は兵舎へ戻された。
アンナは薬草と止血布の残量を確認すると、追加で運べる量だけを選び、重すぎる箱は最初から置いていった。
「全部持っていければ楽なんだけどね」
「運べなくなったら意味がない」
「分かってるよ。だから置いてるんだろ」
そう言いながら、アンナは箱の蓋を閉め、必要なものだけを別の袋へ詰め直した。
ロルフは兵舎の入口で靴を脱ぎ、底に打たれた鋲が抜けかけていないか確かめてから、面倒そうな顔で自分の槍の柄まで布で拭いた。
「こういう日に限って、普段さぼってるとこが壊れるんだよな」
「知ってるなら普段からやればいい」
「それができたら俺じゃねえ」
テオが笑いかけたが、すぐに自分の剣帯へ目を戻した。リオナは少し離れたところで矢羽根を一枚ずつ撫で、曲がりのあるものだけを抜いて別にしていた。残った矢は、二つの矢筒へ分けていく。
「そんなに分けるのか」
「途中で一つ落として全部なくすよりましでしょ」
「なるほど」
「今さら感心しないで」
クラウスが素直に頷いたのが気に入らなかったらしく、リオナは少しだけ眉を寄せた。
夜になる前には、駐屯地に隣接する家々へも軍の動きが伝わり、街道沿いの住民が荷車を東へ向けて動かし始めた。
避難命令が出たわけではなかったが、前の小競り合いを見ていた者ほど判断が早く、家畜を引く者も、子どもだけ先に親戚へ預ける者もいた。
クラウスは門前で詰まりが起きないよう、出ていく荷車を軍の荷駄と分けるよう門番へ頼んだ。
「軍の車が出る時刻と重なる。住民の列だけ先に通してもらえるか」
「分かった」
門番は理由を聞かずに頷き、日暮れまでに東へ向かう荷車の大半を通した。
それだけのことだったが、夜明け前に兵が一斉に出るころには、門前の道はほとんど空いていた。
【聖暦347年/グライフェン駐屯地・点呼】
まだ空が青くなる前、兵舎前の土には霜が薄く残り、吐く息だけが白く浮いていた。
クラウスの分隊は装備を持って一列に並び、キルシュナー配下の書記が名簿を見ながら順に名前を読み上げていった。
「クラウス」
「はい」
「ロルフ」
「いる」
「アンナ」
「はいよ」
「テオ」
「います」
狼煙台から加わった二人については名簿の欄だけが確認され、最後に書記がもう一つ下へ視線を落とした。
「リオナ」
「いる」
声はいつも通りだった――リオナ自身も、呼ばれたことを特別な出来事にはしないように、弓の弦を指で確かめながら短く返事をした。
クラウスも何も言わなかったが、少し前まで出撃の声すらかからなかった女の名が、今は他の者と同じ順番で読まれている。
それだけで十分だった。
「七人、揃っています」
書記が言い、次の分隊へ移った――リオナは一度だけクラウスを見たが、目が合うとすぐにそらした。
「何」
「いや」
「言いたいことあるなら言えば」
「弦、張りすぎてないかと思っただけだ」
「余計なお世話」
答えは早かったが、口元だけが少し緩んだ。
【聖暦347年/グライフェン駐屯地・配置確認】
三個小隊が動く可能性を前提にすると、クラウスの分隊だけで完結する配置を決めても意味がなく、どこへ付け替えられても動ける形にしておく必要があった。
クラウスは地面へ簡単な線を引き、ロルフを前寄り、テオと無名の二人をその左右、リオナを後ろへ置き、アンナには固定した位置を与えなかった。
「私はどこでもいいってことかい」
「負傷者が出る場所が先に決まらない。アンナは動けるほうがいい」
「それなら最初からそう言いな」
「今言った」
「そういうところだよ」
