第17話 場所の回収
【聖暦346年 晩秋/兵舎】
出撃前夜、兵舎の一角で、クラウス分隊は静かに支度を整えていた。
ロルフは、残り少ない矢を一本ずつ確かめ、羽根の具合を丁寧に整えていたが、手元は落ち着いている一方で、口数はいつもより明らかに少なかった。
「今回は、俺の矢が足りるかどうかだな」
誰にともなく呟いたロルフの傍らで、テオは槍の柄を布で磨きながら、何度も同じ場所を確かめるように拭いていた。
「――緊張してるのか」
ロルフが聞くと、テオは手を止めずに答えた。
「してます。でも、この前の窪地よりは、ましだと思います」
「そうか」
ロルフはそれ以上何も聞かず、テオが自分の言葉で緊張を口にできるようになったことに、僅かな変化を感じ取っているようだった。
アンナは、包帯や薬草の粉をいつもより多めに袋へ詰めており、フェリクスの時の経験が、その手つきの違いに表れていた。
「今回は、動かせない怪我人が出ないといいけど」
誰もそれに答えなかったが、それは答えようのない願いだったからだ。
ロルフが、矢筒の残り本数を数え終えたあと、ふとクラウスのほうを見た。
「今回も、五分五分か」
「五分より、少しはこちらに寄っていると思う」
クラウスの答えに、ロルフは片眉を上げた。
「珍しいな。お前がそこまで言うのは」
「裏の道を知っている者がいる。前回とは、条件が違う」
断定はしなかったが迷いもなく、小さな優位を積み重ねられる場所がどこにあるか、クラウスにはすでに見えていた。
ロルフはそれ以上聞かずに頷き、矢筒を肩に掛け直した。
二人の生存兵は、少し離れた場所で貸し与えられた装備を身に着けており、まだサイズの合わない鎧を、何度も締め直している。
「――俺たちが先導する場所、間違えたら」
一人が、不安げに漏らした。
「間違えても、私たちが後ろにいる」
クラウスが、静かにそう答えた。
「案内を任せるが、責任まで一人で背負う必要はない」
生存兵は、驚いたようにクラウスを見て、それから小さく頷いた。
クラウス自身は、地図を広げ、保守道の経路を何度も目でなぞっていたが、まだ起きていない戦いに対しては何も答えが返ってこなかった。分かるのは、その場に立った瞬間だけであり、今できることは、想定できる限りの経路を頭の中に叩き込んでおくことだけだった。
夜が更ける頃、四人と、まだ名を交わしていない二人はそれぞれの持ち場で静かに眠りについたが、同じ頃、狼煙台では、マルティンが夜警の交代を確認していた。裏の警備を厚くするべきか、正面の兵力を維持するべきか、限られた人数の中で、その配分に頭を悩ませていた。
「裏は、いつも通りでいい。あそこまで来る馬鹿はいないだろう」
マルティンの判断は、結果としてクラウスたちの浸透を許すことになるが、この時点でそれを見抜くことは、誰にもできなかった。限られた人数で、限られた場所を守るという判断は、それ自体は間違っておらず、ただ、均衡というものは、間違っていない判断の隙間にこそ生まれるものだった。
【聖暦346年 晩秋/狼煙台】
出撃は、翌々日の未明だった。小隊本隊、約二十人が正面から狼煙台へ向かう隊列を組み、その先頭に、キルシュナーが立っていた。
書類に埋もれているのが似合う男が、今日ばかりは剣を提げて前に出ており、細身の体に、鎧はまだどこかしっくり来ていなかったが、足取りに迷いはなかった。
クラウス分隊の四人と、二人の生存兵は、少し離れた場所から裏の保守道へ回り込み、夜明け前の薄闇の中、足音を殺しながら進んだ。息を潜め、一列になって、フェリクスから聞いた道筋をたどっていく。
「あそこの茂みの先だ」
生存兵の一人が小声で先を指し、地図にない近道を選んで進んでいった。もう一人は、少し遅れて後ろを警戒しており、二人とも、数日前まで自分たちが守っていた場所を、今は敵の手から奪い返す側として近づいていた。
