第18話 狼煙、戻る
【聖暦346年 晩秋/狼煙台/クラウス】
正面から押し上がってきたキルシュナーの隊が、狼煙台の下に到着したのは、それから半刻ほど後のことだった。乱戦を凌ぎ切った兵たちの顔には、疲労と、それでも失わずに済んだという安堵が入り混じっており、汗と土埃にまみれた甲冑が、傾き始めた日差しを鈍く跳ね返していた。
丘を登る道すがら、踏み荒らされた下草の上に、盾の欠片や折れた矢が点々と落ちていた。押し合った跡はそこら中に残っていたが、倒れたまま動かない者の姿は、意外なほど少なかった。数を減らさないための後退という判断が、この光景の少なさに繋がっていることに、気づいている兵はまだ多くなかった。
「――上がったな」
丘の頂を見上げ、キルシュナーが呟いた。
「はい。中核設備は確保しています」
クラウスが報告すると、キルシュナーは短く頷き、それ以上、大げさな言葉は交わさなかったが、その場にいた兵たちの間には、確かな安堵の空気が広がっていた。
テオが、崩れるようにその場に座り込み、ロルフも肩の傷を押さえながら、大きく息を吐いた。生存兵の二人は、かつて自分たちのいた場所を、複雑な表情で見渡していた。
「――戻ってきた」
一人がぽつりと呟いたが、誰もそれに何かを付け加えなかった。
風が丘を吹き上がり、まだ乾き切っていない血の匂いを運んでいった。踏み荒らされた地面には、矢筒や折れた槍の柄が転がったままで、誰もそれを片付ける余裕がなかった。テオの息はまだ整わず、生存兵の二人は、見慣れているはずの丘の輪郭を、どこか知らない場所のように眺めていた。
狼煙台の奪還は、こうして、武闘派を倒すことなく決着した。盤面の意味が変わったことが勝敗を決めており、剣を交えた時間より、狼煙が上がった一瞬のほうが、結局のところ大きな意味を持っていた。
傾いた日差しが、崩れかけた狼煙台の壁を斜めに照らしていた。焼け焦げた跡と、まだ新しい修復の跡が、同じ壁の上に混在している。奪われ、取り返され、また誰かの手で立て直される、この丘が繰り返してきたであろうことの一部を、その壁の継ぎ目だけが、静かに物語っていた。
【聖暦346年 晩秋/グライフェン駐屯地】
その日の夕方、キルシュナーは、集まった一同の前で、事務的に告げた。
「二人の生存兵だが、元の哨所には戻れない。狼煙台自体が再編成の対象になる。当面、クラウスの指揮下に置く」
行政上の都合、というだけの言い方で、大きな決断の場面には、あえてしていなかった。
「分かった」
クラウスは、それだけを答え、ロルフが軽く肩をすくめた。
「また増えたのか」
その一言だけで話は終わり、二人の生存兵は、名も呼ばれないまま、五人目、六人目としてその場に立っていた。誰かがそれ以上の言葉をかけることも、感傷的に扱うこともなかった。
アンナだけが、二人にそっと声をかけた。
「傷、ちゃんと診るから。無理しないで」
それだけの言葉に、二人はどこか安堵したような表情を見せた。
夕暮れの駐屯地には、夕食の支度をする煙が、いくつも立ち上っていた。二人の生存兵にとって、その煙の匂いすら、久しく忘れていたもののように感じられ、誰かに名を呼ばれることのない一日が、それでも確かに終わろうとしていた。
【聖暦346年 晩秋/小隊長室/キルシュナー】
その夜遅く、キルシュナーは自室で、大隊本部への報告書を書いていた。
「狼煙台、奪還完了。損害僅少」。数字の上ではそれだけの一文で済む出来事だったが、その数字の裏には、崩れた守備隊も、フェリクスの傷も、名も呼ばれない二人の兵も、書かれずに埋もれていた。
守備隊の十二、三人の名も、報告書には残らない。数字としては、失われた人員、という一行に収まるだけだったが、その一行の裏に、狼煙台で最後まで踏みとどまった者たちがいたことを、キルシュナーは知っている。名前までは分からないが、それでも、彼らがいたからこそ、フェリクスたちが裏の道へ逃げる時間が生まれたのだということも、報告書には書かれない。
キルシュナーは、しばらく筆を止めていた。今回の案を出したのはクラウスであり、実際に裏から浸透して奪還の糸口を作ったのもクラウス分隊だったが、報告書に書くのは、自分の名前と、小隊としての功績だけだった。
――揉め事が上がってこない。補充を願い出ずに済む。兵が逃げない。期日に間に合う。
クラウスという分隊長がいることで、自分の仕事がどれだけ楽になっているか、キルシュナーはまだ正確には自覚していなかった。ただ、書類を書く手が、以前より軽くなっていることには、薄々気づき始めていた。
蝋の匂いが、狭い執務室に満ちていた。窓の外はすでに暗く、灯りの下で、キルシュナーはしばらく報告書を見つめたままだった。数字は正しいが、それでも、そこに書かれなかったものの重さを、誰かに伝える言葉を、彼はまだ持っていなかった。
机の隅には、まだ手つかずの書類が数枚重なっていた。他の分隊からの報告、補給の申請、いつもと変わらない量の仕事が、狼煙台の一件とは無関係に積み上がっていた。それでも今夜だけは、その束に手を伸ばす前に、しばらく蝋燭の炎を眺めていた。誰かに見られているわけでもないのに、背筋だけは伸ばしたままだった。
