第20話 待ってるだけなのは嫌だ
【聖暦346年/中継拠点付近・林】
「リオナ!」
返事はなかった。
中継拠点の北側から林へ入ると、踏み荒らされた落ち葉の上に複数の足跡が重なり、その中へ軽い靴跡が一つだけ斜面の奥へ続いていた。
クラウスは先に進もうとしたが、ロルフが横へ並んだ。
「一人で行くな」
「ああ」
「今度は分かってる顔だな」
「たぶん」
「そこは言い切れよ」
アンナとテオ、それに二人の兵も続き、六人で斜面を上がった。
少し先には折れていない矢が一本落ち、そのさらに奥で枝の折れる音がした。
走って林の切れ目へ出ると、斜面の下にリオナがいた。
立っていた。
それだけで、クラウスは一度息を吐いた。
ただし無事とは言い切れず、上着の裾には泥がつき、髪には細い枝が絡み、いつもなら真っ先に気にしそうな弓の握りにも土がついていた。
リオナの足元には矢が二本落ち、斜面の上側には敵のものらしい短剣が転がっているため、ここまで逃げながら何度も位置を変えたことだけは分かった。
クラウスが近づくと、リオナは安心したように肩を落としかけ、すぐにいつもの顔へ戻そうとして顎を上げた。
リオナの前には男が二人。片方は腕を押さえ、もう片方は短剣を構えている。リオナの弓には矢がつがえられているが、弦を引く腕が少し震えていた。
「リオナ」
クラウスが呼ぶ。
リオナが振り向いた。
その顔に最初に浮かんだのは安堵だった。
だが一瞬で消えた。
「遅い!」
「すまない」
「なんで謝るの!」
「呼んだから」
「そうじゃない!」
言いながら、矢を放つ。
男の足元へ刺さった。
ロルフとテオが前へ出る。数で不利と見た二人は、それ以上戦わず斜面の向こうへ逃げた。
追われなくなったと分かった瞬間、リオナの張りつめていた肩が目に見えて落ち、弓を握る指だけがしばらく離れなかった。
さっき林へ飛び込んだ勢いがそのまま残っていたのだろうが、本人はそれを認める気がないらしく、クラウスと目が合う前に顔をそむけた。
「追わないで」
リオナが言う。
「追わない」
「……ならいい」
弓を下ろした瞬間、リオナの膝が少し落ちた。
アンナがすぐに腕を取る。
「怪我」
「してない」
「見せて」
「してないって」
「リオナ」
クラウスが呼ぶ。
「アンナに見てもらったほうがいい」
「何であんたまでそっちなの」
「俺もよく言われるから」
「説得力ない!」
それでもリオナは抵抗をやめた。
左の上腕に浅い切り傷。脇腹にも擦った跡がある。大きな怪我ではなかった。
「これくらいなら平気」
「平気かどうかは私が決める」
「前にも聞いた、その台詞」
「便利だから何度でも使うよ」
アンナが布を巻く。
クラウスはその横で、ようやく当然の疑問を口にした。
「リオナ」
「何」
「なぜここにいる」
リオナの動きが止まった。
ロルフが露骨に顔を逸らす。
テオは何か言いたそうにしたが、アンナに肘で止められた。
「……たまたま」
「村からここまで?」
「狩り」
「ずいぶん遠いな」
「獲物が逃げたの」
「弓を持った人間を?」
「うるさいな!」
クラウスは黙った。
理由は分からない。
ただ、リオナがここに来たことで助かったのは事実だった。西側から入ろうとした男たちに誰も気づいていなければ、中継所の中で挟まれていた可能性がある。
「助かった」
「……何が」
「西を止めてくれた」
「別に、あんたを助けたわけじゃない」
「俺とは言ってない」
「そういうとこ、本当に嫌い」
リオナは顔を逸らした。
耳だけが少し赤かった。
※
【聖暦346年/グライフェン駐屯地】
中継所にいた者たちは、全員が殺されたわけではなかった。
林のさらに奥で、縛られた伝令二人と荷役兵三人が見つかった。荷は一部持ち去られていたが、道そのものを占拠する意図はなかったらしい。
襲った者たちがドレイク家の正規兵かどうかは最後まで確認できなかった。
キルシュナーへの報告は、それだけで終わった。
「で」
「はい」
「そこの女は何だ」
リオナが眉を吊り上げる。
「女って何」
「名前は知っている。説明を求めている」
キルシュナーは疲れた顔で言った。
クラウスが答える。
「途中から同行しました」
「途中から?」
「正確には、先にいました」
「許可は」
「ありません」
キルシュナーは目を閉じた。
「お前は、なぜそういう報告だけ正確なんだ」
「聞かれたので」
「もういい」
机の上の書類を一枚ずらす。
「怪我は」
「軽いです」
アンナが答えた。
「なら今日は帰せ。無許可同行の件は、今ここで大騒ぎするほど暇じゃない」
リオナが何か言おうとしたが、キルシュナーは先に別の書類を開いた。
それで話は終わった。
廊下へ出る前、キルシュナーがクラウスだけを呼び止めた。
「クラウス」
「はい」
「次に同じことがあったら、あの女を勝手に同行させるな」
「俺が同行させたわけでは」
「分かっている。だから余計に面倒なんだ」
キルシュナーは書類へ視線を戻した。
「使える人間が勝手に戦場へ来るのは、一見すると得だ。だが、誰の指揮にも入っていない人間は、助ける側にも守る側にも計算できん」
「はい」
「使うなら中へ入れろ。使わないなら来させるな。半端が一番困る」
クラウスは少しだけ黙った。
「分かりました」
その言葉は、夕方になっても頭に残った。