先を歩く生存兵の足取りは、かつて何度も通った道を思い出すように迷いがなかったが、時折、記憶の中の何かと現実の景色が重なるのか、ふと足を止める瞬間があった。あそこで誰かが倒れていた、というような記憶が、まだ生々しく残っているのかもしれなかった。
誰もそれを問い詰めなかったが、ただ歩調だけは崩さずに、静かに付いていった。
「緊張してますか」
テオが小声で聞いた。
「――当たり前だろう」
生存兵の一人が短くそう答えると、それ以上、誰も何も言わなかった。
正面では、すでに戦端が開かれており、喊声と剣戟の音が、風に乗って裏道まで絶え間なく届いていた。
【聖暦346年 晩秋/狼煙台正面/キルシュナー】
本隊の兵の一人は、初めて目にする武闘派の一撃に、思わず後退りしていた。盾がひしゃげ、隣にいた仲間が弾き飛ばされ、恐怖に足がすくみかけたその時、キルシュナーの声が響いた。
「怯むな。だが、無理はするな」
その一言に、兵は僅かに落ち着きを取り戻し、後退しながらも隊列を保ち続けた。
ダミアンの声も、遠くから聞こえてくる。
「――まだやれるだろうが」
その声が届くのと前後して、正面の中央、キルシュナーの隊列の一角が、大柄な影に押されて崩れかけていた。盾ごと兵を跳ね飛ばすその動きは、以前見た時と変わらない、いや、それ以上に荒々しくなっており、以前の中央崩壊と、よく似た光景だった。だが、今回、キルシュナーは伝令を出すことも、配置を組み替えることもしなかった。
「下がれ。無理に押すな」
キルシュナーの声が乱戦の中に響き、押し切ろうとせず、崩れかけた一角を下がることで守るという、数を減らさないための判断だった。前例主義と呼ばれてきた男が、前例のない場面で、初めて自分の判断だけで隊を動かしていた。
兵たちは戸惑いながらも、その指示に従って後退した。ダミアンの得物が空を切り、勢い余った一撃が地面を割ると、押し込んだつもりが、押し込んだ分だけ空を切ることになって、それだけで、ダミアンの動きが一瞬、乱れた。
キルシュナーは、書類を捌くのと同じ手つきで、隊列を捌いており、前例のない状況で前例のない判断を下すことに、意外なほど戸惑いがなかった。崩れかけた一角を立て直すのではなく、崩れる前に引く、数字上の犠牲を最小に抑えるという一点だけを見ていた。
「小隊長、あの大男を放っておいていいんですか」
傍らの副官が問うた。
「今は、いい。あれを相手取る必要はない。ただ、時間を稼げればいい」
キルシュナーの声には迷いがなく、かつて前例主義とだけ呼ばれていた男の判断は、今この瞬間、誰の前例にも頼っていなかった。
これまでの自分であれば、前例に沿って、崩れかけた一角へ増援を送っていただろう。それが定石だったが、定石通りに動けば、増援もろとも押し潰される。数字を積み上げてきた男には、その計算だけは、誰よりも早くできた。
今、自分がしていることが正しいのかどうか、確信があるわけではなかった。それでも、退くという選択を迷いなく口にできている自分に、キルシュナー自身が、誰よりも一番驚いていた。
【聖暦346年 晩秋/保守道/クラウス】
その間隙を突くように、裏の保守道を進んでいたクラウスたちの前に、崩れた岩場が現れた。
「――塞がってる」
テオが息を呑んだ。予定していた道の一部が崩落しており、岩と土砂が斜面を埋め、足を乗せる場所すらほとんど残っていなかった。
「戻るか」
生存兵の一人が不安げに言ったが、戻れば、正面の綱引きが保つ時間の分だけ、機を逃すことになる。
ロルフが崩落の縁に近づき、しばらく岩の様子を見つめた。指先で岩の表面をなぞり、乾いた土の匂いを嗅ぐようにしながら、しばらくの間、無言だった。
「あっちに回れば、多分行ける」