筆を進め、報告書を書き終えたキルシュナーは、それを丁寧に封蝋で閉じた。
【聖暦346年 晩秋/フェリクスの病室】
後日、フェリクスの容体が落ち着いた頃、クラウスは見舞いに顔を出した。
「六人になったんだって、聞いたよ」
「はい。二人、増えました」
「名前は」
「まだ、聞いていません」
フェリクスは、僅かに笑った。
「無理に聞かなくてもいい。名乗りたくなった時に、名乗るだろう」
クラウスはそれに頷き、急かすことでもないと自分でも思っていた。名乗りは、礼儀ではなく、必要になった時に生まれるものだと、これまでの分隊でも学んでいた。
窓から差し込む夕方の光が、病室の壁を薄く染めていた。フェリクスの声には、まだ本調子でない掠れが残っていたが、その表情には、丘を失った直後にはなかった余裕が戻っていた。クラウスは、それを黙って見届けてから、病室を辞した。
【聖暦346年 晩秋/兵舎】
兵舎に戻ると、ロルフとテオが、当番表を前に何やら言い合っていた。
「新入りの分の枠、どうするんだ」
「取り敢えず、空けとけばいいんじゃないですか」
二人の生存兵は、少し離れた場所で、その様子を戸惑いながら眺めていた。まだ、この分隊のやり方に慣れていなかったが、それでも、追い出されるでもなく、ただそこにいることを許されている空気に、少しずつ体を馴染ませているようだった。
アンナが、当番表に新しい欄を二つ書き加え、それだけのことだったが、翌日から当番は、何事もなくその形で回り始めた。
荷物の整理を手伝っていたアンナが、一人の生存兵の袋の中に、擦り切れた革紐で束ねた小さな木片を見つけた。何かの道具にも、玩具にも見える、判別のつかない形をしていた。
「これは」
「――哨所にあったものです。特に、意味はありません」
その生存兵はそう言って、それを丁寧に荷袋の奥へしまい直した。アンナはそれ以上何も聞かず、哨所での日々の、ほんの欠片だけが、そこに残っていた。
もう一人のほうは、荷物と呼べるほどのものをほとんど持っておらず、ただ腰の帯に、擦り切れた布切れを一枚結んでいるだけだった。何かの目印なのか、単なる癖なのか、聞かなければ分からない類のものだったが、誰もそれを聞かなかった。踏み込んでいい場所と、そうでない場所の境目を、この分隊はいつの間にか、それぞれの感覚で覚えていた。
小さなやり取りが、兵舎の中に馴染んでいった。口数の少ないほうは、当番表に書き加えられた自分の欄を、何度も確かめるように見返しており、六人になった分隊は、それぞれの持ち場を、少しずつ確かなものにしていた。
ロルフは、当番表に増えた二つの欄を、しばらく眺めていた。
「五人がいつの間にか六人か」
誰にともなく漏らした一言には、呆れとも、満更でもないともつかない響きがあった。テオがそれに軽く笑い返し、フェリクスの見舞いに使う茶葉を、荷物の中から探し始めた。増えた人数の分だけ、これから覚えることも増えていくが、それだけのことが、今はまだ、重すぎない程度の変化として受け止められていた。
兵舎の裏手には、あの日、木立の陰に残してきた荷馬車が、後日回収されて戻っていた。積まれたままの矢は、結局、誰にも使われることのないまま、駐屯地の備蓄へと納められることになった。
ロルフが、その矢束を眺めながら、ぽつりと言った。
「届かなかった矢が、結局、こうやって戻ってくるんだな」
誰もそれに深い意味を持たせようとはしなかったが、ただ、それぞれの胸の内で、あの日のことを、静かに思い返していた。
兵舎の窓からは、夜の冷気が僅かに入り込んでいた。誰かが炉に薪を足し、小さな火の粒が舞い上がり、六人分の物音が、以前よりわずかに増えた分だけ、部屋の中を満たしていた。
狼煙台のあった丘に、赤い光はもう見えなかった。台の上には、見慣れた旗が、静かに戻っていた。矢の補充搬入という、地味な任務のはずだった一日から、ここまでの道のりを、誰も声に出して振り返ろうとはしなかった。それでも、六人になった分隊は、確かにそこに立っていた。
冬支度の号令は、まだ解けていなかった。哨所ひとつを取り返したところで、国境の均衡そのものが変わったわけではなかったが、それでも、狼煙台の丘には、見慣れた旗が、今日も静かにはためいていた。
次の任務が、いつ、どんな形で舞い込むかは、誰にも分からず、ただ、その時が来るまでは、六人はこの駐屯地で、それぞれの持ち場を守り続けるだけだった。
遠くで、夜警の交代を告げる鐘が、一つだけ鳴った。誰もその音に驚かず、いつもと変わらない駐屯地の夜が、静かに更けていくだけだった。
石壁の外では、初雪にはまだ早い冷たい風が、稜線を撫でるように吹き続けていた。狼煙台の丘も、グライフェンの城壁も、その風の中では等しく同じ暗さに沈んでいる。境界線の向こうとこちらを分けるものは、今はまだ、目に見える形では何も残っていなかった。
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