ロルフが横で笑い、テオも少しだけ肩の力を抜いた。リオナは地面の線を見ながら、自分の位置から前列までの距離を測るように二歩下がる。そこから林側へ向けて、弓を構えた。
「この距離なら、前に誰かいても抜ける」
「無理に近づかないほうがいい」
「分かってる」
「前に出たら俺が戻すぞ」
「それ、前にも聞いた」
「なら覚えてるな」
「覚えてるから腹立つのよ」
言いながらも、リオナは後ろの位置を変えなかった――ロルフは槍を持ったまま地面へしゃがみ、街道側に浅い溝があると聞くと、そこを正面に使えるかどうかだけを確認した。
「人数が多いなら、広く受けるより狭いとこで受けたほうがましだ」
「そう思う」
「珍しく素直だな」
「反対する理由がない」
テオが小さく笑い、すぐに真顔へ戻った。
「来ますかね」
「来ないなら、それでいい」
クラウスが答えると、テオは一度頷いた――以前のように、戦える機会を逃すことを惜しむ顔ではなかった。
日が昇るころ、さらに西へ出していた斥候が戻り、街道の先で複数の部隊らしい動きを見たと報告した。
人数はまだ数えられず、旗も遠すぎて判別できないという話だったが、馬と歩兵が別々に動いていることだけは確かだった。
さらに少し遅れて戻った別の斥候は、森の向こうでまとまった数の弓を運ぶ兵を見たと話したが、距離があり、こちらへ来るのか別方向へ動くのかまでは分からなかった。
その報告を聞いたロルフは、普段より長く黙ってから槍の石突きを土へ置いた。
「前だけ見てりゃいい相手じゃなさそうだな」
「そうかもしれない」
「嫌な返事だ」
「違うと言える材料がない」
リオナは二人の会話を聞きながら、矢筒の蓋を閉める手を止めなかった。
「向こうに弓がいるなら、こっちにもいるでしょ」
「いるな」
「じゃあ、それでいい」
気負っているようには見えず、以前、我を忘れて林へ飛び込んだときとは別人のように、声も手つきも落ち着いていた。
クラウスはその横顔を一度見ただけで、何も言わなかった。キルシュナーは三個小隊長を呼び、グライフェンの西にある浅い丘と街道の狭まる場所を使って迎える方針を決めていた。
クラウスたちの分隊は中央より少し北、林の切れ目に近い一角へ付くことになった。
「中央が押されたら寄りますか」
「最初から決めないほうがいい。見てからでいい」
ロルフの問いにそう答え、クラウスは全員の顔を順に見た――誰も強がった返事をしなかった。
アンナは薬袋を開き、テオは帯を締め、リオナは矢筒の本数を数え直し、無名の二人は黙って盾の革紐を確かめていた。
準備だけが、静かに進んだ――やがて西の見張り台から、長い角笛が一度鳴った。
駐屯地の空気が一斉に変わり、兵たちが決められた持ち場へ動き始めた。
クラウスも剣帯を締め直し、七人へ向き直った――その瞬間、並んでいる顔ぶれが少し前とは違うことを、改めて数える必要はなかった。
ロルフも、アンナも、テオも、狼煙台から来た二人も、そしてリオナも、誰かに頼まれて一時的に集まった者ではなく、同じ分隊の列としてそこに立っている。
それを確かめるような言葉を口にすれば、たぶんリオナは怒るだろうと思ったので、クラウスは何も言わず、代わりに七人それぞれの装備だけを最後に見回した。
誰かの帯が緩んでいるわけでもなく、矢筒の蓋も閉まり、薬袋も槍も必要な位置に収まっていて、今さら直す場所は一つも見当たらなかった。
「行こう」
それだけ言って、門の外へ出た――門を出ると、西の空だけが薄く霞み、街道の向こうで鳥がまとまって飛び立つのが見えたが、誰もそのことには触れなかった。
誰も遅れず、そのまま街道へ続いた。