断定はしなかったが迷いもなく、長年の行軍で培った目が、危うさの中に僅かな確かさを見つけていた。断言できるほどの根拠はないが、それでも、この程度の見立ては、これまで何度も外していなかった。
「確かめてきます」
テオが即座に前へ出た。
「俺が行きます」
誰も止めなかった。クラウスも、ロルフも、口を挟まなかった。判断はロルフが出し、確かめる役はテオが引き受ける、この分隊が、いつの間にか身につけていた形だった。
テオは慎重に、崩れかけた岩の縁を伝いながら進み、一歩ごとに、足元の岩が小さく崩れる音がして、息を止めては、次の一歩を探った。かつて「粘りすぎる」と言われたことのあるその足取りは、今はもう、粘りではなく、確かめる慎重さに変わっていた。
「――通れます!」
テオの声に一行は続いたが、誰も声を上げず、それぞれの表情に、僅かな安堵が浮かんでいた。
だが、迂回路を抜けた先には、崩落でできた新しい段差があった。人ひとりがようやく通れる幅の岩棚が、切り立った斜面に張り出している。
「これは、俺が」
今度は生存兵の一人が、先に立候補した。
「元々、ここら辺は歩き慣れてます」
土地勘のある足取りで岩棚を渡り切り、振り返って手を差し出し、一人ずつを渡らせていく。フェリクスから聞いた情報だけでなく、実際にこの地を知る者の体が、道を確かなものにしていた。判断はロルフ、確かめはテオ、渡り方の要領は生存兵と、誰か一人に頼らない形で、道は少しずつ開かれていった。
岩棚を渡り切ったところで、下方の茂みから話し声が聞こえ、一行は反射的に身を伏せた。
「――誰か来る」
テオが囁いた。声を殺し、息までも殺す。近づいてくるのは、巡回中の二人組のようで、会話の内容までは聞き取れないが、足音の間隔からして、急いではいなかった。
クラウスは答えを待ったが、まだ動いていない相手に対しては、何も返ってこない。分かるのは、通り過ぎるか、気づくか、その二択がまだ決まっていないということだけだった。
足音が、岩棚のすぐ下を通り過ぎていく。誰も動かず、一人が欠伸を漏らし、もう一人がそれに何か軽口を返した、緊張感のない会話だけが、遠ざかっていった。
生存兵の一人が、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。額には、寒さのせいだけではない汗が浮かんでいた。
声が完全に聞こえなくなってから、ようやく一行は身を起こした。
「――行くぞ」
クラウスの短い言葉に皆が頷き、危うい均衡の上を、また一歩進んだだけだった。
保守道を抜けた先、狼煙台の裏手には、わずかな数の警備しかいなかった。生存兵の二人が先に立ち、暗闇に紛れて近づいていく。かつて自分たちがいた場所を、今度は敵として崩す側に回っていた。
裏手に近づくにつれ、正面の喊声がより大きく聞こえてくる。キルシュナーの隊が、まだ持ちこたえているのが分かった。
「あそこの死角に、いつも一人立ってる」
生存兵の囁きに、ロルフが頷いた。音もなく近づき、短いやり取りだけで、警備の一人が崩れ落ち、もう一人には、テオが背後から組み付いたが、抵抗は長くは続かなかった。
警備の一人を押さえ込んだ生存兵は、倒れた男の顔を一瞬だけ見た。見知った顔ではなかったが、それでも、かつて自分がこの場所に立っていたときのことが、束の間、蘇った。
(ここに、俺も立っていた)
同じ闇、同じ寒さ、同じ死角。あの日、自分もこうして夜を明かしていた。今は逆の立場で、同じ場所に立っていることに、感傷を挟む余裕はなく、息を整え、次の持ち場へ目を向けるだけだった。
もう一人の生存兵も、離れた場所で似た感覚を味わっていた。狼煙台の内部の造りは、記憶にあるものとほとんど変わっていなかった。ただ、壁に掛けられていた見慣れない旗の色だけが、ここが今は敵の場所であることを、無言のうちに告げていた。