使うなら中へ入れる。
それは以前、リオナが聞きたかった答えに、たぶん近かった。
外へ出ると、リオナが不満そうに振り返る。
「何あれ」
「小隊長だ」
「そういう意味じゃない」
「忙しいんだろ」
「私、怒られると思ってた」
「怒られたいのか」
「違う!」
その日は、いったん村へ戻ることになった。
だが日が落ちる頃、リオナはまだ駐屯地にいた。
※
【聖暦346年/グライフェン駐屯地・兵舎裏】
クラウスが水桶を洗っていると、背後で足音が止まった。
「まだいたのか」
「悪い?」
「悪くはない」
「じゃあ言わないで」
「分かった」
リオナは壁にもたれた。
昼間とは違い、弓は持っていない。腕の布だけが白く浮いている。
「村は?」
「仲間が戻ってる。婆ちゃんもいる」
「そうか」
「……それだけ?」
「何か他にあるか」
「ない」
しばらく、桶へ水が落ちる音だけが続いた。
クラウスは洗い終えた桶を伏せる。
「今日は助かった」
「またそれ」
「事実だからな」
「私がいなくても、あんたなら何とかしたでしょ」
「どうだろう」
「何とかしたって言いなよ」
「できたかもしれない。でも、今日より怪我人は増えたと思う」
リオナが黙った。
「だから助かった」
「……ずるい」
「何が」
「そういう言い方」
クラウスには分からなかった。
分からないので、聞くしかない。
「昼間のことだけど」
「何」
「本当は、なぜ来た」
リオナの肩が僅かに動いた。
「だから、狩り」
「中継所へ?」
「しつこい」
「危なかったからだ」
「私が?」
「ああ」
「自分のことは?」
「俺も危なかった」
「そうじゃなくて!」
声が大きくなり、リオナは自分で口を閉じた。
兵舎のほうを見る。
誰も出てこない。
少し間を置いて、今度は小さく言った。
「……狼煙台のとき」
「うん」
「来なかったでしょ、私」
「村にいたからな」
「聞いたの。あとで。台を取られて、取り返して、怪我人連れて帰って、あんたもずっと前にいたって」
「前にはあまり出てない」
「そういう話じゃない」
「そうか」
「今日も中継所に行くって聞いた」
「誰から」
「村に来た荷役の人」
「それで来たのか」
「……」
リオナは答えなかった。
いつもの強い目が、今はクラウスではなく地面を見ている。
「心配だったのか」
そこまで言いかけて、クラウスは止めた。
決めつけるのは違う気がした。
「来たかったのか」
「違う」
「そうか」
「……違わない」
クラウスは待った。
リオナは唇を噛んだあと、ようやく顔を上げる。
「もう、待ってるだけなのは嫌だ」
声は小さかった。
それまでのリオナなら、もっと強い言葉にしたはずだった。役に立つとか、弓なら誰にも負けないとか、村の道は自分が一番知っているとか。今日も実際、そのどれも言えるだけの働きをしている。
だが今は、腕前の話を先に出さなかった。
クラウスには、その違いの理由までは分からない。ただ、いつもの強がりを一度置いてまで言いたいことなのだとは分かった。
「村で、誰かが『王国兵がまた出た』って言うのを聞いて、帰ってくるのを待って、怪我したって聞いたら次の話を待って。そういうの、嫌」
クラウスは何も言わなかった。
「弓なら使える。森も歩ける。あんたたちが知らない道も分かる。なのに、正式な兵じゃないからって、ずっと外で待ってるのは嫌なの」
「リオナ」
「何」
「分かった」
「……何が」
「入りたいんだろ。俺たちの分隊に」
リオナが固まった。
「そこまで言わせる?」
「違ったか」
「違わないけど!」
「なら、明日キルシュナー隊長に頼む」
リオナはしばらくクラウスを見た。
「そんな簡単に?」
「簡単ではない。今日みたいに勝手について来られるほうが困る」
「……それが理由?」
「それもある」
「他は」
「弓兵が欲しい」
リオナの目が少しだけ細くなる。
「前にも言った」
「ああ」
「覚えてたんだ」
「必要なことだから」
「ほんと、そういうとこ」
「嫌いか」
「今はもういい」
意味はよく分からなかったが、怒ってはいないらしい。
※
【聖暦346年/グライフェン駐屯地・小隊長室】
翌朝。
「リオナを正式に分隊へ入れたいです」
クラウスが言うと、キルシュナーは書類から顔を上げた。
「本人は」
「希望しています」
「弓は」
「見ています」
「規律は」
クラウスは少し考えた。
「昨日、無許可で同行しました」
「それを聞いているんじゃない」
「では、まだ分かりません」
キルシュナーはため息をついた。
「まあ、いいだろう」
「いいんですか」
「何だ、不満か」
「いえ。もっと手続きがあるかと」
「ある。あとで書く」
「私が?」
「俺がだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、今度から先に相談しろ」
「分かりました」
昼前、兵舎の当番板に新しい欄が一つ増えた。
水汲み。
薪。
見張り。
装備。
その並びの端に、今までなかった文字が書き足される。
弓。
リオナはそれを見て、しばらく何も言わなかった。
「何だ」
クラウスが聞く。
「別に」
「そうか」
「……消さないでよ」
「消す理由がない」
リオナは小さく笑った。
四人だった分隊は六人になり、そこへ弓が一人加わった。
七人になった。