「――変わってない、な」
誰にともなく漏らした一言に、答える者はいなかったが、その一言だけで、二人の間に何かが、静かに通じ合ったようだった。
生存兵の一人が、警備を排除する際に足を滑らせ、体勢を崩した。眼下は急な斜面だった。とっさに手を伸ばしたのはテオだった。
「――掴まって!」
腕を掴み、力任せに引き上げる。先に自分の足場を確かめてから腕を伸ばす、その一手間を、テオは無意識のうちに挟んでいた。
「――助かった」
生存兵が、息を切らしながら言ったが、テオは少し照れくさそうに頷いただけだった。
だが、狼煙台の設備に近づいたところで、もう一人の警備兵が奥から姿を見せ、武装した男が、驚いた顔でこちらを見た。
「――何者だ!」
叫び声を上げようとした男に、クラウスが先に動いた。男が声を上げれば、正面の均衡が変わる。ここで抑えるしかない。
クラウスは踏み込み、剣の腹で男の得物を叩き落とした。強くはない、と自分でも分かっている一撃だったが、それでも、体勢を崩した男に、生存兵の一人が組み付き、声を上げる前に押さえ込んだ。
「――助かった」
短くそう言った生存兵に、クラウスは頷き返しただけだった。剣で決めた場面ではない。均衡を読み、崩れる前に潰しただけだった。
狼煙台の中核設備を確保したクラウスは、フェリクスから教わった手順で狼煙を上げた。乾いた薪に火をつけ、決められた間隔で煙を切る。手順を間違えれば意味のない煙になるが、クラウスは一度も間違えなかった。
赤い光が、朝の空に静かに立ち上った。
「――上がった」
テオが小さく呟いた。誰かに向けた言葉ではなく、自分自身に向けて確かめるような声だった。
【聖暦346年 晩秋/狼煙台正面/マルティン】
正面で指揮を執っていた現地指揮官マルティンは、その光を見て、すぐに何かを悟った顔をした。
「――裏を、取られたか」
監視のための拠点、偽の合図を送るための拠点、その両方の意味が、今、目の前で崩れていた。ここで狼煙台を保持し続ける理由が、根本から失われており、押し続ければ、得られるものより失うもののほうが大きくなる。マルティンは、その計算を一瞬で終えていた。
「撤退する」
マルティンの声は静かだった。
伝令が、正面で暴れ続けているダミアンのもとへ走った。
「――まだやれるだろうが」
ダミアンは不満げにそう漏らしたが、命令には従った。得物を担ぎ直し、後退を始める。振り返ることなく、それでいて未練を隠さない、そんな引き際だった。
「なぜ、撤退なんだ」
「狼煙が上がった。あそこを保持する意味が、もうない」
マルティンは、それだけを答えた。
その報告は、後方にいるカスパルへも、事後という形で伝えられることになる。地図の上の一点を指した男は、遠く離れた場所で、その報告をただ受け取ることしかできず、狼煙台という駒が、盤面から静かに外れていった。
「グレゴール様には、どう伝えますか」
部下の問いに、カスパルはしばらく黙っていた。
「そのまま伝える。狼煙台は失った。壊さずに退いた、とだけ」
損害を最小に見せる言い方だった。それ以上のことを、カスパルは口にしなかった。マルティンの判断を、責めるつもりはなく、むしろ、退くべき時に退いたことを、内心では評価していたが、ただ、それを言葉にする場面ではなかった。
ダミアンが後退していく道すがら、狼煙台の頂に立つ小さな人影に、一瞬だけ目を留めた。
「――お前か」
距離があり、声は届かなかったが、クラウスもまた、その視線に気づいていた。剣で決着をつけたわけではないが、それでも、何かが、確かにこの場で決まっていた。ダミアンはそれ以上何も言わず、踵を返して去っていった。
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